善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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トンマンとイ・ドの孤独の結末。@『善徳女王』と『根の深い木』

昨日はトンマン役のヨウォンさんの誕生日でした。おめでとうございまーす!vv

さて、『根の深い木』もとうとう二十話まで視聴完了し、ますます『善徳女王』との繋がりが面白い今日この頃。続きでまたまた語ります。

あ、『善徳女王』と関係ないところで個人的に嬉しかったのは、やっぱりチョ・マルセンの活躍でした。
チョ・マルセンは役者さんが(たぶん)大物なので、チョイ役では終わらんだろうと思っていましたし、官僚かくあるべし、な彼の言動が嬉しいです(*´∇`*) また、キレるポイントが、法的にも心理的にも「秩序の崩壊」に他ならない事件である『臣下による大君殺害』、と言うところがたまりません。なんだかんだ言っても、政治家になれない学者チョン・ギジュンと、根っからの政治家チョ・マルセンの違いが、はっきり打ち出されたなーと。
政治家と言えば、地味に出続けている、たぬきじいの領議政ファン・ヒも気になります。ファン・ヒと言う人物は、『龍の涙』でかなり印象的な人で、それで名前を覚えたので、『根の深い木』のファン・ヒが王様からも臣下からも一目置かれる絶妙なポジションを保っているのを見る度に、「なんかわかるわーたぬきじいだわー」とw(コラ)

そう言えば、『韓国歴史ドラマ秘話録』と言う雑誌にパク監督のインタビューがありました。パク監督のちゃんとしたインタビューは、日本だとかなり珍しいので(公式ガイドブックにもないんですよー)、もしよかったらご一読を…!



* *


人間、何かを作れば、必ず『個性』が出ると思います。だから、『根の深い木』には、『善徳女王』と共通する個性がたくさんあります。
端的に言うと、『根の深い木』の主要人物の持っている個性は、大体は『善徳女王』でも描かれているものだと思うんです。

例えば、イ・ドは、その生き方から見れば「コンプレックスから逃げずにミシルに立ち向かい、戦い続けた真平王」であり、政治家としては「統治の答えを民に見出だしたトンマン」であり、性格的には「喜怒哀楽がはっきりしているようでいて、彼を縛るものの為に何があっても耐え、生き抜くユシン」です。
カン・チェユンは、生き方としては「たった一人の病弱な親の為に命をかけるトンマン」であり、能力的には「武芸が達者で、目的の為なら政治を無視したアルチョン」であり、性格的には「破滅願望に飲み込まれないようストッパーを必要とするチュンチュ」です。
ソイちゃんは、生き方としては「誰もが理不尽な死を迎えることのないよう努力するトンマン」であり、能力的には「非力ゆえに、周囲のパワーバランスを見ながら思考を纏める交渉人チュンチュ」であり、性格的には「自らの苦しみは出来るだけ内に封じ込め、他者の悲しみや怒りを受け止めたチョンミョン」です。
チョン・ギジュンは、生き方としては「不本意ながら能力に合わない生き方を強いられてきたピダム」であり、能力的には「非常に明晰な頭脳を持つが、他者の能力を侮りがちで、実務的な思考に乏しかったチュンチュ」であり、性格的には「自らの感情やコンプレックスを、一見すると隙のない理屈で武装し、他者の罪悪感を利用したミシル」です。

とまぁこんな感じで、『根の深い木』には『善徳女王』のエッセンスが詰まりまくってい(るように見え)ます。
ただ、両者には決定的に違うところがあって、それは主人公のライバルによく表れています。『善徳女王』トンマンのライバルが、共に稀代の政治家であるミシルとピダムであったのに対して、『根の深い木』は、イ・ドの一人目のライバルである父イ・バンウォンは政治家でしたが、メインとなる二人目のライバルのチョン・ギジュンは、生まれてこの方政治家に憧れながらも、ついに政治家になれなかったキャラクターなんです。
つまり、どのようなライバルであるかが、主人公が何と戦っているかを意味するとすれば、『善徳女王』がとことん政治をテーマとしていたのに対して、『根の深い木』は政治よりも学問、つまり「万人の、学び、問う権利」をドラマの最も大きなテーマとして取り上げているんじゃないかなーと思いまして。何故なら、『根の深い木』のテーマは、「ハングル創製」と言う、多分に学問的なテーマですから。
と言うわけで、イ・ドとチョン・ギジュンの討論は、頗る学者同士の話し合いに見えます。チョン・ギジュンの実益を無視した過激さや、組織の損得を顧みないところも。

ただ、一人目のライバルが父イ・バンウォンだったように、イ・ドはあくまで政治家です。彼にとって、「ハングル創製」や学問は、彼の目指す「父イ・バンウォンとは違う」政治を模索する中で生まれた手段であって、それを人生の目標としているわけではありません。イ・ドが求めるのは、父のように唯一の力で何もかもを吹き飛ばすのではなく、青年時代に解いた魔方陣のように、例えあるべき枠からはみ出したとしても、より巨大な枠を…父の唯一の力など見えなくなってしまうような巨大な器を生み出して、調和させる、そのような政治です。その巨大な器を生み出す為に、イ・ドは戦っています。
ここら辺のイ・ドと、その父イ・バンウォンの考え方の違いは、『善徳女王』でもトンマンとミシルの違いとして表現されていて、父(ミシル)が息子(トンマン)の考え方を「青臭い」と感じながらも惹かれてゆく辺りもよく似ています。
そして、『善徳女王』では、トンマンの考え方を理解し、吸収した為に誰よりも強大な政治家となったピダムが、巨大な魔方陣を解き続けるトンマンの孤独を憐れみ、魔方陣と言う呪縛から彼女を解き放つ為に反乱を起こしました。『善徳女王』は政治ドラマであった為に、永遠に続く魔方陣のような政治に独りで向き合い続ける王(統治者)の孤独を炙り出し、同時に、寿命が削られるほど過酷な政治からの逃避に焦点が当てられていたんです。

ところで、『根の深い木』では、政治の過酷さを、「責任」と言う言葉で表現しています。学者の面目躍如と言うべきか、理論だけならバッチリなチョン・ギジュンは、「政治とは責任だ」と言い放ちます。国家と言う巨大な組織に対して責任を取れる僅かな人間のみに、政治家たる資格があるのだと。
確かに、『善徳女王』でのライバル役ミシルも、彼女の失敗を理由に自害しました。チョン・ギジュンも、大君殺害の責任を取り、「ハングル創製」さえ潰せたらと自害を匂わせ、イ・ドを暗殺出来るなら自分は死んでも構わないと言って、他者の手を借りる自害を主張しています。トンマンやイ・ドや、彼らを頼りにする周囲の人間は、自害なんて望んでいないのに、です。
これは、裏を返せば、ミシルやチョン・ギジュンは、責任を取ると言うことを「自害する」ことと同一視し、しかも、その為なら、秩序を保つ為にも彼らを裁くべき統治者を無視した上に、彼らを頼りにする人間を見捨てても良いと考えていると言うことに他なりません。これが、果たして「責任を取る」と言うことなのでしょうか?

『善徳女王』では、それは違うと語られています。
トンマンは、そしてトンマンの政治を誰よりも理解するピダムや、さらには三韓一統を果たすユシンは、政治家となってからは、絶対に「自害」を選びませんでした。トンマンはミシルの乱の最中、ミシルが支配する王宮に出頭しましたし、ピダムもトンマンの本陣に出頭していて、ユシンも王宮に出頭しています。三人とも、「出頭」こそが「責任を取る」と言うことだと、その行動で示しているんです。
では、何故、政治家にとっては、「出頭」こそが「責任を取ること」なのか?

その答えは、チョン・ギジュンが語った「始皇帝が目指した、法による秩序」の他にはありません。

政治家は、本来なら、「法(理性)による秩序」を目指します。
でも、理性だけでは人は治まらない。何故か? イ・ドはその答えを、「人間だから。人間には欲があるから」と語ります。欲が理性を凌駕し、理性の象徴である法をねじ曲げていくと。
それなら、チョン・ギジュンの言う「責任を取ることの出来る一握りの政治家」のあるべき姿とは、一般的な人間にはおおよそ不可能な、「法(理性)による秩序」を体現することなのではないでしょうか?
だとすれば、トンマン達のした「出頭」とは、まさしく「法(理性)による秩序」を体現することでした。トンマン達は、法によって裁かれるべく、自ら法の下に「頭」を「出」して、その命も名誉も法に委ねたわけですから。

政治家だからこそ、他の誰が守らなくても、それがどれだけ自分を傷つけ損なうことであっても、国家を保つ為に、「法による秩序」だけは守る。「自害」などと言う、「法」を無視した自分本意な行動は取らない。
『善徳女王』のトンマン達がこの理念を体現していたように、『根の深い木』のイ・ドもまた、大君殺害を受けて危うく責任を放棄しそうになったところでカン・チェユンに雷を落とされて、「法」の下に自らを据える決意を固めます。カン・チェユンが言ったように、責任を放棄した王は、もはや王ではないからです。
そして、イ・ドが王でなくなると言うことは、彼を王に据えた父イ・バンウォンをも否定することになります。チョン・ギジュンがバカにした「世襲制」は、一方では、父の業績を背負い、自らの責任をさらに増やすことでもあるんです。それなのにチョン・ギジュンが「世襲制」をバカにしたのは、自身の能力に自信があるから…と言うプラスな理由からだけではなく、実はチョン・ギジュン自身は、彼の浅はかな顕示欲の為に一家を滅亡させると言う、「世襲制」的には最悪のバカ息子であると言うコンプレックスもその理由であるはずです。

こうやって見ていくと、チョン・ギジュンはあらゆる面で無責任極まりない上に、ミシルと違って学者でしかないので、はっきり言って政治家イ・ドのライバルとしてはショボすぎます。
いったい、なんだってこんなショボいライバルにしたんだろう…とずっと不思議だったんですが、二十話を見た時、ふいにゾッとしたんです。ピダムがいたトンマンと違って、イ・ドの周囲には彼と同じレベルの……つまり、王になりうる政治家が誰もいないと。
いや、それは間違ったことではありませんが、要するにそれって、ピダムレベルの理解をイ・ドに対して示す人間は、誰もいないと言うことじゃないですか。ピダムレベルの理解がなければ、トンマンの孤独は一瞬たりとも癒えなかったのに。
……それを考えると、「チョン・ギジュンが恐ろしくショボいと言うことは、イ・ドの孤独ってどうなんの…?」と、ふいに不安になってきまして。
確かにカン・チェユンはイ・ドに喝は入れますし、イ・ドの活力源ではあるんですけど、だからと言って、政治家としてのイ・ドを理解しているわけではありません。ソイちゃんは、理解はあっても、活力源になるにはあまりに脆く、優しすぎます。他は論外です。(チョ・マルセンだけは「法による秩序」を体現していますが、そうである以上、「法(理性)」と相反する王の孤独(感情)は、相応しくないものとして無視するしかありません)

となると、結局、イ・ドには、ピダムのような存在すら現れないまま、「法による秩序」に全てをなげうつ道しかないんじゃ…と、最近予想しています。
でも、個人的にそれが一概に悲しいかと言うと、実はそうでもないんですよねー(えっ)
私にとって、『善徳女王』の何が悲しいって、トンマン(感情)にピダムと言う最高の『希望』が現れたのに、ピダムが誰よりも女王(理性)を理解していたが為に、トンマン(感情)の『希望』が打ち砕かれるところなんですよ。そして、トンマン(感情)をもピダムが理解した時、ピダムは女王とトンマンの両方を救う為に、我が身を刃に切り刻ませるしかなかった、と言う…。
この、『お互いを理解しているからこその結末』が、私には何より悲しかったんです。今も思い出し泣き出来るくらいに(笑)

でも、イ・ドには『お互いを理解しているからこその結末』が訪れる気配は全くありません。
理解されないと言うのは、ありふれたことです。もし、イ・ドに訪れる結末がそうであるなら、悲しいし、ゾッとするけど、『善徳女王』のように泣き暮らすことはなさそうだな…と思う、イヤミな今日この頃です(ノ∀`)
あれです、結論を言えば、イ・バンウォンとイ・ドのやり取りをもっと見たかったと言うことですね!w



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  1. 2013.04.10(水) _19:00:00
  2. 『根の深い木』を見て
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