善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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6月25日と26日に頂いたコメントへの返信

六月も終わりですねー(・∀・)
今月もたくさんの拍手をありがとうございました!(*´∇`*)

●最近の『善徳女王』ネタ●
三国時代末期を描くテジョワンゴンに、ついに出てきましたー! ナンゴンプラ(難攻不落。←数少ない韓国語知識w)の大耶城が!! しかも、解説で「金春秋」の名前まで出てきて、本編と関係ないのに独り大盛り上がりです(爆)
しかも、トンマンの時代には裏切りにより落城してしまった大耶城が、新羅が衰退している時期でも新羅を護る要塞として機能しているとわかって、なんだか感無量でした(*´∇`*)


続きは頂いた拍手コメントへの返信です! 拍手をくださった方、ありがとうございました~vv



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  1. 2013.06.30(日) _21:37:57
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備後守藤原季通と「院姫君」藤原璋子の疑惑について。

わりと当たり前のように事実認識されている季通と璋子の恋愛関係ですが、冷静に分析してみると、果たして事実として有り得るのか、首を傾げたくなる部分があります。てなわけで、季通と璋子の関係について、考察してみました。

◆藤原季通のプロフィール◆

○家族構成○
父:藤原宗通(1071~1120)……藤原道長の次男頼宗の孫。極官は正二位・中宮(藤原璋子)大夫・民部卿・権大納言。邸宅は五条坊門高倉第。備中国と因幡国が知行国で、容体頗る人に勝る。(『中右記』)
母:坊門の尼上(1073頃~1150)……藤原顕季(1055~1123)と藤原経平女の長女。一女五男の母。
同父母兄弟:
長女宗子(1089~1155)……藤原忠通の嫡妻。少なくとも一男二女の母となるが、聖子以外育たなかった。
長男信通(1091~1120)……宗通の嫡男だったが、瘧病により父の後を追うように死去。
次男伊通(1093~1165)……兄の死去により出世株となり、太政大臣に至った。激情家で、受領層の叔父藤原長実に超越されたことに激怒して三年間出仕しなかったことがある。
(三男季通
四男成通(1097~?)……今様と蹴鞠の達人で、蹴鞠の専門書を執筆するほど。第二大納言であった保元三年(1158)に辞職し、翌年十月十五日に出家入道した。その後の消息は不明。
五男重通(1099~1161)……成通に続いて大納言に至るも、成通同様子女に恵まれなかった。

○年譜○
承徳二年(1098)十月二十日、父宗通の高倉宅で信通・伊通と共に着袴の儀。
〔康和二年(1100)一月五日、信通と伊通、叙爵。〕
〔長治三年(1106)一月五日、成通、叙爵。〕
〔天仁元年(1108)一月二十四日、備中守伊通、昇殿。〕
同年九月六日、美濃守に在任。(『殿暦』)
天永二年(1111)四月十一日、左兵衛佐季通、所労。(『中右記』)
〔天永三年(1112)一月十五日、侍従成通〈按察大納言四男〉蔵人に補任。〕
天永三年(1112)一月二十七日、春除目で備後守〈院分〉に補任。(『中右記』)
同年十月二十三日、左兵衛佐に在任。(『中右記』)
〔永久二年(1114)十二月二十五日、伊通、藤原顕隆の娘に通ず(婚姻)。〕
〔同年十二月二十六日、成通、越後守藤原敦兼の娘に通ず。〕
永久三年(1115)十月二十八日、右兵衛佐季通、白河院御所で行われた三宮若宮(後の源有仁)の元服に奉仕。(『永昌記』)
永久四年(1116)四月四日、右兵衛佐季通、白河院主催の鳥羽殿北面歌合に出詠。卯の花、郭公、菖蒲、早苗、恋の五首。
永久五年(1117)一月七日、兵衛佐季通、四位を辞す。よって、この年の勘文に入るのを止められたが、四位に叙すよう訴え申したため、関白忠実、季通を改めて四位に叙した。(『殿暦』)
〔同一月十九日、重通、左兵衛佐に補任。〕
〔元永元年(1118)十月二十六日、宗子、内大臣藤原忠通を聟取る。〕
元永二年(1119)三月九日、夕、備後守季通、内大臣藤原忠通が初めて催した種々の御遊に参入。(『中右記』)
同年七月十三日、備後守季通、内大臣藤原忠通主催の歌合に出詠。忠通と同じ左方。
保安元年(1120)一月二十八日、春除目で備後守を退任。
長承三年(1134)九月十三日、前備後守季通、藤原顕輔主催の歌合に出詠。月、紅葉、恋の三首。
保延二年(1136)十月八日、備後前司(季通)、藤原頼長宅に参入。楽会あり。(『台記』)
康治元年(1142)一月五日、備後前吏(季通)、藤原頼長から坊官賞を譲られ、正四位下に叙される(元は従四位上)。(『台記』)
同年八月七日、藤原頼長宅で季通の子童、着袴の儀。腰結い役は権大納言藤原宗輔。(『台記』)
康治二年(1143)六月三十日、藤原頼長の仰せを源為義に伝える。(『台記』)
久安六年(1150)、崇徳院主催の久安百首に出詠。

○略歴○
藤原宗通と、その嫡妻藤原顕季長女の三男。『秦箏相承血脈』に名を連ねる箏の名手で、教え子に少納言宗綱、後白河院女房安芸局、待賢門院藤原璋子、僧最兼がいる。
生没年は不詳だが、兄弟の年齢から見て、恐らく1095年頃に誕生したと思われる。
季通の母方の祖母(顕季の嫡妻藤原経平女)は、璋子の父公実の母方の叔母である。同時に、顕季は公実の父実季の養子にもなっていたため、公実は妹苡子の入内の僅か七日前であるにも関わらず、季通らの着袴の儀に参入している。璋子の入内に際して、伊通と成通が璋子の侍所別当となり、本来なら新婦の親が務める御衾役に宗通が指名されたのも、公実時代からの両家の縁を考慮した上での決定ではないだろうか。
叙爵に関しては、宗通の子息の叙爵は八歳から十二歳の間に行われているので、伊通が従五位上に叙された1103年から、成通の叙爵が行われる前年の1105年までには行われたはずである。
二十代半ばまでの季通は、決して兄弟の中で出世が遅れているなどということはなく、永久五年(1117)には従四位に至っていた。また、嫡男として公卿への道を行く信通や、幼い頃は白河院の判官代であったものの、父の知行国備中の国司に就任してからは院司を辞している伊通らが朝廷の儀式によく登場しているのに対して、季通は白河院の知行国備後の国司を八年間務めたことからもわかるように、その奉仕の対象はほぼ白河院に限られていた。
なお、信通・伊通・成通は婚姻の記録が『中右記』に残されているものの、季通の場合は、『中右記』の欠落箇所に記録があるのか、婚姻の有無自体が不明である。ただ、信通と成通が十八歳、伊通が二十二歳で白河院の近臣の娘と婚姻していることを考えると(なお、伊通は婚姻以前に一子を儲けている)、永久五年時点で二十三歳前後の季通が独身である可能性は低いのではないだろうか。
『尊卑分脈』によれば、極官は正四位下左少将備後守で、歌人であり、琵琶・箏・笛・郢曲に堪能であった。また、子女に従五位上少納言の伊長(宗綱・宗長とも)、仁和寺の権少僧都任慶、園城寺の阿闍梨行忠、延暦寺の僧範源、園城寺の法橋智秀がいた。



以上をまとめると、季通は璋子の箏の師匠で、璋子との関係を噂された永久五年(1117)冬の時点では、季通約二十三歳、璋子十七歳でした。満年齢に当てはめれば、大学四年生と高校一年生になります。なお、璋子が十一歳の時から結婚が決まっていた内大臣忠通は、二十一歳(満年齢で二十歳)です。


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  1. 2013.06.30(日) _21:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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SS 双眸に宿る

お久し振りの隠居連載番外編です(・∀・)
『SS 安らぎ』の対になるようなお話です。



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  1. 2013.06.24(月) _18:00:00
  2. 連載外伝~幸せ家族計画~
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6月16日から19日に頂いた拍手コメントへの返信

ヨウォンさんの「黄金の帝国」のポスターが出ましたねーv(・∀・)v
ビジュアル的には濃いめのメイクのヨウォンさんが好きなので(濃すぎないのが条件ですw)、「49日」のや「馬医」のポスターより好みです(*´∇`*) 変なアクセサリーに目がいくタイプなので、あの丸襟ネックレスも意外と好きですw
あとは、リンク先の方々も皆さん仰ってるように、

「ヨウォンさんの役がちゃんと主役トリオの一員に相応しい出番とキャラクターでありますように」

と願っています!見るかはわかりませんg(以下略)
(実は今、父がテジョワンゴンを見てるのに乗っかってなんとなく見ています。ガプスさんがけなげなヒロインを演じている話ですv←えっ  我が家では、このドラマのメインキャラに「はげちゃびん」とか「キョンキョン」とかわりと失礼なあだ名をつけて見ていますw(ひでぇ))

続きは頂いた拍手コメントへの返信です。今週もたくさんの拍手をありがとうございました~!(*´∀`*)


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  1. 2013.06.21(金) _23:34:37
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待賢門院の根性ある御産記録〔禧子・通仁・君仁・統子(恂子)・雅仁・本仁〕

前に待賢門院の第一子崇徳天皇こと顕仁親王の誕生を巡るあれこれを書いたので、今回は残りの六人について書きました(・∀・)


2.長女禧子内親王
長女禧子内親王は、保安三年(1122)六月二十七日、三条西殿で誕生しました。この時期はどの日記も欠けているので詳細はわかりませんが、懐妊時期は出産予定日の266日前なので、だいたい前年九月から十一月頃と考えられます。
ちなみに、鳥羽天皇が関白藤原忠実の嫡女を入内させようとしたことに端を発する、「関白辞任事件」がその年の正月にあったことを考えると、その後一年以内に天皇と中宮の仲が回復したというのは少し意外にも思えますが、鳥羽天皇は禧子をどの子女よりも溺愛していて(コチラをご参照ください)、間違いなく実子です。その証に、禧子は生後二ヶ月の八月二十四日には准三宮に叙され、十月九日から十一月二十八日まで息災長寿を願う祈祷も行われ、禧子七歳の大治三年(1128)四月十三日には、親王としては最高位の一品にも叙されたり、常に鳥羽天皇の嫡女として遇されています。
なお、鳥羽天皇の譲位は禧子の誕生から半年後の保安四年正月二十八日に行われ、鳥羽院は三条西殿、白河殿と居を移した後に、六月十日に新造の二条東洞院第に移徙し、御所としました。この移徙には中宮璋子も同行しています。



●天皇時代の鳥羽天皇と中宮藤原璋子の関係●
鳥羽天皇と中宮藤原璋子は、約五年間で二子を儲けるという、わりとよくいる(幸運な)天皇と中宮でした。
揉めたこともありますが、関白藤原忠実の嫡女(後の藤原泰子)の入内問題は、そもそも関白嫡女の嫁ぎ先が内裏以外には有り得なかった時代なので、中宮璋子との仲がどうだったか以前に、起こらなきゃおかしい問題です。いつ死ぬかわからない老齢の祖父白河院しか後見がいない鳥羽天皇としても、血縁関係のない壮年の関白との仲を悪化させないためには、その嫡女の入内を要請することは欠かせなかったはずですし。「摂関家の養女を中宮にし、彼女を寵愛することで、異母弟を差し置いて息子への譲位に成功した」白河院も、それがわからないはずがありません。
だから、むしろ、そんな時ですら璋子は一ヶ月里居をしたら二、三ヶ月は内裏にいる、という生活である……つまり、二人の夫婦関係が破綻しなかったということが個人的には驚きです(例えば、藤原道長の父兼家は、第一皇子を産んだ娘詮子を差し置いて他の女御が立后された時、娘も皇子も二度と参内させないという形で怒りを露にしています。参内しない、というのは天皇への抗議行動の一つでもあるんです)。
んで、これはやはり、鳥羽天皇の祖父兼養父と言って差し支えない白河院の采配だと思うんですよ。白河院としては、鳥羽天皇が十五歳になっても関白嫡女の入内がないから璋子を入内させたわけですが、関白が二十五歳も年下の忠実である以上、いずれ自分が関白より先に死に、その時璋子が関白から迫害され、苦境に立たされるのはわかっていたはずです。本当に何よりも璋子が可愛いなら、入内という選択肢だけは有り得なかったはず(だから、僅か十一歳の璋子を関白忠実の嫡男忠通と婚約させ、十七歳まで粘ったんでしょうし)。
「白河院の養女への溺愛」フィルターを取っ払って考えると、璋子の入内は、決して璋子のためではなく、鳥羽天皇が「后妃不在」なんて不面目な十六歳の幕開けを迎えなくて済むように、唯一自分の自由になる持ち駒の養女璋子を慌てて入内させたのではないかなーと、そう思えます(調べてみると、平安時代の天皇の中で、元服前に即位したのに十五歳になっても独身だった天皇は、廃位されたも同然の陽成天皇と鳥羽天皇だけです)。
でも、一応璋子も白河院がずっと育ててきた養女なわけで、だから崩御するその時まで「自分の生きているうちは関白嫡女は入内させない、一帝二后は許さない」と踏ん張ったのではないでしょうか。白河院が崩御を覚悟した時に「忠実の嫡女だけは后妃にするな」と鳥羽院に遺言したのも、「自分が遺言しない限り、後見が薄弱な璋子の地位は到底守れない」と常日頃から考えていたからかなと…(実際には、遺言してもあまり意味はありませんでしたし)。
天下三不如意とか言われる白河院ですが、鳥羽天皇の後宮問題も、どう考えても「不如意」の一つです。『殿暦』や『中右記』を見れば、白河院の理想は

「鳥羽天皇は関白忠実の嫡女を中宮にして皇太子を儲け、璋子は忠実の嫡男忠通の正室になって子女を儲ける。そして、いずれは鳥羽天皇の第一皇子が天皇となり、そこに璋子の産んだ忠通の嫡女が中宮として入内する。璋子は関白の正室、中宮の母として尊ばれ、従一位に叙される」

なのは明らかなので。
しかも、この後宮問題が原因で、二十年間ずっと自ら教育・サポートし続けてきた忠実を罷免せざるを得なくなったわけなので(『中右記』によれば、白河院は関白嫡女入内の噂が出てから処罰するまで一年も我慢しています。怒りに任せて罷免したわけではありません)、人事問題も「不如意」の一つと見てよいのではないでしょうか。まぁざっくり言えば、白河院も毎年熊野に行って神頼みしたくなるくらい大変だったんですな(・∀・)(←ざっくりし過ぎではw)

そして、様々な問題がある中で鳥羽天皇に中宮璋子を寵愛する意志があったことも、鳥羽天皇という人物を考える上では外せません。
ぶっちゃけ、第一皇子が生まれた以上、鳥羽天皇の中宮璋子に対する「義務(中宮の最重要任務の達成への協力)」は終わってるんですよ。璋子が嫌いなら、もう寵愛する必要はないんです。禧子を生ませる必要性はないんです。
でも、禧子が生まれた。まだ満年齢では十代の鳥羽天皇的に、中宮璋子が「寵愛したい相手」じゃないなら、禧子の誕生はないと思います。鳥羽天皇が盛ってるお年頃だったとしても、周囲は女官だらけで別に相手には困りませんし(・∀・)←言い方を考えろ。 何より、一番鳥羽天皇に発言力があったであろう二位の乳母光子(璋子の生母)は禧子誕生の一年半前に薨去しているので、ふつーに考えて、禧子懐妊時の鳥羽天皇はやっとつまみ食いし放題になっててもおかしくないんじゃないかと(以下略)
えー、まとめると、「顕仁も禧子も、鳥羽天皇が中宮璋子を寵愛したかったから生まれた」っつーことでいいんじゃないですかね(・∀・)←

次は、譲位後に生まれた五子についてです。


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  1. 2013.06.21(金) _21:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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後白河院と二条天皇の後宮今昔。 ※多少おちゃらけています

待賢門院の四男後白河院(雅仁)は、数え十七歳(満年齢だと高校一年生にあたる十五歳!)の時に、長男二条天皇のパパとなりました。息子と十六歳しか歳が違わないという、ひっじょーに若いパパです。
その結果、いざ二条天皇が即位した時、パパ三十二歳、息子十六歳という、「どっちもこれから皇子が誕生する可能性大」な状態になっていました。

で、ですよ。
実は後白河天皇は、即位前に立太子すらさせてもらえないレベルの中継ぎ天皇でした。後白河天皇の長男二条天皇に皇位を継承させるのにあたって、「父親が生きてるのに即位させないのはどーなの?」というわけで即位させてもらった、ただそれだけの存在でした。なので、なんと後白河天皇は、平安史上稀に見る、「摂関を出す家から后妃を迎えていない天皇」だったんです。
でも物事は何が幸いとなるかわからないもので、中継ぎとしてスルーされている後白河天皇の後宮はあまり束縛がなく、その結果、待賢門院の兄弟たちが後白河天皇の後宮に娘や孫娘を入内させました。これは当然将来の帝を自分の家から出すことが目的で、もし二条天皇に何かあったり、二条天皇が皇子を儲けられなかったり、あるいは二条天皇の後見が壊滅状態になれば、後白河天皇の他の皇子が皇位につく可能性はあるわけですから、無駄骨にはなりません。

という訳で、二条天皇即位時、後白河院の後宮には、以下の三人の后妃がいました。(待賢門院の後見を受けていた二条天皇の生母源懿子は、二条天皇誕生から六日後に死去)
※順番は後白河院の後宮に入った順です。

1.従三位藤原季子(高倉局。高倉三位)(1126~1177.3.11)
父&後見:中宮(忻子)大夫・権大納言・藤原季成(1102~1165.2.1。待賢門院の異母弟。庶子)
母:(たぶん)藤原顕頼女
wikiでは生年不明になっていますが、『愚昧記(【王宗】子の同母弟実房の日記)』によると、1177年に数え52歳で薨去しているので、雅仁(後の後白河院)より一歳年上と確定。懿子の薨去から二年後に待賢門院も没して、寂しくなっていた頃の雅仁と出会い、二十二歳(1147年)に長女を儲けて以来、十一年の長きに渡って寵愛され、二男四女を産んだ。実は一番雅仁の子供を産んでいる人。1160年には「高倉三位」と呼ばれているので、たぶん後白河天皇の譲位までに従三位に叙されていたんじゃなかろうか。後白河天皇の側に中宮や女御が入侍してからは、後見の差が物を言ったのか、子を儲けていない。

2.中宮藤原忻子<承香殿>(1134~1209.8.12)
後見&祖父:左大臣藤原実能(故人。待賢門院の同母兄)
父:右大将権大納言藤原公能(1115~1161.8.11)
母:従三位藤原豪子
1155年10月20日、祖父実能の沙汰で入内。場所は内裏ではなく、後白河天皇が即位式を前に行幸した一本御書所だった。このとき二十三歳なので、たぶん実能ははじめから入内を狙って忻子をそこいらの貴族の嫁にはせんとキープしてたんじゃないかと思われる。六日後、即位の儀式が行われた後、一本御書所で露顕の儀があり、天皇が渡御して女御に宣下された。この時の位階は従四位上で、この日、ようやく家司が補任された。これは待賢門院や摂関家の娘が入内前に家司を補任し、従三位で入内したのとはかなり開きがある。
中宮になったのは、東宮守仁親王(二条天皇)が【女朱】子内親王と婚姻後(ついでに保元の乱も終わった後)の1156年10月27日。藤壺が空いてたのに、中継ぎ天皇の中宮だからか入れてもらえなかった。
六歳年下の同母妹は、近衛天皇と二条天皇の后になった多子(まさるこ)。

3.従三位女御藤原【王宗】子<梅壺>(1145~1231.4.6)
後見:皇后宮統子内親王(後白河天皇の同母姉)
父&後見:内大臣藤原公教(1103~1160.7.9。待賢門院の異母兄実行の嫡男)
母:藤原清隆女
1157年10月11日に、なんと十三歳で入内という、衝撃デビュー。二条天皇より二歳年下なので、後白河天皇からすれば娘のような年齢である。んが、父の公教のこの入内への意気込みは強く、入内の時、全部待賢門院の先例にならって儀式を行った。なので、当時皇后宮の統子内親王が腰結をしたり、統子内親王の御在所の弘徽殿を婚儀の場としたりしたらしく、その後、女御となってからは梅壺を御所とした。いつだか不明なものの、従三位に叙され、(少なくとも1160年には年官年爵があるので、たぶんそれまでに)准后にもなっている。


こうして見ると、血縁的には全員いとことか親戚だったりしますが、まー年齢的には見事にバラバラですよねw しかもこの他に、坊門局とか、公能のもう一人の娘とかが寵愛を蒙っています。(このうち坊門局は四人の皇子の母になっているので、たぶんお気に入りだったんでないかと。)
さて、譲位時の後白河院には二十五歳の中宮忻子と、十四歳の女御【王宗】子がいました。季子の皇子は難しいとしても、忻子と【王宗】子から皇子が生まれれば、間違いなく皇位継承に割って入れます。てなわけで、1158年8月11日に譲位した後白河院は、間もなく里内裏にしていた高松殿を院御所にして、そこに忻子と【王宗】子も連れていきました。翌年元日には、御所の西側に忻子、東側に【王宗】子と、両手に華状態の後白河院がいます。(年齢的に考えると、皇子誕生の機会がある忻子が一番寵愛されたんじゃないかと(・∀・) つか、【王宗】子相手じゃ後白河院がロリコ(殴))

一方、十七歳になった二条天皇には、東宮時代からの妃が一人いました。

1.東宮妃→中宮→高松院・【女朱】子内親王(1141.11.8~1176.6.12。射手座)
後見:左大臣藤原伊通&権大納言重通兄弟(美福門院の従兄たち)、大納言藤原宗能(【女朱】子の乳母の父)、鳥羽院→後白河院。
養母:皇后宮統子内親王(異母姉)
父:故鳥羽院
母:美福門院
十四歳でやっとこさ親王宣下をされ(←何気に酷い話)、鳥羽院崩御の四ヶ月前に元服したての東宮守仁親王の妃になった。十四歳の東宮と十六歳の東宮妃なので年齢的にはバッチリなものの、実は甥と伯母だったりする。内親王で准后なので、女御にはなってない(女御は臣下の位)。二条天皇が即位してからは、摂関家専用の藤壺を御所にして(リアル藤壺の宮)、宇治にも後白河院や統子と一緒に行っている。


まとめると、【女朱】子は、美福門院、摂関家、後白河院に加えて、鳥羽院の側近だった信西の後見を受ける最強の妃なんです。つまり、この後見がある限り、二条天皇には【女朱】子以外の后妃は有り得ないとゆー状態でした。(そのわりには、即位翌年の1159年に女房に皇女を生ませてたりしますがw←こら)
んが、【女朱】子はわりと内裏にいなくて、1159年2月21日に立后した時には、前後二ヶ月ほど参内しませんでした。【女朱】子はこの時十九歳、出産可能な年齢に達していて、チャンスはバリバリありましたが(もっと他に言い方は…)、後白河院の皇后宮忻子(【女朱】子が中宮になったので、忻子は皇后宮にスライドしました)にも【女朱】子にも懐妊がないまま、十二月九日、世に言う平治の乱が始まります。
この事変の始まりは、八月に高松殿が火事で全焼して以来、宿無し状態の後白河院が寄宿していた姉上西門院(もと皇后宮統子内親王)の御所三条烏丸第に、藤原信頼と源義朝が攻めてきたことでした。
(※後の建春門院こと上西門院の女房小弁局に出会ったのは、もしかしたらこの居候時代(←ちょ)だったかもしれないですね(・∀・) 居候ゆえに忻子は同居出来なかったみたいですし。てか、居候ゆえに御所が燃えちゃった上西門院が気の毒です。←)



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  1. 2013.06.16(日) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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5月31日から6月7日までに頂いた拍手コメントへの返信

善徳女王と全く関係ないですが。フレンドパークがなくなったせいか、運動系バラエティーに飢えがちな我が家ではここ1、2年ほど、毎週木曜日になるとvs嵐を見ています(・∀・)
そうしたら、嵐と言えば勿論「アイドル!」なのに、「嵐の曲はほとんど知らないけど、嵐のメンバーの顔と名前は覚えたぜ☆」状態になってしまいましてw そうなると、嵐=バラエティアイドルと言うか、「副業で歌ったりお芝居してるらしい」イメージになり、なんかこの認識はヤバいんじゃないかな気がしています。

●嵐のイメージ●
大野くん→リーダーらしい。MDA率高い。喋らない。-50を思いついた困った人。
桜井くん→凄い気を遣って司会をしている人。腕力…。無理して空気読まなくていいよ!その1。
二宮くん→いないと困るツッコミ。その服はどこで買っているのか。なんでも出来る。
相葉くん→テンパる。実はスタイルがよい。無理して空気読まなくていいよ!その2。
松潤→何故か松潤呼び。ヒリヒリ。真面目にぷっつり。日曜のお父さん系ファッション。

あれ?そう言えばこの五人の年齢順を意外と知らないような…?


続きは頂いた拍手コメントへの返信です!先週もたくさんの拍手をありがとうございました~!!


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  1. 2013.06.09(日) _13:24:26
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禧子内親王 ~とある一品宮の人生~

※日本史ネタです。


突然ですが、最近、私の中で源師時の『長秋記』は『ゴシップ日記』にカテゴライズされています。←
と言うのも、大治四年(1129)にまぁこんな記事があるんですよ。
↓意訳です。

五月十日、晴れ。今日は八条殿で田植えの興があるので、朝八時には院御所三条西殿に参上した。朝九時、内大臣源有仁殿以下の公卿と一緒に、三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)の八条殿への御幸にお供した。八条殿に着くと、「還御は申刻(十五時)である。皆は退出し、その頃にまた参るように」との仰せがあったので、大方は退出したが、内大臣や私など五人の公卿は、(退出せずにいようと)相談して退出しなかった。すると再び院から「還御は未刻頃だろう。皆は退出し、休息してからまた参るように」とお達しがあったが、私達はなおも粘った。すると昼の十二時頃、田植えの興が始まる頃になって、院から「参上して興を見物せよ」と仰せがあった。早速参上し、場所がなかったので、泉舎の北の簀子で見物した。(以下、田植えの興の詳しい描写)

五月十一日、晴れ。後から聞いた話だが、昨日、参議の藤原長実卿(美福門院の父。師時の義兄)が御幸の間に軍兵を発して、筑後国の高良大明神の神主である季平の宿所に押し入らせ、追捕をしていた。争いになり、長実卿の軍兵が神主側の傷を負った郎等二人を捕縛し引っ立てたところ二人は死んでおり、残る五人も皆傷を負っていた。しかも、八条殿から退出した検非違使別当藤原実行(妻は長実の姉妹)は、宿所の前を通り、濫行の光景を見たのに、何もしなかった。世間では、「神明を畏れず、王威を憚らず、参議の所行はどうして立派だと言えるだろうか」と噂している。


田植えの興(歌あり踊りありで衣装も豪華なミュージカル)を見たいが為に、「いや、帰れよ」と言う院の命令を無視して居座り、粘り勝った公卿。そして、その間に、殺人事件を発生させる公卿に、事件を見て見ぬふりをする検非違使別当(平安の警察)。
……こう言う記事を見てると、「平安時代は優雅って嘘だろ!」と言いたくなりますね!(ノ∀`)

では、本題にー。



鳥羽天皇は、その生涯で三人の后妃と複数人の愛妾を持ち、二十人弱の皇子女を儲けました。このうち、生後約一年以内に親王宣下を受けた(つまり嫡出扱いの)皇子女は、待賢門院(中宮)藤原璋子腹の五男二女と、女御藤原得子腹の一男二女(うち、一女は皇后宮藤原泰子の、一男は中宮藤原聖子の養子として)の、合計十人でした。(意外にも、藤原得子腹の末娘の高松院は、十四歳になるまで親王宣下を受けていません。)
そして、この禧子、統子、叡子、[日章]子の四人の皇女は全員准三宮に宣下されますが、この中で誰よりも若くして准三宮に宣下され、さらに一人だけ一品に叙された嫡女、それが第一皇女の禧子内親王です。
満年齢で僅か十一歳の若さで薨去した為に、あまり取り上げられない内親王ですが、鳥羽天皇と待賢門院にとっては、禧子内親王は最愛の娘だったようです。


●一品の宮●
禧子は鳥羽天皇の第一皇女で、第二子にあたります。保安三年(1122)六月二十七日、甲寅の日の子刻(23~1時)に、三条西殿(三条大路北、烏丸小路西)で誕生しました(『中右記』)。
この時、父の鳥羽天皇二十歳、母の中宮藤原璋子二十二歳。奇しくも、璋子が禧子を懐妊した保安二年は、一月に関白藤原忠実が辞任に追い込まれ、四月には鳥羽天皇の乳母で璋子の生母でもある従二位藤原光子も薨去すると言う、激動の一年でした。これらの政変を経て誕生した禧子は、鳥羽天皇と中宮璋子の新たな関係を象徴する存在であり、以後、中宮腹の第一皇女として、生後一ヶ月で内親王に宣下され、禧子と命名されました。この僅か二十二日後には准三宮にも宣下され、生後数ヶ月にして母の中宮璋子に準じる地位を得ています。
禧子の誕生から半年後に譲位した父鳥羽院は、白河殿と二条東洞院第、正親町東洞院第で白河院と同居し、母璋子は内裏とそれらの院御所を往復して生活していました。しかし、天治元年(1124)十一月に璋子が院号宣下を受けて待賢門院となってからは、待賢門院の里邸である三条西殿が三院御所となり、禧子も三条西殿で育ちます。
大治元年(1126)十二月二十七日、五歳になった禧子は、禧子の御領として新造された大炊御門万里小路第(大炊御門大路北、万里小路東)に三院と日帰りで渡御し、着袴の儀を行いました。そしてこの一年半後の同三年四月十三日、鳥羽院と待賢門院の嫡女として、僅か七歳で最高位の一品に叙されます。以後、「一品宮」と呼ばれるようになり、新造御所への渡り初めや落慶供養御幸などでは、両院と並んでその動向が注目されることになりました。同四年(1129)七月七日に白河院が崩御すると、禧子は待賢門院と共に急遽御産所に選ばれた三条京極第(三条大路南、東京極大路西)に移り、若干八歳の少女ながら、喪中の鳥羽院と待賢門院に代わって、そこで産まれた末の弟本仁親王の生育儀礼を主催しています。また、白河院からは大炊御門万里小路第に加えて、三条西殿も伝領しました。
御産を終えた鳥羽院と待賢門院は、大炊御門万里小路第で暮らし始めます。しかし、同五年七月十日、両院の留守中に大炊御門万里小路第は焼亡。焼け出された禧子と三人の弟達は直ちに両院のいる白河北殿に迎えられました。あくまで短期滞在用だった為か、あるいは使い勝手が悪かったのか、この後大炊御門万里小路第は再建されることはなく、禧子は御所を一つ失ってしまいます。
この火事から数日後、禧子は三条東殿(三条大路北、東洞院大路西)を伝領していた待賢門院と御領を交換して、改めて三条東殿を御領としました。三条東殿には、八月十九日に早速渡御しましたが、あくまで両院御所は三条西殿であり、禧子も三条西殿の東対代を御所としています。三条東殿は、朝覲行幸や、三条西殿が使用不可の際の御所として時たま用いられましたが、結局禧子が十一歳になった長承元年(1132)七月二十三日に、禧子が暮らしていた三条西殿もろとも焼失しました。禧子は両院と共に、藤原顕頼所有の二条烏丸第に移御しています。

※以下、病の描写があります。



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  1. 2013.06.03(月) _20:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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SS 和蕃

宝塚には5つの組があって、交代で公演を行っています。その中でも一番新しいのが宙組で、1998年に誕生しました。
その誕生記念、つまりお披露目公演の演目二つのうち、お芝居の方は『エクスカリバー』と言う、お披露目に相応しく、誰も死なない王道のお伽噺だったんです。

●エクスカリバーあらすじ●
ヒロインのお姫様ロザラインは、病の父の代わりとして、魔女と結託している悪い王様の元に挨拶に行かねばならなくなった。迎えに来たのは悪い王様の甥で、その後継ぎの黒い騎士クリストファー。イケメンで腕も立つが、自惚れ屋で、なんかロザラインに下心もある模様。そんなわけで勢いに任せてペイジ(少年)に化け逃げ出したロザラインは、森の騎士ジェームズに助けられる。ジェームズは捨て子なのだが、ヒネたところは全くなく、実は王子なのだと言うオチもあり、色々あって聖剣エクスカリバーを手に入れ、悪い魔女と王を倒し、ロザラインと結ばれる。


……このように、王道過ぎる物語『エクスカリバー』なのですが、この話の偉いところは、ロザラインと騎士二人の関係が一から描かれているところだと思うんです。つまり、

1.出会いと第一印象。
2.相手を異性として意識した瞬間。
3.ときめきが恋心(執着)に膨らんだきっかけ。
4.自分の恋心に対する意識。
5.二人に対する周囲の反応と障害。

この5つが、騎士二人とロザラインの三人分、ちゃんとあるんですよ!一時間半の舞台で、他にもあれこれキャラがいるのに。
そして、この5つがあるおかげで、観ている方は物凄く感情移入しやすいんです。それぞれの性格や心の動きが、とてもはっきりしているので。
さらに、ジェームズとロザラインの場合、ロザラインが少年になった状態で出会いますから(すぐに姫とバレますが)、男装モノの要素まである。

じゃあ、『善徳女王』だとどうだったか……と言うと、ピダムの場合は、

1.出会いと第一印象。→細辛事件。
2.相手を異性として意識した瞬間。→手を掴んでダイブから胸があるとわかった瞬間。
3.ときめきが恋心(執着)に膨らんだきっかけ。→トンマンが公主の座を回復した日食事件。
4.自分の恋心に対する意識。→トンマンの役に立ちたいし、惚れられたいから、三韓一統しちゃる。
5.二人に対する周囲(保護者)の反応。→素直に賛成する人なし。

と、かなり丁寧に、ピダム目線での馴れ初めが描かれているんです。だから、ピダムの恋心は感情移入しやすいんだと思います。
ところがユシンの場合、

1.出会いと第一印象。→子役時代。最悪。
2.相手を異性として意識した瞬間。→不明。後にいつのことだかわからない回想があるのみ。
3.ときめきが恋心(執着)に膨らんだきっかけ。→2がわからないので、はっきりしない。
4.自分の恋心に対する意識。→とりあえずトンマンと離れたくないから、そういう道を探す。
5.二人に対する周囲(保護者)の反応。→チョンミョンだけが駆け落ち推進派。

ユシンの場合、2・3・4がわかりづらいと思うんですよねー。
特に2と3がはっきりしないと言うのが困ります。一応、2は服装から百済戦後…つまりチョンミョンの正体がバレた後だとはわかりますが、カリバン事件の間にわかったのだとしたら、ユシンのポーカーフェイスが凄すぎますし、かといって他のどの時期に入れたら良いのやら…なんですよ。だったら、カリバン事件には、「ユシンとトンマンが仲違いしていると見せかける」と言う美味しい状態があったわけです。その時だったら、「ユシンが他の人にバレないようにトンマンと話をしようとお風呂場まで来た」とユシンの覗き見疑惑も払拭出来ますし、二人の関係に緊張感を持たせる為にも、2の入る余地があると思うんですね。2さえはっきりすれば、3と4は各自が補える範囲ですし。
と言うか、3は、2と同時でも問題ないですよね、ユシンの場合。ユシンはピダムと違ってそれまでにトンマンに対するあれやこれやの想いがありますから、女とわかった瞬間にそのあれやこれやが恋心に化けるのは、ありなんじゃないかとv

また、なんで2にこだわるのかと言うと、せっかくトンマンは長々男装したのに、メインキャラの中で、ユシンだけが「女だったのか!」と言う衝撃を受けた後の対応や変化が描かれていないんですよー。

●トンマンが女と知っての反応●
【トンマンを女扱いする派】
チョンミョン→知り合ってからの年月や双子問題と合わせて衝撃は甚だしく、ひたすら涙。以降、トンマンの幸せや無事を願い、花郎を相手に積極的に行動する。
ピダム→日が浅い為、衝撃はさほど大きくない。ユシンとの関係を配慮して物理的に距離を置くが、トンマンに腕を掴まれて「あ、ユシンと駆け落ちじゃないんだ?」となって以来、接近するようになる。
チュクパン→ある意味ユシン以上に一緒に過ごした為に衝撃が大きく、詐欺師の自分を騙し通したトンマンの強さに感服する。以後、ちゃんと女と意識して接している。
【トンマンを女扱いしない派】
アルチョン→完全に意識していない派。郎粧決意でトンマンに「無礼だ。私は公主だぞ」と言われた時の衝撃の方が何倍も強く、以降、女と言うより、公主(主君)として認識している。
龍華香徒→女のトンマンにはあまり接していない為、トンマンはトンマン、と言うスタンス。

↑のように、「トンマンが女である」と言う事件に対する反応は、かなりバラバラなんです。
と言うことは、ユシンには当然、ユシンだからこその衝撃や反応、対応があったはずです。それをトンマンの回想(それも一瞬)でしか見られない…と言うのが、なんか勿体ないと言うかつまらないと言うか、寂しいんですよねー。
「女だとバラさない」と決断したんだと言う結果はわかっていますが、その結果に至るユシンの様子が見たかったです。ついでに、危うく女扱いしそうになったり、過度に男扱いしたりする不器用ユシンが。←ちょ


あーでもそうなると、トン&ピの目がなくなっちゃうんでしょうか。それとも、ユシン×トンマン派とトン&ピ派が火花を散らして、ベストカップル賞でも対決することになっちゃったりしたんでしょうか。……それはそれで、なかなか面白そうな気がw


*******


続きは迷宮シリーズの女王時代、以前に語った和蕃ネタです。(唐からイケメン皇子がやって来たよ話ですw)



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  1. 2013.06.01(土) _23:35:34
  2. ダーク連載『迷宮』
  3.  コメント:2
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