善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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待賢門院の御火止まりのこと。@崇徳天皇の出生を巡る状況。

※完全に日本史トークなので、興味のない方はさらっとスルーしてやってください。


↓で取り上げた待賢門院は、「養父と出来てた。彼女の長男・崇徳天皇は養父・白河院の子で、だから夫の鳥羽院は崇徳天皇を嫌ったし、保元の乱も起きたんだ」と言う話が古事談と言う中世のスクープ本にある為に、超セクシーなイメージが流布しています。
が、よくよく考え、調べてみると、これは非常に筋の通らない話なんです。

まず、自分の子でないなら、何故に鳥羽院は白河院の崩御後、12年も崇徳天皇を退位させなかったのか?(鳥羽院には雅仁親王(後の後白河天皇)と言うスペアとなる四男がいました。おまけに、崇徳天皇は白河院の生前に元服も済ませていた為、崩御後数年が経つと、鳥羽院と政治的に対立する事態も生じるようになり、時には宸意が通っています)
待賢門院が鳥羽院を裏切る形で密通を続けていたなら、何故鳥羽院は白河院の死後、他の女性を寵愛するようになってからも、待賢門院の為に法金剛院を建立させたり、法金剛院領と呼ばれる莫大な資産を待賢門院に持たせたりしたのか?(白河院の生前に、待賢門院はすでに円勝寺領と言う資産を得ており、金銭面で不自由することはありません)
崇徳天皇が鳥羽院の子でないなら、何故鳥羽院は崇徳天皇を退位させた後、その庶長子を皇后宮の養子として育てた上で三品重仁親王として元服させるなど、有力な皇位継承者候補として扱ったのか?(当時、天皇の庶子は長男であろうと問答無用で出家させられるものと決まっていました。勿論、生母が中宮や女御でないどころか、公卿の娘ですらない天皇など有り得なかったんです。重仁親王の生母は公卿どころか殿上人の娘ですらないので、皇位継承者としては完全に不適格です)
と言うか、歴史的に見ると、崇徳天皇と後白河天皇が同父母兄弟でなければ、そもそも保元の乱は起こるはずがないのでは?(歴史的に見て、上皇と天皇、あるいは上皇と上皇が政界を真っ二つにするレベルで対立して戦いに至る時、それが親子や同父母兄弟である例はあっても、片親が違う兄弟であることはまずありません。片親が違えば、その正当性に差が出て、それによってバックにつく勢力の大きさに覆し難い差が出るので、戦いに至る前にどちらかが失脚・粛清されます)

また、色々と意味のわからない言葉を調べているうちに、どうも、当時は帝や院の后妃が懐妊した際には、かなり徹底した管理下に置かれることがわかってきました。しかも、待賢門院の場合は身分の高さもあってか色んな貴族の日記に妊娠出産のことが書かれて、今でもその日記が幾つも残っていると言う、かなり資料的に恵まれているようなんです。
そんなわけで調べてみると、どうやら「崇徳天皇は密通して出来た子」と言う話は、かなり信憑性が低いなぁ…と感じたので、その根拠を以下つらつらと。
ちなみに、タイトルの「御火止まり」とは、中宮や皇后宮の懐妊を意味しています。昔は、月経の際は皆とは違うところに焚いた別の火で食事を作ったりしたので、中宮クラスの存在だと、そう言うことがあるかないかは非常にはっきりしていました。妊娠すると、この別の火がずっと消えたままになるので、「御火止まり」と呼ばれたそうです。別の火、と言うところが神秘的で(神に仕える身のよう)、面白いですよね!(そうか…?)



* *


●根拠その1:里帰りが少ない。
待賢門院こと中宮藤原璋子が入内したのは、1117年12月13日。璋子は17歳、帝は15歳(満14歳10ヶ月)でした。
当時、すでに従三位であった璋子には入内の4日後には早くも女御宣下があり、1ヶ月後の1118年1月20日には、14日の立后宣下を受けて、立后の儀式の為に実家(この時、実家に決まったのが、三条大路北・烏丸小路西にあった『如法一町家』の三条西殿。寝殿と東西の対屋を持つ邸宅で、入内直前には一時、里内裏になっていました)に退出します。立后の儀式には、3日間の宴や各所からの挨拶などが含まれるので、内裏に戻るには1ヶ月前後を要するのが一般的です。が、1月26日に立后した中宮璋子(以下、中宮と呼びます)は、1週間ほどでそれらを済ませて、ゆっくり寛ぐ暇もなく2月5日には内裏に戻っています。
2度目の里帰りは、それから4ヶ月後。6月22日~7月1日の僅か8日間の里帰りでした。が、これは6月14日辺りから患っていた病気の為の緊急退出だったので、本邸の三条西殿ではなく、養父白河院の邸宅兼仕事場の正親町殿(帝と中宮の暮らす里内裏の近所にあった)に退出しています。
3度目の里帰りは、9月20日からの5日間で、場所はまたもや正親町殿。28日から66歳の白河院が2度目の熊野詣に出掛けることになっていたので、「じいちゃん無理すんな」と諌めに…もとい、若くして両親を亡くして院に養育された為に、院を親のように慕う帝の意向を受けて、同じく院に養育された中宮がお見舞いに行ったとも考えられます。(正親町殿には中宮が長期滞在する為のスペースがなかったらしく、短期間の滞在が基本でした)
中宮になってから約10ヶ月の間に、里帰りは僅か13日間。病気がなかったら5日間。「用事がなきゃ里帰り禁止」と言わんばかりの短さです。
さて、3度目の里帰りの後、次の里帰りはないまま、入内から約1年後の1118年冬に中宮の第一子(崇徳天皇)懐妊が発覚します。
当時、院は例え息子の帝(堀河天皇)が死にそうだったとしても内裏に入ることは許されない身分でした。中宮が内裏から退出しない限り中宮には会えないのに、こう里帰りが少ないのは、ぶっちゃけ「1日も早く曾孫の顔を見せてくれ! そうしないと安心して死ねない! 任せておけ、熊野にも詣でて神様にもちゃんと頼んでおくから!」と言う白河院のウザイくらいの熱意あってのことなんじゃ…と言いたくなります。

●根拠その2:着帯の時期と神事。
今でも残っている「着帯」と言う習慣は、平安時代にはもうすっかり定着していて、大体4~7ヶ月の間に行われることが決まっていました。この儀式は、父親となる人が母親となる人に直に帯を巻いてあげると言うのが一般的なので、帯を巻くことは「私が父親だ」と認知し、それを披露することでもありました。
中宮璋子の着帯は、妊娠5ヶ月の時に内裏で行われました。1119年1月5日のことで、帯を巻いたのは帝です。しきたりに則って帯には加持祈祷が施され、いざ着帯の際には女房達も下がらせて、中宮は帝と二人きりになって帯を巻いてもらいました。
1119年1月で妊娠5ヶ月と言うことは、妊娠したのは1118年閏9月と言うことになります(1118年は9月と10月の間に閏9月があったので、1年が13ヶ月でした)。中宮は閏9月は内裏に詰めきりで(白河院は熊野詣中です)、ついでに帝の機嫌も良かったらしく、11日の御遊(管弦の遊び)では帝の乳母の三位実子(中宮の同母姉でもある)夫婦が未曾有の好意を受けています。
また、10月26日には中宮は鹿島使を立てると言う神事を執り行っていますが、中宮の御産記録の一つ『源礼記委記』には、「妊娠3ヶ月を過ぎたら諸社へ使を立てることは禁じられた」と明記されています。もし閏9月より前……特に、9月の里帰りで懐妊したとすれば、この頃には妊娠3ヶ月はゆうに過ぎています。神事に煩いこの時代に、そんな無茶をする必要があるでしょうか。

●根拠その3:御産定の時期。
中宮が「御火止まり」になり、着帯も終えて安定期に入ると、とにかく祈祷が行われて、御産に向けた本格的な準備が始まります。
そこで大事なのは、新生児の誕生後に催される産養(うぶやしない)と呼ばれる宴の支度です。この宴は御産の後に行われ、中宮ともなると誕生から三夜目、五夜目、七夜目、九夜目と四度に渡って行われるので、もはや一大イベント、たくさんの人が衣装や食事などを分担して準備します。その分担を決めるのが、「御産定」と呼ばれる会議で、大体は妊娠後期に入る妊娠7~8ヶ月に開催されます。平安時代の御産に関する儀式は、着帯と言い、かなり正確に妊婦の体の変化に則しているようです。
中宮璋子の御産定は4月15日に、御産所となる三条西殿で開催されました。中宮の御産に伴う産養の主催者は毎回違っていて、三夜は中宮の政務機関である中宮庁が、五夜は中宮の父が、七夜は公家(帝のこと)が、九夜は中宮の後ろ楯となる有力者が担当します。この時は、三夜は中宮庁、五夜は白河院、七夜は帝、九夜は皇后宮令子内親王(白河院の第三皇女で、帝の准母。中宮の裳着でその裳の腰を結ぶ役も果たした)でした。中宮の実父公実はすでに亡く、また、中宮は白河院の養女として入内したので、中宮の父が担当すべき仕事は全て院が担当したんです。(例えば、院の嫡妻・中宮藤原賢子は、本当は源顕房の娘でしたが、時の関白藤原師実の養女として入内した為に、顕房が健在であるにも関わらず、賢子の御産の際には師実が父親として全てを取り仕切りました)
さて、1月に妊娠5ヶ月だったので、4月には確かに妊娠8ヶ月になっていて、御産定の時期としてはおかしくありません。でも、もし『源氏物語』の藤壺中宮のように長期間の里帰りなどを利用して懐妊時期を偽っていたら、この結論は成り立たなくなります。では、中宮璋子は懐妊時期をどこで過ごしていたのでしょうか。

●根拠その4:内裏から御産所の三条西殿に退出した時期。
内裏には、「妊娠8ヶ月を過ぎた女性が定住してはならない」と言う暗黙のルールがありました。これは、言わずもがな、不意の御産による血の穢れが内裏に蔓延することを強く忌んだからです。よって、中宮だろうが女房だろうが、妊娠8ヶ月を過ぎれば絶対に内裏を出なければなりませんでした。居残れば、「非常識」と言うレッテルを帝ともども貼られてしまいます。
では、一般的な中宮や女御は妊娠8ヶ月まで内裏で暮らしていたのかと言うと、そんなことはありませんでした。何故なら、彼女達の第一の使命は「立派な皇子を産むこと」です。ざっくばらんに言えば、帝の寵愛が必要なのは妊娠するまでであって、以後は、寵愛が母体に悪影響を及ぼすこともある為(寵愛には、夜9時と朝方に冷暖房のない廊下をえんえん歩かされることも含まれます)、懐妊が発覚したり、着帯を済ませたりしたらすぐに退出するのが普通でした。懐妊中の女御を衰弱するまで寵愛したと言う花山天皇も、実際には着帯を済ませた後はすぐに女御を内裏から退出させていますし(ただ、花山天皇の時代は妊娠3ヶ月での退出が一般的でした)、その後、女御を内裏に呼び戻したのも僅か1週間程度のことです。最も近い例である帝の生母・女御苡子の場合は、着帯を終えるや内裏から退出して、御産の日までずっと御産所となる邸宅で暮らしています。
では、中宮璋子はどうだったのかと言うと、なんと、彼女が内裏から退出したのは4月15日、あの御産定が行われた日の夜でした(御産定は中宮の退出の後に行われました)。つまり、4月の段階で妊娠8ヶ月以内であることは確実なわけで、懐妊時期は閏9月以降に限定されます。
とは言え、正式な退出以外にも一時的な里帰りはあったかもしれません。そこで当時の貴族の日記を見てみると、『中右記』と『長秋記』によって、懐妊後の中宮璋子の動向を把握出来ます。

●根拠5:中宮懐妊に対する対応。
三度目の里帰り以降の中宮の行啓記録を列挙すると、以下のようになります。
◇1118年
<妊娠4ヶ月>
12月14日、17日の最勝寺(帝の御願寺。中宮の同母兄実能が造営を担当した)の落慶供養に臨席する為、内裏から三条西殿に行啓。これは公務。
※内裏への還啓の記録はないが、成勝寺(崇徳天皇御願寺)の落慶供養では、崇徳天皇の中宮聖子は供養が終わった後すぐに内裏に還啓しているので、この場合も同様と考えられる。
◇1119年
<妊娠5ヶ月>
1月26日夜、三条西殿で蹴鞠の興(白河院主催)がある為、行啓。
1月28日夜、蹴鞠の宴が終わった為、内裏に還啓。
<妊娠7ヶ月>
3月12日夜、三条西殿に方違行啓。
3月21日夜、内裏に還啓。
3月29日夜、三条西殿に方違行啓。
4月3日夜、内裏に還啓。以後、正式な退出まで内裏で暮らす。

なんと、中宮は合わせて20日程度の里帰りしかせず、妊娠8ヶ月になるまでほぼ内裏で過ごしていました。これは花山天皇など比較にならないくらい「異常」なことです。
もし中宮の子が白河院の子なのだとしたら、ずっと京にいながら、しかも着帯を済ませてからは安産の為の祈祷を欠かさずしていながら、中宮を里帰りさせない院の意図がわかりません。しかも、帝は着帯の時点で若干17歳。帝にとっても初めての子である以上、妊婦の扱いがわかっているはずもなく、その上、帝の生母・苡子は難産により薨去しました。不安要素はあれど、御産を楽観視する理由はありません。
また、この御産は中宮自身の将来の為にも大変重要でした。何故かと言うと、中宮は摂関家を敵に回す形で入内&立后した為、その地位は甚だ不安定。もし老齢の白河院が頓死して関白忠実の娘が入内したら、日陰の存在へと追いやられることは確定していたんです。そうならない為には、とにかく皇子を産み、その皇子を即位させて国母となるしかない――それくらい、この時点での中宮の立場は良くないもので、皇子誕生は最重要事項でした。
そして、息子の堀河天皇に先立たれた白河院にとっても、自身の子孫に皇統を嗣がせる為には、孫である帝から中宮腹の皇子が誕生するかどうかは最重要事項でした。現に、院のライバル三宮輔仁親王には、有仁王と言う帝と同い年の嫡男がいるのですが、この有仁王に先を越されては一大事とばかりに、院は結婚適齢期の有仁王を結婚させていません。(有仁王が結婚するのは、中宮の皇子出産から僅か5ヶ月後です)
と言うように、中宮の御産は決して軽視出来るものではなかったのに、何故白河院は流産や難産の危険を冒してまで、中宮を内裏に留めさせたのでしょうか。
この答えは1つしかありません。ずばり、「帝が中宮を寵愛したかったから」です。
実は、帝にとってはこの御産はさほど重要ではありませんでした。何故なら、いざとなったら帝には「関白忠実の娘を入内させて皇子を儲ける」と言うプランBがあり、むしろ白河院亡き後の治世を思えば、摂関家との繋がりを持てるこのプランBは望ましいものです。(事実、皇子誕生後に帝はこのプランBを実行しにかかっています)
庇護者を持たなかった為に政治的に辛酸を嘗め尽くした白河院と違って、帝は摂関家が弱体化した後に産まれた上に、院と言う庇護者を持っていた為に、生まれながらの帝王として育ちました。その彼には、后を寵愛することと、その后を政治的には優遇しないことは、決して相反することではなく、自らの権威を保つ為にも必要なことでした。(実際に、帝(鳥羽院)はこの後も三人の后に好意を惜しまない一方で、彼女達が絶対的な権力を持たないよう牽制し続けます)

●まとめ
と言うわけで、私は崇徳天皇は鳥羽天皇と中宮璋子の子で、保元の乱はそのことの証明になると考えています。何故なら、上皇の権力を喪失させた平城上皇と嵯峨天皇や、南北朝の発端となった後深草院と亀山天皇の対立は、同父母兄弟の対立なんです。同父母兄弟がその父の意向により並び立った時のみ、国を二分し、時代を変えるような対立が発生するなら、保元の乱はまさにその時ではないでしょうか。

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  1. 2013.03.07(木) _19:16:05
  2. 待賢門院藤原璋子
  3.  コメント:6
  4. [ edit ]

<<待賢門院の崩御を巡る物語・一 | BLOG TOP | 11月17日から12月31日までに頂いたコメントへの返信>>

comment

  1. 2013/03/10(日) 19:35:21 
  2. URL 
  3. ちよ 
  4. [ 編集 ] 
こんにちは、緋翠さま。先日に頼んだ、「ご忠告です。」の「論拠」と「ドラマ善徳女王の屋台骨」を「御火止まりのこと」のようにまとめて欲しい教えて欲しいは撤回させて下さい。自分勝手ですいません。すいませんm(_ _)m
私はピダムが好きです。ナムギル氏にも好意を持ってます。善徳女王と言うドラマはDVDを全部買うほど大好きです。
でも、確かな論拠は持ってません「なんとなく」ですから、知りたかったのです。ナムギル氏は何故批判されるのか?緋翠さまのおっしゃる「善徳女王と言うドラマの屋台骨を否定する」ほどピダムの演技はまずかった理由を。
「返事はいつでも良いです」といいながら、こんなことになりすいませんm(_ _)m病気のせいにしてはいけないですが、私の性格が、せっかちになりました。

ROMに戻ります。コメントを投稿しないようにします。私から今後コメントが来てもスルーして下さい。
DVDを買った後、緋翠さまのサイトにたどり着いて善徳女王と言うドラマがもっと大好きになりました。トンマンが愛おしいと思うようになりました。サイトを見た後ドラマの善徳女王の最終話をみて初めて涙しました。ナムギル氏のピダムが血涙を流し「トンマン…トンマン…」と言って、(ユシンを介してですが)トンマンにピダムの愛が伝わり、トンマンの涙…。トンマン最期のシーンに指に指輪があって、また涙しました。これはピダムが持っていてトンマンに返した指輪?と思っています。
想像力は人生を楽しむことが出来ます。女王編が放送された後次はどんな話になるか?ワクワクドキドキして想像(妄想)をしました。
トンマンは暗闇のなか光があると信じて光に向かって進んで生きている女性だと思います。女王編は特にです。
ピダムの裏切りと愛している「光」だと信じた男の死を命じなくてはいけないトンマンは非情ではなく悲痛です。(女王編の何話か忘れましたが)暗闇のなかひとりのトンマンの姿が再び思い出され、涙しました。病のなか心を隠してピダムを待っているトンマン。ピダムにとってはトンマンは光だと思います。どちらもなくてはならない、と言う。
緋翠さまの「隠居シリーズ」は大好きです!二人が幸せでラブラブで!
緋翠さまのサイトにたどり着いて人生で一番良かったことです。
ありがとうございました。
そして、またご迷惑をおかけしてすいませんm(_ _)m


管理人のみ閲覧できます

  1. 2013/03/13(水) 20:00:20 
  2.  
  3.  
  4. [ 編集 ] 
このコメントは管理人のみ閲覧できます

ちよ様へ

  1. 2013/03/16(土) 23:28:27 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
ちよ様、こんばんは(・∀・)

いいと言って頂きましたが、詳しくでなく、さらっとお答えしておきます。
私がナムギルさんを批判し続けるのは、彼が公式ガイドブックでピダムと言うキャラクターに謂れのない非難をしたからです。ファンクラブのイベントなど、「ドラマよりナムギルさん本人が好き」と言う人を相手にしている時ならまだしも、ドラマのファンが買う公式ガイドブックで「女王時代のピダムはバカになった。そのせいで私のプライドが傷ついた」と言ったと言うことは、彼はドラマの女王時代を非難したと言うことになります。何より、その思い込みに従って演技をしたなら、彼はその演技で、脚本には確かに描かれていた女王時代のピダムの凄さを潰したと言われても仕方ないと思います。
女王時代のピダムは、「善徳女王と言うドラマの屋台骨」の一つでした。なので、ピダムの凄さを一つも理解出来なかっただけでなく、無神経にも、自分が理解出来なかったからとピダムを「バカ」呼ばわりしたところが許せません。

……えと、言葉遣いが辛辣ですみません(汗) 決して、ちよ様に文句があるわけではありませんので…!
ドラマが大好きなのは私も同じですv トンマンもピダムも他の登場人物もみんな大好きです(*´∇`*)
トンマンの最期のシーンでしていた指輪は、果たしてトンマンのものなのか、ピダムのものなのか、残念ながら謎のままですが(笑)、何も言葉はなくてもトンマンの想いが全てその指輪に込められている気がしました。女王の衣装から逃れることは出来なかったトンマンが、自分の意志で身に付けた唯一のものなのでv

> トンマンは暗闇のなか光があると信じて光に向かって進んで生きている女性だと思います。女王編は特にです。

私も、トンマンは考えることを諦めない人だといつも感じます。ただ「諦めない」と言うだけでなく、「諦めないなら何をどうする」と言うところまで考えていたなーと。でも、そんなトンマンでも八方塞がりになってしまうことはやっぱりあって、そんな時に、トンマンを囲む壁をガンガン打ち壊したり、抜け道を掘っちゃったりするのがピダム、と言う。ピダムにとっては、彼が何をしてもドン引きしないでいてくれて(笑)、彼の才能や好意を素直に受けとって喜んでくれるただ一人の人がトンマンだったのではないかと思っていますv

「隠居シリーズ」はトンマンとピダムへの私の愛が暑苦しく駄々漏れしている話なので(笑)、大好きと言って頂けて本当に嬉しいです!ありがとうございます!
迷惑だなんてことはないですよー(汗) こう、実は私はトンマンだけでなくピダムもかなり大好きなので(笑)、ピダムの才能などを否定されると、否定したのが誰であれ「違う!」と怒りが湧いてしまうようです(ノ∀`)
こんな風に心の狭い人間で本当に申し訳ありません(汗) どうか、ちよ様のご負担になりませんように…!

管理人のみ閲覧できます

  1. 2013/03/19(火) 13:56:49 
  2.  
  3.  
  4. [ 編集 ] 
このコメントは管理人のみ閲覧できます

ゆい様へ

  1. 2013/03/20(水) 14:48:09 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
ゆい様、こんなマイナーな記事にコメントをくださり、ありがとうございます!(´∀`*)嬉しいです~vv

お仕事と花粉症のダブルパンチは大変そうです…。幸い、私はまだ花粉症ではないのですが、家族が重い花粉症なので、ゆい様の大変さも見える気がします。花粉症の方は、この時期は何もかもが大変そうですよね(汗) うちの家族も、「違う。今年は違うぞ」とかなり前から怯えていました(;゜Д゜) お疲れ様です!
せめて、ゆい様がお仕事の合間に、「へー」と楽しめる記事をこれからも書けますようにv(・∀・)/

さてさて今回の記事なのですが、何せ理系なもので、文学的にどうなのか…は、ちょっと怪しいんです(ノ∀`)w 和歌も、センター試験レベルはいけますが、あとは電子辞書片手に、独断と偏見で訳していたり(爆)

>崇徳天皇のこと

まず、ゆい様も崇徳天皇が鳥羽院と待賢門院の実子派と聞いて、「おおっ」と嬉しくなりましたv
密通に関する文献は、ネットで調べた限りだと「古事談」だけみたいですねー、確かに。ただ、時の関白藤原忠実が、入内前の待賢門院を「複数の男と密通している乱行の人」と日記で罵っているので、それも影響しているんだと思います。とは言え、忠実が待賢門院を罵倒するまでには色んな紆余曲折がある上、彼自身も「まぁ噂だから真偽はわからないけど」と前置きするくらいなので、この辺も突っ込みたいと言うか、これから更新する記事でちょっとつっこんでます(笑)
また、この記事で書いた根拠は、崇徳天皇のことでもありますが、白河院と鳥羽院に対する一般的なイメージを「違うんじゃね?」と感じた根拠でもありまして。物語や今鏡に頼らず、リアルタイムで書かれた日記だけを根拠に崇徳天皇の出生を辿ると言うのは、白河院と鳥羽院を追うことでもあって、そうすると、二人ともドラマなどで見る姿とはかなり違う印象を受けるんですよ! 面白い体験ですーv

>「瀬をはやみ 岩に瀬かるる滝川の 割れても末に あわむとぞおもふ」

百人一首ですね!(*´艸`)語呂がいい歌なので、学生時代に「覚えやすいなコレ」と思ったりしました(爆)
この歌に関してはちょっと調べてみたのですが、実は2パターンあるんですよね。↑の句は『詞花和歌集』バージョンで、もう1パターンの「ゆきなやみ岩にせかるる谷川の われても末にあはむとぞ思ふ」は『久安百首』と、どちらも崇徳院が主導した歌集に撰ばれていると言う。
細かい技巧はわからないのですが、『久安百首』の方が先に企画されたものなので、最初はこの歌だったのだと仮定すると、歌の印象はかなり違いますよね。繊細な味わいだった和歌が、ちょっと言葉を変えただけでスパーンと勢いのある和歌になっていて、こう言っちゃなんですが、崇徳院の「やった、朕ったら素敵な思い付きを……」とニマニマする顔が見える気がします。←コラ
また、西行や待賢門院堀河と比べると、崇徳院の和歌(特に長歌)や言動からは、育ちの良さから来るハングリー精神の希薄さや、優等生気質、長男気質と、ちょっと天然な雰囲気も感じます。迂闊さ、と言うか、良くも悪くもお坊っちゃんだなぁと…。知れば知るほど俺様感がハンパない鳥羽院とは対照的ですね(笑)

あ、崇徳院の「怨霊」に関しては、「言い訳」かなーと思います。
まず崇徳院の怨霊が取り沙汰され始めた時期は、ちょうど後白河院にとって色んな不幸や失策が短期間に重なっていた時期なので、それが「帝や上皇の不徳のせい」ではないとする為には、怨霊に責任を取ってもらわないとならない。そうしたら、崇徳院と左大臣頼長と言ううってつけの罪人がいて(最初は、この二人ってセットだったんですよね)、しかも二人の側近や子息達も二人が罪人扱いされているのを一刻も早くなんとかして、自分の未来を明るくしたい。そんなわけで、すでに亡くなっているこの二人を祀ろうとする動きが、ヒートアップした…と言うところではないかと思っています。
それが日本国最大級の怨霊にまでなったのは、その後の武士の罪悪感みたいなものもある気がします。「俺達は正直、神々に連なる天皇家からクーデターで実権を奪ったり、承久の乱では時の帝や上皇を流罪にしたりしたけど、それは俺達が悪いんじゃなくて、天皇家のご先祖様の祟りなんだ」って考えると、皆気が楽になるじゃないですか(笑)
そして、何より、現代でも使えるくらい、「怨霊になった天皇」と言うのは庶民受けするネタであると言う、これが最大の強みだと思います。ホラー話として、こんなに面白いものは世界中探したってそうはないんじゃないでしょうか。

>もし本当に鳥羽院の実子でありながら、うとまれていたとしたら

そして、このことなのですが、私は疎まれていなかったと考えています。
と言うのは、崇徳院が退位の一年半後に「赤もがさ」に罹患した際、鳥羽院は重態の崇徳院を何度か見舞いに行っているんです。あまり注目されない事実ですが、赤もがさは、当時最も死亡率の高い伝染病の一つで、それに罹患した人を見舞うと言うのは、そこにいるだけでかなりの高確率で死ぬ地域に自ら赴くようなものです。私達はそれでは死ななかったとわかっているから良いとしても、当時の人にそんなことはわかりません。どう考えても、疎んじている息子相手に出来る行為じゃないんですよ。
また、崇徳院が退位したのには、摂関家が外祖父摂政の地位を回復し、鳥羽院も、待賢門院より遥かに力の落ちる国母を複数生み出すことで国母の権威をおとしめ、相対的に自らの権威を高める為と言うれっきとした政治的な理由があります。それに、退位した後であっても、若い崇徳院がその正室との間に男子を儲けさえすれば、その皇子は皇位継承者たりえたでしょう。鳥羽院は、わざわざ崇徳院の退位前に出家することで「もう后との間に子は作らない」と宣言し、実際にも后の美福門院はまだ二十代半ばだったのに、彼女との間に子供を作りませんでした。その上、美福門院との末娘は出家前に懐妊、出家後に誕生したのですが、鳥羽院はなんと東宮妃になることが決定する十代半ばまでその末娘には親王宣下すらさせず、法的には完全に庶子扱いしています(崇徳院を始め、待賢門院の子は白河院崩御後に生まれようが全員生後百日以内に親王宣下がありました)。
後に崇徳院の第一皇子より後白河天皇の第一皇子の即位が優先されたのは、それぞれの生母の血筋(典侍にすらなれない下級貴族と、大納言の娘で左大臣の養女)を見れば当然の結果ですし、また、死に顔を見せるな的な遺言も、当時の日記にはそんな話はないそうです。会わなかったことについても、白河院は崩御の際、鳥羽院と待賢門院に対して「死穢に触れないよう早く出ていってくれ」と懇願していますから、おかしなこととは言い難い。
何より、鳥羽院と崇徳院は十六歳しか年が違いませんでした。親子と言うより兄弟に近い年齢差の親子と言うと、後白河天皇と二条天皇もまさにそうですが、この二人に至っては、疎んじるどころか、親子で熾烈な権力闘争を繰り広げています。この二人に比べれば、鳥羽院と崇徳院は仲良しなんじゃないかと!(笑)

>古語のこと

素人目なんですが、和歌や物語……特に源氏物語には、古語の美しさが溢れている気がします。古語で書かれた物語は色々あっても、源氏物語ほど表現が繊細で匂やかな文章って見ないんですよ! 話の内容がどうこうだけでなく、この言葉の美しさが源氏物語の最大の魅力なんじゃないかと思うぐらいにv
とか言いつつ、私自身はそこまで語彙が豊富なわけでもなくw、熟語の意味なども自身がないので必ず電子辞書片手に創作しています(ノ∀`) 「御火止まり」も、なんかの本か記事かで初めて知ったんですよ!普通に暮らしている限り一生必要のない単語だと思います(爆)

ちよ様へ

  1. 2013/03/28(木) 22:30:25 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
ちよ様、こんばんはーv

お知らせありがとうございます! そして、ちよ様の疑問も解決したようで、ホッとしています。その、改めてすみません…(汗)

そして、「隠居シリーズ」のこと、ありがとうございます! 私もトン&ピ万歳!と言うわけで、本日もそれに尽きる記事を更新してしまいました(笑)


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