善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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モテ男から見た待賢門院の素顔。@源師時『長秋記』を読んで。

『根の深い木』を見る度に鬱々とし(えっ)、『八重の桜』を見る度に「面白い…かはわからないけど興味深い内容だなー。ただ、一度主役の俳優さん二人を変えて見てみたい…」と思う今日この頃。救いは、ドラマ版金田一少年(最初のシリーズです)だったりします。
細かいところは忘れちゃったりしていたものの、堤監督の回はやっぱり面白怖くて、佐藤監督(ごくせんとかマイボスの演出さん)の回は明るいのにウケます(笑) あと怖すぎるのはダメなビビりなので、明るい部分があるのは助かりますー(*´∇`*)

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話変わって。
古語で「美しい」と言う意味を持っている言葉を上げると、代表的なのだけでも、

きよら
きよげ
やさし
なまめかし
みめよし
はなやか

と、6つはあるんですよー(すごー)
んで、じゃあトンマンだったらどんな美しさかなぁと考えると、「もてなしなつかしく、やうだいいとなまめかし」かなぁと。現代語にすると、「ふと心惹かれるような愛らしい仕草に思わずいつまでも側にいたいと思ってしまうけれど、近付いて見た彼女はとても清らかな面差しをしていて、容易く触れてはならないような凛とした美しさを持っている」と言う感じですかねー。そして、女王バージョンだと、断然「きよら」ですね!「美麗な装束にも隠しおおせぬほどの強い想いが、彼女の総身を内から幾重にも輝かせている」と言う感じです(*´∇`*)

**

とまぁ何故に古語かと言いますと、実は「新羅の宮廷生活を知ろう」が飛躍して、去年から平安時代に書かれたとある日記をぼちぼち読んでいるからなんです(・∀・)
その日記と言うのが、ちょうど源氏物語と平家物語の真ん中くらいの時代(12世紀前半)に書かれた『長秋記』と言うものなんですが、これがなかなか面白いです。著者・源師時の目を通して、女性なら上は女院、下は遊女の様子まで描かれていて、男性陣も幅広い。枕草子とはまた違う宮廷生活が垣間見えて興味深かったので、その感想をv

●著者・源師時(みなもとの もろとき)のご紹介●
当代きっての色男でモテ男で、なおかつ漢詩も和歌もなんでもござれの知識人。妻が7人くらいいたのに、毎日のように全員の家に顔を出して妻達を満足させていたらしく、妻同士でいがみ合うことはなかったとか。
父は、平安の望月男・藤原道長の孫・左大臣源俊房。母は、小一条院(三条天皇の第一親王で東宮だった人)の孫娘。父方からも母方からも天皇と道長の血を引く、サラブレッドな生まれの次男坊(腹違いの兄がいる)。ただ、母方の従兄弟に、白河院の異母弟の三宮こと輔仁親王がいた為、皇統を巡る白河院と輔仁親王の暗闘に巻き込まれ(あるいは積極的に関わり)、その結果、停職処分を喰らったりしている。
稀代の長寿と根性の持ち主だった白河院の勝利が確定してからは、その有能さにより、薄命な輔仁親王一家を守りつつ、白河院や鳥羽院(白河院の嫡孫)や待賢門院(白河院の養女で、鳥羽院の正室)の信頼を勝ち取り、中納言に出世した。ちなみに、その有能さについては、「今の時代のデキる男四天王は、師時だよね!」みたいなことを言われたらしく、そのことを日記で然り気無く自慢している。
また、息子もモテる男だったらしく、なんと、鳥羽院の子を三人も産んだ美濃局(待賢門院の女房なので、正式な后妃ではない)を妻に貰い受けている。


まずは、この師時さんの見た遊女(あそびめ)の話です。


●遊女(あそびめ)の世界。
師時の時代、歌って踊れる芸能人と言えば、遊女や傀儡子(くぐつこ)と呼ばれる女性でした。ただ、彼女達は京ではなく、青墓(岐阜県)とか神崎・江口と言った京から少し離れた場所に本拠地を構えていて、そこでホテルを営んでいました。出稼ぎも多いものの、基本的には、遊女達は自分達のホテルに旅人を泊めて、送り迎えや道案内をし、夜にはライブを行う……と言うのが仕事だったんです。
と言うわけで、43歳の師時が異母兄師頼や姉婿藤原長実と一緒に広田社参詣の旅をした時も、彼らは神崎と江口の遊女にお世話になりました。こう言う時の常で、彼女達を紹介する旅行代理店みたいな人もいて、今回は監物清経(西行の母方の祖父)がセッティングは担当。師時のような公卿達は上客なので、遊女達も気合い十分。長者と呼ばれるお店お店のボスが接待してくれるし(当時の女性は逞しく、個人営業時代には報酬の取り合いが「闘乱(半ば殺し合い)」になっていた為、遊女達は長者に所属するようになり、舞妓さんやホステスのような厳格なルールと秩序の下で働いていた)、夜も長者と寝れます(ただし、別料金)。勿論、師頼も長実も皆好きな遊女と寝ました。
ところが、芸能ついでの売春当たり前のおおらかなこの時代に、師時は「そう言うのは好きじゃない」と仲間達とは一線を画する行動を取りました。遊女と寝なかったんです。
遊女からすれば商売上がったりの迷惑行動だったかもしれませんが、こう言う男なら、確かに何人妻がいても皆を満足させられる気がせんでもない……と言う「まめ人」ぶりです。

●光源氏の後見人。
この「まめ人」師時は、頼りにされる男でもありました。不遇のまま早死にした4歳年上の従兄・輔仁親王は、自分の一男一女のことを師時に託したんです。
怨霊になりかねない親王の魂を慰める為にも、師時は頑張りました。まだ幼かった親王の一女・守子女王は、親王の政敵白河院の養女として異例の親王宣下を受けて、斎宮になりましたし(斎宮になれば、終生生活は保証される)、親王のもう一人の息子・有仁は、「光源氏だ!」と皆が思うくらいのミスターパーフェクトな青年で親王の生前に白河院の猶子となって本当に光源氏コースを辿っていたんですが(親王の薨去の数ヶ月前に臣下になって源有仁と名乗り、いきなり公卿の仲間入り。出世街道をばく進中)、この有仁に、師時は父・俊房を介して故実をマスターさせるなどの教育を怠らなかったんですね。そのお陰で、後々、有仁は故実に詳しい理想的な左大臣として万人に慕われるようになりました。


と言うように、師時は輔仁親王一家との関わりが深かったんですが、少しずつ、とある女性に関する記事が増えていきます。
その女性とは、時の中宮・藤原璋子(後の待賢門院。以後、女院と呼びます)。
この女院は、中宮になってから5人の皇子を産むと言う平安きっての強運を持ち、後世まで「うちの娘もああなって欲しい」と先例にされた一方で、『「政権を担う藤原氏」を敵に回した女は、100%淫乱な噂を流される』のルール(※管理人独自のルールです)に従って、平安きってのスキャンダルを噂された女性でもあります。
有仁の妻がこの女院の同母姉(風流な奥さんだったらしい)だったことや、師時の妻の一人が女院の女房だったこと、彼が長年仕える皇后宮令子内親王の乳母が女院の母だったこともあってか、師時が50歳になった頃から、日記には女院のプライベートに関する記事が増え始めます。特に、女院の養父白河院が崩御した辺りから、師時は女院の院司(女院専門の部下のこと)の中心になったらしく、同時期の他の記録には見られない赤裸々な話が記され始めるんです。

そんなわけで、以下は、普通の日記には出てこない女院(のプライベート)のお話を。


* *


●パワフル女院のお寺造り。
仁和寺の南の方に、法金剛院と言うお寺があります。現在も存在するお寺ですが、そのお寺が建立され、最も栄えたのは師時や女院が生きていた頃で、諸記録によると、どうやら当時は競馬場や池や滝や複数の御所付きの、広さ十町(いわゆる寝殿造は、一町に一軒立てる)を超える超広大なテーマパーク寺院だったようです。
とは言え、一度にテーマパーク寺院が完成したわけではなく、当初は、数ヶ月前に最大にして唯一の後ろ楯だった養父と盲目だった次男を相次いで喪った29歳の女院が、お寺とホテル代わりの御所を仁和寺の辺りに建てただけだったんです。んが、徐々に建物が増え、数年後には広大なテーマパーク寺院になったようです。
女院はお寺の建立を決意した後、真っ先に師時を呼びました。お寺を建てる候補地を探させる為です。師時には造園の才能もあったので、早速近郊の景勝地をピックアップして(この時、一緒に候補地の視察に行った人が翌日に殺害されると言う事件も発生していますが、師時はフツーに仕事を続けています。恐るべし平安貴族)、女院は双ヶ丘の麓を選びました。この後も、師時は工事現場や仏像製作の様子を管理し、逐一女院に報告するなど、忙しく働きます。
これまで管理人は「平安時代の高貴な女性は土木工事には関わらない」と思ってましたが、それはとんでもない勘違いだったらしく、この女院はまず建立予定地を自分で決め、自分の御所で女房達に法金剛院の障子の絵を描かせ、仏師を選び、工事中の法金剛院を見に行き、ついには完成後、「庭園の(人工)滝の高さが足りない」とわざわざ修造させるなど、全力で理想のお寺造りに邁進。往復1ヶ月近くもかかる熊野詣にも度々行っていたり、師時の新しい主の女院は、信じられないくらいパワフルな女性でした。

●院と女院の夫婦喧嘩。
その女院は、国母とは言え、先述の通り後ろ楯たる白河院を喪い(兄弟はいましたが、頼りになる出世頭の兄達が早死にし、残された兄二人はまだ中納言な上に家長の座を巡って争っている)、その結果、三年後には、かつて白河院に罷免された摂関家の大ボス・藤原忠実が執念の復活を果たします。その上、その長女・勲子が女院の夫・鳥羽院のもとに入院(院の正式な后妃になること)しました。
この勲子さんは、鳥羽院が元服した時から何度も、白河院が孫の鳥羽院の中宮にと入内をお願いしたものの(輔仁親王に皇位を渡さない為に、摂関家を味方につけたかったんですね)、何故か悉く断られ(忠実の孫も「なんで断ったのかマジわからん」と記している)、その結果、女院が鳥羽院の中宮になったものの、その後、鳥羽院本人から入内を要求されたら忠実がOKしたもんだから、白河院がぶちギレて忠実を罷免し、「勲子だけは后妃にするな」と遺言した…と言う経緯がある姫君です。女院と違って生まれた時から后がね(中宮候補)として育てられたリアル深窓の姫君ですが、この時すでに39歳になっていました。
この入院は、忠実の粘りによるものでしたが、同じ時期に同母兄の実能が忠実の次男を婿にしたこともあって、女院は一気に孤独感を募らせます。
「どうせこうなる日が来るだろうとはわかってはいましたが、まさか、こうも容易く故白河院の御遺言が破られるなんて……。それもこれも、私が生き長らえてしまったがゆえの苦しみなのでしょうね」
そう師時への手紙に記しつつ、一方で、女院は「この手紙のことは口外しないように」と念を押します。

ちなみに、白河院が崩御して以後、すでに複数の女院御所が放火により消えて、この時の女院は鳥羽院の御所に滞在することを余儀なくされていました。その御所で、女院はさらに師時に語り、師時はそれを細かくメモっています(記憶力が凄い)。
「今、世間で起きていることは、この数年ずっとそうなるだろうとわかっていたことですから、今更驚きはしません」
こう語り出した女院には、実は勲子のこと以外にも怒る理由がありました。鳥羽院はこの頃、三条公と美濃局と言う女院の女房二人に子を生ませていたんですが、なんと女院の女房は院ではなく女院が雇っているにも関わらず、その女房の雇用に関して口出しをしたんです。
「院は、美濃局は性格が良いからその王子共々私の手元に置いて良いが、三条公は性格が宜しくないので常勤の女房から外して、三条公が産んだ女王も彼女の里で育てるようにと仰っています。このことをどう思いますか」
美濃局も三条公も古参の女房で、特に三条公は女院が入内した頃からずっと常勤の女房として仕えて、女院の牛車に陪乗することを許された第一の側近女房です。女院の子供達は、皆生後間もなく三条公に抱かれて産湯に浸かっています。
結局、勲子とのことだけでなく、自分の側近まで滅茶苦茶にされたことで、女院は深刻な憤りを覚えました。しかし、今や女院には従うしか道はなく、師時は「院の仰せのままになさるべきです」と答えるしかありません。女院は次の話題に移ります。
「この御所は、今は院がお使いになってはいますが、あくまで長実卿(師時の義兄)の家です。院に献上された御所ではありません。院が御在所としているので私も滞在していますが、暫く人が住んでいなかったせいか荒れていますし、いつまでも他人の家にいたくもありません。前斎院(女院の次女・統子内親王。この時8歳)が広い京極殿に一人でお暮らしですから、宮達を連れてそちらに移ります」
『源氏物語』でも、女二宮を妻にした夕霧に怒った正室雲居雁は、「女御のお話し相手になってきます」と言う口実で実家に帰っています。
今回のパターンでも、女院が今の御所に移ったのは約10日前のことですから、引っ越しは女院の無言の抗議です。ただ、雲居雁と違って、女院は娘の暮らす京極殿(実はこれも借家)に向かいます。そもそも今の女院には抗議の為に帰る実家すらなかったんです。

●お忍びはあった。
女院は引っ越しを宣言した後、師時に「お忍びで香隆寺に詣でたい」と頼みます。
香隆寺は大内裏の西北にあるお寺で、白河院の火葬が行われ、一時その骨が安置された地ではありますが、今は骨も墓も鳥羽殿にあります。師時は「もう白河院の御骨はなく、空所ですが」と不思議がりますが、女院の決意は変わらず、3日後、翌日に京極殿への引越しを控えた女院は香隆寺に詣でます。お忍びなので、お供は師時と、師時の娘で女院に仕えている右衛門督ぐらいです。世の中が摂関家のおめでたい話題に夢中な時期だったせいか、このことは露見しませんでした。
実は、香隆寺の辺りには、夭折した女院の次男・通仁親王が、幼少だった為に墓もなく眠っています。女院が会いたかったのは、御産の為に、看取るどころか、その薨去すら教えてもらえず、幼少ゆえに服喪も叶わなかった次男だったのかもしれません。

●内親王は美少女。
女院には中宮時代から儲けた子が合わせて7人いました。先述の通り、5人の皇子を産んだ中宮はかつていなかったので、女院は後々まで「素晴らしい幸運の人」と崇められました。
が、実際には次男と三男に重い障害があり、女院の十数回にも及ぶ熊野詣も、手足が不自由だった三男・君仁親王の誕生後に始まりました。歴代女院の中でもダントツに多いこの熊野詣には、偏に子供達の健康を願う気持ちが込められているように思えます。事実、後に五男・本仁親王が重体に陥った時、師時は女院に命じられて、「あと七回熊野詣を行うので、どうか本仁親王をお助けください」と言う内容の入った願文を代筆しました。
本仁親王は幸いにも回復しましたが、勲子の入院から僅か二ヶ月後、一品宮と言う最も高貴な内親王でありながら斎院となっていた長女・禧子内親王が瀕死の床につき、女院の元に帰ってきます。内親王が斎院御所を出た日の夜、鳥羽院にとっても最愛の娘である禧子内親王を挟んで、院と女院は一緒に眠りました。
それから十日ほど経った後、師時は女院に呼ばれて、なんと御簾の中に入るよう言われます。
この時代、御簾の中とは、院と、女院の同母兄弟ぐらいしか入ることを許されないゾーンです。恐縮する師時に、女院自身は姿を見せませんが、代わりに内親王二人を見るよう女房を通して命じました。師時は、「自分はこんなご高恩を賜る存在ではない」と恐縮しつつも、恐らく生涯ただ一度の内親王との対面の感想を正直に、生々しく綴っています。
「先に妹宮の前斎院を拝見した。前斎院のお顔は端正美麗で、到底私などが見てよい御方ではいらっしゃらない。次に姉宮の一品宮を拝見すると、すでになす術もないほどに御病気が重くていらっしゃるせいで、御腹が脹れ、御足も腫れて、お熱もあり、すでに御目も光を喪われたようだ。だが、そのお顔は前斎院よりさらに優れていらっしゃる。このように素晴らしい姫宮を喪わねばならないとは、この世の遺恨だ」
「私は姫宮達の近習(乳父)でも外戚でもないが、女院と昵懇である為に、このような仰せを受けた。考えもしなかった、恐れ多い思し召しだ」
帝以外の男に嫁ぐことなどまずないのがこの時代の内親王ですが、師時の父俊房には、帝の同母妹の前斎院と恋仲になり、帝の激怒を押し切って結婚したと言う過去がありました。師時が見た姫宮もまた、帝の同母妹の前斎院です。その二人を血縁でも後見人でもない自分が見ている……そのことに対する不思議な感慨も師時にはあったのかもしれません。

●乳母のススメ。
この後、女院は病弱な五男・本仁親王の将来について、后腹の親王としては異例のことながら出家をさせようと決めました。12歳になったら出家&仁和寺の法親王の元へ弟子入りをさせることになったので、7歳のこの年から本仁親王はちょくちょく仁和寺に遊びに行きます。師時は、この一件でも仁和寺の法親王と女院の間に立つ交渉役になっていました。
そんなある日、法金剛院に滞在中の女院が師時を御前に呼び寄せます。様々な話をする中で、師時は女院に意見をしました。
「宮達は常に女院のお側にいらっしゃり、これと言った乳母や後見をお持ちではありませんが、やはり誰かお側に侍らせるべきではないでしょうか」
当時、親王や内親王が揃いも揃って母后に育てられると言うことはありませんでした。大概は然るべき権力者や独身の内親王達にバラバラに預けられ、そこで養育されるものだったんです。
我が子を全員手元で育てている女院はかなり変わった存在でした。その理由を、女院はあっさり語ります。
「五宮(本仁親王)には乳母がいません。ですから、私の手元で育てるのが良いのです」
なんと、法律で三人の乳母を持つよう定められている親王に乳母がいないと言うのです。普通なら有り得ないことですが、確かに本仁親王の乳母に関する記録はありません。

●女院の慰労。
「女は政治に口出すな」などと言おうものなら、手痛いしっぺ返しを喰らうこの時代、女院は当然のように人事に関わっていました。そんなわけで、乳母の話をした日の女院の用件とは、本当は師時を慰留することでした。
「辞任して、代わりに息子を官位につけたいと言うことですが、院は「師時の他に検非違使別当(警視庁のトップみたいな仕事)を任せられる者がいないのに、老齢を理由に辞任を申し出るとは」と仰っています。いずれ衛門督に欠員が出ますから、そうなればあなたを衛門督にしようと院はお考えなのです」
だから辞任なんてお止めなさい、と暗に諭した女院は、最後に師時にこんなお願いをしました。
「時々は参内して、後見人としてあなたから帝に世のことをお教え申し上げてください。後見人なしに成人なさるのは、本当に良くないことですから」
今の帝には上手く彼をサポートしてくれる強力な外戚や乳母と言うものがいません。それを心の底から案じる女院に、師時は死期の迫る体で応じます。
「外戚ではない私が帝のお側にいるのは恐れ多いことですが、歌合などの折には必ず参内し、帝のお側に上がりましょう」


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これらの話題や師時と女院の関係は、他の史書には記述がありません。師時の日記が残らなければ伝わらなかったものです。
そう考えると、歴史って奥深いなぁと思う今日この頃でしたv
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  1. 2013.02.27(水) _23:59:27
  2. 待賢門院藤原璋子
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