善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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君仁親王の黄泉がえりと、白河院の泣き所。

待賢門院の第三皇子の君仁親王は、同時代の史料によると、体が弱く、幼少の頃から「足が萎えている」と言う障害があり(『台記』によると「筋あり骨なし」)、それに加えて、喋ることができませんでした。魚味始(今の「食い初め」)は行いましたが、着袴や元服はこのような事情によって果たせなかった為、「若宮(幼い宮)」と呼ばれています。待賢門院の異常な回数の熊野詣は、この君仁親王の誕生から約半年後に始まっており、熊野に到着したのは、誕生日である五月二十四日のちょうど半年後の十一月二十三日でした。
その後、君仁親王は十六歳の秋にあたる保延六年八月九日に出家し、その三年後の康治二年冬十月十八日に薨去します。
障害がある為に公式行事には一切姿を見せない君仁親王でしたが、基本的には両親や兄弟と同居していていて、その一周忌には待賢門院が法事を行い、父の鳥羽院、兄の崇徳院らが臨席しました。待賢門院はその法事の十ヶ月後に数え四十五歳で崩御しており、君仁親王を喪った哀しみの大きさが思われます。

さて、その君仁親王は、『今鏡』によると、「御みめもうつくしう、御髪も長くおはしましけり」とあるように、長い黒髪を持つ、可愛らしい容姿をしていたそうです。
今回は、その君仁親王が生まれて間もない頃の話です。





* *


天治二年(一一二五)五月二十四日の日没後間もない戌刻(19~21時)頃、待賢門院の陣痛が始まりました。待賢門院にとっては、一年前の五月二十八日に次男の通仁親王を出産してからまだ一年足らずしか経っていない時点での御産です。
急ぎ御所である三条西殿の寝殿の模様替えが始まり(平安時代は実家出産が基本ですが、病院に行かない代わりに、模様替えを待たないといけなかったんです)、白木の帳台(ベッド)を始めとする白一色の畳やら几帳やらがセッティングされます。その間にも、待賢門院の兄である天台座主仁実、平等院の行尊僧正、醍醐寺の勝覚法務が御産所に入り、待賢門院のすぐそばで祈祷を始めて、寝殿の外では五人の陰陽師が御祓をしています。公卿や殿上人も参上し、待賢門院には何度か激しい陣痛の波がありますが、すぐに出産には至りません。
その間に、同居中の養父の白河院と夫の鳥羽院は、石清水八幡宮と賀茂社に馬を奉納し(車をお布施にするようなものですね)、内裏では非常赦を行うことが発表されました。
そうこうする内に、時間は子刻(23時)に至り、子二刻(23時半)になって、無事若宮が誕生しました。(君仁と名付けられるのは、六月十六日、親王宣下の日です。)外では、後産が無事済むようにと寝殿の屋根の上から甑(こしき)をバリンバリンと景気よく投げ落とし、後産が終わると、今度は誕生を祝うイベントが始まります。
まず、待賢門院が自ら臍の緒を切って、御乳付(新生児の口の中を清めて乳を飲ませる儀式)を行います。ちなみに、待賢門院は少なくとも五人の息子全員の臍の緒を切って、御乳付も自分でしているんですが、当時としてはこれはかなり珍しい例です。特に、長男や五男の時はそこそこ難産だったようなので、パワフルだなーと思います。
御乳付の後は、男子なので、夫の鳥羽院から御劔が贈られ(御劔を用意するのは、たいがい一家の長老)、産湯の儀式に関して話し合われます。
平安時代は産湯の儀式が生後七日目まで朝夕と一日二回あって、新生児を洗う役目などは、父の乳母もしくは上臈女房と、母の上臈女房が担当しました。この時は、三位殿(待賢門院の同母姉のうち、藤原実子か公子)がお湯をかける役を担い、待賢門院の上臈女房五人が、それぞれ、湯浴みした若宮を迎え取る役(高倉殿)、湯殿まで若宮を抱いて移動する役(三条殿)、鳥羽院が贈った若宮の御劔を持って湯殿まで移動する役(上殿)、虎の頭や犀の角を持って湯殿まで移動する役(洞院殿)、魔除けの米を撒く役(六条殿)を務めています。

生後三日目、五日目の夜には産養と言う出産祝いのパーティーがあり、その五日目の朝には、待賢門院のすぐそばで祈祷をした三僧が昇進しました。行尊が大僧正に、兄の仁実が僧正に、勝覚が権僧正に昇進したんです。が、実は仁実は史上最年少の天台座主で、あまりに昇進が早いために、この時も「待賢門院の同母兄だからだろう」と言われてしまっています。(実際には、仁実は僧侶としては年長組より未熟さがあっても、強訴の巣窟とも言うべき天台山(比叡山)の座主(統治者)としてはずば抜けた政治力を発揮し、在任中は一度も強訴をさせなかったと言う辣腕家です。)

さて、その翌日、若宮を異変が襲います。乳を飲まず、ひどく啼いてばかりいました。
そして、明けて六月一日の朝巳刻(9~11時)頃、若宮はついに気絶し、肌から血の気が失われていくと言う事態に至ってしまいます。驚いた白河院たちは、側近の藤中納言藤原顕隆を召して、事態を説明し、顕隆に若宮を見奉るよう命じました。(白河院も鳥羽院も待賢門院も、赤子の死に立ち会ったことはありません。)
顕隆は、「今となっては、左右を申し上げるべきではありません。早く、(喪に服すべく)御在所の装いを改められるべきでしょう」と答え、若宮は薨去するだろうと暗に告げます。お祝いは一転し、急ぎ鳥羽院の御所である東対が清められました。白河院と鳥羽院は泣涕し、女房も泣かない者はいません。
もちろん、蘇生を願う加持祈祷が直ちに命じられ、仁実と勝覚も祈祷を行いましたが、効果はありません。そんな中、大僧正に任じられたばかりの行尊は、若宮の気絶からかなりの時間が経っても、諦めず祈祷を続けていました。行尊はこの時、七十一歳。七十三歳の白河院は、行尊を案じて言いました。
「そなたはもう数刻(一刻は二時間!)も加持をしている。他の者と替わり、下がって休め」
しかし、行尊は頷きません。
「八十にもなって仏法の恥を見ては、何の面目があるでしょう。仏法の徳は、今日ございます。効験があるまで、この座を立つべきではないと存じます」
行尊の意志の強さに胸を打たれた白河院は、もう何も言いませんでした。
そして、行尊は未刻(13~15時)まで何度も千寿経を誦(とな)え続けました。すると、その時、若宮に蘇生の気配がありました。若宮があくびを十何回かし、物気(もののけ)がよりましに移り、血色も良くなってきて、何度か乳も飲んだんです。なんと、若宮は本当に生き返りました。(『今鏡』では、この時、白河院が若宮に向かって「位もつぎたまふべくは、生き返りたまへ(皇位をお継ぎになるなら、生き返りなされ)」と言って、生き返らせたと言います。)

この奇跡と行尊の霊験の甚だしさは、万人を驚かせました。その場に居合わせなかった『中右記』の筆者藤原宗忠は、「仏法の徳がこのように表れるとは、末代といえど不可思議なことだ。大僧正(行尊)の面目は身分の上下を問わず人々の耳目を驚かせた。その場に居合わせなかったことが、頗る遺憾である」と記しています。
白河院、鳥羽院は感激のあまり再び泣涕し、待賢門院は褒美として自らの皆紅の袿五領に表着まで添えて、行尊に賜るよう命じました。すると、その袿を鳥羽院が自ら持ち、女房や公卿らに任せず、直接行尊に手渡しました。上皇が僧侶に褒美を直接渡すと言うのは異例中の異例のことで、なんと宇多法皇の時代にあったくらいでした。鳥羽院の感激ぶりが伝わってきます。
一方、白河院の感激も深く、行尊に牛一頭を贈り、「この牛は参内する時に用いなさい」と牛車宣旨を下しました。(当時は、公卿でも内裏には歩いて入らねばならず、牛車に乗ったまま内裏に入れるのはベテランの摂政関白クラスの人のみです。)
鳥羽院は、馬を贈り、行尊に「暫く他所に行くな。中門の南廊を宿所とせよ」と命じました。まだ若宮に何かあるかもしれないと思ったのかもしれません。実際にもこの予想は的中し、若宮はこの後も度々発熱などに悩まされます。
鳥羽院から馬を贈られた行尊は、ここで一度退出し、改めて参上することになりました。しかし、白河院の感激はなかなかおさまらず、簀子まで出てきて、公卿たちに「早く行って行尊大僧正を見送るように」と命じています。





以上、当時の日記からまとめると、粗方このようなことが起きたようです。(日記ごとに細かい時間とかが違って、情報の伝達の大変さが実感できましたw)

この話でまず面白いなあと思ったのは、行尊のど根性です。「途中で祈祷を止めろなんて、私の面目を潰す気か」と言わんばかりに白河院に食って掛かる、僧侶としてのそのプライドが、とても気持ちいい気がします。
そして、「あくび」と言う単語が、「阿久比」としてちゃんと平安時代からあった言葉だということ! これは結構びっくりでした。あくびって古い言葉なんですねー(゜Д゜)

ところで、白河院には、最愛の中宮を喪った時に穢れを怖れず遺体を抱いて泣いたと言う逸話がある他、その二日後には悶え苦しんで気絶したと言う話があります。
また、当時の日記にも、長女の死から二日後に「心身迷乱」の状態になっていきなり出家したとか、孫の鳥羽院の誕生時には「私は果報者だ」と繰り返しながら泣きじゃくったとか、曾孫の崇徳天皇が即位後初の朝覲行幸で六歳ながらちゃんと拝礼をしたのを見て感涙するなど、涙もろい、感激屋の一面がありました。
また、白河院は恐れも強く感じる人だったようで、息子の堀河天皇が瀕死の重体に陥った時、父である後三条院の山陵に「もし今上の病が後三条院の御祟りならば、どうか早く平癒させてください」と書かれた文を奉っています(白河院は後三条院の遺志を破り、摂関家と手を組んで堀河天皇に譲位した為、そのことは生涯弱点になりました)。ついに堀河天皇に先立たれた時には、前後不覚の状態になって、当時東宮だった鳥羽院を即位させるよう命じることすら出来ず、「私はもう何もわからない」と漏らすばかりでした。
実は、白河院の殺生禁断がヒートアップするのも、若宮誕生の翌年に鳥羽院が疱瘡で一ヶ月近く寝込んでからで、身内の不幸に白河院がかなり神経質になっていたことが感じられます。
じゃあ自分の死ぬ時はどうだったかと言うと、実は白河院は、死後の法事の際に必要になるであろう写経を生前から行わせて、ついでに「白河」と言う謚も自分で決めて書類にしておくなど、スムーズに法事を行えるよう、手抜かりなく支度をしていました。
そして、七十七歳で待賢門院の安産祈願から帰宅して間もなく重体に陥った時には、すぐに見舞いと看病にやって来た鳥羽院と待賢門院(ほぼ臨月)に対して、「私はもう助からない。だから、看病などは考えず、早くこの御所から出なさい。死の穢れに触れてはならない」と繰り返し頼みました。酷い胃腸炎に苦しみながら、です。
鳥羽院の母(待賢門院の叔母)を御産で亡くしたこともあってか、白河院は御産を恐れていました。と言うより、最愛の后妃を若くして喪った悲しみを、白河院は自分で体験し、息子の堀河天皇も味わっています。そんな白河院が最も恐れるのは、若くして最愛の人を喪う悲しみを、最愛の孫である鳥羽院に味わわせることでもあったのではないでしょうか。

一方、譲位後の鳥羽院には、感激しながらも行尊を留めさせたことからもわかるように、感激や悲しみを出しつつも、冷静に次に備えて沙汰をしようと頑張る一面が見受けられます。白河院の崩御の際にも、突然のことに驚きながらも白河院に「お望みのことがあれば何でも仰ってください」と語りかけ、体調を崩しながらも白河院の法事を取り仕切りました。
が、主に寵愛する女のこととなると、秩序を乱す一面もありました。白河院と言うストッパーを失ってからの鳥羽院は、この欠点によって度々政治的な配慮に欠ける対応をしてしまい、問題を起こしています。(白河院の場合は、あくまで政治的な配慮を崩さずに寵愛しています。だから祇園女御は素性不明で無位と、身分的には底辺です)

待賢門院はと言うと、少なくとも先述の突然の白河院の崩御の際と、藤原泰子に婿入りした鳥羽院と再会した時に泣いたと言う記録が残っています。どちらも鳥羽院と一緒にいる時で、この若宮の一件の時も、待賢門院は鳥羽院に行尊への褒美を託しています。つまり、若宮が死んだと聞いて絶望していたであろう待賢門院のすぐそばに鳥羽院がいた。だからこそ、褒美を渡せはずです。
後にこの二人は別居状態になり、離婚したのかレベルで会わなくなりますが、待賢門院の崩御に際して鳥羽院が嘆きの末に死にかけたように、待賢門院もまた、鳥羽院に対して並々ならぬ信頼と愛情があったのでは……と、これらの記録からは感じられます。

と言うか、本当に愛があったかはまぁともかく(←ちょ)、「子供が出来るのは前世からの縁が深いため」と考えられていた平安時代ですから、平安史上最多タイの七人の子の両親である以上、鳥羽院も待賢門院も、お互いに「縁があるんだろうな」くらいのことは思っていた気がするのでした。←



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  1. 2013.05.14(火) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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