善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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藤原苡子@平安時代のとある恋愛譚。

ただいま、『二人の王女(めちゃくちゃな邦題ですな…)』と言う、則天武后とその娘の太平公主を描いた中国ドラマを飛び飛びに視聴しています。
このドラマ、ホントにターゲットがはっきりしていて、美男美女ばかりが登場し、乙女向きなセットには年がら年中ちょっと糸屑がほつれたりもしている花が咲き(綺麗なんですが、明らかに造花なんですよw)、目の保養度が半端じゃないんです。中国ドラマなのに、砂埃ゼロですよ! しかも、内容はそんなに甘くもなければドロドロでもなく、ヒロインが真顔で暗殺命令を出したりする、と言う…。
なんと言うか、くどい煩い粘っこいが持ち味の韓国ドラマに対して(←コラw)、雄大なセットを用いながらもこざっぱりとした味わいが特徴と言うのは、中国ドラマならではな気がします(ノ∀`)
また、十話くらいから視聴し始めたので、人間関係がわからんと思って公式を見たら、何故か宣伝文句に『善徳女王』が! 「ちょ、見透かされてるww」と、ちょっぴり情けなくなりました(笑)
そう言えば、このドラマには「阿ー弥ー陀ー仏ー」が決め台詞なお坊さん集団が登場するのですが(南無阿弥陀仏なら意味わかるけど、阿弥陀仏…?)、それがもう、ガラの悪い連中で!w 勿論仏典に精通していてお経も読めますが、持ってる槍で近衛兵と「少林寺かよ!?」な戦いを始めますし、なんだか、「日本の悪僧もこんな感じだったのかも…」と思いました。武士と合戦できるレベルですもんねー、悪僧。あと、このドラマに出てくる仏像はかなり衝撃的なビジュアルなので(私は爆笑しました。←)、これからご覧になる方は、それもぜひぜひw

纏めますと、『二人の王女』、楽しいですよー(・∀・)/




※以下、日本史ネタです。

白河院が「入内」させた姫君と言えば、待賢門院藤原璋子ばかりが取り沙汰されますが、実はそれ以前に、白河院は一度、とある姫君の後見となって、その姫君を「女御に参」らせています。他ならぬ待賢門院の夫の鳥羽天皇の生母・藤原苡子です。

苡子は閑院流の藤原公実の妹で、璋子には叔母にあたります。
苡子の父の実季は、大臣まであと一歩のところで急死していて、実季の末娘の苡子が入内した時には、長兄の公実も権中納言に過ぎませんでした。兄妹の母・藤原睦子は存命でしたが、無位です(ちなみに、苡子は実季四十二歳の時の子で、公実は苡子より二十三歳も年上の兄)。要するに、苡子は入内どころか、女御になれるかどうかすら怪しいところにいました。
一方、ようやく二十歳になった堀河天皇は、堀河天皇の典侍でその情人でもあった讃岐典侍の『讃岐典侍日記』や、堀河天皇ラブな藤原宗忠の『中右記』によると、気遣いの出来る優しく勤勉な天皇でした。この頃は、叔母であり中宮でもある篤子内親王と仲睦まじく暮らしていましたが、二人の間に子供はいません。
篤子は白河の同母妹で、堀河が元服した時に時の関白藤原師実の養女として入内しました。しかし、堀河より十九歳も年上だったので、堀河が二十歳となった今はすでに懐妊の望みは薄く、白河&堀河の皇統は断絶の危機に瀕していました。
しかも、じゃあと次の后妃を入れたくても、摂関家には相応しい女がいません(いないから、篤子内親王が中宮になったわけですが)。
そこで、白河が白羽の矢を立てたのが、今は亡き白河の母・茂子の姪にあたり、白河の近臣である公実の妹・苡子でした。苡子はこの時、二十三歳。その死去までは四年と少しと、僅かな時間しか残されていませんでしたが、苡子の激動の人生は、この時始まりました。


※以下、出典は中右記、殿暦、為房卿記です。






* *


白河は、苡子を同母妹である俊子内親王の養女にして女御となる資格を得させてから、承徳二年(一〇九八)十月十六日、院御所で女御の参内定を行った。宗忠はこの行動を、「上皇に旧意がある為に、御自身で沙汰をなさっているのである」と評している。宗忠の言う通り、関白藤原師通を筆頭に、大半の上達部は苡子の動向を完全に無視しており、定に参入した公卿は苡子の兄である公実、保実、仲実の三人と、新中納言の藤原宗通のみであった。また、中宮の篤子は定の前後から風病に罹患し、半月ほど病悩している。
そのような雰囲気の中、二十九日の深更に及んで、苡子は白河の用意した唐車に乗って公実の三条高倉第を出立した。二十人の女房に加えて童女と半物も四人ずつ従え、輦車宣旨も受けた苡子が入ったのは、皇居高陽院の西北対。元々は内裏女房の局だったのを、賜ったのである(堀河が西対を、篤子が東対を御所としていた為、篤子の御所の側を通らずに夜御殿に上がれるようにと堀河が取り計らった模様)。
また、御衾役は、堀河の母賢子の同母弟である右大将源雅実が務めた。これは堀河の要請によるものだろう。雅実は、十一月五日には三ヶ夜餅の陪膳役も果たしている。
十一日には後朝の御使が堀河から苡子に送られ、その日の内に、堀河は初めて西北対に渡御する予定だったが、物忌により渡御は十二月八日に延引された。よって、苡子は十二月八日になって漸く女御に宣下され、晴れて堀河の后妃の仲間入りを果たした。
尤も、入内後、三ヶ月も渡御がないと言うのは異常であり(相応しい日に毎回物忌があったらしい)、苡子を優遇し過ぎてはならないと言う貴族社会の意志が感じられる。しかし、堀河は苡子を寵愛し、十一月の内に苡子は早くも懐妊した。
なお、十二月十六日には、養母の俊子が参内して苡子を祝い、二十八日まで滞在している。恐らく、同母妹の篤子と養女の苡子の間が上手くいくよう、仲介役になっていたのだろう。この時、苡子は二十三歳、堀河は二十歳であった。

明けて康和元年(一〇九九)になると懐妊が公にされ、一月二十四日には早速皇子誕生を願って伊勢に勅使が派遣された。堀河の強い喜びが伝わってくる一事である。三月四日、御産が近づいた苡子は御産所に選ばれた藤原宗通の東洞院第に退下した。しかし、あまりに慌ただしい懐妊は苡子の体に悪影響を及ぼしたようで、四月四日、苡子は妊娠六ヶ月で流産してしまう。男子であった。もし、この時に皇子が無事誕生していたら、世の中はどうなっていたのだろうか。
そして、苡子の流産から僅か二ヶ月後の六月二十八日、宮廷には激震が走り、苡子を取り囲む政局は一変する。苡子の懐妊中から病悩していた三十八歳の関白藤原師通が死去したのである。遺されたのは、五十八歳になり、すでに隠居している父の前関白師実と、二十二歳の男忠実であった。その上、権大納言に過ぎない忠実は関白に就任出来る立場になく(関白就任は大臣にのみ許される)、内覧の宣旨は下されたものの、政治の実権は白河と堀河親子に大きく傾いた。それを象徴するかのように、十二月二十七日に堀河の近臣である藤原宗忠の院昇殿が許され、以後、宗忠は両者を繋ぐ連絡役になっている。

翌康和二年(一一〇〇)一月十一日、関白のいない朝廷で、堀河はついに苡子を従四位下に叙した。ただの女御ではなく、皇位継承者の母となる女御だと内外に示したのだ。
さらに、二月七日には故師通の二条第に火事があり、これらの事態に危機感を覚えた師実は、忠実と共に亡父頼通の築いた宇治へ度々赴き、師通の一周忌法要も忠実に行わせている。こうして、七月十七日、忠実は無事右大臣に昇進するが、同時に公実も権大納言に至り、明けて康和三年(一一〇一)二月十三日には師実が死去してしまう。二十三歳の帝と二十四歳の右大臣が、王権を維持する為に四十九歳の上皇の後見を必要とするのは、自明の理であった。

このような変動を経て、堀河も苡子も、益々皇子降誕の必要性を意識したのだろう。康和四年(一一〇二)、ついに苡子は第二子を懐妊する。八月七日に着帯した苡子は、堀河との今生の別れになるとは知らないまま御産所となる藤原顕隆邸に退下した。
御産の為の祈祷は専ら白河が取り仕切ったが、二十四日には公実が東寺で皇子降誕を祈願し、十一月八日には堀河も御産で用いる白木の調度を造り始めるよう命じた。いよいよとなった十二月二十八日には、苡子の安産を願い、恩赦を行っている。

こうして迎えた康和五年一月十六日の子三刻(深夜〇時)、三日前から陣痛に苦しんでいた苡子は、公実室で堀河の乳母でもある典侍藤原光子や、顕隆室の藤原悦子の手を借りながら、ついに皇子(鳥羽天皇)を出産した。
皇子降誕の一報を受けた白河は感激のあまり落涙し、翌朝、何年も前から用意しておいた御劔を堀河に献じ、堀河はこれを皇子に賜った。皇位継承者の誕生である。その日、白河は「我は果報者である」と涙ながらに再三話し、堀河もまた、「長年、皇子誕生のみを願ってきた。その願いが叶い、これに勝る喜びはない」と感動を隠さなかった。それだけでなく、法皇、天皇、皇子の三代が同時に存在すると言うことは平安きっての稀有の例であった。
九夜に及ぶ産養を終えた二十五日には(産婦の父親が担当すべき五夜の産養は白河が担当した)、白河は喜びのあまり、雨の降る中、異例のことながら自ら御産所に御幸して皇子と対面し、これには右大臣忠実以下の公卿が数多供奉した。驚くべき幸運であった。
ところが、その日の夜、産後の肥立ちが悪かった苡子の容体は急変する。苡子は邪気に襲われて意識不明となり、「なす術のない重体」の報せに驚いた白河が、急ぎ皇子を光子や乳母となった悦子と共に院御所の高松殿に移させるや(当時は、高貴な者は出来るだけ死穢に触れぬようにしなければならなかった)、それから間もない子四刻(深夜一時半)に、苡子はあえなく他界してしまう。二十八歳の若さだった。

苡子の突然の死は誰にとっても驚きであり、堀河の側近宗忠は急変から間もない亥刻(二十二時頃)のうちに使者によって、光子の兄為房は光子からの書状によって子刻(夜中〇時頃)までに情報を得ていたが、右大臣藤原忠実にいたっては、翌朝の辰刻(八時頃)にようやく苡子の死を知ると言う有り様だった。
当然、堀河は突然の悲報に呆然自失の心地だったようで、苡子の死から一夜が明けた二十六日は悲嘆を隠せず、「女御のことはただ夢のように思われる。今となっては、何をどうすればよいのか。皇子はどうしているだろう」と白河に伝えさせた。苡子の死を嘆いていた白河はこれを聞いて堀河を案じ、皇子の様子を詳しく知らせた上で、院宣を下して、宗忠に堀河の側にいるよう命じている。
翌二十七日の夜、皇子降誕の御所では葬礼は行えないからと、苡子の遺体は生前に用いていた唐車で養母俊子の樋口堀河宮(樋口小路と町尻小路の角にあった)に移され、入棺された。この移御に歩いて供奉したのは、兄の公実と仲実である。為房は、この二人に対して、「三夜の沐浴の時から、女御は体調がよろしくなかったのに、皇子降誕と言う吉事に酔うあまり、薬石を正しくせず、女御は日に日に弱られた。そして、増誉が加持をしていない間に、邪気に襲われてしまった。これもまた運命だ」と綴っている。公実らの不手際を責めながらも、どこかで公実・苡子兄妹の幸運を分に過ぎたものと感じ、苡子の死に哀切と安堵を覚える――これが、苡子を取り巻く貴族社会の認識であった。

しかし、白河と連携して父のない苡子を入内させ、二度も懐妊させた堀河の思いは、そもそも貴族社会の認識とはかけ離れている。二月一日の夜には中宮篤子が夜御殿に昇って堀河を慰めたが、自らの意志で得た苡子を喪った堀河の悲しみは癒えなかった。三日には苡子は鳥辺野の南で荼毘にふされ、堀河は苡子に従二位を贈った。翌四日、苡子は宇治の木幡に埋葬されたが、堀河の憔悴振りは酷かったようで、宗忠は「主上は女御のことで御心労が甚だしい。なかんずく主上は御年二十五、重厄の御年である」と堀河の体調を案じている。
七日になると、堀河は「女御のことを思うと、今も遣る方なく、悲嘆は切実で、月日が過ぎるのに従って思い切ることなど出来ない。今となっては、女御の菩提を訪ね、せめて女御の為に御堂を建立したい」と伝えさせた。白河も「ぜひそうするべきだ」と早速取り掛かっている。
御産で死んだ女は成仏出来ないと言う当時の考え方に従えば、苡子は極楽に行けない。堀河は苡子の一周忌までに仁和寺に輔輪院を建立し、堀河の死後も輔輪院では苡子の為の法要が行われ続けた。
また、この頃に堀河が「山の霞」を見て詠んだ歌が残されている(鳥辺野から立ち上る煙を思わせる霞だったのかもしれない)。

あづさゆみ 春の山辺の 霞こそ 恋しき人の 形見なりけれ(『続古今和歌集』一四〇八)
――私には、春の山辺にかかる霞しか、恋しい人の形見がない。

『今鏡』では、この歌は中宮の篤子内親王が詠んだと言うことになっているが、勅撰集を優先したい。何より、当時の日記に記されている堀河の悲嘆ぶりを考えれば、堀河の歌とした方がしっくり来る。

ところで、喪に服している公実は、この頃世間からの誹謗中傷に苛まれていた。御産の後、苡子がものも食べられなくなって衰弱していくのを秘匿し、重体になっても祈祷を請わなかったと言うのである。
しかし、公実は訪ねてきた宗忠に、「女御は御産の後、体調が悪くなることもあったが、よくあることだからと驚きはしなかった。それが、一月二十五日の亥刻(二十二時)頃に俄に重体となり、狼狽して我を失っている間に子刻(〇時)になって、ついに逝去してしまわれた。本当にあっという間のことで、急死と言う他ない。それなのに、世間では重体だったのを隠していたと私を誹謗していると言う。謂れのないことだ」と語った。
確かに公実は子沢山で、産褥期の女の扱いがわからないとは思えない。しかも、公実はこの二年前には四十歳を超えた光子に女を生ませている。高齢出産まで経験しているのだ。だからこそ油断も生まれたのかもしれないが、前述の増誉は産後も加持を行っており、平安時代、難産による死は枚挙に暇がなかった。話を聞いた宗忠も、「その通りだ。運命には限りがあり、それは人の力でどうこう出来るものではない」と同情している。為房も苡子の死を「娑婆世界の例(この世の常)」と評しており、平安貴族の死生観が窺われる。
なお、御産所の五条高倉第は、四十九日の法事の三日前にあたる三月十一日に、放火によって焼亡している。堀河が皇子と初めて対面したのは、五十日儀が行われた十五日のことだった。

最後に、苡子が遺した唯一の和歌を取り上げたい。この歌は、死の直前に苡子が書き付けておいたもので、硯箱の中に遺されていたと言う。

胸に満つ 思ひをだにも はるかさで 煙とならむ ことぞ悲しき(『千載和歌集』五七五)
――せめて、この胸を占める思いだけでも、晴らしたかった。

苡子の歌と堀河の嘆きは、様々な逸話を呼んだ。
『寺門高僧記』によると、堀河は苡子の死の報せを聞くや、悲嘆に勝てず、苡子の加持を担当させていた増誉に「そなたの法力で、今一度女御の言葉を聞かせて欲しい」と命じたと言う。増誉は自身の祈祷が何の役にも立たなかったことを悔いていた為、秘法を尽くして祈祷を行った。すると、なんと苡子が蘇生し、微かに声を上げた。しかしそれ以上のことは起こらず、苡子の体は冷たくなっていき、半時ほど後にはついに死去し、堀河らを嘆かせた。
この話は『寺門傅記補録』にもあるが、そこでは、苡子は宮中で祈祷を受けたことになっており、蘇生した苡子は堀河を見つめて感謝と別れを告げ、半時ほど堀河と過ごした後に死去したと言う。







* *

平安時代の天皇の悲恋と言うと一条天皇と藤原定子が有名ですが、堀河天皇と藤原苡子や、二人を取り巻く諸々が、やる瀬ない悲劇のように思えてきます(ノд;)
最後の妄想たっぷりな創作(←せめて逸話と言いなさい)を読むと、当時の人もそう思ったのかもしれませんねー。



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  1. 2013.05.09(木) _22:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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