善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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人物紹介 ~通仁親王(1124~1129)~

通仁親王(1124~1129)

●概略●
鳥羽院と中宮藤原璋子の次男(第三子)。
生まれた時は「儲宮(東宮)の御誕生」と騒がれたが、視覚に障害があったためか、五歳の正月に着袴の儀が行われることはなかった。両院は万年祈祷を怠らなかったという。
三条西殿の西対代廊南面を御在所とし、両親の手元で育てられていたが、折悪しく母璋子の七度目の御産直前に痢病にかかったために別居を余儀なくされ、そのまま対面を果たすことなく薨去してしまう。満年齢で僅か五歳三ヶ月の人生だった。
もしこの通仁親王が健康で長生きしていたら、早々に東宮に立てられた可能性も高いため、そうなると果たして後白河天皇は誕生していたのか、それ以前に近衛天皇は誕生していたのかもわからない。短い生涯であったが、皇統に及ぼした影響は大きかった。
詳しくは↓続き↓をどうぞ。
(参考資料は『中右記』、『長秋記』、『御産部類記』)



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  1. 1924.05.28(水) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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人物紹介 ~君仁親王(1125~1143)~

君仁親王(1125~1143)

●概略●
鳥羽院と待賢門院藤原璋子の三男(第四子)。実は、女院から生まれた初の皇子(それまでは未婚の内親王か出家した后が女院になっていた)。
「筋あり骨なし」と『台記』に記されていることや、生来病弱で生後七日目には一度息が絶えていることから、骨形成不全症であった可能性が考えられる。二歳の時の魚味始を最後に、生涯公式の場に出ることはなかったが、視覚に障害があった兄通仁親王が移徙などに参列していることなどを考えると、君仁の場合は自力で歩く能力が備わらなかったことを問題視されたのかもしれない。
享年十九。
君仁は、健康で長生きをしていたら、恐らく通仁に次ぐ有力な皇位継承候補になっていたはずである。また、もし君仁が健康であったなら、鳥羽院と待賢門院が熊野参詣を行うのはもっと後であるか、あるいは行われなかった可能性もある。通仁・君仁兄弟の早世と障害は、一家族の問題ではなく、歴史の流れに大きく携わる事件だったと言えよう。
詳しくは↓続き↓をどうぞ。
(参考資料は『御産部類記』・『中右記』・『長秋記』・『台記』・『本朝世紀』)



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  1. 1925.05.24(日) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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待賢門院年譜〔1130/大治五年〕

女院:待賢門院(三十歳)

主上:崇徳天皇(十二歳)
院:鳥羽院(二十八歳)

中宮:藤原聖子(九歳)
皇后宮:令子内親王(五十三歳)

一品宮:禧子内親王(九歳)
三宮:君仁親王(六歳)
斎院:恂子内親王(五歳)
四宮/今宮:雅仁親王(四歳)
五宮:本仁親王(二歳)

大殿/前関白:藤原忠実(五十三歳)
大北政所:源師子(六十一歳)
関白:藤原忠通(三十四歳)
北政所:藤原宗子(四十二歳)

左大臣:藤原家忠(六十九歳)
右大臣:源有仁(二十八歳)
内大臣:藤原宗忠(六十九歳)

皇居:三条京極第→土御門烏丸内裏
院御所:大炊御門万里小路第→白河北殿→三条東殿→白河北殿→三条西殿

出典は中右記(記者は内大臣藤原宗忠)と長秋記(記者は参議→権中納言源師時)。


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  1. 1930.01.01(水) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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待賢門院年譜〔1134/長承三年〕

女院:待賢門院(三十四歳)

主上:崇徳天皇(十六歳)
院:鳥羽院(三十二歳)

中宮:藤原聖子(十三歳)
皇后宮:令子内親王(五十七歳)→藤原泰子(四十歳)
太皇太后宮(大宮):空位→令子内親王(五十九歳)

三宮:君仁親王(十歳)
前斎院:恂子→統子内親王(九歳)
四宮/今宮:雅仁親王(八歳)
五宮:本仁親王(六歳)
六宮/美濃宮:第六皇子(三歳)

大殿/前関白:藤原忠実(五十七歳)
大北政所:源師子(六十五歳)
関白:藤原忠通(三十八歳)
北政所:藤原宗子(四十六歳)

左大臣:藤原家忠(七十三歳)
右大臣:源有仁(三十二歳)
内大臣:藤原宗忠(七十三歳)

皇居:二条東洞院第

〔中〕→中右記(記者は内大臣藤原宗忠)
〔長〕→長秋記(記者は権中納言源師時)





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  1. 1934.01.01(月) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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人物紹介 ~叡子内親王(1135~1148)~

□叡子内親王のプロフィール□
鳥羽院の四女。後の美福門院藤原得子の第一子ですが、生後一ヶ月以内に鳥羽院の皇后宮藤原泰子(後の高陽院)の養女となり、泰子を母として生涯を共にしました。
叡子は『今鏡』にもあまり登場しない、多彩な人生を送った妹弟と比べると影が薄い内親王です。とはいってもそれは後世のことで、叡子は存生中は「高陽院の姫宮」と呼ばれ、その同行は妹たちよりも注目されていたことは間違いありません。もし成人していたら、高陽院の遺領を継ぎ、政界に一定の影響力を持ち得たでしょう。
そんな叡子の生涯を追います。



●叡子の立身出世●
叡子内親王が誕生したのは、保延元年(1135)十二月四日、父鳥羽院三十三歳、母「院の寵人」十九歳の冬でした。この「院の寵人」は後に美福門院となりますが、この時は鳥羽院の寵愛に頼る他ない、ただの「故中納言長実の娘」です。
鳥羽院と彼女が出会ったのは、鳥羽院が二人目の后となる皇后宮藤原泰子を迎えた一年後の、長承三年(1134)の初秋頃。紆余曲折を経て、翌年十二月四日に第一子の姫宮が誕生しました。
しかし、鳥羽院はこの姫宮を寵人に育てさせて、ただの庶子として扱うつもりはありませんでした。
実は姫宮誕生から二ヶ月前の十月十一日から十日間、鳥羽院は泰子と共に新造の宇治小松殿に滞在し、婚姻以来、初めてまとまった時間を泰子と過ごしています。恐らくここで、鳥羽院はすでに四十一歳になり、懐妊の望みが薄くなった泰子に、寵人の産んだ子を養子にすることを提案したのではないでしょうか。その証に、姫宮は生後二週間しか経ってない十二月二十一日に、鳥羽院と共に泰子の待つ東三条殿に移り、泰子の養女となりました。
この縁組は、一人の皇子も皇女も持たない泰子と摂関家に対する鳥羽院の気遣いでもあり、同時に寵人の地位を引き上げる為のものでもありましたが、実は泰子と姫宮は赤の他人ではありませんでした。泰子と得子は二十二歳も年の差がありますが、泰子の母源師子と得子の母源方子は、村上源氏の血を引く従姉妹同士で、なんと方子の方が四歳年上なんです(得子は超高齢出産で生まれています)。そう考えると、得子の娘が泰子の養女になることは、珍しいケースではあるものの、不自然ではありません。
さらに解説をしておくと、得子の父長実と待賢門院の父公実も実は母方の従兄弟同士なので、得子から見れば、泰子は母方の、待賢門院は父方の再従兄弟に当たります。……と、こう書くととんでもなく狭い範囲で婚姻が行われているみたいですが、意外にも、泰子と待賢門院の間にはこのような血縁関係はなく、二人は赤の他人同然なんです(二百年前まで遡れば、二人の先祖もやはり兄弟ですが)。こう言った「后妃同士が血縁的には赤の他人同然で、身内特有の繋がりやしがらみがない」と言うのは、平安時代後期における后妃の特徴かもしれません。

さて、翌保延二年(1136)正月二日、鳥羽院は初めて元三のうちに泰子の東三条殿に赴き、姫宮と時を過ごしています。二十六日の五十日儀と三月二十七日の百日儀では、摂関家の面々が勢揃いし、姫宮が正真正銘摂関家の姫宮として遇されていることがわかります。そして四月十九日、待賢門院腹の皇女より遅くはなりましたが、生後半年以内に姫宮は叡子と名付けられ、親王宣下を蒙りました。さらにこの日、生母の院寵人にも得子と名が付き、従三位に叙されます。この叙位により、未だ正式な女御宣下はないものの、得子は「院女御」と認識されるようになりました。
さらに得子はこの後再び懐妊し、翌保延三年(1137)四月八日の釈迦の誕生日に、第二子となる姫宮(後の八条院)を出産します。今姫宮と呼ばれたこの次女の生後五日目にあたる十二日、叡子は三歳で准三宮に宣下され、年官年爵と封千戸を賜りました。叡子はまだ数えで三歳ですから、叡子が手にした人事権は養母泰子が賜ったも同然ですが、とにもかくにも、以後、叡子は生涯「准三宮無品叡子内親王」として生きていくことになります。



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  1. 1935.12.04(水) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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救いのない恋心。@西行『山家心中集』

前に、「普段どんな本を読んでいるのですか」的な質問を頂いたことがありまして。
せっかくなので、8月にちまちま読んだ本を一冊ご紹介しようかと思います。……と言うのも、なんだか珍しく和歌の本を読んじゃったからなんですよね!←自慢したいだけなんじゃ…。

実は、『うた恋い。』の影響もあってか、一度誰かの歌集を読んでみたいと思うようになり、誰にしよっかなーと思った時、「西行がいいな」と思ったのです。特に、恋歌を読んだら、あれこれ参考になるんじゃないかと思い(←何の…?)、西行の歌集の中でも晩年に自撰したとされる『山家心中集』を読んでみました。
ちなみにこの歌集は、構成からして変わっていて、西行カラー全開です。(通常の歌集では、歌を「春歌、夏歌、秋歌、冬歌、恋歌、哀傷歌、雑歌」などのテーマ別に編集し、最初のテーマにはまず四季を持ってくるのに、この『山家心中集』では、「花、月、恋、雑」と四つのパートに分かれています)
んで、このうち「恋」のパートについて、続きでボチボチ語りたいと思います。言葉遣いがぶっきらぼうになり、ついでに考えてみた現代語訳もかなりテキトーなので、完全に(出来ればトン&ピに活用したいと言う)下心満載の語りですが、お暇な時にでもお付き合い頂ければ嬉しいですw

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  1. 2012.09.16(日) _22:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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モテ男から見た待賢門院の素顔。@源師時『長秋記』を読んで。

『根の深い木』を見る度に鬱々とし(えっ)、『八重の桜』を見る度に「面白い…かはわからないけど興味深い内容だなー。ただ、一度主役の俳優さん二人を変えて見てみたい…」と思う今日この頃。救いは、ドラマ版金田一少年(最初のシリーズです)だったりします。
細かいところは忘れちゃったりしていたものの、堤監督の回はやっぱり面白怖くて、佐藤監督(ごくせんとかマイボスの演出さん)の回は明るいのにウケます(笑) あと怖すぎるのはダメなビビりなので、明るい部分があるのは助かりますー(*´∇`*)

**

話変わって。
古語で「美しい」と言う意味を持っている言葉を上げると、代表的なのだけでも、

きよら
きよげ
やさし
なまめかし
みめよし
はなやか

と、6つはあるんですよー(すごー)
んで、じゃあトンマンだったらどんな美しさかなぁと考えると、「もてなしなつかしく、やうだいいとなまめかし」かなぁと。現代語にすると、「ふと心惹かれるような愛らしい仕草に思わずいつまでも側にいたいと思ってしまうけれど、近付いて見た彼女はとても清らかな面差しをしていて、容易く触れてはならないような凛とした美しさを持っている」と言う感じですかねー。そして、女王バージョンだと、断然「きよら」ですね!「美麗な装束にも隠しおおせぬほどの強い想いが、彼女の総身を内から幾重にも輝かせている」と言う感じです(*´∇`*)

**

とまぁ何故に古語かと言いますと、実は「新羅の宮廷生活を知ろう」が飛躍して、去年から平安時代に書かれたとある日記をぼちぼち読んでいるからなんです(・∀・)
その日記と言うのが、ちょうど源氏物語と平家物語の真ん中くらいの時代(12世紀前半)に書かれた『長秋記』と言うものなんですが、これがなかなか面白いです。著者・源師時の目を通して、女性なら上は女院、下は遊女の様子まで描かれていて、男性陣も幅広い。枕草子とはまた違う宮廷生活が垣間見えて興味深かったので、その感想をv

●著者・源師時(みなもとの もろとき)のご紹介●
当代きっての色男でモテ男で、なおかつ漢詩も和歌もなんでもござれの知識人。妻が7人くらいいたのに、毎日のように全員の家に顔を出して妻達を満足させていたらしく、妻同士でいがみ合うことはなかったとか。
父は、平安の望月男・藤原道長の孫・左大臣源俊房。母は、小一条院(三条天皇の第一親王で東宮だった人)の孫娘。父方からも母方からも天皇と道長の血を引く、サラブレッドな生まれの次男坊(腹違いの兄がいる)。ただ、母方の従兄弟に、白河院の異母弟の三宮こと輔仁親王がいた為、皇統を巡る白河院と輔仁親王の暗闘に巻き込まれ(あるいは積極的に関わり)、その結果、停職処分を喰らったりしている。
稀代の長寿と根性の持ち主だった白河院の勝利が確定してからは、その有能さにより、薄命な輔仁親王一家を守りつつ、白河院や鳥羽院(白河院の嫡孫)や待賢門院(白河院の養女で、鳥羽院の正室)の信頼を勝ち取り、中納言に出世した。ちなみに、その有能さについては、「今の時代のデキる男四天王は、師時だよね!」みたいなことを言われたらしく、そのことを日記で然り気無く自慢している。
また、息子もモテる男だったらしく、なんと、鳥羽院の子を三人も産んだ美濃局(待賢門院の女房なので、正式な后妃ではない)を妻に貰い受けている。


まずは、この師時さんの見た遊女(あそびめ)の話です。


●遊女(あそびめ)の世界。
師時の時代、歌って踊れる芸能人と言えば、遊女や傀儡子(くぐつこ)と呼ばれる女性でした。ただ、彼女達は京ではなく、青墓(岐阜県)とか神崎・江口と言った京から少し離れた場所に本拠地を構えていて、そこでホテルを営んでいました。出稼ぎも多いものの、基本的には、遊女達は自分達のホテルに旅人を泊めて、送り迎えや道案内をし、夜にはライブを行う……と言うのが仕事だったんです。
と言うわけで、43歳の師時が異母兄師頼や姉婿藤原長実と一緒に広田社参詣の旅をした時も、彼らは神崎と江口の遊女にお世話になりました。こう言う時の常で、彼女達を紹介する旅行代理店みたいな人もいて、今回は監物清経(西行の母方の祖父)がセッティングは担当。師時のような公卿達は上客なので、遊女達も気合い十分。長者と呼ばれるお店お店のボスが接待してくれるし(当時の女性は逞しく、個人営業時代には報酬の取り合いが「闘乱(半ば殺し合い)」になっていた為、遊女達は長者に所属するようになり、舞妓さんやホステスのような厳格なルールと秩序の下で働いていた)、夜も長者と寝れます(ただし、別料金)。勿論、師頼も長実も皆好きな遊女と寝ました。
ところが、芸能ついでの売春当たり前のおおらかなこの時代に、師時は「そう言うのは好きじゃない」と仲間達とは一線を画する行動を取りました。遊女と寝なかったんです。
遊女からすれば商売上がったりの迷惑行動だったかもしれませんが、こう言う男なら、確かに何人妻がいても皆を満足させられる気がせんでもない……と言う「まめ人」ぶりです。

●光源氏の後見人。
この「まめ人」師時は、頼りにされる男でもありました。不遇のまま早死にした4歳年上の従兄・輔仁親王は、自分の一男一女のことを師時に託したんです。
怨霊になりかねない親王の魂を慰める為にも、師時は頑張りました。まだ幼かった親王の一女・守子女王は、親王の政敵白河院の養女として異例の親王宣下を受けて、斎宮になりましたし(斎宮になれば、終生生活は保証される)、親王のもう一人の息子・有仁は、「光源氏だ!」と皆が思うくらいのミスターパーフェクトな青年で親王の生前に白河院の猶子となって本当に光源氏コースを辿っていたんですが(親王の薨去の数ヶ月前に臣下になって源有仁と名乗り、いきなり公卿の仲間入り。出世街道をばく進中)、この有仁に、師時は父・俊房を介して故実をマスターさせるなどの教育を怠らなかったんですね。そのお陰で、後々、有仁は故実に詳しい理想的な左大臣として万人に慕われるようになりました。


と言うように、師時は輔仁親王一家との関わりが深かったんですが、少しずつ、とある女性に関する記事が増えていきます。
その女性とは、時の中宮・藤原璋子(後の待賢門院。以後、女院と呼びます)。
この女院は、中宮になってから5人の皇子を産むと言う平安きっての強運を持ち、後世まで「うちの娘もああなって欲しい」と先例にされた一方で、『「政権を担う藤原氏」を敵に回した女は、100%淫乱な噂を流される』のルール(※管理人独自のルールです)に従って、平安きってのスキャンダルを噂された女性でもあります。
有仁の妻がこの女院の同母姉(風流な奥さんだったらしい)だったことや、師時の妻の一人が女院の女房だったこと、彼が長年仕える皇后宮令子内親王の乳母が女院の母だったこともあってか、師時が50歳になった頃から、日記には女院のプライベートに関する記事が増え始めます。特に、女院の養父白河院が崩御した辺りから、師時は女院の院司(女院専門の部下のこと)の中心になったらしく、同時期の他の記録には見られない赤裸々な話が記され始めるんです。

そんなわけで、以下は、普通の日記には出てこない女院(のプライベート)のお話を。

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  1. 2013.02.27(水) _23:59:27
  2. 待賢門院藤原璋子
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待賢門院の御火止まりのこと。@崇徳天皇の出生を巡る状況。

※完全に日本史トークなので、興味のない方はさらっとスルーしてやってください。


↓で取り上げた待賢門院は、「養父と出来てた。彼女の長男・崇徳天皇は養父・白河院の子で、だから夫の鳥羽院は崇徳天皇を嫌ったし、保元の乱も起きたんだ」と言う話が古事談と言う中世のスクープ本にある為に、超セクシーなイメージが流布しています。
が、よくよく考え、調べてみると、これは非常に筋の通らない話なんです。

まず、自分の子でないなら、何故に鳥羽院は白河院の崩御後、12年も崇徳天皇を退位させなかったのか?(鳥羽院には雅仁親王(後の後白河天皇)と言うスペアとなる四男がいました。おまけに、崇徳天皇は白河院の生前に元服も済ませていた為、崩御後数年が経つと、鳥羽院と政治的に対立する事態も生じるようになり、時には宸意が通っています)
待賢門院が鳥羽院を裏切る形で密通を続けていたなら、何故鳥羽院は白河院の死後、他の女性を寵愛するようになってからも、待賢門院の為に法金剛院を建立させたり、法金剛院領と呼ばれる莫大な資産を待賢門院に持たせたりしたのか?(白河院の生前に、待賢門院はすでに円勝寺領と言う資産を得ており、金銭面で不自由することはありません)
崇徳天皇が鳥羽院の子でないなら、何故鳥羽院は崇徳天皇を退位させた後、その庶長子を皇后宮の養子として育てた上で三品重仁親王として元服させるなど、有力な皇位継承者候補として扱ったのか?(当時、天皇の庶子は長男であろうと問答無用で出家させられるものと決まっていました。勿論、生母が中宮や女御でないどころか、公卿の娘ですらない天皇など有り得なかったんです。重仁親王の生母は公卿どころか殿上人の娘ですらないので、皇位継承者としては完全に不適格です)
と言うか、歴史的に見ると、崇徳天皇と後白河天皇が同父母兄弟でなければ、そもそも保元の乱は起こるはずがないのでは?(歴史的に見て、上皇と天皇、あるいは上皇と上皇が政界を真っ二つにするレベルで対立して戦いに至る時、それが親子や同父母兄弟である例はあっても、片親が違う兄弟であることはまずありません。片親が違えば、その正当性に差が出て、それによってバックにつく勢力の大きさに覆し難い差が出るので、戦いに至る前にどちらかが失脚・粛清されます)

また、色々と意味のわからない言葉を調べているうちに、どうも、当時は帝や院の后妃が懐妊した際には、かなり徹底した管理下に置かれることがわかってきました。しかも、待賢門院の場合は身分の高さもあってか色んな貴族の日記に妊娠出産のことが書かれて、今でもその日記が幾つも残っていると言う、かなり資料的に恵まれているようなんです。
そんなわけで調べてみると、どうやら「崇徳天皇は密通して出来た子」と言う話は、かなり信憑性が低いなぁ…と感じたので、その根拠を以下つらつらと。
ちなみに、タイトルの「御火止まり」とは、中宮や皇后宮の懐妊を意味しています。昔は、月経の際は皆とは違うところに焚いた別の火で食事を作ったりしたので、中宮クラスの存在だと、そう言うことがあるかないかは非常にはっきりしていました。妊娠すると、この別の火がずっと消えたままになるので、「御火止まり」と呼ばれたそうです。別の火、と言うところが神秘的で(神に仕える身のよう)、面白いですよね!(そうか…?)


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  1. 2013.03.07(木) _19:16:05
  2. 待賢門院藤原璋子
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待賢門院の崩御を巡る物語・一

※完全に日本史トークなので、興味のない方はさらっとスルーしてやってください。



待賢門院の最期と言うと、時には非常に寂しいものだったように言われることがあります。んが、これまた当時の日記を見ると、寂しいかどうかの判断に困るくらいに、待賢門院の死の影響が綴られています。そんなわけで、待賢門院(以後、女院と表記します)の死の前後の話を、自分用につらつらメモってみました。(なので、言葉遣いが丁寧ではないです)

また、色んな人が出てきてややこしいので、整理する為にも人物の一覧を。
※()は女院が崩御した1145年の年齢です。
※詳しい経歴などはwikiとかをどーぞ!
※出典は殿暦、長秋記、中右記、今鏡です。
【女院/待賢門院藤原璋子(45)】
落飾済み。御所は三条高倉第。法名は真如法。
【法皇(43)】
鳥羽法皇のこと。女院の夫。出家済み。白河北殿で皇后宮得子と暮らしている。法名は空覚。
【新院(27)】
崇徳上皇のこと。法皇と女院の長男。名人の和歌を各百首ずつ集める「百首歌」を企画中。御所は三条西洞院第。
【前斎院/統子内親王(20)】
女院の次女。美少女として有名。三条高倉第で女院と同居中。
【今宮/雅仁親王(19)】
女院の四男。正室を亡くし、忘れ形見の幼い長男も法皇に引き取られた為、三条高倉第で女院と同居中。今様マニア。
【五宮/信法入道親王(17)】
女院の五男。病弱だった為、女院の意向により出家し、仁和寺で修行を積んでいる。本名は本仁。
【白河院/白河法皇】
故人。法皇の父方の祖父で、女院の養父。享年は七十七歳。
【高陽院/藤原泰子(51)】
禅閤忠実の長女で、摂政忠通の同母姉。御所は土御門東洞院第。法名は清浄理。
【皇后宮/藤原得子(29)】
法皇の最愛の后。帝の生母である為に皇后宮となったが、国母としての公的な権力はない。二人の姫宮と、新院の長男、今宮の長男を養育中。
【皇太后宮/藤原聖子(24)】
新院の正室で、帝の養母。摂政忠通の嫡女。
【帝(7)】
近衛天皇のこと。生母は皇后宮得子だが、生後すぐに時の中宮聖子の養子となり、今も聖子に養育されている。

<摂関家>
【禅閤/藤原忠実(68)】
摂関家の経済を握る大殿(ボス)。高陽院、摂政忠通、内大臣頼長の父。法名は円理。
【摂政/藤原忠通(49)】
禅閤忠実の嫡男。嫡男に恵まれず、頼長を養子としている。職務上、新院のことは実父の法皇以上に面倒を見てきた。
【内大臣/藤原頼長(26)】
禅閤忠実の庶子から摂政忠通の嫡男になったシンデレラボーイ。『台記』と言うセキララ日記を書いている。舅は女院の同母兄の右大将実能。

<女院の親族。閑院流関係者>
【左大臣/源有仁(43)】
完全無欠の一流貴族。正室は女院の同母姉。女院と同じく故白河院の猶子。
【中君/花園左大臣室】
女院の同母姉。有仁の正室となり、その才知で彼のサロンを盛り上げた。歌人でもあり、三首伝えられている。
【右大将/藤原実能(50)】
女院の同母兄。新院誕生の際には、御産中の女院の体を抱いて支えた。
【権大納言/藤原実行(66)】
女院の異母兄。法皇と女院の側近として、長年に渡り諸々の実務をこなしてきた。前斎院の後見人でもある。三条高倉第を女院に貸している。
【別当/藤原公教(43)】
権大納言実行の嫡男。父と共に、法皇の側近として諸々の実務を見ている。

<その他>
【堀河】
女院の上臈女房。シングルマザーになってから女院に仕え、女院と共に落飾した。円位法師と親しく、歌人として名高い。
【兵衛】
女院の女房。堀河の妹。少女時代から女院に仕えること二十年余りになる、ベテラン女房。姉と同じく歌人。
【円位法師/佐藤義清(28)】
後の西行。右大将実能の随身として実能一家と法皇に可愛がられるが、五年前に謎の出家を遂げた。




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  1. 2013.03.16(土) _18:20:46
  2. 待賢門院藤原璋子
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待賢門院の崩御を巡る物語・二

※完全に日本史トークなので、興味のない方はさらっとスルーしてやってください。
※一と違って、口調はいつもの口調に戻っていますw


白河院と鳥羽院の関係は、様々な物語や逸話で「強権を振りかざして孫を威圧する祖父」と「忸怩たる思いで祖父に従う孫」として描かれています。
んが、同時代の日記を読みとくと、こう言った事実が浮かび上がってきます。

・鳥羽院が即位してからと言うもの、白河院は外戚のいない孫を守る為にずっと鳥羽院の暮らす里内裏の近くに住み続けたが、曾孫の崇徳天皇の時代になると、曾孫がいる里内裏の近くで暮らすことは全くと言っていいほどなく、待賢門院の居場所に関係なく、基本的に鳥羽院と同居している。
・鳥羽院が待賢門院の御所である三条西殿に引っ越してきた時、寝殿は家主の待賢門院が使っているので、白河院は自分が暮らしていた東の対屋(三条西殿は東門が正門なので、東の対屋は寝殿と同じくらい格式が高い)を全て鳥羽院に譲り、自分は西の対屋の、それも目立たない北側に住んだ。

現代でも、家の中のどの部分に住むかは、その人の立場を強く反映します。格式重視の平安時代においては、なおのこと「誰がどこに住んでいるか」は重要視されました。
三条西殿での三人の部屋を現代風に表現すると、

待賢門院→主寝室と居間。
鳥羽院→応接室と来客用の寝室。
白河院→いくつかある個室のうち、日当たりの悪い場所にある部屋。

こんな感じになるくらい、三人の住む場所には差がありました。特に、白河院は居候に近い部屋です。こんなに鳥羽院に気をつかってまで同居して、肝心の崇徳天皇は放置していたことを思うと、白河院が一番大切に思い、愛していたのは孫の鳥羽院なんじゃないかなーと言う気がしてきます。生まれてこの方ずっと手元で育ててきた最愛の孫(即位するまでこの二人は同居してました)、幼い頃に両親を喪って不憫な孫、もう目に入れても痛くないほど可愛い孫。まさにそんな存在が鳥羽院だったんじゃないか……と、まあそう言う関係に見えないこともないなとw

そして、こうごっちゃごっちゃ調べていると、鳥羽院が限りなく俺様に見えてきます(え)
白河院は、確かに寿命の長さとか凄いんですが、私生活はわりとフツーと言うか、結局正式な中宮や女御は在位中に得た二人だけですし、退位後に出来た愛人達に対しては叙位すらしていないんですよね。おかげで皇位継承が混乱せずに済んでいます。藤原忠実にキレたのも、まあ無理はないと思える事情がありますし(むしろよくまあ十年近く我慢したなとw)。
鳥羽院は私生活が結構めちゃくちゃと言うか、退位後に出来た愛人を二人も立后させ、その皇子を即位させるなど、上皇としては平安史上最も破天荒な一生を送った気がします。また、鳥羽院と対になる藤原忠実も、元服した帝に長女を入内させないなど、摂関家には有り得ない選択肢を選んだり、強制的に隠居させられた後も実権は手放さなかったりと、摂関家の大殿としては平安史上最も破天荒な一生を送った気がします。なので、私の中ではこの二人が破天荒コンビですねw

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  1. 2013.03.20(水) _18:55:02
  2. 待賢門院藤原璋子
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美福門院得子の若き日々と崇徳天皇退位のこと。

長い記事なので、お暇な時にどうぞー。


鳥羽院の后の中には、後世の人間によって「九尾の狐が化けた絶世の美女・玉藻の前」のモデルにされ、恐らく中国史上最強の悪女・妲己(だっき)と同一視されている、気の毒な女性がいます。それが、美福門院こと藤原得子です。
ちなみに、妲己は、仙界冒険ファンタジー封神演義のヒロインとしてお馴染みの超絶サディスト美女で、「なんて手間のかかることを…」と言いたくなるような拷問を見ないと笑わないと言う、個性のキッツいキャラクターで知られています。しかも、王がこの妲己を寵愛した結果、王は死に、古代国家・殷は滅びたと言うオマケつきなので、美女悪女と言っても楊貴妃他とは、レベルが違います(※楊貴妃自身は殺され、王は都落ちをしましたが、後に復活し、国も滅びていません)。
そう考えると、得子に対して「玉藻の前のモデルなんじゃね?」と考えること自体、得子に対するイメージってどんだけ酷いの…な感じなのです。

一般的にも、得子はよく待賢門院と対立していたとして紹介されますが、待賢門院が四十五歳で崩御した時、皇后宮だった得子はまだ二十九歳。十八歳の時に鳥羽院に寵愛されるようになり、四十四歳で崩御した得子にとって、待賢門院は脇役ではありませんが、所詮は人生の中盤までしか登場しない、主要キャストの一人に過ぎません。得子と言う女性を考えるには、待賢門院だけでは明らかに不足なんです。
では、誰が最も長く、深く得子の人生に影響を及ぼしたのか?
それは、この5チームではないでしょうか。

1.夫……鳥羽院(得子四十歳の時に崩御)
2.摂関家……高陽院藤原泰子(夫の別妻で長女の養母。得子三十九歳の時に崩御)&皇嘉門院藤原聖子(長男の近衛帝の養母かつ国母。得子より五歳年下で長生き)&関白藤原忠通(泰子の兄で聖子の父。得子の崩御から四年後に薨去)&大殿藤原忠実(忠通と泰子の父)&左大臣藤原頼長(忠実の庶子。忠通の養嗣子)
3.夫の嫡男……崇徳天皇(崇徳上皇・崇徳院)
4.待賢門院とその血を引く者達……待賢門院&後白河天皇&上西門院&覚性入道親王&重仁親王&二条天皇
5.得子の家族……親兄弟&次女[日章]子内親王&三女[女朱]子内親王

この5チームの大多数が、待賢門院より遥かに長く得子の人生に登場し、関わっていきます。つまり、得子がどのような女性であったかを考えるには、この5チームがそれぞれ得子に及ぼした影響がどんなものであったかを見ていく必要があると思うんです。
そして、確かに、敢えて得子の人生を総括するなら、彼女には「平安時代きってのシンデレラガール」と言う言葉が最も相応しいのですが、この5チームとの関係を見ていくと、シンデレラガールとなった得子を待ち受けていたものの複雑さとか、崇徳天皇の退位に彼らがどう関わっているのかがわかるんじゃないかなあ……と言う話を、以下つらつらと。

●得子のプロフィール●
得子の父・藤原長実は、白河院の乳母子として権勢をふるった顕季の嫡男です。この顕季は、待賢門院の祖父・閑院流藤原実季の養子となって、実季の正室藤原睦子の妹を妻としたので、長実とその弟・家保は璋子の父・公実の従弟でもあります。そして、この縁により、長実兄弟は入内を控えた待賢門院の家司に任じられ、特に長実は待賢門院の第一子・顕仁親王の筆頭家司として生涯待賢門院親子に尽くし、受領層ながら権中納言に至りました。ただ、長実は学才に乏しく、思慮深さにも欠けていた為、義弟源師時からも「愚か者」とこき下ろされています(『長秋記』)。歌人でもありました(得子にも『美福門院集』と言う歌集があったそうなのですが、現存していません)。
得子の母は、左大臣でありながら実権を得られずに終わった村上源氏の当主・源俊房の娘・方子です。長実より九歳年上で、なんと、得子を産んだのは数えで五十二歳の時でした。方子は長生きし、無位だったのに、八十歳を越えてからいきなり従一位に叙されると言う栄誉に輝きました。
得子自身は待賢門院が入内した永久五(1117)年に八条東洞院第(八条大路北、烏丸小路東)で誕生し、父四十三歳、母五十二歳と高齢出産の子であった為、両親に可愛がられて育ちました。長実は、自身が公卿になってから得子が結婚適齢期を迎えた為、将来有望な公卿を婿にしたいと願い、死期の迫った長承二(1133)に時の右大臣源有仁と、待賢門院の甥・参議藤原公教に話を持ちかけています。しかし、間もなく父を亡くそうとしている娘の縁談は上手くいかないもので、結局得子の話も纏まらず、失意の中、長実は世を去りました(『長秋記』)。
実は、この時点で、得子の兄弟は皆受領ではありましたが、公卿どころか公卿になれそうな人もいないと言う有り様でした。得子の一門の中心は、長実ではなく、長実の弟・家保と、その息子で鳥羽院から寵愛されている家成に移っていたのです。
長実からの莫大な遺産はありましたが、将来の道筋は見えないまま、得子は父の為に一年間、重い喪に服します。唯一の味方である母の方子は六十八歳、髪を下ろして「越後尼公」と号していました。


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  1. 2013.04.06(土) _21:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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藤原苡子@平安時代のとある恋愛譚。

ただいま、『二人の王女(めちゃくちゃな邦題ですな…)』と言う、則天武后とその娘の太平公主を描いた中国ドラマを飛び飛びに視聴しています。
このドラマ、ホントにターゲットがはっきりしていて、美男美女ばかりが登場し、乙女向きなセットには年がら年中ちょっと糸屑がほつれたりもしている花が咲き(綺麗なんですが、明らかに造花なんですよw)、目の保養度が半端じゃないんです。中国ドラマなのに、砂埃ゼロですよ! しかも、内容はそんなに甘くもなければドロドロでもなく、ヒロインが真顔で暗殺命令を出したりする、と言う…。
なんと言うか、くどい煩い粘っこいが持ち味の韓国ドラマに対して(←コラw)、雄大なセットを用いながらもこざっぱりとした味わいが特徴と言うのは、中国ドラマならではな気がします(ノ∀`)
また、十話くらいから視聴し始めたので、人間関係がわからんと思って公式を見たら、何故か宣伝文句に『善徳女王』が! 「ちょ、見透かされてるww」と、ちょっぴり情けなくなりました(笑)
そう言えば、このドラマには「阿ー弥ー陀ー仏ー」が決め台詞なお坊さん集団が登場するのですが(南無阿弥陀仏なら意味わかるけど、阿弥陀仏…?)、それがもう、ガラの悪い連中で!w 勿論仏典に精通していてお経も読めますが、持ってる槍で近衛兵と「少林寺かよ!?」な戦いを始めますし、なんだか、「日本の悪僧もこんな感じだったのかも…」と思いました。武士と合戦できるレベルですもんねー、悪僧。あと、このドラマに出てくる仏像はかなり衝撃的なビジュアルなので(私は爆笑しました。←)、これからご覧になる方は、それもぜひぜひw

纏めますと、『二人の王女』、楽しいですよー(・∀・)/




※以下、日本史ネタです。

白河院が「入内」させた姫君と言えば、待賢門院藤原璋子ばかりが取り沙汰されますが、実はそれ以前に、白河院は一度、とある姫君の後見となって、その姫君を「女御に参」らせています。他ならぬ待賢門院の夫の鳥羽天皇の生母・藤原苡子です。

苡子は閑院流の藤原公実の妹で、璋子には叔母にあたります。
苡子の父の実季は、大臣まであと一歩のところで急死していて、実季の末娘の苡子が入内した時には、長兄の公実も権中納言に過ぎませんでした。兄妹の母・藤原睦子は存命でしたが、無位です(ちなみに、苡子は実季四十二歳の時の子で、公実は苡子より二十三歳も年上の兄)。要するに、苡子は入内どころか、女御になれるかどうかすら怪しいところにいました。
一方、ようやく二十歳になった堀河天皇は、堀河天皇の典侍でその情人でもあった讃岐典侍の『讃岐典侍日記』や、堀河天皇ラブな藤原宗忠の『中右記』によると、気遣いの出来る優しく勤勉な天皇でした。この頃は、叔母であり中宮でもある篤子内親王と仲睦まじく暮らしていましたが、二人の間に子供はいません。
篤子は白河の同母妹で、堀河が元服した時に時の関白藤原師実の養女として入内しました。しかし、堀河より十九歳も年上だったので、堀河が二十歳となった今はすでに懐妊の望みは薄く、白河&堀河の皇統は断絶の危機に瀕していました。
しかも、じゃあと次の后妃を入れたくても、摂関家には相応しい女がいません(いないから、篤子内親王が中宮になったわけですが)。
そこで、白河が白羽の矢を立てたのが、今は亡き白河の母・茂子の姪にあたり、白河の近臣である公実の妹・苡子でした。苡子はこの時、二十三歳。その死去までは四年と少しと、僅かな時間しか残されていませんでしたが、苡子の激動の人生は、この時始まりました。


※以下、出典は中右記、殿暦、為房卿記です。





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  1. 2013.05.09(木) _22:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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君仁親王の黄泉がえりと、白河院の泣き所。

待賢門院の第三皇子の君仁親王は、同時代の史料によると、体が弱く、幼少の頃から「足が萎えている」と言う障害があり(『台記』によると「筋あり骨なし」)、それに加えて、喋ることができませんでした。魚味始(今の「食い初め」)は行いましたが、着袴や元服はこのような事情によって果たせなかった為、「若宮(幼い宮)」と呼ばれています。待賢門院の異常な回数の熊野詣は、この君仁親王の誕生から約半年後に始まっており、熊野に到着したのは、誕生日である五月二十四日のちょうど半年後の十一月二十三日でした。
その後、君仁親王は十六歳の秋にあたる保延六年八月九日に出家し、その三年後の康治二年冬十月十八日に薨去します。
障害がある為に公式行事には一切姿を見せない君仁親王でしたが、基本的には両親や兄弟と同居していていて、その一周忌には待賢門院が法事を行い、父の鳥羽院、兄の崇徳院らが臨席しました。待賢門院はその法事の十ヶ月後に数え四十五歳で崩御しており、君仁親王を喪った哀しみの大きさが思われます。

さて、その君仁親王は、『今鏡』によると、「御みめもうつくしう、御髪も長くおはしましけり」とあるように、長い黒髪を持つ、可愛らしい容姿をしていたそうです。
今回は、その君仁親王が生まれて間もない頃の話です。




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  1. 2013.05.14(火) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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禧子内親王 ~とある一品宮の人生~

※日本史ネタです。


突然ですが、最近、私の中で源師時の『長秋記』は『ゴシップ日記』にカテゴライズされています。←
と言うのも、大治四年(1129)にまぁこんな記事があるんですよ。
↓意訳です。

五月十日、晴れ。今日は八条殿で田植えの興があるので、朝八時には院御所三条西殿に参上した。朝九時、内大臣源有仁殿以下の公卿と一緒に、三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)の八条殿への御幸にお供した。八条殿に着くと、「還御は申刻(十五時)である。皆は退出し、その頃にまた参るように」との仰せがあったので、大方は退出したが、内大臣や私など五人の公卿は、(退出せずにいようと)相談して退出しなかった。すると再び院から「還御は未刻頃だろう。皆は退出し、休息してからまた参るように」とお達しがあったが、私達はなおも粘った。すると昼の十二時頃、田植えの興が始まる頃になって、院から「参上して興を見物せよ」と仰せがあった。早速参上し、場所がなかったので、泉舎の北の簀子で見物した。(以下、田植えの興の詳しい描写)

五月十一日、晴れ。後から聞いた話だが、昨日、参議の藤原長実卿(美福門院の父。師時の義兄)が御幸の間に軍兵を発して、筑後国の高良大明神の神主である季平の宿所に押し入らせ、追捕をしていた。争いになり、長実卿の軍兵が神主側の傷を負った郎等二人を捕縛し引っ立てたところ二人は死んでおり、残る五人も皆傷を負っていた。しかも、八条殿から退出した検非違使別当藤原実行(妻は長実の姉妹)は、宿所の前を通り、濫行の光景を見たのに、何もしなかった。世間では、「神明を畏れず、王威を憚らず、参議の所行はどうして立派だと言えるだろうか」と噂している。


田植えの興(歌あり踊りありで衣装も豪華なミュージカル)を見たいが為に、「いや、帰れよ」と言う院の命令を無視して居座り、粘り勝った公卿。そして、その間に、殺人事件を発生させる公卿に、事件を見て見ぬふりをする検非違使別当(平安の警察)。
……こう言う記事を見てると、「平安時代は優雅って嘘だろ!」と言いたくなりますね!(ノ∀`)

では、本題にー。



鳥羽天皇は、その生涯で三人の后妃と複数人の愛妾を持ち、二十人弱の皇子女を儲けました。このうち、生後約一年以内に親王宣下を受けた(つまり嫡出扱いの)皇子女は、待賢門院(中宮)藤原璋子腹の五男二女と、女御藤原得子腹の一男二女(うち、一女は皇后宮藤原泰子の、一男は中宮藤原聖子の養子として)の、合計十人でした。(意外にも、藤原得子腹の末娘の高松院は、十四歳になるまで親王宣下を受けていません。)
そして、この禧子、統子、叡子、[日章]子の四人の皇女は全員准三宮に宣下されますが、この中で誰よりも若くして准三宮に宣下され、さらに一人だけ一品に叙された嫡女、それが第一皇女の禧子内親王です。
満年齢で僅か十一歳の若さで薨去した為に、あまり取り上げられない内親王ですが、鳥羽天皇と待賢門院にとっては、禧子内親王は最愛の娘だったようです。


●一品の宮●
禧子は鳥羽天皇の第一皇女で、第二子にあたります。保安三年(1122)六月二十七日、甲寅の日の子刻(23~1時)に、三条西殿(三条大路北、烏丸小路西)で誕生しました(『中右記』)。
この時、父の鳥羽天皇二十歳、母の中宮藤原璋子二十二歳。奇しくも、璋子が禧子を懐妊した保安二年は、一月に関白藤原忠実が辞任に追い込まれ、四月には鳥羽天皇の乳母で璋子の生母でもある従二位藤原光子も薨去すると言う、激動の一年でした。これらの政変を経て誕生した禧子は、鳥羽天皇と中宮璋子の新たな関係を象徴する存在であり、以後、中宮腹の第一皇女として、生後一ヶ月で内親王に宣下され、禧子と命名されました。この僅か二十二日後には准三宮にも宣下され、生後数ヶ月にして母の中宮璋子に準じる地位を得ています。
禧子の誕生から半年後に譲位した父鳥羽院は、白河殿と二条東洞院第、正親町東洞院第で白河院と同居し、母璋子は内裏とそれらの院御所を往復して生活していました。しかし、天治元年(1124)十一月に璋子が院号宣下を受けて待賢門院となってからは、待賢門院の里邸である三条西殿が三院御所となり、禧子も三条西殿で育ちます。
大治元年(1126)十二月二十七日、五歳になった禧子は、禧子の御領として新造された大炊御門万里小路第(大炊御門大路北、万里小路東)に三院と日帰りで渡御し、着袴の儀を行いました。そしてこの一年半後の同三年四月十三日、鳥羽院と待賢門院の嫡女として、僅か七歳で最高位の一品に叙されます。以後、「一品宮」と呼ばれるようになり、新造御所への渡り初めや落慶供養御幸などでは、両院と並んでその動向が注目されることになりました。同四年(1129)七月七日に白河院が崩御すると、禧子は待賢門院と共に急遽御産所に選ばれた三条京極第(三条大路南、東京極大路西)に移り、若干八歳の少女ながら、喪中の鳥羽院と待賢門院に代わって、そこで産まれた末の弟本仁親王の生育儀礼を主催しています。また、白河院からは大炊御門万里小路第に加えて、三条西殿も伝領しました。
御産を終えた鳥羽院と待賢門院は、大炊御門万里小路第で暮らし始めます。しかし、同五年七月十日、両院の留守中に大炊御門万里小路第は焼亡。焼け出された禧子と三人の弟達は直ちに両院のいる白河北殿に迎えられました。あくまで短期滞在用だった為か、あるいは使い勝手が悪かったのか、この後大炊御門万里小路第は再建されることはなく、禧子は御所を一つ失ってしまいます。
この火事から数日後、禧子は三条東殿(三条大路北、東洞院大路西)を伝領していた待賢門院と御領を交換して、改めて三条東殿を御領としました。三条東殿には、八月十九日に早速渡御しましたが、あくまで両院御所は三条西殿であり、禧子も三条西殿の東対代を御所としています。三条東殿は、朝覲行幸や、三条西殿が使用不可の際の御所として時たま用いられましたが、結局禧子が十一歳になった長承元年(1132)七月二十三日に、禧子が暮らしていた三条西殿もろとも焼失しました。禧子は両院と共に、藤原顕頼所有の二条烏丸第に移御しています。

※以下、病の描写があります。



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  1. 2013.06.03(月) _20:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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後白河院と二条天皇の後宮今昔。 ※多少おちゃらけています

待賢門院の四男後白河院(雅仁)は、数え十七歳(満年齢だと高校一年生にあたる十五歳!)の時に、長男二条天皇のパパとなりました。息子と十六歳しか歳が違わないという、ひっじょーに若いパパです。
その結果、いざ二条天皇が即位した時、パパ三十二歳、息子十六歳という、「どっちもこれから皇子が誕生する可能性大」な状態になっていました。

で、ですよ。
実は後白河天皇は、即位前に立太子すらさせてもらえないレベルの中継ぎ天皇でした。後白河天皇の長男二条天皇に皇位を継承させるのにあたって、「父親が生きてるのに即位させないのはどーなの?」というわけで即位させてもらった、ただそれだけの存在でした。なので、なんと後白河天皇は、平安史上稀に見る、「摂関を出す家から后妃を迎えていない天皇」だったんです。
でも物事は何が幸いとなるかわからないもので、中継ぎとしてスルーされている後白河天皇の後宮はあまり束縛がなく、その結果、待賢門院の兄弟たちが後白河天皇の後宮に娘や孫娘を入内させました。これは当然将来の帝を自分の家から出すことが目的で、もし二条天皇に何かあったり、二条天皇が皇子を儲けられなかったり、あるいは二条天皇の後見が壊滅状態になれば、後白河天皇の他の皇子が皇位につく可能性はあるわけですから、無駄骨にはなりません。

という訳で、二条天皇即位時、後白河院の後宮には、以下の三人の后妃がいました。(待賢門院の後見を受けていた二条天皇の生母源懿子は、二条天皇誕生から六日後に死去)
※順番は後白河院の後宮に入った順です。

1.従三位藤原季子(高倉局。高倉三位)(1126~1177.3.11)
父&後見:中宮(忻子)大夫・権大納言・藤原季成(1102~1165.2.1。待賢門院の異母弟。庶子)
母:(たぶん)藤原顕頼女
wikiでは生年不明になっていますが、『愚昧記(【王宗】子の同母弟実房の日記)』によると、1177年に数え52歳で薨去しているので、雅仁(後の後白河院)より一歳年上と確定。懿子の薨去から二年後に待賢門院も没して、寂しくなっていた頃の雅仁と出会い、二十二歳(1147年)に長女を儲けて以来、十一年の長きに渡って寵愛され、二男四女を産んだ。実は一番雅仁の子供を産んでいる人。1160年には「高倉三位」と呼ばれているので、たぶん後白河天皇の譲位までに従三位に叙されていたんじゃなかろうか。後白河天皇の側に中宮や女御が入侍してからは、後見の差が物を言ったのか、子を儲けていない。

2.中宮藤原忻子<承香殿>(1134~1209.8.12)
後見&祖父:左大臣藤原実能(故人。待賢門院の同母兄)
父:右大将権大納言藤原公能(1115~1161.8.11)
母:従三位藤原豪子
1155年10月20日、祖父実能の沙汰で入内。場所は内裏ではなく、後白河天皇が即位式を前に行幸した一本御書所だった。このとき二十三歳なので、たぶん実能ははじめから入内を狙って忻子をそこいらの貴族の嫁にはせんとキープしてたんじゃないかと思われる。六日後、即位の儀式が行われた後、一本御書所で露顕の儀があり、天皇が渡御して女御に宣下された。この時の位階は従四位上で、この日、ようやく家司が補任された。これは待賢門院や摂関家の娘が入内前に家司を補任し、従三位で入内したのとはかなり開きがある。
中宮になったのは、東宮守仁親王(二条天皇)が【女朱】子内親王と婚姻後(ついでに保元の乱も終わった後)の1156年10月27日。藤壺が空いてたのに、中継ぎ天皇の中宮だからか入れてもらえなかった。
六歳年下の同母妹は、近衛天皇と二条天皇の后になった多子(まさるこ)。

3.従三位女御藤原【王宗】子<梅壺>(1145~1231.4.6)
後見:皇后宮統子内親王(後白河天皇の同母姉)
父&後見:内大臣藤原公教(1103~1160.7.9。待賢門院の異母兄実行の嫡男)
母:藤原清隆女
1157年10月11日に、なんと十三歳で入内という、衝撃デビュー。二条天皇より二歳年下なので、後白河天皇からすれば娘のような年齢である。んが、父の公教のこの入内への意気込みは強く、入内の時、全部待賢門院の先例にならって儀式を行った。なので、当時皇后宮の統子内親王が腰結をしたり、統子内親王の御在所の弘徽殿を婚儀の場としたりしたらしく、その後、女御となってからは梅壺を御所とした。いつだか不明なものの、従三位に叙され、(少なくとも1160年には年官年爵があるので、たぶんそれまでに)准后にもなっている。


こうして見ると、血縁的には全員いとことか親戚だったりしますが、まー年齢的には見事にバラバラですよねw しかもこの他に、坊門局とか、公能のもう一人の娘とかが寵愛を蒙っています。(このうち坊門局は四人の皇子の母になっているので、たぶんお気に入りだったんでないかと。)
さて、譲位時の後白河院には二十五歳の中宮忻子と、十四歳の女御【王宗】子がいました。季子の皇子は難しいとしても、忻子と【王宗】子から皇子が生まれれば、間違いなく皇位継承に割って入れます。てなわけで、1158年8月11日に譲位した後白河院は、間もなく里内裏にしていた高松殿を院御所にして、そこに忻子と【王宗】子も連れていきました。翌年元日には、御所の西側に忻子、東側に【王宗】子と、両手に華状態の後白河院がいます。(年齢的に考えると、皇子誕生の機会がある忻子が一番寵愛されたんじゃないかと(・∀・) つか、【王宗】子相手じゃ後白河院がロリコ(殴))

一方、十七歳になった二条天皇には、東宮時代からの妃が一人いました。

1.東宮妃→中宮→高松院・【女朱】子内親王(1141.11.8~1176.6.12。射手座)
後見:左大臣藤原伊通&権大納言重通兄弟(美福門院の従兄たち)、大納言藤原宗能(【女朱】子の乳母の父)、鳥羽院→後白河院。
養母:皇后宮統子内親王(異母姉)
父:故鳥羽院
母:美福門院
十四歳でやっとこさ親王宣下をされ(←何気に酷い話)、鳥羽院崩御の四ヶ月前に元服したての東宮守仁親王の妃になった。十四歳の東宮と十六歳の東宮妃なので年齢的にはバッチリなものの、実は甥と伯母だったりする。内親王で准后なので、女御にはなってない(女御は臣下の位)。二条天皇が即位してからは、摂関家専用の藤壺を御所にして(リアル藤壺の宮)、宇治にも後白河院や統子と一緒に行っている。


まとめると、【女朱】子は、美福門院、摂関家、後白河院に加えて、鳥羽院の側近だった信西の後見を受ける最強の妃なんです。つまり、この後見がある限り、二条天皇には【女朱】子以外の后妃は有り得ないとゆー状態でした。(そのわりには、即位翌年の1159年に女房に皇女を生ませてたりしますがw←こら)
んが、【女朱】子はわりと内裏にいなくて、1159年2月21日に立后した時には、前後二ヶ月ほど参内しませんでした。【女朱】子はこの時十九歳、出産可能な年齢に達していて、チャンスはバリバリありましたが(もっと他に言い方は…)、後白河院の皇后宮忻子(【女朱】子が中宮になったので、忻子は皇后宮にスライドしました)にも【女朱】子にも懐妊がないまま、十二月九日、世に言う平治の乱が始まります。
この事変の始まりは、八月に高松殿が火事で全焼して以来、宿無し状態の後白河院が寄宿していた姉上西門院(もと皇后宮統子内親王)の御所三条烏丸第に、藤原信頼と源義朝が攻めてきたことでした。
(※後の建春門院こと上西門院の女房小弁局に出会ったのは、もしかしたらこの居候時代(←ちょ)だったかもしれないですね(・∀・) 居候ゆえに忻子は同居出来なかったみたいですし。てか、居候ゆえに御所が燃えちゃった上西門院が気の毒です。←)



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  1. 2013.06.16(日) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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