善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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禧子内親王 ~とある一品宮の人生~

※日本史ネタです。


突然ですが、最近、私の中で源師時の『長秋記』は『ゴシップ日記』にカテゴライズされています。←
と言うのも、大治四年(1129)にまぁこんな記事があるんですよ。
↓意訳です。

五月十日、晴れ。今日は八条殿で田植えの興があるので、朝八時には院御所三条西殿に参上した。朝九時、内大臣源有仁殿以下の公卿と一緒に、三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)の八条殿への御幸にお供した。八条殿に着くと、「還御は申刻(十五時)である。皆は退出し、その頃にまた参るように」との仰せがあったので、大方は退出したが、内大臣や私など五人の公卿は、(退出せずにいようと)相談して退出しなかった。すると再び院から「還御は未刻頃だろう。皆は退出し、休息してからまた参るように」とお達しがあったが、私達はなおも粘った。すると昼の十二時頃、田植えの興が始まる頃になって、院から「参上して興を見物せよ」と仰せがあった。早速参上し、場所がなかったので、泉舎の北の簀子で見物した。(以下、田植えの興の詳しい描写)

五月十一日、晴れ。後から聞いた話だが、昨日、参議の藤原長実卿(美福門院の父。師時の義兄)が御幸の間に軍兵を発して、筑後国の高良大明神の神主である季平の宿所に押し入らせ、追捕をしていた。争いになり、長実卿の軍兵が神主側の傷を負った郎等二人を捕縛し引っ立てたところ二人は死んでおり、残る五人も皆傷を負っていた。しかも、八条殿から退出した検非違使別当藤原実行(妻は長実の姉妹)は、宿所の前を通り、濫行の光景を見たのに、何もしなかった。世間では、「神明を畏れず、王威を憚らず、参議の所行はどうして立派だと言えるだろうか」と噂している。


田植えの興(歌あり踊りありで衣装も豪華なミュージカル)を見たいが為に、「いや、帰れよ」と言う院の命令を無視して居座り、粘り勝った公卿。そして、その間に、殺人事件を発生させる公卿に、事件を見て見ぬふりをする検非違使別当(平安の警察)。
……こう言う記事を見てると、「平安時代は優雅って嘘だろ!」と言いたくなりますね!(ノ∀`)

では、本題にー。



鳥羽天皇は、その生涯で三人の后妃と複数人の愛妾を持ち、二十人弱の皇子女を儲けました。このうち、生後約一年以内に親王宣下を受けた(つまり嫡出扱いの)皇子女は、待賢門院(中宮)藤原璋子腹の五男二女と、女御藤原得子腹の一男二女(うち、一女は皇后宮藤原泰子の、一男は中宮藤原聖子の養子として)の、合計十人でした。(意外にも、藤原得子腹の末娘の高松院は、十四歳になるまで親王宣下を受けていません。)
そして、この禧子、統子、叡子、[日章]子の四人の皇女は全員准三宮に宣下されますが、この中で誰よりも若くして准三宮に宣下され、さらに一人だけ一品に叙された嫡女、それが第一皇女の禧子内親王です。
満年齢で僅か十一歳の若さで薨去した為に、あまり取り上げられない内親王ですが、鳥羽天皇と待賢門院にとっては、禧子内親王は最愛の娘だったようです。


●一品の宮●
禧子は鳥羽天皇の第一皇女で、第二子にあたります。保安三年(1122)六月二十七日、甲寅の日の子刻(23~1時)に、三条西殿(三条大路北、烏丸小路西)で誕生しました(『中右記』)。
この時、父の鳥羽天皇二十歳、母の中宮藤原璋子二十二歳。奇しくも、璋子が禧子を懐妊した保安二年は、一月に関白藤原忠実が辞任に追い込まれ、四月には鳥羽天皇の乳母で璋子の生母でもある従二位藤原光子も薨去すると言う、激動の一年でした。これらの政変を経て誕生した禧子は、鳥羽天皇と中宮璋子の新たな関係を象徴する存在であり、以後、中宮腹の第一皇女として、生後一ヶ月で内親王に宣下され、禧子と命名されました。この僅か二十二日後には准三宮にも宣下され、生後数ヶ月にして母の中宮璋子に準じる地位を得ています。
禧子の誕生から半年後に譲位した父鳥羽院は、白河殿と二条東洞院第、正親町東洞院第で白河院と同居し、母璋子は内裏とそれらの院御所を往復して生活していました。しかし、天治元年(1124)十一月に璋子が院号宣下を受けて待賢門院となってからは、待賢門院の里邸である三条西殿が三院御所となり、禧子も三条西殿で育ちます。
大治元年(1126)十二月二十七日、五歳になった禧子は、禧子の御領として新造された大炊御門万里小路第(大炊御門大路北、万里小路東)に三院と日帰りで渡御し、着袴の儀を行いました。そしてこの一年半後の同三年四月十三日、鳥羽院と待賢門院の嫡女として、僅か七歳で最高位の一品に叙されます。以後、「一品宮」と呼ばれるようになり、新造御所への渡り初めや落慶供養御幸などでは、両院と並んでその動向が注目されることになりました。同四年(1129)七月七日に白河院が崩御すると、禧子は待賢門院と共に急遽御産所に選ばれた三条京極第(三条大路南、東京極大路西)に移り、若干八歳の少女ながら、喪中の鳥羽院と待賢門院に代わって、そこで産まれた末の弟本仁親王の生育儀礼を主催しています。また、白河院からは大炊御門万里小路第に加えて、三条西殿も伝領しました。
御産を終えた鳥羽院と待賢門院は、大炊御門万里小路第で暮らし始めます。しかし、同五年七月十日、両院の留守中に大炊御門万里小路第は焼亡。焼け出された禧子と三人の弟達は直ちに両院のいる白河北殿に迎えられました。あくまで短期滞在用だった為か、あるいは使い勝手が悪かったのか、この後大炊御門万里小路第は再建されることはなく、禧子は御所を一つ失ってしまいます。
この火事から数日後、禧子は三条東殿(三条大路北、東洞院大路西)を伝領していた待賢門院と御領を交換して、改めて三条東殿を御領としました。三条東殿には、八月十九日に早速渡御しましたが、あくまで両院御所は三条西殿であり、禧子も三条西殿の東対代を御所としています。三条東殿は、朝覲行幸や、三条西殿が使用不可の際の御所として時たま用いられましたが、結局禧子が十一歳になった長承元年(1132)七月二十三日に、禧子が暮らしていた三条西殿もろとも焼失しました。禧子は両院と共に、藤原顕頼所有の二条烏丸第に移御しています。

※以下、病の描写があります。




* *


●斎院卜定●
その年の六月二十九日、同母妹の賀茂斎院恂子(後の上西門院統子)が、病により退下すると、禧子の人生は一変します。
実は当時、「斎院は帝の近親がよい」と言う原則がありました。ところが、鳥羽院や崇徳天皇には卜定可能な姉妹や庶子は誰一人としておらず、いるのは、白河院の異母弟輔仁親王の娘と、禧子だけでした。前者は近親とは到底言い難く、禧子としても、天皇の嫡女にのみ許される一品に叙された姫宮の卜定は異例のことです。しかし、恂子の退下の後に彗星や地震が頻発したこともあってか、結局原則に従って、禧子が斎院に選ばれました。
いつ退下出来るかわからない斎院としての暮らしを前に、禧子は十月には恂子や両院、弟たちと宝荘厳院の落慶供養に臨御し、十一月二十日、待賢門院と禧子は五節を見物する為に参内しました。崇徳天皇も交えて、二十三日まで親子水入らずの時間を過ごしたようです。
そして二十五日の早朝、十一歳の禧子は二条烏丸第で裳着の儀を行い、待賢門院から琵琶を贈られました。箏の名手である母に対して、禧子は琵琶をたしなんでいたのかもしれません。午刻(11~13時)には、唐車に乗った禧子は檳榔毛車十二両(乗っている女房は計二十四人)と公卿を従え、初斎院御所の尾張守藤原顕盛宅(綾小路北、東洞院大路西)に渡御しました。道中では、両院を始め、この行列を見物する為の物見車が殺到して、隙間もないと言う状態です。夕刻に至って、禧子は賀茂斎王(斎院)に卜定されましたが、全ての手続きが終了する頃には深夜になっていました。
鳥羽院は未練が尽きずこの日、「この一品宮(禧子)は、幼少時から常に傍に置いて愛憐してきた。今、離れて暮らさなければならなくなり、朝夕恋しく思う。時々は会いたい」と前関白藤原忠実に語りました。上皇の斎院御所への御幸は前例がなかった為、貴族からはなかなか受け入れられなかったものの、結局鳥羽院は望みを果たし、数ヶ月に一回のペースで禧子に会う為に御幸をしています。


●闘病とその死●
しかし、長年腹病(寸白とも)を患っていた禧子は、翌年七月には退下を促す悪夢を見るようになり、病脳しました。八月二十八日、待賢門院が側近の源師時を御簾の前に召して語ったところによると、

「斎院(禧子)は日頃不例でいらっしゃる。これは年来の宿痾である。その上、先日発した病が未だに平癒なさらぬ間に、この宿痾も発病してしまった。御腹が脹れ、お顔や手足なども腫れて、ほとんど飲食もなされないと言う。内密に陰陽師に卜を命じたところ、「御病は極めて重く、九月を無事にお過ごしになるのは難しい」と言い、また医師に診察をさせたところ、「年来の御病の腹病が、ことのほか大事に罷り成り、今や医療で平癒なさることは不可能です。ただ御祈請をなさるべきです」と言う。これを聞いて、極めて恐ろしく思っている。上人の夢想も皆不快だと言う。どうしたら良いのだろう。斎院の御夢も、灯りが打ち消され、お傍には人がいないと言うもので、心の底から恐ろしく思う」


と言う状態で、禧子は複数の病を併発し、周囲の人間はその薨去を確信していました。
病の為に鳥羽殿からの還御が遅れていた鳥羽院は、その日のうちに師時からこの話を聞き、「まずは七日間格別な祈請をし、それでも回復の気配がなければ、退下をさせるように」と命じ、翌日、鳥羽殿から待賢門院のいる三条京極第に還御して、陰陽師に卜をさせています。結果はどうやら不吉と出たらしく、勅別当能俊が三条京極第に参じて禧子の退下の沙汰を始めました。
明けて九月一日、鳥羽院は禧子のいる一本御書所に御幸しました。病状を直に確める為かもしれません。そうして鳥羽院が三条京極第に還御した後、なんと、夜半になって禧子の容態は急変。なんとか落ち着いたものの、翌日、直ちに禧子の退下が決定し、禧子は一本御書所のある大内裏から藤原盛重宅(雷解小路南、堀河大路東)に移御し、鳥羽院と待賢門院も盛重宅に渡御しました。この退下を巡っては、卜定から一年未満と言う前代未聞の早期退下である上、あまりに急な退下となった為、情報が錯綜しています。

両親との再会で禧子は安堵したのか、平癒は難しい重病人ながらも盛重宅では危篤状態は脱し、院近臣藤原顕頼は「顕証である」と語っています。待賢門院に仕える女房(師時の娘)によれば、両院は禧子に添い寝をしたそうです。この場合の添い寝は、苦しむ患者を慰めながら、痛む身体を摩り、愚痴や弱音を全て受け止める『看病』を意味します。その後も禧子と待賢門院は二日間盛重宅に滞在し、鳥羽院は毎日盛重宅に通って、様子を見ました。
四日、禧子が両親と共に妹弟のいる三条京極第へ移ると同時に、平癒を願う祈祷が数多始まりました。三条京極第の寝殿と白河泉殿では息災を願う五壇の法が、得長寿院では除災を願う孔雀経法が行われた他、泰山府君御祭、代厄御祭、招魂祭、七瀬御祓も命じられています。
ちなみに、師時によると、禧子の病は、長年尼として知られている御料と言う女房が、禧子の女別当に任じられて常に禧子の傍で仕え、尼であるにも関わらず神殿内に出入りしたことによる神の祟りではないかと言うことです(もしこれが事実なら、何故卜定時に師時は注意しなかったんでしょう)。
そんな中、待賢門院は禧子の病の重さを再確認したかったらしく、九月九日、重陽の節句の為に参上した師時を御簾の中(母屋)に召し入れて、禧子と妹の恂子を見させました。師時はまず恂子を見て、「端正美麗にして眼の及ぶところにあらず」とその美少女ぶりを絶賛した後、禧子を見て、

「一品宮(禧子)は、御病脳され、もはやなす術もないとお聞きしている。確かに、御腹は膨れ、御足は腫れ、お熱もあり、すでに御目も見えない御様子である。御重体であることは間違いない。だが、すぐに薨去なさることはないのではないか。そして、一品宮の顔立ちは前斎院(恂子)より勝っていらっしゃる。慮外のことがあり、誠に世の為に遺恨である」


とその美貌を賛美し、薄命を惜しみました。
師時の見立ては当たり、待賢門院は十三日には法金剛院に赴いて一泊し(この時思うところがあったらしく、滝の高さを五、六尺上げるよう命じている)、禧子の回復を祈請したものの、禧子は二十日未明にも急変しました。一命はとりとめましたが、急いで駆けつけた鳥羽院は「頗る不請」で、使者を勘当しかねない様子だったと待賢門院は語っています(『長秋記』)。

鳥羽院はこれらの心労から発病したのか、二十二日、法勝寺での経供養に御幸した後、蛭飼をしてから三条京極第に還御しました。二十五日には、鳥羽院の体調不良により、かねてより計画されていた熊野参詣に待賢門院が単独で赴こうとします。もちろん禧子の回復を熊野で祈る為ですが、禧子の死を確信している師時が「一品宮は万死一生でいらっしゃるのに、強いて参詣なさらなくとも良いだろう」と記したように、参詣は見送られました。二十九日午後、禧子は再び重態に陥り、鳥羽院は逮捕した法師まで恩免して祈祷させています(『長秋記』)。

十月一日、ついに待賢門院は白河泉殿で普賢延命法を始めました(『普賢延命法日記』)。その名の通り、寿命を延ばす為の法ですが、よほどの重態でなければ行われない法でもあります。
しかし、祈請もむなしく、十日、禧子は三条京極第で薨去しました。十二年にも満たない生涯でした。
亡骸は鳥羽院の准母である皇后宮令子内親王の墓地に予定されていた、上醍醐陵に葬られました。崇徳天皇への薨奏は二十七日に行われ、二十九日までの三日間が、天皇が喪に服す為の廃朝となっています。

禧子の死の衝撃は大きく、翌年五月五日には待賢門院の女房兵衛が、

「今日くれど あやめも知らぬ 袂かな 昔を恋ふる ねのみかかりて」
(続詞花、新古今に入選)


と禧子を偲ぶ歌を詠みました。
一周忌の十月十日には、待賢門院による法華経の法会が行われ、待賢門院からの布施は「巨多」でした。また、この年、待賢門院は例年になく体調を悪化させ、半月以上瘧病に悩まされた他、突然髪が切れたり、月経が定まらなくなるなど苦悩が続きました。しかし、同時に一月に続いてこの法会から六日後には早速熊野参詣を始めるなど、鳥羽院の第一の妻として、そして残る子供たちの母としての忙しない日々も、変わりなく続いているようです。





□禧子の年表□

保安三年(1122)〔1歳〕
5.14御産御祈として七仏薬師法を行う。
6.18御産御祈として孔雀経法を行う。
6.27子刻、誕生。
8.2内親王宣下。
8.17五十日儀。
8.24准三宮宣下。
9.9中宮璋子、十一面観世音法を行い、禧子の除病や求福を祈祷する。
10.8百日儀。
10.9禧子の息災長寿を祈祷する。

大治元年(1126)〔5歳〕
11.3着袴定。
12.27三条西殿から新造の大炊御門万里小路第に渡御し、着袴の後、三条西殿に還御。

大治二年(1127)〔6歳〕
1.21三条西殿から上殿(正親町東洞院第)に渡御。
2.27上殿(正親町東洞院第)から三条西殿に渡御。
10.29夜、待賢門院と共に三条西殿から鳥羽殿に渡御。
10.30鳥羽南殿で白河院と鳥羽院の高野山参詣御幸を見物した後、待賢門院と共に三条西殿に還御。
11.16三条西殿で五節の淵酔を催す。

大治三年(1128)〔7歳〕
4.13一品宣下。

大治四年(1129)〔8歳〕
4.17不例。
7.9待賢門院の御産の為、待賢門院、雅仁と共に三条西殿から三条京極第に渡御。
8.2暁、五宮(本仁)行始の為、正親町東洞院第に渡御。夜に入り、三条京極第に還御。
8.7待賢門院の次の御所の候補として、禧子御領の大炊御門万里小路第が選定される。
8.24一品宮御方で五宮の五十日定。
9.16申時、一品宮御方の三条京極第東対で五宮の五十日儀。両親の代わりに五宮に餅を含ませる。夕刻、両院とは別の車に雅仁、五宮と同車して、大炊御門万里小路第の西対代廊に渡御。
11.1一品宮御方の大炊御門万里小路第の西対代廊で、本仁の五十日儀。本仁に餅を含ませる。

大治五年(1130)〔9歳〕
7.10未刻、大炊御門万里小路第が焼亡。君仁、雅仁、本仁と共に両院のいる白河北殿に避難する。
7.20禧子御領の三条東殿の渡御について沙汰あり。
8.4三条東殿への渡御に備えて、白河北殿から角殿に渡御。
8.19三条東殿に移徙。
11.22雅仁、本仁と共に、白河北殿から君仁のいる角殿(白河泉殿?)に渡御。
12.26両院に従い、雅仁、本仁と同車して、白河北殿から三条西殿の東対に移徙。

長承元年(1132)〔11歳〕
2.9参内。
3.13待賢門院と同車して、得長寿院落慶供養に臨御。
7.23三条西殿一帯が焼亡。二条烏丸第に避難する。
10.3両院と共に宝荘厳院御所に移徙。
10.7宝荘厳院の落慶供養に臨御。
11.20待賢門院と共に参内し、五節を見物。
11.23待賢門院と共に内裏から退出し、二条烏丸第に還御。
11.25着裳。斎院卜定。初斎院御所綾小路洞院第に移徙。
12.8初めて神殿に入御。

長承二年(1133)〔12歳〕
4.3酉刻、鳥羽院、斎院御所に御幸し、還御。
4.18斎院御所を出御した後、鴨川で御禊をし、一本御書所に移徙。両院、斎院御所に御幸して禧子に対面した後、斎院の行列を見物。
5.29鳥羽院、一本御書所に御幸し、還御。
6.19藤原頼長と藤原幸子の婚儀に際して、贈り物をする。
8.10鳥羽院、一本御書所に御幸し、還御。
8.28不例。
8.29退下すべきかを卜す。
9.1鳥羽院、一本御書所に御幸し、還御。
9.2雷解小路堀河第に退下。
9.4三条京極第に渡御。
9.20重態。
9.29重態。
10.10三条京極第で薨去。
10.27薨奏。崇徳天皇の三日間の服喪により、29日まで廃朝。



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