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人物紹介 ~君仁親王(1125~1143)~

君仁親王(1125~1143)

●概略●
鳥羽院と待賢門院藤原璋子の三男(第四子)。実は、女院から生まれた初の皇子(それまでは未婚の内親王か出家した后が女院になっていた)。
「筋あり骨なし」と『台記』に記されていることや、生来病弱で生後七日目には一度息が絶えていることから、骨形成不全症であった可能性が考えられる。二歳の時の魚味始を最後に、生涯公式の場に出ることはなかったが、視覚に障害があった兄通仁親王が移徙などに参列していることなどを考えると、君仁の場合は自力で歩く能力が備わらなかったことを問題視されたのかもしれない。
享年十九。
君仁は、健康で長生きをしていたら、恐らく通仁に次ぐ有力な皇位継承候補になっていたはずである。また、もし君仁が健康であったなら、鳥羽院と待賢門院が熊野参詣を行うのはもっと後であるか、あるいは行われなかった可能性もある。通仁・君仁兄弟の早世と障害は、一家族の問題ではなく、歴史の流れに大きく携わる事件だったと言えよう。
詳しくは↓続き↓をどうぞ。
(参考資料は『御産部類記』・『中右記』・『長秋記』・『台記』・『本朝世紀』)






君仁親王
〔天治二年(1125)五月二十四日~康治二年(1143)十月十八日。享年十九〕

鳥羽院の第三皇子(第四子)。

中宮藤原璋子が第四子を懐妊したのは、第三子の通仁親王誕生から約百日しか経っていない、天治元年(1124)九月頃のことだったと思われる。妊娠三ヶ月と推察される十一月二日には、公卿の間でもすでに懐妊が知られており、参内の可否が論じられている(『中右記目録』)。
この日、璋子への院号宣下についても論じられており、二十四日、璋子は院号宣下を蒙り、待賢門院になった(『院号定部類記』)。参内を果たしたのは、年の暮れも迫った十二月二十六日で、その日のうちに退出している(『中右記目録』)。
実はこの時まで、夫が存命中の后への院号宣下はなく、従って、「女院の御産」はこれが初めてのことだった。翌天治二年(1125)四月三日の御産定では、白河院や鳥羽院を始めとする貴族たちは自分たちが吉例を作らなければならないと言うわけで、かなり気合を入れて御産の次第について論じているが(『御産部類記』)、結局、御産の次第は基本的に中宮の時と変わらなかったようである。

こうして、天治二年(1125)五月二十四日の酉刻(17~19時)、待賢門院は産気付いた。しかし、御産は遅々としてなかなか出産に至らず、白河院と鳥羽院は神社七ヶ所に馬を奉納し、非常赦を命じ、庭で丈六尊勝仏三体を造らせている(『御産部類記』)。
子二刻(23時半)に漸く皇子が降誕した時には、宗忠は「漢天霽来、星躔遥見」と、その夜が快晴であることに皇子降誕の喜びを例えている。また、宗忠は「天子(鳥羽院)が皇子を儲けることはすでに三人に及ぶ。誠に我が朝は繁昌である。帝徳は中興の秋(とき)である」と喜びを爆発させ、これまでの待賢門院の四度の御産について記した後、「皇子三人は皆五月生まれでいらっしゃる」と書き加えた。
鳥羽院からは、それまでの二皇子の時と同じように御剣が贈られた。この年、鳥羽院は二十三歳、待賢門院は二十五歳であった。
その後、この第三皇子には通仁と同様に生後一ヶ月にも満たない六月十六日に君仁と命名され、親王宣旨が下された。勅別当は、待賢門院の同母兄通季の舅にあたる民部卿権大納言藤原忠教である。忠教は現関白藤原忠通の曾祖父師実の庶子だが、通季との関係からか、待賢門院に近い公卿として活動していた。また、実際に親王庁を取り仕切る年預には、遠江守高階宗章が補任された(以上、『御産部類記』所引『中右記』)。宗章は待賢門院の入内時にその政所別当に任じられた人物で、待賢門院の側近の一人である。
以後、君仁は三宮もしくは若宮という呼称で各日記に姿を現すこととなる。

華々しく誕生した君仁だったが、彼は生来病弱だった。生後五日目から早くも乳母の乳を飲めなくなった上、七日目にあたる六月一日には昏睡状態に陥ったのだ。一時は薨去したものとされたため、白河院と鳥羽院は女房たちと涕泣するに至ったが、この時は行尊の祈祷でなんとか息を吹き返した。(詳しくはコチラをご参照ください)
しかし、引き続き油断のならない容態であったらしく、通常なら生後一ヶ月以内に行われる行始(初めての外出)は、誕生から三ヶ月も経ってから漸く実施された。当時の乳幼児の死亡率の高さから見れば、君仁がまさか十九歳まで生きるとは考えられなかったかもしれない。鳥羽院と待賢門院の熊野参詣が始まるのは、君仁の誕生から約半年後の天治二年十一月のことである。
君仁の病状に関しては、この時期の記録はないが、死去時の記録によれば足が萎えていると言う障害があり(『台記』)、また、喋ることが出来なかったという(『本朝世紀』)。

なお、君仁の障害はよく近親婚のせいではないかと言われているが、鳥羽院と待賢門院はいとこ同士であり、現代の基準で見ても、決して近親婚ではない。また、いとこ同士の婚姻は当時としては非常に一般的で、例えば同時代なら摂政藤原忠通も「いとこ婚」であるし、待賢門院周辺を見ても叔父藤原仲実、兄藤原実隆・通季が該当し、各々子女を儲けている。
白河院の母は確かに閑院流出身の藤原茂子だが、茂子と待賢門院の祖父実季は異母姉弟であり、白河院のことも含めて二人が近親婚をしたと考えるのは実情にそぐわない。君仁の障害を近親婚の弊害と断じるのは早計といって良いのではないだろうか。

大治元年(1126)十一月三日、君仁は魚味始の儀を迎えた。これで乳児から幼児となったわけだが、結局、これが皇位継承権を持つ皇子としての君仁の最後の公式行事となった。また、翌日には待賢門院を呪詛したとの罪状で阿闍梨乗実が追捕されており、待賢門院を巡る情勢の複雑さが感じられる(『中右記目録』)。乗実は『中右記』著者の藤原宗忠の亡母藤原実綱女の甥に当たり(『尊卑分脈』)、宗忠は詳しい事情を知っていたものと推察されるが、残念ながら記録が残っておらず、詳細は一切不明である。しかし、白河院も健在で、待賢門院の政治的な地位が最も安定していたこの時期にすら呪詛が取り沙汰されていたことは、待賢門院の置かれた立場を考える上で特筆に値する。
大治二年(1127)四月二十六日、三歳の君仁は、不例の為に日吉社参詣の延期を余儀なくされた(『中右記』)。この時も回復には時間がかかったようで、五月十五日になってようやく日吉に参詣している。

なお、待賢門院の皇子のうち顕仁・雅仁・本仁の三親王は各々五歳の正月に着袴の儀を迎えているが、障害のために早々に皇位継承候補から外された君仁は、通仁と同様に、生涯着袴の儀が行われなかった。

大治四年(1129)七月に白河院が崩御した際は、待賢門院の御産所三条京極殿ではなく、一人、藤原顕隆の小御所(室町姉小路小御所か)に渡御しているが、目立たないように待賢門院の御所に戻っているらしい。同五年(1130)七月十日には大炊御門万里小路第で兄弟と共に火事に遭い、駆けつけた鳥羽院と共に、待賢門院の待つ白河北殿に避難した。しかし、この時も君仁は白河北殿に残ることは許されず、南隣の白河泉殿に渡御している。

この二つの別居の事情を推察するに、障害を持つ君仁は、どうやら待賢門院とその子女の御領の御所にしか渡御出来なかったようである。
三条京極殿は借家で、間もなく里内裏として用いられていることから見ても、かなり公的な性格の強い邸宅であるし、白河北殿はこの後長く鳥羽院の御所として用いられていることから見ても、鳥羽院の御領と見て間違いない。一方、三条西殿は入内以来、生涯待賢門院の御領であり、白河泉殿も待賢門院が裳着を行った御所であり、長承二年(1133)には待賢門院御祈の祈祷がこの御所の寝殿で行われていることから、待賢門院の御領とされた可能性が高い。
鳥羽院の御所は、里内裏と同じく政務に関わる公的な場である。それゆえに、日常的に治癒のための祈祷を必要としたであろう君仁は鳥羽院の御領には常住出来ず、母の御領で暮らすしかなかったのではないだろうか。

大治五年九月一日に妹恂子内親王の改名が議された折には、改名の根拠として、通仁親王の夭折と並んで、君仁の「不成人給」つまり「成人なさることは叶わない」ことが挙げられている。この頃には、君仁の障害は周知の事実として正式に議論されるに至っていた。

前途多難な君仁は、待賢門院の御領が次々と焼亡してしまったために、長承三年(1134)二月十七日に三度目の火災に見舞われた折には六条殿を御所としていた(『長秋記』)。この六条殿は二十一歳の若さで崩御した故郁芳門院の御所で、その後仏閣に改築され、白河院から鳥羽院に伝領されたものと思われる。仏閣であるから鳥羽院の御所とはなりえず、君仁が常住することが出来たのだろう。
なお、この焼亡は、奇しくも、両院や君仁の兄弟らが法勝寺に集って金泥一切経の供養を盛大に催している最中に出来した。ちょうど鳥羽院の夫人「院の上(後の藤原泰子)」の立后が取り沙汰されている時期でもあり、この焼亡には多分に待賢門院をとりまく複雑な政治情勢が絡んでいると考えられる。

この後、六年ほど君仁は史料に姿を見せず、保延六年(1140)八月九日、恐らく同じ六条殿で出家入道した。この時十六歳。法名は不詳である。
寺での修行は不可能なためか、君仁は入寺することなくこの六条殿で生涯を送り、出家から三年後の康治二年(1143)十月十八日、十九歳でその生涯を閉じた。墓所の記録はない。

成人に至らなかった君仁の死による憚りはなかったが、一年後の十月十七日、父鳥羽院、兄崇徳院は仁和寺(恐らく法金剛院)に集った。
そして、恐らく最も気掛かりであった君仁の薨去は待賢門院の体調にも影響を及ぼしたようである。君仁の一周忌から半年も経たない内に待賢門院は病床に臥し、君仁の二周忌を待たずに四十五歳で崩御した。

『今鏡』によれば、君仁は長く美しい髪を持ち、愛らしい容姿をしていたという。親王というより、内親王のように深窓に育ったであろう君仁の生涯を思わせる記述である。


□君仁の年譜□

天治二年(1125)〔1歳〕
4.3御産定。
4.11鳥羽院、待賢門院に御産調度を献上。
5.24子二刻、誕生。
6.1不例。
6.16親王宣下。
6.25侍始。
7.18五十日定。
7.20五十日儀。
8.25行始。三条西殿から二条東洞院第に渡御し、還御。
9.9百日儀。

大治元年(1126)〔2歳〕
11.3魚味始。

大治二年(1127)〔3歳〕
1.21三院の熊野参詣により、禧子、通仁と共に三条西殿から大炊御門万里小路第に渡御。
2.27禧子、通仁と共に大炊御門万里小路第から三条西殿に還御。
4.26不例により、日吉参詣延引。
5.15日吉参詣。

大治四年(1129)〔5歳〕
7.9小御所に渡御。

大治五年(1130)〔6歳〕
7.10大炊御門万里小路第が焼亡したため、禧子内親王、雅仁親王、本仁親王と共に白河北殿に避難した後、一人白河泉殿に渡御。

長承三年(1134)〔10歳〕
2.17六条殿の焼亡により、小六条殿に避難。

保延六年(1140)〔16歳〕
8.9六条殿で出家入道。

康治二年(1143)〔19歳〕
10.18六条殿で薨去。鳥羽院と崇徳院、錫紵を着す。近衛天皇は幼少により服喪せず。





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