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美福門院得子の若き日々と崇徳天皇退位のこと。

長い記事なので、お暇な時にどうぞー。


鳥羽院の后の中には、後世の人間によって「九尾の狐が化けた絶世の美女・玉藻の前」のモデルにされ、恐らく中国史上最強の悪女・妲己(だっき)と同一視されている、気の毒な女性がいます。それが、美福門院こと藤原得子です。
ちなみに、妲己は、仙界冒険ファンタジー封神演義のヒロインとしてお馴染みの超絶サディスト美女で、「なんて手間のかかることを…」と言いたくなるような拷問を見ないと笑わないと言う、個性のキッツいキャラクターで知られています。しかも、王がこの妲己を寵愛した結果、王は死に、古代国家・殷は滅びたと言うオマケつきなので、美女悪女と言っても楊貴妃他とは、レベルが違います(※楊貴妃自身は殺され、王は都落ちをしましたが、後に復活し、国も滅びていません)。
そう考えると、得子に対して「玉藻の前のモデルなんじゃね?」と考えること自体、得子に対するイメージってどんだけ酷いの…な感じなのです。

一般的にも、得子はよく待賢門院と対立していたとして紹介されますが、待賢門院が四十五歳で崩御した時、皇后宮だった得子はまだ二十九歳。十八歳の時に鳥羽院に寵愛されるようになり、四十四歳で崩御した得子にとって、待賢門院は脇役ではありませんが、所詮は人生の中盤までしか登場しない、主要キャストの一人に過ぎません。得子と言う女性を考えるには、待賢門院だけでは明らかに不足なんです。
では、誰が最も長く、深く得子の人生に影響を及ぼしたのか?
それは、この5チームではないでしょうか。

1.夫……鳥羽院(得子四十歳の時に崩御)
2.摂関家……高陽院藤原泰子(夫の別妻で長女の養母。得子三十九歳の時に崩御)&皇嘉門院藤原聖子(長男の近衛帝の養母かつ国母。得子より五歳年下で長生き)&関白藤原忠通(泰子の兄で聖子の父。得子の崩御から四年後に薨去)&大殿藤原忠実(忠通と泰子の父)&左大臣藤原頼長(忠実の庶子。忠通の養嗣子)
3.夫の嫡男……崇徳天皇(崇徳上皇・崇徳院)
4.待賢門院とその血を引く者達……待賢門院&後白河天皇&上西門院&覚性入道親王&重仁親王&二条天皇
5.得子の家族……親兄弟&次女[日章]子内親王&三女[女朱]子内親王

この5チームの大多数が、待賢門院より遥かに長く得子の人生に登場し、関わっていきます。つまり、得子がどのような女性であったかを考えるには、この5チームがそれぞれ得子に及ぼした影響がどんなものであったかを見ていく必要があると思うんです。
そして、確かに、敢えて得子の人生を総括するなら、彼女には「平安時代きってのシンデレラガール」と言う言葉が最も相応しいのですが、この5チームとの関係を見ていくと、シンデレラガールとなった得子を待ち受けていたものの複雑さとか、崇徳天皇の退位に彼らがどう関わっているのかがわかるんじゃないかなあ……と言う話を、以下つらつらと。

●得子のプロフィール●
得子の父・藤原長実は、白河院の乳母子として権勢をふるった顕季の嫡男です。この顕季は、待賢門院の祖父・閑院流藤原実季の養子となって、実季の正室藤原睦子の妹を妻としたので、長実とその弟・家保は璋子の父・公実の従弟でもあります。そして、この縁により、長実兄弟は入内を控えた待賢門院の家司に任じられ、特に長実は待賢門院の第一子・顕仁親王の筆頭家司として生涯待賢門院親子に尽くし、受領層ながら権中納言に至りました。ただ、長実は学才に乏しく、思慮深さにも欠けていた為、義弟源師時からも「愚か者」とこき下ろされています(『長秋記』)。歌人でもありました(得子にも『美福門院集』と言う歌集があったそうなのですが、現存していません)。
得子の母は、左大臣でありながら実権を得られずに終わった村上源氏の当主・源俊房の娘・方子です。長実より九歳年上で、なんと、得子を産んだのは数えで五十二歳の時でした。方子は長生きし、無位だったのに、八十歳を越えてからいきなり従一位に叙されると言う栄誉に輝きました。
得子自身は待賢門院が入内した永久五(1117)年に八条東洞院第(八条大路北、烏丸小路東)で誕生し、父四十三歳、母五十二歳と高齢出産の子であった為、両親に可愛がられて育ちました。長実は、自身が公卿になってから得子が結婚適齢期を迎えた為、将来有望な公卿を婿にしたいと願い、死期の迫った長承二(1133)に時の右大臣源有仁と、待賢門院の甥・参議藤原公教に話を持ちかけています。しかし、間もなく父を亡くそうとしている娘の縁談は上手くいかないもので、結局得子の話も纏まらず、失意の中、長実は世を去りました(『長秋記』)。
実は、この時点で、得子の兄弟は皆受領ではありましたが、公卿どころか公卿になれそうな人もいないと言う有り様でした。得子の一門の中心は、長実ではなく、長実の弟・家保と、その息子で鳥羽院から寵愛されている家成に移っていたのです。
長実からの莫大な遺産はありましたが、将来の道筋は見えないまま、得子は父の為に一年間、重い喪に服します。唯一の味方である母の方子は六十八歳、髪を下ろして「越後尼公」と号していました。



* *


●「院の寵人」●
前途に不安を感じたまま、一年間父の喪に服すこととなった得子。ところが、なんとその服喪中に、彼女は時の上皇(鳥羽院)に密かに寵愛されるようになります。
その馴れ初めは、上皇の禁忌の恋愛が描かれている『とはずがたり』を参考に考えると、まず仲介者を通して、上皇が得子を当時待賢門院と同居していた白河北殿に内密に召し出し、以後は引き続き目立たないように通わせるか、あるいは白河北殿内の殿舎に留めて、寵愛した可能性が高いです。
ただ、いずれにせよ、正式な婚姻ではなく、秘密の愛人扱いであることは変わりません。しかも、父と言う最も重い喪中の婚姻や肉体関係は本来禁忌です。それを破って寵愛されたことも、上皇の得子への扱いの軽さを端的に示しています。
さらに、当時、待賢門院が瘧病の為に療養中であったことも事態を悪化させ、その年の八月、長実の一周忌を前に、得子の兄弟は帝(崇徳天皇)から尽く勘当に等しい処罰を受けました(『長秋記』)。帝にすれば、得子への寵愛は、側近だった長実への帝の厚恩を蔑ろにするものに他ならない為です。その上、上皇はこの処罰を黙認したらしく、得子の一門を助ける為に動いた形跡はありません。
こうして、得子は最悪の形で貴族社会に放り出されました。
でも、彼女は強運の持ち主でした。
翌年一月に上皇と待賢門院の御所が焼け落ちると、得子が伝領していた二条万里小路第が上皇夫妻の本御所に選ばれ、さらに、数ヶ月後には第一子を懐妊。得子は漸く「院の寵人」として公卿社会で認知されます。
ところで、得子が懐妊しても、今度は処罰はなかったらしいんです。何故でしょう。

●待賢門院の思惑●
得子が処罰を受けなかった理由を考えるには、まず得子の懐妊した時期を考える必要があります。
得子の第一子の誕生は十二月四日ですから、得子が懐妊したと考えられるのは、長承四(1135)年二月から四月と見てよいと思われます。
実はこの時期、上皇の行動はかなり判明していて、二月二十五日から五日間は皇后宮藤原泰子と、二月二十九日から四月二十八日までは二条万里小路第で待賢門院と同居していたことがわかっています。つまり、得子が帝から処罰されずに上皇の寵愛を受けるには、待賢門院の暗黙の了承と、待賢門院からの帝への取り成しがあった可能性が高いんです。
そして、なんと待賢門院には、得子への寵愛を黙認する理由がありました。
それは、当時、まだ妊娠可能な年齢の皇后宮藤原泰子がいたからです。

泰子は、摂関家の当主忠実の嫡女、摂政忠通の同母姉と言う生まれから、もう三十年以上も上皇の后候補とされ続け、得子懐妊の二年前に漸く上皇との婚姻を果たした苦労人でした。この時、泰子は数えで四十一歳と若くはありませんが、平安時代、四十代での出産はよくあることだったので、当然、彼女は摂関家サイドから懐妊を期待されていました。
一方、このように強力な後見を持つ彼女から皇子が生まれたら、待賢門院と帝の地位が大きく揺らいでしまうことはまず間違いありません。
よって、泰子の婚姻後、待賢門院は一貫してそれを恐れました。幸い、上皇も泰子の懐妊は望んでいませんでしたが、たまにでも二人に夫婦生活がある以上、何が起こるかわかったものではありません。それなら、父もなく強力な後見もない再従姉妹(得子)が寵愛される方が、有り難い……待賢門院がそう考えた可能性は、十分あります。
ちなみに、こう言う場合は、普通、待賢門院自身かその女房が寵愛されるよう仕向けるものなので、待賢門院がそう望んだ可能性も否定出来ませんが、かつて待賢門院の第一の女房は、一時の寵愛の末に、上皇の命令で辞任させられています。待賢門院も、末息子は生死をさ迷う難産の末に産みました。もう危ない橋は渡りたくない、寵愛は要らないと考えても、不思議ではありません。
事実、得子が懐妊した年も待賢門院は法金剛院での長期滞在をしていて、上皇の寵愛を積極的に望んでいた様子が見えません。
さらに、待賢門院が得子を庇護したと言う根拠としては、永治元(1141)年に結縁された一品経があります。
この一品経には、上皇や、女房五人をはじめとする待賢門院とその側近、待賢門院の後見人である太皇太后宮令子内親王とその女房二人が参加していますが、泰子の関係者は全く参加していません。にも関わらず、得子はその乳母伯耆局と共にこの一品経に参加しています。
この一品経を主導したのが待賢門院であることは、参加人数から見ても間違いありませんし、一品経は元々親しい人間同士が誘い合って結縁するものです。この時の参加者を見ても、身分問わず、誰しもが待賢門院と繋がりを持っています。
見過ごされがちですが、このことは、待賢門院の第一子である帝の退位間近の永治元年においてすら、待賢門院はあくまで得子を敵対視してはいなかったと言うことの何よりの証拠ではないでしょうか。

●鳥羽上皇の摂関家対策●
ところで、肝心の上皇は、得子の処遇についてどう言う考えを持っていたんでしょう。
その答えは、得子の第一子・叡子内親王にあると思います。実は上皇は、この皇女を待賢門院には預けず、泰子の養女としたんです。
これは、新婚なのに無視され続けている泰子と摂関家に気を遣って、摂関家が得子を攻撃しないよう、「得子の産んだ子は、摂関家のものだ」と釈明したことを意味しています。また、この養子縁組によって、得子は「院の寵人」と言う召人状態から脱却し、従三位と言う女御クラスの身分を得ることに成功しました。
得子が産んだ子を摂関家に渡し、その代わりに、生母だからと得子の身分を引き上げると言うこのやり方は、大成功。味をしめた上皇は、得子の長男・体仁親王の場合にもこのやり方を用いました。体仁親王が帝の中宮藤原聖子の嫡男として立太子したことで、得子に女御宣旨が下り、親王が帝となった時には、得子も立后して皇后宮と呼ばれるようになったんです。
しかも、得子が女御になった時、上皇は再び泰子に気を遣って、彼女に『国母』としての院号宣下を許しました。結局、実際には国母ではない彼女を国母扱いすることに対してのバッシングが激しかったので立ち消えとなりましたが、以後、泰子は高陽院と呼ばれて、待賢門院とほぼ同格の后として君臨します。
上皇は、摂関家の嫡女である泰子と聖子に子供がいないことを巧みに利用し、彼女達に得子の産んだ子を渡すことで、摂関家と得子を運命共同体にし、得子を保護したんです。
もっとも、だからと言って、待賢門院に対抗する形で得子と高陽院が連携したかと言うと、前述した一品経への参加を見ても、どうも納得がいきません。養子縁組も、子沢山の待賢門院にはそもそも養子は必要がないことなので、比較しようがありません。
私見を言えば、得子は法皇の意のままに、「あなたこなた」していたのではないでしょうか。共に強大な権力を持つ待賢門院と高陽院(つまり摂関家)に対して、どちらのメンツも潰れないように機嫌を取る、それが「寵愛と言う薄弱な基盤しか持たない三人目の女」の当たり前の行動だと思うんですが、どうでしょう。

●近衛天皇の『国母』って、誰?●
永治元(1141)年十二月、長男・体仁親王(近衛天皇)の即位を受けて、二十五歳の得子はついに立后し、皇后宮と号します。上皇の夫人の立后は、高陽院に次いで二例目です。
同時に、中宮藤原聖子は新帝の『母儀』として皇太后宮と号し、先例に従い、内裏を出た夫・新院(崇徳院)とは別に内裏に留まって即位式に参加しました。『国母』として、新帝と共に高御座に上ったんです。
実は、平安時代を通して、『国母』が「皇后宮」として立后した例はありません。実際には新帝を養育したことのない人物が、『国母』の不在に伴い即位式に参加する時にのみ、適用されています。
何故なら、本来「皇太后宮」と言う呼び名には「帝の母」と言う意味があるんです。
だから、この場合だと、あくまで新帝の「母」は「皇太后宮」聖子でした。事実、新帝をずっと養育してきた聖子は、以後、待賢門院が国母時代に使っていた仁寿殿代を御所とし、『国母』として働きます。新帝も、聖子を母と慕い、聖子の母を祖母と慕っていたと言う記録が残っています。
得子はと言うと、たまに参内しても、使用した殿舎はあくまで新帝が東宮時代に使用した東対(昭陽舎代)でした。得子の公的身分は、「新帝ゆかりの人」に留められています。

●崇徳天皇退位のメリット●
時を遡ること二年半前、得子腹の長男が中宮聖子の養子・体仁親王として東宮に立つことが決定した時から、上層部では「人員整理」が行われるようになっていました。
泰子への院号宣下を皮切りに、
待賢門院の同母兄実能の右大将&東宮大夫就任、
待賢門院腹の雅仁親王の元服&三品宣下&左大臣源有仁養女との婚姻(雅仁親王の皇位継承権の強化)
成人年齢を迎えた待賢門院腹の二親王の出家(皇位継承権の放棄)
摂関家の当主藤原忠実の准三宮宣下と出家(忠実の政界からの引退と格上げ)
上皇の出家(上皇からは以後、皇位継承権を持つ皇子は生まれないと言う宣言)
高陽院の出家(皇位継承権を持つ皇子の養母になる権利を放棄)
帝の庶子(重仁)と女御得子の養子縁組とその庶子への親王宣下(皇位継承権の獲得)
……と言った勢力間のバランス調整が行われたのです。
これらのうち、得子に特に影響を及ぼしたのは、后妃との肉体関係の消滅を意味する上皇の出家と、重仁親王との養子縁組でしょう。この二つは、共に上皇からの「得子が立后してもしなくても、もう得子との子は儲けない。もし得子の長男が早世しても、得子の実子ではなく、得子の養子(待賢門院腹の親王の子)を皇位に据える」と言う宣言に他ならないからです。
それを証明するかのように、上皇の出家後、得子が懐妊することはありませんでした。以後もその崩御まで夫婦として同居してはいましたが、実際に上皇の寵愛を受けて子を産んだのは、数にも入らない召人…つまり女房でした。
また、上皇は、新帝即位に伴い『国母』の地位を失う待賢門院に対してはその四男・雅仁親王に左大臣と言う強力な後見を与えることで再度『国母』になれる可能性を与えて、新帝の『国母』となる聖子と摂関家に対しては帝(崇徳天皇)の庶子に過ぎない重仁親王に皇位継承権を与えることで牽制しています。
このように考えると、体仁親王即位に備えて行われたこれらの人事は、上皇の単なる我儘ではなく、上皇、摂関家、閑院流と言う三者がそれぞれの権力を保つ為に必要なことだったと考えられるんです。
例えば、閑院流からすれば、崇徳天皇が中宮聖子との間に皇子を儲けることは望ましくありませんでしたし(閑院流が完全に外戚の地位を失うから)、摂関家にしても、忠通はこれで外祖父となり、父の復活や閑院流の増長で失墜していた権威を取り戻す希望が見えました。頼長は実能の血を引く養女を新帝の中宮にし、兄と共に真の摂関政治を復活させることを狙えばいいわけです。
待賢門院も、上皇が出家した上に、彼女には雅仁親王がいるので、文句を言う必要はありません。天皇の生母の身分が重要視される平安時代において、生母が女房に過ぎない重仁親王に比べれば、后腹の雅仁親王は圧倒的に有利で、妻の身分から言っても皇位継承権第一位の座は確実にキープ出来ます。
それはすなわち、待賢門院の権威も維持出来ると言うことです。何より、これで摂関家に恨まれなくなります。
退位する帝にしても、父からはもう二度と皇位継承権を持つ皇子が産まれない以上、猶予を楽しみながら二十歳の聖子と子作りに励むか、閑院流の娘を女御にしてもいいと言うことになります。両親も、退位してから五人も子を儲けたわけですから。
また、忠通が晩年に儲けた息子・慈円が書いた『愚管抄』によると、「退位に際して帝は父の法皇に対して遺恨を抱いた」と言うことですが、遺恨の原因とされている『皇太弟』問題がそこまで重要だったかは甚だ疑問です。そもそも、遺恨などあったんでしょうか。

●崇徳上皇の退位後の生活●
実は、こうして十二月に退位した新院(崇徳上皇)は、翌一月の三ヶ日を父(鳥羽上皇改め法皇)や得子と過ごしました。それに対して、退位後の新院が母・待賢門院に初めて会うのは、退位から二ヶ月後の二月十一日です。その間、父とは何度も一緒に過ごして、仲良く同車して出掛けてもいると言うのに。
ちなみに、この時の新院は、満年齢で二十二歳。遺恨を隠して父と一緒に出掛けるのを楽しめる年齢だとは到底思えませんし、そもそも、だったら一緒にいる必要がありません。遺恨などなく、父子で仲良くやってたと考える方がしっくり来ます。
しかもその間、待賢門院は大変な目に遭っていました。即位から一ヶ月もしない内に、彼女の乳母子が日吉社での祈祷を理由に廷尉に、判官代とその妻の女房が「待賢門院の命令で、国母皇后宮(得子)を呪詛した」と言う罪状で検非違使に捕まったのです。
「国母呪詛」とは、要するに国家反逆罪。得子が立后で慌ただしくしていた頃、公的には『国母』ではない彼女が『国母』として国家と同一視され、呪われたことになります。

●待賢門院に何故反逆罪の裁定が下されたのか●
この事件は速やかに処理され、判官代夫妻は一月十九日には流刑とされました。待賢門院はと言うと、引責出家を余儀なくされています。
では、待賢門院は本当に呪詛をしたのでしょうか?
答えは、平安時代の「反逆者」の中でも、待賢門院のように最高権力者の一人であった人物をピックアップすると見えてきます。菅原道真、源高明、藤原伊周(寛弘六年の失脚)……彼らの共通点は、「破格の出世を遂げ、有力な皇位継承権を持つ皇子を擁している」ことです。これは、雅仁親王を擁する待賢門院にぴったりと当てはまります。
そして、「反逆者」に罪を被せるのは、「帝の下で最も政治の実権を握っている人間」と決まっています。この場合なら、それは待賢門院の夫・法皇こと鳥羽院に他なりません。
つまり、法皇の勢力間のバランス調整の仕上げは、后の中で唯一非の打ち所のない皇位継承候補を擁している待賢門院を、『国母皇后宮呪詛』の罪で凋落させることだったのではないでしょうか。
その証として、当時を知る信西が書かせた歴史書『本朝世紀』と頼長の日記『台記』には、呪詛が露顕したのは密告者が法皇に注進したからで、検非違使を派遣したのも法皇だと明記されています。よく黒幕扱いされる摂政忠通は、一切出てきません。
と言うより、逮捕は法皇の独断で行われていて、摂関家は全く関与していないんです。詳しくは後述しますが、むしろ、摂関家からすれば、この事件はいっそ握り潰してしまいたかっただろうと思えるほど、デメリットしかない事件でした。
ちなみに、出家した待賢門院はと言うと、数ヶ月後には法金剛院で百日間仏事を続けると言う一大イベントを開催し、「私は仏事に専念し、隠居しました」とアピールする傍ら、「反逆者にされようが、私にはまだまだ支持者がいて、この通り、莫大な費用を要するイベントを開けますよ」と底力を見せています。しかも、反逆罪による出家に、世の人々は大いに同情しました。待賢門院は、出家によって政界から自身を抹殺しましたが、時機を失することなく的確に対応したことで、傷を最小限に留めたと言うわけです。待賢門院とは、そう言う人物でした。

●摂関家と待賢門院の無実の根拠●
ちなみに、『国母皇后宮』の得子を呪詛したことに関して、摂関家と待賢門院の無実は証明可能です。何故なら、両者は共に、絶対に得子を『国母』と認めるはずがないからです。
例えば、もし黒幕が摂関家の人間…例えば忠通なら、得子を『国母』にすることは、娘・聖子の『国母』としての権威と、自身の外祖父としての権威を真っ向から否定することに繋がります。そんなことをしたら、新帝即位を実現した意味がありません。
待賢門院を流刑にでもして、雅仁親王の皇位継承権を消滅させたならまだわかりますが、それは同時に、聖子の夫である崇徳上皇の零落も意味します。
娘が聖子一人しかいない忠通にとって、最も望ましい未来とは、近衛天皇を聖子が養育し、同時に崇徳上皇の皇子を聖子が産むことです。それで、聖子は完全な『国母』になり、忠通も完全な『外祖父』になれるんです。
待賢門院が本当に反逆者になってしまったら、忠通が完全な『外祖父』になる機会は一生訪れません。だから、忠通や摂関家が黒幕であるはずがないんです。
それは、待賢門院が本当に得子に対して呪詛をしたとしても同様です。得子を『国母』とすることは、得子を后の一人から、唯一無二の『国母』に…つまり待賢門院と同じレベルに格上げする行為なんです。泰子の時も、自らの格式と権威が脅かされることを何よりも恐れていた待賢門院が、そんなことをするはずがありません。
第一、待賢門院は引き続き皇位継承権第一位の雅仁親王を擁している上に、皇子誕生が期待出来る崇徳上皇までいます。彼女は圧倒的優位を保っているんです。即位一ヶ月以内に急いで得子を呪詛する必要なんてあるわけがないんですよ。
結論を言えば、得子を『国母』に格上げする必要があるのは、得子サイド、つまり法皇サイドだけでした。

●鳥羽法皇のもう一つの狙い●
待賢門院を凋落させた黒幕が法皇だとすると、何故罪状が『国母皇后宮(得子)への呪詛』だったのかも説明がつきます。
どういうことかと言うと、世間に得子を『国母』と認識させることは、相対的に摂関家(と待賢門院)の権威が落ち、得子の権威が上がることを意味しているんです。さらに、得子の権威が『国母』に等しくなれば、得子と同居している夫の法皇は、天皇に対して『国母』得子を通しての影響力をも行使出来ます。
実は、正式な『国母』が法皇とは何の関係もない聖子である以上、これは法皇にとって絶対に必要な『手続き』でした。
遡れば、上皇が最高権力者になる院政とは、「帝の母方の親族に適切な政権運営者がいない」ことに始まっています。白河院が最高権力者になったのは、彼が退位して上皇になったからではなく、息子・堀河天皇の外祖父師実&外伯父師通親子の相次ぐ死により、政界のまとめ役に相応しい年齢の人物が白河院しかいなくなった為なんです。院政とは、あくまで「正しい形で政権運営が出来ない」から始まった形式で、消去法の結果に過ぎません。
その上、院政にはまだ四十年の歴史しかないのに、その内、二十二年間は父ではなく祖父(曾祖父)が治天の君になっています。「父でなければ院政は出来ない」などと言う不文律が成立していたとは到底思えませんし、むしろその始まりを思えば、「ちゃんと政治経験があって、天皇との連携を取りつつ政権運営が可能な上皇」にこそ、治天の君たる資格があると言えます。
それに比べると、『国母』の権威は古代から万人に認められており、その証に、法皇は得子を寵愛するようになってからも、崇徳天皇の在位中は、年末年始は必ず『国母』の待賢門院と過ごし、元日の拝礼や朝覲行幸などの公式行事をこなしました。それだけ、法皇にとっての『国母』とは、自身の正当性を維持する為に必要な存在だったんです。
そして、それは実は新院にも当てはまります。聖子が『国母』になっている以上、聖子の夫である新院は、実は院政に必要な正当性をすでに所持しているんです。ただ、聖子との子がまだいない上に、若年だから分が悪いだけです。
ついでに言うと、基本的に天皇経験者はかなり短命で、法皇の前十代の天皇も、白河院を除く九人が四十五歳までに崩御しています。この時点で四十歳の法皇に対して、法皇自身も含めて、誰もが内心では「あと五年かも」と危惧し、新院は早く退位してその時に備えるべきだと考えていたとしても、非常識とは言えないでしょう。
よって、『愚管抄』が『皇太弟』問題を重視したのは、『怨霊』崇徳院の本当の遺恨である「非の打ち所のない皇位継承候補を持てなかったこと」を隠す為ではないかと思うんですよ。
何故なら、その原因は、崇徳院の唯一の后なのに一人も子を産めなかった、慈円の異母姉・聖子にもあるからです。つまり、慈円が本当に言いたかったのは、「崇徳院の前途を奪ったのは摂関家ではない。祟るなら、鳥羽院や得子の一族を祟ってくれ」と言うことなんじゃないかなーと…。

●得子の立場●
ところで、この事件当時、二十六歳の得子はどうしていたんでしょう。これらの動きに、彼女の意志は反映されていたんでしょうか? 私は、全く反映されていなかったと思います。
何故なら、得子には、法皇に対して自分の意見を押し通せるだけの根拠が何もないんです。
確かに得子の従兄・家成は出世していましたが、家成の出世は、彼自身が法皇の寵愛を受けているからで、その破格の出世も得子と法皇が出会う前にすでに始まっています。
第一、得子に本当に力があるなら、直に話したことがあるかも怪しい家成より、兄弟を抜擢させるでしょう。でも、この時期、得子の兄弟はどうしていたかと言うと、一番の出世株の兄・長輔ですら、新帝即位に伴い昇殿を停止され、地下に落とされると言う最悪の処遇を受けていました。他の兄弟は生死すら定かでないくらい、扱いが低いです。
得子への『寵愛』の実態は、このように手厳しいものだったんです。

●まとめ●
と言うわけで、崇徳天皇の退位は当たり前のことだったし、待賢門院の呪詛事件は、夫の鳥羽法皇が自分の権威を守る為にしたことだったんじゃないかな……と、『長秋記』『中右記』『兵範記』『台記』『本朝世紀』を総合した結果、思いました。
なので、得子が待賢門院在世中から『悪女』かと言うと、それは違う気がします。と言うより、鳥羽院、崇徳院、摂関家、待賢門院と言った権力者達の政治力を、もっと認識すべきなんじゃないかと。勿論人間なので愛情もあるとは思いますがw、身分制度と血の制約が厳しいこの時代に、「叔父子がー」とか「最愛の人だからー」とか、そんな「庶民か」とツッコミたくなるような感情の問題で何もかもが動くなんて、ちょっと信じられないと感じる今日この頃でした。

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  1. 2013.04.06(土) _21:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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