善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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mukugeさんに続け!~鶏林への道。@新羅時代の交易路

mukugeさんのブログの『「善徳女王」を勝手に地図にしてみよう』に大変感銘を受けた管理人。
「すげーすげー!」と興奮したので、便乗してしまえ!と言わんばかりに、自分でも調べた結果、トンマンの通った道がそこそこ詳しくわかりそうな気がしてきたので、遅れ馳せながらトンマンのお誕生日祝いもかねて(えw)、更新します。(mukugeさん、週末にコメントしに参上しますが、いつも面白くて勉強意欲も刺激される記事をありがとうございます~!v(*´∀`*)v)

※この記事で使う大変見にくい画像は、『韓国歴史地図(平凡社)』のものです。参考になることだらけですので、良かったらお手にとって、もっとちゃんとした状態でご覧になってみてください…!(私のところだと、図書館で読めましたv)



* *


少なくともトンマンがタクラマカンから鶏林へ移動した時代、隋の皇帝は、第二代楊広(煬帝)でした。彼は604年に即位するや、父・文帝の路線を引き継いで、遠征に必要な莫大な兵糧や兵の船での輸送を可能にすべく、今も中国を支えている三つの大運河を完成させます。一つ目が通済渠(黄河沿いの洛陽~淮水。605年完成)、二つ目が永済渠(黄河沿いの洛陽~北京。608年完成)、三つ目が江南河(淮水~長江~杭州。610年完成)です。(詳しい位置は↓の画像をクリックしてご確認ください)

航路地図2

この大運河の完成によって、楊広は高句麗に遠征し、その結果隋は滅びるのですが、それはさておき、大運河自体は、北京から杭州まで中国を南北に横断すると言う超画期的なものでした。この大運河によって、初めて船で中国を縦断することが可能になり、交通の便は飛躍的に良くなったはずです。

では本題に入りまして。
まず、mukugeさんの考察により、トンマンはタクラマカンの若羌(チャルクリク)に住んでいただろうとわかりました(ありがとうございます~!)。と言うことは、トンマンはシルクロードのうち、天山南路を東へ向かい、敦煌に至り、そこからさらにシルクロードを辿って長安、ついで洛陽へ向かったと考えられます。
ここからは、シルクロードは本来なら、洛陽から北京、契丹を経て高句麗の玄菟(ヒョント)城から国内(クンネ)城、平壌(ピョンヤン)城を通って新羅の金城に辿り着きます。んが、高句麗と諸外国の緊張状態により、トンマンの時代にはこのシルクロードは閉鎖状態になっていました。

そこで、海路、新羅へ向かう道が登場しますが、新羅は真興王が領土を拡大するまで、朝鮮半島の西側に領土を持っていませんでした。真興王が高句麗や百済の隙をついて領土を拡大したことで、新羅は初めて隋へ向かう港を確保します。
その港が、仁川空港よりさらに南で、ソウルの南南西、百済との国境に程近い場所にある党項城でした。(↓の地図をご参照ください)

航路地図

党項城(今の華城郡南陽にあった)は高句麗時代から唐城郡と呼ばれていて、その名の通り、朝鮮半島西側を代表する港です。善徳女王時代の642年8月に「唐に通じる路を絶とうとした」高句麗・百済の連合軍に攻撃されたことでも知られています。
ちなみに、ユシンのいたマンノ郡は今の鎮川(三韓一統後は黒壌郡)だそうなので、党項城からは南東に向かえば辿り着けます。なので、この党項城からトンマンが新羅に入ったことはまず間違いないと思われます。ムンノ、ソファ、チルスクの三人もこの党項城から、海路、隋へ向かったはずです。

んが、隋へ向かうと言っても、実はノンストップでは行かなかったようです。
当時の航路は大海原にどんぶらこではなく、基本的に沿岸を航海して、あまり外洋で連泊はしません。よって、新羅⇔隋の中継地点として、高句麗の卑沙城(今の遼寧省大連市)が登場します。(↓の地図をご参照ください)

航路地図2

高句麗の卑沙城は、渤海湾と黄海を遮る遼東半島の先端にあり、隋側の港である山東半島の登州(今の山東省蓬莱市の辺り)と最も接近した位置にあります。その為、隋(唐)と高句麗の戦争時には、超重要な軍事拠点になったほどですが、それはともかく、航路の場合、新羅は大体はこの卑沙城~登州ルートを用いました。トンマン達も同様に考えて良いと思います。
事実、統一新羅時代になると、登州の都督府城の城南の東側には、渤海館と並んで「新羅館(新羅坊)」と言う『シルラタウン(チャイナタウンの新羅版ですw)』が設置されました。わざわざ登州に設置されたのは、登州が三韓一統以前から交易路として使われていたからでしょう。
と言うわけで、新羅坊を辿って登州から長安への道程を見ると、

登州→赤山浦・石島・乳山浦→(密州)→海州→揚州→淮陰(・灌雲)(詳しくは↓の画像をクリックしてご確認ください)
航路地図

と言うように中国東部の沿岸を辿って長江を遡り、揚州からは、大運河の江南河通済渠を遡って洛陽&長安へ…と言うのが『最短ルート』かつ最もポピュラーな路だったようです。
トンマンが辿った道も、たぶんこのルートなんじゃないかなーと思います。他にあれこれ開発されていたとは思えませんし、トンマンの育ちからして、交易路を通らないとは考えられません。(チルスクが新羅に戻った時も、商団と一緒だったので、このルートでしょう。)

以上、トンマンの道のりを纏めると、

若羌(チャルクリク)
 ↓(馬・歩き)
敦煌
 ↓
長安
 ↓(水路?)
洛陽
 ↓(以下、運河)
淮陰
 ↓
揚州
 ↓(以下、海路)
海州
 ↓
密州
 ↓
登州(山東半島)
~ここまでが隋~

 ↓
~ここから高句麗~
卑沙城(遼東半島)
~ここまでが高句麗~

 ↓
~ここから新羅~
党項城
 ↓(陸路)
マンノ郡


大体、こんな感じになると思われますv


ところで、ここで一つ疑問が。
実は、新羅~隋(唐)の一般的な交易路には、ムンノがソファに逃亡先として用意した杭州が入ってないんですよ。(そう言えば、ソファ→ムンノの手紙の宛名は「国仙大人」でした。様じゃなくて大人が正しいのか…!)
杭州は、大運河の江南河の南端にあり、ここへ向かうには、海州を出発する時、「揚州行き」ではなく「杭州行き」の船に乗る必要がありました。なので、チルスクが「侍女が杭州行きの船に乗ったところまではわかった」と言ったのは、たぶん海州での出来事だったんじゃないかと。
そして、交易路から外れるくらいだから、てっきり杭州にいるんだろうとチルスクが追いかけている間に、ソファは杭州を出て、江南河を遡って揚州へ行き、交易路を長安へ向かい、そこからはシルクロードを経て敦煌、若羌(チャルクリク)へ流れ着いたのかなと思いました。ムンノとチルスクがソファを探せなかったのも、二人とも、ソファは新羅人の多い中国東部にいるだろうと狙いを絞って、特に新羅坊の設置されたところを捜索していたからかもしれません。

以上、独断と偏見でトンマン達の辿った道を考えてみましたw


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  1. 2013.03.30(土) _00:00:00
  2. 新羅歴史談義?
  3.  コメント:2
  4. [ edit ]

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comment

ウロコ撒き散らしながらお邪魔いたします

  1. 2013/03/31(日) 18:38:29 
  2. URL 
  3. mukuge(むくげ) 
  4. [ 編集 ] 
緋翠さん、こんばんはーv こちらこそ間接的にやりとりはさせてもらってるものの、直接こちらにコメント入れさせてもらうのは、たいそう久しぶりですみませーん。
昨日やたらうちのカウンターが回ってると思ったら、緋翠さんのところに私の名前入りタイトルの記事がw
お部屋まつりに続き、地図まつりにもありがとうございます!皆でわいわい盛り上がったりするのが好きな体育会人間なので(笑)、すっごく嬉しいです!
またうちの方にもコメントどうもありがとうございました。そちらはのちほどお返事させてもらうことにして、先にお邪魔させてもらいます。
この記事読ませていただきまして、目からウロコが星の数ほど落ちましたv

この「韓国歴史地図」実は読んでましたΣ(・∀・;)そしてコピーも取ってましたΣ(・∀・;)Σ(・∀・;)
「大祖王健」見てるときに非常に活用してたんですが、肝心の「善徳女王」には該当の年代のページしか活用してないという…活用する場所間違ってるだろー!と自分で自分につっこみを入れてしまいました(笑)

運河については、そうそう円仁さんも揚州のあたりで運河使ってたこともありました。
でも長安滞在後国に帰りなさいと言われたあとは、まさに緋翠さんのおっしゃる長安→洛陽→揚州のルートを使ってたものの、彼は馬をやとい行李に入れた荷物を載せ陸路を行き、約1ヶ月半を要して揚州に到着してたものですから、トンマンの運河使用までは思いつきませんでした。
商団ともうまいこと交渉できそうなトンマンですから、ちゃっかり商団にまぎれて運河を船で…って充分ありえますね!中国語、鶏林語、おまけにローマ語まで話せちゃうから通訳として連れてって~と半ば強引に(笑)

そして新羅上陸の玄関口は党項城ということがわかって、とてもすっきりしました。ケベクが言っていた「(赤山航路は)党項城が占領されてからは新羅に奪われた」=党項城が新羅への玄関口、という意味だったんですね。
当初トンマンの砂漠からの道のりを考えた時に、「もしはじめから万弩郡を最初の目的地にしていたとしたら、そこに近い港から上陸するのが一番手っ取り早い」となんの裏づけもなくただ動物的カンで思ってたので(笑)、上陸港がわかって非常にテンションあがりました!

さらに航路ですが、まっすぐ黄海を渡る赤山(黄海)航路よりも、「北路航路は遠回りするが、島伝いなので、比較的安全であった」とりばさんに教えてもらった『東アジア異文化間交流における山東の位置付け―唐代を中心として』という論文にもありました。
どうしても地図を上から眺められる身として最短距離で見てしまって、トンマンも気が急くままに直進!みたいに考えてしまうんですが、いまふと思ったのですが、何がなんでも生き延びてムンノに会わなくてはいけないんですもんね。むしろリスクの少ない道を進んだと考えるほうが自然でしょうか、やっぱり。

とにかく、トンマンが大風呂敷敷きすぎじゃなくて良かったです(爆)
でもひとつ疑問なのですが、陸路に関しては1里を示す標識があったらしいですし、それに加えて町と町の距離は商人や宿主などに聞けばわかりそうですが、海路ってどうやって距離を測ったんでしょうね。古代では1日分の航海距離を早く進んでも遅く進んでも1000里と表記することがあったようですが。
トンマンが実際に数えなくとも、船頭などから距離は聞いたと思うんですが、星の申し子のトンマンのことですから、ローマの本とかに数学のことも書いてあって星の角度とかで進んだ距離を自分で計算していたらびっくりです∑(*゚д゚*)!

最後に、『チルスクが「侍女が杭州行きの船に乗ったところまではわかった」と言ったのは、たぶん海州での出来事だったんじゃないか』という点ですが、私、新羅→杭州行きのダイレクト航路があると思い込んでいて、だからこそムンノもソファに杭州の新羅村へ行けと言ったと疑わなかったので、チルスクが隋に上陸した後の話だとは全く思いつきませんでした。
その反面、チルスクは新羅国内で一ヶ月もソファを捉えられず空回りしていたのかと思っていたんですが、チルスクはチルスクでちゃんと海を渡ってソファの足取りを追えていたんですね。良かったです。緋翠さんのおかげで、私の中でチルスクの名誉回復がなされましたv( ̄ー ̄)v

いや~、とてもわかりやすい、なおかつ楽しい記事どうもありがとうございました。
トンマンの旅に関して、さらに新たな妄想が無限大に広がります♪

mukugeさんへ

  1. 2013/04/06(土) 16:43:05 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
mukugeさん、わざわざこちらにコメントをくださるなんて、ありがとうございますー!こんにちうわ~いv あ、ついでにmukugeさんのウロコ、拾っておきました!ピダムが「キラキラしてるし、あげたらトンマンが喜ぶかも」と申しておりますw

> 昨日やたらうちのカウンターが回ってると思ったら、緋翠さんのところに私の名前入りタイトルの記事がw

ああっ、すみません!勝手にお名前と、mukugeさんブログへのリンクを貼ってしまいました…!怒られなくてホッとしています(←こら) そして、お返事もありがとうございました!地図シリーズの大ファンですv(*´▽`*)v

> この「韓国歴史地図」実は読んでましたΣ(・∀・;)そしてコピーも取ってましたΣ(・∀・;)Σ(・∀・;)

ご存知でしたか!いやそうですよね、歴史地図の本ってあんまりないですもんねー。私はこれ以外に地図を主体とした本を見たことがないので、もうこれに頼りまくっています(笑) (この本は、日本の飛鳥時代の交易に関する地図も、何故か日本史本より詳しいと言う…w)
そして、あんまり時代が離れると参考に出来ない可能性もありますが、新羅時代ならなんでもいいだろ、と乱暴に活用しました。←

> 運河については、そうそう円仁さんも揚州のあたりで運河使ってたこともありました。

おおっ、マジですか!円仁さんが使ったなら、一般人も使えると言うことですよね!良かったです(笑)

あ、実はこのお返事をするにあたって、日本書紀をこの一週間読んでてわかったことがありまして。
なんでも、昔も国境問題はかなりシビアだった為か、遣隋使や日本へ派遣されてきた海外の使者は、皆、必ず入国する時にその国の役人に同行してもらわないといけないようなんですよ。例えば隋の人が日本に来るには、高句麗を通る時は高句麗の、新羅を通る時は新羅の役人に同道してもらって日本に来て、新羅の役人は日本の役人に使者を渡してお役目終了、と言う流れだったみたいなんです。
だから、mukugeさんの仰るように、トンマンは高句麗に船が立ち寄った時に高句麗の役人とも顔を合わせていたかもしれませんv

> でも長安滞在後国に帰りなさいと言われたあとは、まさに緋翠さんのおっしゃる長安→洛陽→揚州のルートを使ってたものの、彼は馬をやとい行李に入れた荷物を載せ陸路を行き、約1ヶ月半を要して揚州に到着してたものですから、トンマンの運河使用までは思いつきませんでした。

円仁さん、ヘビーな道程ですね…w
私もトンマンの陸路はチラッと考えたんですが、「そんなにお金あるかなあ(いやでもソファの為に貯めてた?)」と言う疑問と、

> 商団ともうまいこと交渉できそうなトンマンですから、ちゃっかり商団にまぎれて運河を船で…って充分ありえますね!中国語、鶏林語、おまけにローマ語まで話せちゃうから通訳として連れてって~と半ば強引に(笑)

↑この発想が消えてくれなくて、半ば強引に海路にしちゃいましたwww
トンマンは働きながら新羅を目指すなら、きっと通訳のみならず、きっと宿経営で培ったお料理能力炊事洗濯能力を思う存分発揮して、「雇ってくれ!」と猛烈にアピールしそうですしw

> ケベクが言っていた「(赤山航路は)党項城が占領されてからは新羅に奪われた」=党項城が新羅への玄関口、という意味だったんですね。

だと思いますー。
昔は(今も?)、良港ってかなり自然の条件に左右されていたと思いますし、確かに百済の場合、党項城がないと、かなり外洋で船を走らせないといけないんですよね。危なそうです(;゜Д゜)
先ほどの遣唐使本によれば、日本も、新羅と戦争するまでは、新羅の人に隋や唐側の拠点まで送ってもらっていたから良かったものの、新羅と敵対したことで、陸地伝いの安全な北路航路を失って、東シナ海や黄海の真ん中を横断しなければならなくなったとありました。遣唐使船に対して沈没するイメージがついたのも、この航路変更のせいのかもしれませんねー。

> どうしても地図を上から眺められる身として最短距離で見てしまって、トンマンも気が急くままに直進!みたいに考えてしまうんですが、いまふと思ったのですが、何がなんでも生き延びてムンノに会わなくてはいけないんですもんね。むしろリスクの少ない道を進んだと考えるほうが自然でしょうか、やっぱり。

かなあと思います。忘れてましたが、トンマンって物心ついた頃から砂漠にいた砂漠の民ですし、たぶん私達より海とか水に対するイメージが悪い(と言うか、怖がってそう)気がするんですよ。(ドラマでユシン&ピダムと水にドボンした時、トンマンだけ気絶しちゃったのも、砂漠育ちだからじゃないか…別にユシンが人工呼吸する為じゃないぞ…とブツブツ自分に言い聞かせていますw)
「沈んだら泳げないし、絶対船が沈まないルートを行こう」と思っていて欲しいです、むしろ(笑)

> トンマンが実際に数えなくとも、船頭などから距離は聞いたと思うんですが、星の申し子のトンマンのことですから、ローマの本とかに数学のことも書いてあって星の角度とかで進んだ距離を自分で計算していたらびっくりです∑(*゚д゚*)!

トンマンすごす!ですね!!
二万里ってどうやってわかったのか……はあんまり細かく考えてなかったんですが(ちょ)、旅をする時って、距離はわからなくても、「何日かかる」とかはかなり重要視されるじゃないですか。船だったら、食糧をどれだけ積むかは重要な問題なので、その航路が何日かかるかは絶対にわかっていたはずですし、それなら、大体の距離も掴めるんじゃないかなーとw

> 最後に、『チルスクが「侍女が杭州行きの船に乗ったところまではわかった」と言ったのは、たぶん海州での出来事だったんじゃないか』という点ですが、私、新羅→杭州行きのダイレクト航路があると思い込んでいて、だからこそムンノもソファに杭州の新羅村へ行けと言ったと疑わなかったので、チルスクが隋に上陸した後の話だとは全く思いつきませんでした。

あ、でも、もしかしたら、新羅を出る時点で「杭州行きでーす」な船に乗ったかもしれませんし……ちょっと自信なくなってきました(爆)(ノ∀`)
こう、希望的観測で、新羅では「船に乗ったのはわかったけど、何行きかわからず」→隋のどこかで「杭州行きの船に赤ちゃんを抱えたソファがいると判明!」ぐらいだといいなーとチルスクの名誉の為に思いたい今日この頃ですv

> いや~、とてもわかりやすい、なおかつ楽しい記事どうもありがとうございました。

mukugeさんの地図記事には本当に助けられていて、SSを書く際の参考にもしているので、ちょっとでもお返し出来たらいいなーと思っていたんですv だからめっちゃ嬉しいです、ありがとうございます~!!
またmukugeさんのブログで、刺激を受けまくりたいと思います(´∀`)フフフ


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