善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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待賢門院の崩御を巡る物語・二

※完全に日本史トークなので、興味のない方はさらっとスルーしてやってください。
※一と違って、口調はいつもの口調に戻っていますw


白河院と鳥羽院の関係は、様々な物語や逸話で「強権を振りかざして孫を威圧する祖父」と「忸怩たる思いで祖父に従う孫」として描かれています。
んが、同時代の日記を読みとくと、こう言った事実が浮かび上がってきます。

・鳥羽院が即位してからと言うもの、白河院は外戚のいない孫を守る為にずっと鳥羽院の暮らす里内裏の近くに住み続けたが、曾孫の崇徳天皇の時代になると、曾孫がいる里内裏の近くで暮らすことは全くと言っていいほどなく、待賢門院の居場所に関係なく、基本的に鳥羽院と同居している。
・鳥羽院が待賢門院の御所である三条西殿に引っ越してきた時、寝殿は家主の待賢門院が使っているので、白河院は自分が暮らしていた東の対屋(三条西殿は東門が正門なので、東の対屋は寝殿と同じくらい格式が高い)を全て鳥羽院に譲り、自分は西の対屋の、それも目立たない北側に住んだ。

現代でも、家の中のどの部分に住むかは、その人の立場を強く反映します。格式重視の平安時代においては、なおのこと「誰がどこに住んでいるか」は重要視されました。
三条西殿での三人の部屋を現代風に表現すると、

待賢門院→主寝室と居間。
鳥羽院→応接室と来客用の寝室。
白河院→いくつかある個室のうち、日当たりの悪い場所にある部屋。

こんな感じになるくらい、三人の住む場所には差がありました。特に、白河院は居候に近い部屋です。こんなに鳥羽院に気をつかってまで同居して、肝心の崇徳天皇は放置していたことを思うと、白河院が一番大切に思い、愛していたのは孫の鳥羽院なんじゃないかなーと言う気がしてきます。生まれてこの方ずっと手元で育ててきた最愛の孫(即位するまでこの二人は同居してました)、幼い頃に両親を喪って不憫な孫、もう目に入れても痛くないほど可愛い孫。まさにそんな存在が鳥羽院だったんじゃないか……と、まあそう言う関係に見えないこともないなとw

そして、こうごっちゃごっちゃ調べていると、鳥羽院が限りなく俺様に見えてきます(え)
白河院は、確かに寿命の長さとか凄いんですが、私生活はわりとフツーと言うか、結局正式な中宮や女御は在位中に得た二人だけですし、退位後に出来た愛人達に対しては叙位すらしていないんですよね。おかげで皇位継承が混乱せずに済んでいます。藤原忠実にキレたのも、まあ無理はないと思える事情がありますし(むしろよくまあ十年近く我慢したなとw)。
鳥羽院は私生活が結構めちゃくちゃと言うか、退位後に出来た愛人を二人も立后させ、その皇子を即位させるなど、上皇としては平安史上最も破天荒な一生を送った気がします。また、鳥羽院と対になる藤原忠実も、元服した帝に長女を入内させないなど、摂関家には有り得ない選択肢を選んだり、強制的に隠居させられた後も実権は手放さなかったりと、摂関家の大殿としては平安史上最も破天荒な一生を送った気がします。なので、私の中ではこの二人が破天荒コンビですねw


* *


●「みゆき」の頃●

女院の臨終を看取ってからの約一月を、法皇は死の穢れに満ちた三条高倉第で過ごしました。そこでは宮や女房をはじめとする女院の縁者が集い、悲しみに暮れていたようです。

木のもとを昔のかげと頼めども 涙の雨に濡れぬ間ぞなき
女院がお守りしていた縁の方を慕わしく想ってみようとしても、やっぱりだめ。私がお慕いしていた大樹のような御方はもういらっしゃらない。雨宿りをする場所も喪った私は、長雨のような涙で濡れ続けるしかないわ。(『風雅和歌集』上西門院兵衛)


そんな中、法皇は女院からの手紙の裏に阿弥陀経を写し、供養しました。また、女院の死から二ヶ月以上経っても喪服を脱がず、閏十月には京から離れた四天王寺に半月近く参籠し、公務にはほとんど関わっていません(『台記』同年九月二十四日・閏十月三日・八日・二十日)。
法皇にとって久々の晴れやかな舞台は、夫として規定されている九十日間の服喪が明けた十一月に行われた、帝の石清水八幡宮行幸の見物でした。
その日の朝は、昨夜の大雪の名残で見渡す限り白銀の世界が広がっていたそうです。こうなると出掛けるのも一苦労ですが、行幸は予定通り行われます。支度を急ぐ人々を見て、女院の女房達は鬱屈とした思いを抱きました。

誰もみな今日のみゆきに急ぎつつ 消えにし道は問ふ人もなし
皆、今日の行幸(みゆき)へと行ってしまって、女院の御所を訪れる人は誰一人いない。ああ、雪が降っているものね。この深雪(みゆき)の為に、女院の眠っていらっしゃる土も、女院の道もかき消されて見えないのだから、誰もいらっしゃらないのでしょう。(『待賢門院堀河集』)


この歌は多数の歌集に撰ばれていて、詞書も様々です。それらを総合すると、まず三条高倉第でこの歌を詠んだ堀河は、わざわざ「女院の大盤所より」とことわって、歌を女院の甥である公教に届けさせました。公教の父は、三条高倉第の持ち主であり、女院の最後の熊野詣にも同行した第一の側近でありながら喪服を着ることを躊躇ったあの実行です。公教自身も、喪服には相応しくない練指貫を着るなど、実務に長けた彼らしからぬミスを見せていました(『台記』久安元年九月二十四日)。
これらの経緯を考えると、もしかしたら、堀河は全てを承知の上で、冷ややかな態度を見せる実行親子に対し、わざわざ「恩知らず」と罵るようなこの歌を送ったのかもしれません。しかも、歌人としてすでに名高いその名を出さずに、敢えて「大盤所より」とすることで、それが女院の女房達の総意であることを暗に示したのではないかなーと。


●「不道」の法皇●

この石清水八幡宮への行幸が無事終わったのを見届けるや、法皇は重い病に冒されました。五節があるので必死に隠していましたが、五節が終わっても回復しなかった為、ついに病が露見して、五節の六日後の夕刻には、禅閤忠実が宇治から駆けつけるほどの重態に陥ってしまいます。十二月に入るや、法皇の回復を願う大掛かりな仏事が行われ、都に緊張が走りました(『台記』久安元年十一月二十二日・二十八日・十二月一日・二日)。
『台記』の筆者頼長は法皇のいる鳥羽殿と自邸を往復して、鳥羽殿の近くに滞在する父の元にも欠かさず立ち寄り、情報を交換しています。ところが、そこで頼長は、父の意外な見解を耳にすることとなりました。

禅閤は、「白河院の崩後、法皇が政を見るようになって十七年になるが、法皇の政はその多くが道に外れていた。上は天の心に違い、下は人の望みに背いた。御出家によって罪障を減じることで、今日まで生き長らえたが、病が悪化する一方であると言うことは、やはり懼れがないと言うことはないのだろう」と仰せになった。(『台記』同三日より)

そもそも、禅閤忠実は即位の時から長く法皇に仕えていて、法皇も禅閤を信頼して失脚した彼を政界に復帰させ、ついにはその愛娘を異例の厚遇で皇后宮としました。それだけでなく、彼女に高陽院と言う院号まで与えて、国母だった女院とほとんど同等の地位に引き上げることまでしてのけました。また、法皇が新院を退位させることで、禅閤の嫡男忠通は外祖父摂政の座を勝ち得ることに成功したと言えます。摂関家は、全盛期に比べれば弱体化したとは言え、法皇のおかげで、新院の時代とは比べ物にならないほど確かな権力を手にしたと言っても過言ではないんです。
にも関わらず、禅閤は重態の法皇に対して、何の感謝も心配もしていないどころか、法皇を「不道」すなわち「道理に背いた」「非道」な法皇だと罵倒しています。ちょっと信じ難い話ですが、禅閤のこの言葉を記しているのは次男頼長なので、確かに禅閤はそう口にしたと言うことになります。
では、法皇の「不道」とは、具体的には何なのか。それは、翌日の記事にあるようです。

禅閤は、「或る者が言うには、法皇の病は、白河院の鬼が憑いたことが原因だそうだ」と仰せになった。(『台記』同四日より)

鬼とは、死者の霊魂、それも邪神の意を伴う亡霊を指します(恨みを持って死んでいった「怨霊」とは違うようです)。また、「或る者が言うには」と言う前置きで語られる話とは、要するに「私もそう思う」と言う話です。つまり、禅閤は「法皇は白河院を裏切るような振る舞いを続けた為に重態に陥った」と確信していたと言うことになります。
その裏切りのうち、最大のものは、やはり白河院の遺言を破って禅閤を復帰させた挙げ句、その娘を入院させて彼女を厚遇したことと、女院の血筋から皇位を取り上げたことでしょう。
でも、だとすると、一つの疑問が生じます。まず、最も不利益を食らったのは白河院ではありません。女院です。それなのに、どうして今回の法皇の病臥から僅か四ヶ月前に崩御したばかりの女院の祟りだとは思わなかったんでしょう。


●何故、白河院の鬼なのか●

この日、待賢門院の御出家のことがあった。(中略)女院は春秋四十二。まだ御老人とは言えない御年でいらっしゃる。天下の人々は、女院を知っている者も知らない者も、悲嘆しない者はいなかった(『本朝世紀』同年二月二十六日)。

公式記録によると、女院の出家は、人々が同情するくらい気の毒な出来事でした。ただ、女院はこの時四十二歳。歴代の后と比べると、(まだ夫が生きていると言う差はあるとは言え)早過ぎる出家とは言えませんし、出家の三年前には法金剛院に自らの墓となる御堂を造り終えるなど、法皇の后達の中では誰よりも早く「死支度」を始めてもいます。出家後も、先に出家していた法皇や高陽院より遥かに熱心に仏事に邁進し、百日かかる百日経と言う法会も主催していました。
ところが、その後は今宮の妃懿子の御産後間もない死や、女院御所への放火、三男の薨去などの不幸が相次ぎ、出家時の状況を考えても、恨みを抱いたまま崩御したとしてもおかしくない状況でした。その上、女院には「女院の産んだ親王を無視しての皇位継承」と言う遺恨があります。いくら女院が白河院の養女であるとは言え、あくまで帝は白河院の曾孫、一滴の血も流れていない女院とは恨みの質が違うでしょう。
これほど不利な条件があっても女院の「鬼」が話題にならないとすれば、その理由は何なのか。
ちなみに、女だから夫を呪い殺せないと言うことはありません。例えば、禅閤の両親は早くに離婚しているのですが、禅閤の母全子はそのことを恨みに思って、その父の亡霊に夫師通を呪い殺させ、自分に代わって夫の正室となった女性を零落させたと言います。全子は長生きしたので、大臣だった父の亡霊に頼んだのでしょう。亡霊も、身分によって祟る能力に差が出ますから、師通クラスの高貴な存在を呪い殺すには、『大臣の亡霊』と言う、かなりレベルの高い力が必要だったはずです。
ところで、いかにもホラーなこの話、なんと所謂物語などに書かれている「逸話」ではありません。なんとこの恐ろしい話を頼長に語って聞かせたのは、師通の生前からその嫡男として栄達していた禅閤その人だったんです(『台記』久安元年十二月二十四日)。
息子が摂関家の嫡男として扱われてすらこう思われ、それが信じられるなら、肝心の息子(新院)が退位させられた上、自らも法皇に次ぐ高貴な存在である女院なら、怨霊になっても何もおかしくありません。それに、養父を引っ張り出さなくても、亡霊としてかなり強力な「鬼」になる条件を女院は全て備えています。
こうなると、女院が「鬼」になっていないのは、当時の人々が女院に対して「女院は女と言う罪深い身でありながら成仏するほど、出来た人で、思い残すようなことも罪もなかった」と認識していたからだとしか、説明のしようがありません。
しかも、そう思っている人々の代表格が、二十八年前、女院を指して「奇怪」「奇怪不可思議女御」「乱行の人」と幾度もその性格について罵倒し尽くした禅閤忠実なんですよ(『殿暦』永久五年十月十日・十一月十九日・十二月四日)。こうなると、もう、「奇怪不可思議」としか言いようがありません。
そして、この時何よりも大切なことは、「或る者が言うには」と禅閤が語るくらいに、当時の人々が「法皇は、(女院ではなく)白河院に取り殺されても仕方がないことをし続けてきた」と考えていたと言うことです。それに加えて、この話は、まだ四十三歳の法皇が病に臥していると言うのに、多くの人はそのことを憐れんでいないと言うことも示しています。背筋が凍るような話です。


●法皇と女院の今昔●

発病以来、法皇は回復の為に手を尽くしました。自らに「鬼」がついていることも承知していて、加持祈祷をさせています。
興味深いのは、法皇本人も、自分の病が女院の鬼によるものだとは言っていない、つまりそう思ってはいないと考えられることです。何故そう考えられるかと言うと、実は、法皇は若い頃から、こと女院に関しては口を慎まない傾向があるんですよ。

鳥羽天皇(法皇)が肯かなかったので、結局白河院の命令(院宣)によって、讃岐典侍は内裏から追い出された。その後、天皇は「もし、讃岐典侍が中宮(女院)のせいで追い出されたのなら、朕は二度と中宮の元に行かない」と度々仰せになった。皆口外せぬようにしたが、天皇は関白忠実にもそうお伝えになった。中宮も天皇の仰せを耳にされたと言う。(『長秋記』元永二年八月二十三日より)

よく、鳥羽天皇は白河院に頭を押さえられて何も意のままに出来なかったと言われていますが、実際には、その白河院の養女、それも第一皇子を産んで間もない中宮に対してこんなことが言えるくらい、彼は自由で、白河院を恐れていたわけでもなかったようです。
ちなみにこの発言は、当時十七歳だった法皇の言い掛かりだったようです。そもそも、法皇の父堀河天皇の代から仕えていた讃岐典侍が追い出されたのには、

1.讃岐典侍は、元永元年秋から時々堀河院のご託宣と称して「帝を守護し奉る」と発言し、中宮に対しても懐妊や皇子誕生のお告げをしていた。
2.皇子誕生後、再び堀河天皇のご託宣と称して、報酬(邸宅と兄の昇進)を望んだ。
3.その望みが叶わないとなるや、それは法皇の筆頭乳母である二位殿(女院の生母でもある)のせいだとして、二位殿に対して「悪霊になって子孫を取り殺してやる」などの呪いの言葉を書き連ねた文を送りつけた。
4.二位殿は、表立って讃岐典侍を非難することはせず、ただ文を白河院に転送し、裁断を待った。その結果、白河院は、讃岐典侍を内裏から追い出すことを決定。


と言う流れがありました。内裏の女官の中で、権力闘争があったのかもしれません。とにもかくにも、二代の帝の乳母として宮中を知り尽くしている二位殿は、こんなことで取り乱すほど甘くなかったことは確かなようです。
とは言え、初めての御産を終えて誇らしく入内したばかりの当時十九歳の女院は、夫の発言にショックを受けました。二日後、女院は急遽白河院の仕事場・正親町殿に(ことの真相を質しに?)赴きましたが、白河院は早く内裏に戻らせたかったらしく、女院は三条西殿へ移ることも許されず、四日後には内裏に還啓しています(『長秋記』同二十五日・二十九日)。


●意外な結末●

話を久安元年に戻しますと、「鬼」に憑かれた法皇の病は、悪化の一途を辿りました。

陰陽師が「法皇の病は甚だ重いものなので、二ヶ月以内にもしもの恐れがあります」と言った。(『台記』久安元年十二月十日より)
早朝、法皇は法皇のお墓として建立された安楽寿院にお渡りになった。ついに御覚悟を決められたのだ。(中略)今夜、不祥雲(凶変の前兆)があった。(『台記』同十七日より)


陰陽師は当時、科学者として扱われていたので、今で言うならこれは主治医からの通告に近いと思われます。法皇も頼長ら公卿達も、崩御を覚悟しました。「法皇終焉の地」(同)とまで言われた安楽寿院に渡った時は、まさか回復するとは考えもしなかったでしょう。
と言うことは、実はこの時の法皇の態度は、「崩御を前提とした態度」なので、この時の法皇の行動にこそ、真意があるはずです。例えば、もし新院を最初から「叔父子」と嫌っていたなら、この時にそれらしい素振りや遺言があってもおかしくないんですが、何もありません。法皇は粛々と死支度をしています。まだ数えで七歳の帝の将来を異常なまでに案じて新院をどうにかしようとするとか、忠実と頼長の見舞いを拒むとか、そう言ったことは、『台記』によれば全くなく、頼長は何の問題もなく法皇を見舞い、新院のところへも参じ、法皇周辺の公卿達と話をしています。
こうなると、この十三年後、数年にわたる病臥を経て法皇が遂に崩御した際の諸々は、法皇の長年の怨念によるものと言うより、その当時の政治情勢に負うところが大きかったと考える方が自然なのではないでしょうか。
とにもかくにも、そうこうする内に日は過ぎ、誰もがその時を覚悟していましたが、なんと、事態は一転。二十二日には法皇の病は回復に向かい始めます。覚悟を決めたことで気が楽になったのか、まだ満四十二歳の法皇の体は日に日に力を取り戻し、なんとその三日後には病は平癒しました(『台記』十二月二十二、二十五日)。
彗星の出現に始まった久安元年と言う年は、こうして誰もが驚く結末を迎えたのです。


●「涙」に籠めた思い●

それから五ヶ月後、女院の眠る法金剛院では、五日間に及ぶ追善の為の法華八講が行われました。新院は急病により初日の夜に法金剛院から退出しましたが、法皇は今宮らと並んで、一日たりとも欠かさずに八講に臨席しました。頼長をはじめ、上達部も多く参列しています(『台記』久安二年五月二十六・二十七・三十日)。
賑やかな法会の後は、一層寂寞が増すものだからか、法会の十日後、堀河は独り三条高倉第から法金剛院を訪れました。

君恋ふる嘆きのしげき山里は ただ日ぐらしぞともに鳴きける
思い出深いこの山里では、女院を恋しく思う気持ちが増すばかりなのに、女院のいらした頃とは違って、今は誰もいない。女院が臥せっていらしたあの頃にも鳴いていた蜩だけが、涙の止まらない私と共にここに来て、今日も一緒に泣いてくれるのね。(『待賢門院堀河集』)


この歌の詞書には、「緑の季節を迎え、あまり手入れもされずにいる為に葉の生い茂っている法金剛院の庭を眺めているうちに、この法金剛院に女院が住み始めた頃のことが思い出されたので」と書かれています。滝の高さに注文をつけるほど庭に煩かった女院は、恐らく草花の手入れも怠らなかったのでしょう。女院を悼む堀河の歌は他にもありますが、どれも女院の喪失による『孤独』と『一緒に死ねなかったことを悔いる気持ち』をテーマにしています。
そして、八月二十二日、三条高倉第で一周忌の法会が行われると、女院の女房達も別れることを余儀なくされました。三条高倉第は実行の邸宅で、いずれ実行が大臣になった時には、そこで饗宴が催されることは確実だったはずです。実行は第一の大納言で、右大臣が空位の今、いつ実行が大臣になってもおかしくはないので、いつまでも女院の女房が住んでいるわけにはいきません。
結局、堀河は出家の身なので隠棲し、その妹の兵衛は、女院の娘である前斎院に出仕することが決まったようです。
家に戻ったり、新しい出仕先を見つけたりと散り散りになる女房達を見た新院は、法会も終わり日も暮れた頃、兵衛に歌を一首送りました。

限りありて人はかたがた別るとも 涙をだにもとどめてしがな
悲しみは尽きないけれど、喪には限りがあると決まっているから、皆それぞれの道へと別れてしまうのだな。だが、それでも、せめて皆が流す涙だけは……女院を想う皆の心だけは、このまま一つにしておきたい。兵衛よ、私の望みは叶うだろうか。(『千載和歌集』)


この歌を受け取った兵衛は、思いの丈を返書に籠めました。

散り散りにわかるる今日(けふ)の悲しさに 涙しもこそとまらざりけれ
離れ離れになってしまう今日と言う日が哀しくて悲しくて、みな涙が止まりません。きっとこれからも、皆この悲しみを忘れることはないでしょう。女院を想う気持ちは一つ、きっと変わりはしません。(同)


このやり取りは、たくさんの歌集に撰ばれましたが、どういうわけか、新院の歌は歌集によって少しずつ言葉が違います。

限りありて人はかたがた別るめり 涙をだにもとどめてしがな
悲しみは尽きないけれど、喪には限りがあると決まっているから、皆それぞれの道へと別れてしまうのだろう。せめて皆が流す涙だけは……女院を想う皆の心だけは、このまま一つにしておきたい。(『今撰和歌集』)

限りありて人はかたがた別るとも 涙をだにもとどめましかば
悲しみは尽きないけれど、喪には限りがあると決まっているから、皆それぞれの道へと別れてしまうのだな。だが、それでも、せめて皆が流す涙だけは……女院を想う皆の心だけは、このまま一つにしておけたらよいのに。難しいこととはわかっているけれど…。(『続詞花和歌集』)


『続詞花和歌集』は1165年頃に二条天皇が命じて撰ばせ、『今撰和歌集』は同じ頃に私的に撰ばれ、『千載和歌集』は1183年に新院の怨霊騒ぎが起きてから今宮こと後白河院が命じて撰ばせた歌集です。
特に、『続詞花』と『今撰』は新院の死から一年経つか経たないかと言う頃に撰ばれているのに、しかも兵衛はまだ生きている間に撰ばれているのに、言葉が違います。兵衛のことを考えると、勅撰集と言ってもいい『続詞花』が最も相応しいだろうと考えられますが、恐らくその場にいた今宮が命じた歌集こそが最も相応しいとも考え、『千載』を選んでみました。
三つの歌集で違うのは、僅かな言葉です。でも、その僅かな言葉が違うだけで、受ける印象は変わります。『続詞花』と『今撰』は、新院に対する怨霊騒ぎもなかった頃なので、新院の歌にはすでに人望の薄さが漂っています。でも、『千載』の歌は、とても力強いものです。女院がいなくなっても、私がいる。私を女院の形見と思ってもらいたいと、そう訴えるような頼もしさがあります。
女院の死後間もなく今宮を引き取ったように、新院には、女院の長男として、女院が世話をしてきた全ての者を受け継ぎ、護る覚悟があったのではないか――。この歌からは、新院の真っ直ぐな気性と、その一方で、その志を「涙」に託す柔らかな感性の両方が感じられるように思います。



*******

とまあ長々と見てきて思ったことは、「これだけ死んだ時の史料がある女院って、やっぱ珍しい」と言うことでした(ノ▽`)
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  1. 2013.03.20(水) _18:55:02
  2. 待賢門院藤原璋子
  3.  コメント:2
  4. [ edit ]

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comment

面白かったです~

  1. 2014/06/02(月) 14:44:30 
  2. URL 
  3. ゆきめ 
  4. [ 編集 ] 
三院の住んでいたところを考察すると、こんな感じになるのですね。
目から鱗でした。
白河院、なんというか健気(^_^;)?ですね。
家の隅でいいから一緒にいさせてくれよ、みたいな(笑)。

院政期、特に待賢門院が好きでネットサーフィンもけっこうしてるのに、こちらのブログ様の存在は初めて知りました。
とっても興味深い記述が多かったです。
まだ全部読めていないのですが、じっくり読みたいです(*´∀`*)

ゆきめ様へ

  1. 2014/07/21(月) 00:18:50 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
ゆきめ様、はじめまして!緋翠と申します。お返事が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした…!
待賢門院関連の記事にコメントをいただくことは滅多にないので、ものすごく嬉しかったです。ありがとうございます!!

私も、江戸時代前期以前の日本史が好きであっちこっちつまみ食いしている中でも、待賢門院は特に大好きです(*´▽`*) 好きになった一番のキッカケは熊野で見た石碑で、「もしかしたら、待賢門院って日本史上最も熊野参詣してる女性かもしれない」という点から始まったので、見方がちょっと体育会系というか、変かもしれないですが(笑)

白河院はもちろん、鳥羽院も含めて、当時の日記などを読むと個性が強くて、また型破りなところも多く、興味深いなーと思います。特に鳥羽院は、自分の后の御産に立ち会った初めての天皇なんじゃないでしょうか?(立ち会ったのは上皇になってからですけれども)
あ、白河院は健気というか、孫(義娘)バカなおじいちゃんだと思います(笑)

まだまだ待賢門院関連では書き足りないところが多いので、またちょくちょく更新していきます!


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