善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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待賢門院の崩御を巡る物語・一

※完全に日本史トークなので、興味のない方はさらっとスルーしてやってください。



待賢門院の最期と言うと、時には非常に寂しいものだったように言われることがあります。んが、これまた当時の日記を見ると、寂しいかどうかの判断に困るくらいに、待賢門院の死の影響が綴られています。そんなわけで、待賢門院(以後、女院と表記します)の死の前後の話を、自分用につらつらメモってみました。(なので、言葉遣いが丁寧ではないです)

また、色んな人が出てきてややこしいので、整理する為にも人物の一覧を。
※()は女院が崩御した1145年の年齢です。
※詳しい経歴などはwikiとかをどーぞ!
※出典は殿暦、長秋記、中右記、今鏡です。
【女院/待賢門院藤原璋子(45)】
落飾済み。御所は三条高倉第。法名は真如法。
【法皇(43)】
鳥羽法皇のこと。女院の夫。出家済み。白河北殿で皇后宮得子と暮らしている。法名は空覚。
【新院(27)】
崇徳上皇のこと。法皇と女院の長男。名人の和歌を各百首ずつ集める「百首歌」を企画中。御所は三条西洞院第。
【前斎院/統子内親王(20)】
女院の次女。美少女として有名。三条高倉第で女院と同居中。
【今宮/雅仁親王(19)】
女院の四男。正室を亡くし、忘れ形見の幼い長男も法皇に引き取られた為、三条高倉第で女院と同居中。今様マニア。
【五宮/信法入道親王(17)】
女院の五男。病弱だった為、女院の意向により出家し、仁和寺で修行を積んでいる。本名は本仁。
【白河院/白河法皇】
故人。法皇の父方の祖父で、女院の養父。享年は七十七歳。
【高陽院/藤原泰子(51)】
禅閤忠実の長女で、摂政忠通の同母姉。御所は土御門東洞院第。法名は清浄理。
【皇后宮/藤原得子(29)】
法皇の最愛の后。帝の生母である為に皇后宮となったが、国母としての公的な権力はない。二人の姫宮と、新院の長男、今宮の長男を養育中。
【皇太后宮/藤原聖子(24)】
新院の正室で、帝の養母。摂政忠通の嫡女。
【帝(7)】
近衛天皇のこと。生母は皇后宮得子だが、生後すぐに時の中宮聖子の養子となり、今も聖子に養育されている。

<摂関家>
【禅閤/藤原忠実(68)】
摂関家の経済を握る大殿(ボス)。高陽院、摂政忠通、内大臣頼長の父。法名は円理。
【摂政/藤原忠通(49)】
禅閤忠実の嫡男。嫡男に恵まれず、頼長を養子としている。職務上、新院のことは実父の法皇以上に面倒を見てきた。
【内大臣/藤原頼長(26)】
禅閤忠実の庶子から摂政忠通の嫡男になったシンデレラボーイ。『台記』と言うセキララ日記を書いている。舅は女院の同母兄の右大将実能。

<女院の親族。閑院流関係者>
【左大臣/源有仁(43)】
完全無欠の一流貴族。正室は女院の同母姉。女院と同じく故白河院の猶子。
【中君/花園左大臣室】
女院の同母姉。有仁の正室となり、その才知で彼のサロンを盛り上げた。歌人でもあり、三首伝えられている。
【右大将/藤原実能(50)】
女院の同母兄。新院誕生の際には、御産中の女院の体を抱いて支えた。
【権大納言/藤原実行(66)】
女院の異母兄。法皇と女院の側近として、長年に渡り諸々の実務をこなしてきた。前斎院の後見人でもある。三条高倉第を女院に貸している。
【別当/藤原公教(43)】
権大納言実行の嫡男。父と共に、法皇の側近として諸々の実務を見ている。

<その他>
【堀河】
女院の上臈女房。シングルマザーになってから女院に仕え、女院と共に落飾した。円位法師と親しく、歌人として名高い。
【兵衛】
女院の女房。堀河の妹。少女時代から女院に仕えること二十年余りになる、ベテラン女房。姉と同じく歌人。
【円位法師/佐藤義清(28)】
後の西行。右大将実能の随身として実能一家と法皇に可愛がられるが、五年前に謎の出家を遂げた。





* *


●凶兆現る●

天養二(1145)年四月。京の空に巨大な彗星が出現し、数ヶ月も空に輝き続けると言う大事件が発生した。彗星は「帝の失政」や「天変地異」を意味する凶兆。ちょうどハレー彗星が地球に接近する年だったとは露ほども知らない平安人は、恐れおののき、祈祷に明け暮れた。そして人々の目は、幼い帝に代わって政治を執っている法皇へと向く。何故なら、その法皇の元には今まさに凶事が降りかかっていたからだ。法皇の第一の后、女院の病臥である。
どうやら女院は、四月のはじめにはすでに臥せっていたらしい。新院がわざわざ女院の暮らす三条高倉第へ引っ越しをするほど深刻な病状だと聞いた内大臣頼長は、驚いて三条高倉第に参上し、女院の女房中納言の君と話をしている。しかし、新院の看病も空しく六月には回復の見込みも薄くなったようで、最後の一手とも言うべき延寿を願う御逆修が始められた(『台記』天養二年四月八日・六月十九日)。
七月になると、彗星の出現や女院の病臥は不吉なことであるとして、元号が久安に改められた。幸い彗星は消えたが、女院の病状は一向に良くならない。女院もすでに覚悟を決めており、遺言を文書にするなどの支度を済ませるようになった。女院の遺産のうち、御所は前斎院と今宮に、法金剛院が五宮に、そして私有地とも言うべき法金剛院領も前斎院に、白河院が建立した円勝寺の領地は法皇に譲ったと言う。
こうして、八月二十二日、ついに女院は危篤状態に陥った。新院は看病疲れで体調を崩しながらも、急ぎ父の法皇に使者を走らせた。法皇はすぐに三条高倉第に向かった。

女院が御最期となった時、法皇は女院を極楽へと導く為の磬を自ら打ち、声をあげて泣き、また静かに涙を流された(哭泣す)。女院にお仕えしてきた群臣も声をあげて泣いた(哭す)。あるいは、法皇は使者の口上を待たずに、自ずから女院のいる三条高倉第へ急がれたのだとも聞いた。私は病の為に参れなかった。(『台記』久安元年八月二十二日より)

法皇の祖父白河院は、その崩御の際、御産を間近に控える法皇と女院を死の穢れに触れさせたくなくて、御所から出るよう懇願した(『長秋記』大治四年七月七日)。死の穢れに至尊の身が晒されることは、禁忌とされた時代だからである。その禁忌と白河院の制止を振りきって院を看取った法皇は、今また自ら死の穢れに触れることを選んだ。最愛の中宮賢子の亡骸にすがりついて泣いたと言う白河院の逸話を思い出させる話だ。


●母の思い出●

母を喪った子供の嘆きは、いつの世も変わらない。まして、その子供がまだ二十歳にもならない少年であれば、嘆きは絶望にもなりうる。女院の四男今宮は、満年齢で十七歳。最も多感な時期である。彼は後に、その時の心情をこう綴った。

久安元年八月二十二日に待賢門院がお亡くなりになった時は、まるでこの世から太陽がなくなって、闇夜に取り残されたような気がした。私はその闇の中で、どこまでも深く暗く悲しみにくれていた。(『梁塵秘抄』口伝集巻第十より)

今宮は兄弟の誰よりも長く女院と共に暮らし、彼を『梁塵秘抄』を編むほどの今様好きに育てたのもまた女院だった。父の法皇についてはろくに触れていない『梁塵秘抄』には、女院の肉声まで残っている。

神崎のかねと言う今様の名手が女院に仕えていたので、私の部屋へ来させて、日夜今様を教えてもらっていた。すると、そうと聞いた女院から「連日連夜の練習は、さすがに度が過ぎるのではないかしら。(そうは言っても、かねが自分の局にいたら、あなたは我慢出来なくなってかねを呼び出してしまうに違いないでしょうし、)私もやっぱりかねの歌を聴きたいから、時々はかねを私の部屋へ呼んで唄わせるのが良いと思うの。だから、かねを召すのは、お互い一夜おきにしましょうね」と言われた。(同)

今様と言う言葉は、本来「今時の音楽」を意味する。皆知っていて、楽しんではいるが、漢詩や和歌に精通すべき親王の趣味としては、決して誉められたものではないもの、それが今様だった。四男とは言え、「長男ではないが、当今(帝)に最も近い、有力な皇位継承候補」を意味する「今宮」と公卿達に認められる存在であればなおのこと、今様にのめり込むことで顰蹙を買っただろう。
しかし、今様に熱中する息子を女院は心配しても、彼から今様を取り上げようとはしなかった。それどころか、「お母さんも、かねの今様を聴きたい」と溢す女院からは、息子と同じ遊びを楽しむ気さくな母の姿が見える。長年「今宮」と呼ばれ、非の打ち所のない振る舞いをしながらも異母弟に皇位を取られ、二年前には難産で正室を喪った彼にとって、唯一の生き甲斐である今様を受け入れてくれる存在は、どれだけ心強かったか。その存在の大きさを、『梁塵秘抄』は簡潔な記述の中に切々と表現している。


●歌人の心意気●

崩御の翌日、遺言通り女院は早々に棺におさめられ、方忌みを破って法金剛院に運ばれ、棺ごと石穴に埋葬された。火葬が一般的な当時にあって、女院はわざわざ土葬を選んだ(『台記』同年八月二十三日)。

夕さればわきてながめん方もなし 煙とだにもならぬ別れは
日が沈むように、女院は暗い地の下へと去ってしまわれた。天へと上る煙になられたなら、女院が恋しくなった時にはその煙の上った方を見れば良いけれど、今の私は、闇夜の中で女院をどうお慕いすれば良いのかすらわからない。(『待賢門院堀河集』)


女院が亡くなったのは、酉の刻。ちょうど日が沈む頃である。今宮と堀河の中では、光を失う夕暮れ時の別れと女院の死による絶望が、あるいは地に沈む太陽と土に還る女院が重なって、より一層哀しみを深めさせている。
女院の死は、残暑厳しい八月のことだった。しかし、女院が生前の姿のまま土に還ったことに、実能お気に入りの随身であった円位法師はまた違った感慨を抱いた。

たづぬとも風のつてにも聞かじかし 花と散りにし君が行方を
幾度風に尋ねても、きっとわからないだろう。桜の花のように散り、土に還ったかの君の行方は。(『山家集』)


この歌の詞書きには、「待賢門院の崩御の翌年、女院の女房達は生前と変わらず三条高倉第に出仕していた。その南庭の桜の花が散る頃に、堀河の局のもとへお送りした」歌だと明記されている。円位法師こと西行はその生涯において天皇や上皇の崩御を悼む歌を幾つか詠んでいるが、葬儀も法事もない、しかも崩御から半年も経った後に詠まれた歌と言うのは珍しい。純粋に死を悼んでいると言うより、何か理由があってこの時期に詠まれた歌と考えた方がしっくり来る。
また、彼がこの歌を女院の筆頭女房の一人であり、当時の歌壇においてすでに名を成していた堀河に送っていることも無視してはならないだろう。実は、西行と女院女房の交流記録の中でも最も古いものが、この歌なのだ。しかも、この頃、世間の目は瀕死の病から回復した法皇にばかり向けられていて、女院の影は薄まっていた。そんな時期だからこそ、西行は身分違いゆえに到底文のやり取りなど出来るはずもなかった上臈女房の堀河にこの歌を送ることが出来、さらには「秋に去った女院を春の盛りに蘇らせた男」として、哀しみにくれる女房達から慕われるようになったのではないだろうか。だとすれば、西行は上手く機を捉えて自らをアピールしたとも取れる。
ところで、西行はその歌集の中で、法皇こと鳥羽院からは格別の御厚恩を賜っていたと書き残している。女院ではないし、事実、彼は法皇の臨終後間もなくその死を悼む歌を詠んだ。法皇を直に知っていたからだろう。だが、女院は明らかに違う。彼は女院と言う存在、彼女が築いたサロンと法金剛院、その邸宅などからインスピレーションを受けて、詠歌に取り組んでいる。
堀河もまた、女院の崩御をテーマにした歌を数多詠み、女院の崩御後間もなく『待賢門院堀河集』を編んでいる。そしてその歌集には、わざわざ女院の同母兄実能の右大将就任を祝う歌が、詳細な詞書と共に入っている。西行が女院の崩御や、それから半年以内に起きたことからインスピレーションを受けたなら、堀河は、女院とその一族を盛り立てる為に、女院の存在をアピールする歌を詠んでいく。堀河と言う女性の生き様は、そこから見えてくるように思える。


●喪服あれこれ●

女院の死後間もなく、世の人々はちょっと首を傾げることとなった。思いもよらぬ人が、女院の死を誰よりも嘆いているらしいのだ。それは、もう女院への愛情はとうの昔に醒めていたと思われる、法皇その人であった。

女院の兄である実行卿は、崩御の翌日に着始めるべき喪服を、数日間着なかった。それをお聞きになった法皇が、「実能卿は着ているのに、実行卿は着ていないとは。不忠の臣と謂うべきだ」と強い口調で仰ったので、実行卿は慌てて喪服を着たらしい。(『台記』同年九月十九日より)

実は、女院の兄実能や女院の甥達は崩御の翌日に、夫の法皇は崩御の五日後には喪服を着ていた。しかも、妻の喪の場合は喪服は鈍色(グレー)と決まっているのに、法皇は両親の喪の場合に着用する黒色の喪服を身に付けていた(『台記』同年八月二十三・二十七日)。法皇は愛欲を断ち切るべき出家の身であるから、落飾した后に対する想いをルール違反の喪服で示すことは、決して誉められることではないのに、である。
対する実行は女院の異母兄かつ側近だったが、蔵人頭経験者で実務に長け、法皇の院庁を束ねる立場にもあった。その一方で、異母弟実能とは近衛大将や大臣、ひいては家門の当主の座を巡って対立するなど、一筋縄ではいかない兄弟関係だったことで知られている。実行が喪服を着なかったとすれば、理由はただ一つ。法皇のご機嫌伺いである。摂政、左大臣、内大臣に次ぐ大納言筆頭の実行にすれば、まさか法皇がこれほど女院の死を悲しむとは思わず、喪に服さずに仕事を優先していたのかもしれない。
『台記』の筆者頼長は、成人してから二十六歳のこの年まで主君と呼べる人の崩御を経験したことがなかった。その為、彼はそのような時に何をすべきか、どのような振る舞いをすべきかを学ぼうと、公卿達の姿を細かくチェックしている。すると、なんと法皇と実行の他にも、若い頼長を驚かせる違反者がいるではないか。しかもそれは、彼が最も尊敬する人と言っても過言ではない左大臣源有仁だった。

左大臣は、今日の法事に「心喪服」を着て来ている。父の禅閤にそのことを知らせると、禅閤は「左大臣の振る舞いは前代未聞だ」と仰せになった。(『台記』同年九月二十九日より)

女院の同母姉を正室とする左大臣有仁は、何年も前から体調を崩しがちで、女院の法事に参列するのもこの日が初めてだった。ちょうど三日前には女院の五七日の法事が盛大に執り行われたが、その時はいなかったのだ。そして、頼長の驚きの理由はその五七日の法事の日に記されている。

今日の法事には「心喪服」を着ていくつもりだったが、宇治の禅閤から「大臣はこのような時は喪服を着るべきではない」と言う仰せがあった。悲しいことだ、私は孝の為に父の命令を重んじ、主君を敬う礼の心を失った。(『台記』同年九月二十六日より)

この場合の「心喪服」とは、故人の喪に服す必要のない者が、自ら望んで喪に服す際に纏う装束である。つまり、頼長も有仁も、女院の姻戚ではあるが女院本人の縁者ではないので、本来は喪服を着る必要はない。特に、大臣ともなれば帝の代わりに政務を執ることもあるのだから、軽々しく憚りのある喪服を着るべきではないと反対されるのは尤もなことだった。事実、かつて女院の婚約者だった摂政忠通は、女院の法事には一切関わっていない。ところが、故実に精通する有仁は、四十九日の法事でも頼長の知らないタイプの喪服を着て、またも頼長を驚かせた(『台記』同年十月十一日)。
そもそも有仁は、若い頃は白河院の養子として、法皇に万一のことがあれば即位も有り得る立場にいた。臣籍に下ってからも誇り高い彼は、政界への復帰を果たした禅閤忠実が、足が不自由な為に忠通に支えられながら正月の拝礼に参加した時ですら、忠実に向かって微笑むだけで、立ち上がることすらなかったと言う(『中右記』天承二年正月三日、『愚管抄』巻第四)。権門の家であろうと追従せず、非の打ち所のない優秀さで我が道を行く有仁は、まさしくこうありたいと頼長が憧れてやまない存在だった(『台記』久安三年二月三日)。
ただ、そんな彼にも儘ならないものがあった。健康と嫡男だ。彼には息子が一人もおらず、持病を抱えていた。この時も法事の日から間もなく有仁の病は悪化している(『台記』久安元年閏十月九・十七日)。そして、女院の死から一年半後、有仁もまた女院と同じ四十五歳でこの世を去った。



まだ続きます…。
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