善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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人物紹介 ~叡子内親王(1135~1148)~

□叡子内親王のプロフィール□
鳥羽院の四女。後の美福門院藤原得子の第一子ですが、生後一ヶ月以内に鳥羽院の皇后宮藤原泰子(後の高陽院)の養女となり、泰子を母として生涯を共にしました。
叡子は『今鏡』にもあまり登場しない、多彩な人生を送った妹弟と比べると影が薄い内親王です。とはいってもそれは後世のことで、叡子は存生中は「高陽院の姫宮」と呼ばれ、その同行は妹たちよりも注目されていたことは間違いありません。もし成人していたら、高陽院の遺領を継ぎ、政界に一定の影響力を持ち得たでしょう。
そんな叡子の生涯を追います。



●叡子の立身出世●
叡子内親王が誕生したのは、保延元年(1135)十二月四日、父鳥羽院三十三歳、母「院の寵人」十九歳の冬でした。この「院の寵人」は後に美福門院となりますが、この時は鳥羽院の寵愛に頼る他ない、ただの「故中納言長実の娘」です。
鳥羽院と彼女が出会ったのは、鳥羽院が二人目の后となる皇后宮藤原泰子を迎えた一年後の、長承三年(1134)の初秋頃。紆余曲折を経て、翌年十二月四日に第一子の姫宮が誕生しました。
しかし、鳥羽院はこの姫宮を寵人に育てさせて、ただの庶子として扱うつもりはありませんでした。
実は姫宮誕生から二ヶ月前の十月十一日から十日間、鳥羽院は泰子と共に新造の宇治小松殿に滞在し、婚姻以来、初めてまとまった時間を泰子と過ごしています。恐らくここで、鳥羽院はすでに四十一歳になり、懐妊の望みが薄くなった泰子に、寵人の産んだ子を養子にすることを提案したのではないでしょうか。その証に、姫宮は生後二週間しか経ってない十二月二十一日に、鳥羽院と共に泰子の待つ東三条殿に移り、泰子の養女となりました。
この縁組は、一人の皇子も皇女も持たない泰子と摂関家に対する鳥羽院の気遣いでもあり、同時に寵人の地位を引き上げる為のものでもありましたが、実は泰子と姫宮は赤の他人ではありませんでした。泰子と得子は二十二歳も年の差がありますが、泰子の母源師子と得子の母源方子は、村上源氏の血を引く従姉妹同士で、なんと方子の方が四歳年上なんです(得子は超高齢出産で生まれています)。そう考えると、得子の娘が泰子の養女になることは、珍しいケースではあるものの、不自然ではありません。
さらに解説をしておくと、得子の父長実と待賢門院の父公実も実は母方の従兄弟同士なので、得子から見れば、泰子は母方の、待賢門院は父方の再従兄弟に当たります。……と、こう書くととんでもなく狭い範囲で婚姻が行われているみたいですが、意外にも、泰子と待賢門院の間にはこのような血縁関係はなく、二人は赤の他人同然なんです(二百年前まで遡れば、二人の先祖もやはり兄弟ですが)。こう言った「后妃同士が血縁的には赤の他人同然で、身内特有の繋がりやしがらみがない」と言うのは、平安時代後期における后妃の特徴かもしれません。

さて、翌保延二年(1136)正月二日、鳥羽院は初めて元三のうちに泰子の東三条殿に赴き、姫宮と時を過ごしています。二十六日の五十日儀と三月二十七日の百日儀では、摂関家の面々が勢揃いし、姫宮が正真正銘摂関家の姫宮として遇されていることがわかります。そして四月十九日、待賢門院腹の皇女より遅くはなりましたが、生後半年以内に姫宮は叡子と名付けられ、親王宣下を蒙りました。さらにこの日、生母の院寵人にも得子と名が付き、従三位に叙されます。この叙位により、未だ正式な女御宣下はないものの、得子は「院女御」と認識されるようになりました。
さらに得子はこの後再び懐妊し、翌保延三年(1137)四月八日の釈迦の誕生日に、第二子となる姫宮(後の八条院)を出産します。今姫宮と呼ばれたこの次女の生後五日目にあたる十二日、叡子は三歳で准三宮に宣下され、年官年爵と封千戸を賜りました。叡子はまだ数えで三歳ですから、叡子が手にした人事権は養母泰子が賜ったも同然ですが、とにもかくにも、以後、叡子は生涯「准三宮無品叡子内親王」として生きていくことになります。




* *


●叡子の御所●
保延二年以降、叡子は泰子の御所土御門東洞院第、通称土御門殿(土御門大路北、東洞院大路東)で養育されていました。七月十七日に魚味始を、十二月十日には着袴の儀をこの土御門殿で迎え、鳥羽院はこのような儀式の前夜には土御門殿に御幸して一泊するものの、日頃は同居していません。
この土御門殿は、保延四年(1138)十一月二十四日に全焼。生涯ただ一度の火事に遭った叡子は、泰子に連れられて鳥羽院御領の三条南殿(三条大路南、烏丸小路西)に移ります。
ところでこの頃、生母得子は第三子を懐妊しており、保延五年(1139)五月十八日の酉刻、鳥羽院の八男が誕生します。この八男は生後一ヶ月で泰子の姪の中宮聖子の養子となり、七月十六日に体仁と命名、親王に宣下されました。聖子は国母となる資格を、その父忠通は外祖父となる資格を得たのです。
勿論忠通の父忠実もこの縁組に一枚噛んでいて、泰子に国母待遇の院号宣下を求めました。二十五日、泰子と叡子は輿で三条南殿から摂関家の本邸東三条殿に行啓し、二十八日、泰子は高陽院という院号を宣下されます。高陽院は東三条殿に次ぐ摂関家の邸宅でした。
高陽院の殿上始は八月八日に行われ、儀式に際して用いられた先例は、現国母待賢門院のもの。鳥羽天皇以来三十年もの間失っていた国母の権威を取り戻す為の一歩を、摂関家は踏み出したのです。しかし鳥羽院もただ摂関家を強化するつもりはなく、体仁が立太子するとすぐに得子を女御とし、年末に元服した待賢門院腹の四男雅仁親王は、鳥羽院の存命の子女が全員無品親王である中、三品に叙されました。
そして保延六年(1140)正月、国母に対してのみ行われる拝礼を高陽院にも行うよう求めた忠実に対して、鳥羽院は高陽院御所に赴かないことで否の意を示し、高陽院の同母弟の関白忠通や高陽院院司ら貴族も、雨を理由に拝礼を拒みました。立后の時と言い、高陽院にはいつも父の勇み足と弟の嘆息、そして夫の冷淡さが付き纏うようです。

●叡子の栄耀●
十月二十七日、叡子は鳥羽院、高陽院と共に約二年間暮らした三条南殿から再建された土御門殿に移徙しました。この土御門殿の東北卯酉対で、保延七年(1141)三月一日、七歳になった叡子は泰子と共に鳥羽院の賀茂御幸の行列を見物します。二人は知らずにいましたが、この頃鳥羽院は入道の志を持ち、最後の華やぎを楽しむ為にたくさん御幸を行っていました。
九日、鳥羽院から翌日の入道を正式に告知された高陽院は、急ぎ宇治の父に知らせます。高陽院の父忠実は前年、院号宣下を見届けた後に入道しており、今は円理と名乗っています。
十日、鳥羽院は鳥羽殿で入道し、空覚と名を改めました。三十九歳にして三人の后妃との夫婦関係を絶ち、極楽往生を念じる道を選んだと言うことになります(とは言え、この後も政治を主導し、数に入らない女房は寵愛していますが)。その結果、まだ二十五歳の生母得子は入道直前に懐妊した第四子を最後に、子女を儲けることはありませんでした。この第四子の懐妊が定かではない時期に入道していることを考慮すると、鳥羽院は得子の手元には娘一人がいればそれで良いと考えていたのかもしれません。
そして、突然の入道から二ヶ月後の五月五日、高陽院もまた、宇治小松殿で落飾入道しました。宇治を選んだのは、まだ京に高陽院の寺がないからと言うだけでなく、宇治に対する親しみがひとしお深かった為でしょうか。
半年後の十二月七日、叡子の同母弟の東宮体仁親王が践祚。近衛天皇です(もっとも、鳥羽や近衛と言った名は謚号なので、叡子本人は父や弟が後世どう呼ばれたかは知りません)。二十七日の即位式の日には、ついに生母の女御得子が立后し、皇后宮となります。同時に皇太后宮となった国母聖子がいるので、得子は国母にはなれませんでしたが、それでも「故中納言の娘」は、僅か二十五歳にして破格の出世を遂げたのです。
また、同母弟が天皇になったことは、叡子にも大きな変化をもたらしました。これまで、どちらかと言えば「外腹」寄りだった叡子は、これで待賢門院腹の兄姉と同列の「鳥羽院の正妻腹」の内親王となり、公式の場に参列する権利を獲得したんです。
康治元年(1142)十月二十六日、叡子は鳥羽院、高陽院、得子、同母妹たち、さらには異母兄姉の崇徳院や統子内親王と共に二条室町桟敷で近衛天皇の行幸を見物します。恐らく、叡子にとって、これが生母や兄弟たちとの初めての対面でした。翌二年(1143)正月、叡子は白河院の御願寺である法勝寺に渡御し、翌年正月には前年同様に法勝寺に赴いた後、白河北殿に宿泊もしています。これは記録にある限りでは高陽院なしに行われた初めての外泊で、十歳になった叡子が半ば成人扱いされていることがわかります。
そして、十一月二十八日、得子と共に白河北殿を出御した叡子は初めて参内し、一泊しました。弟の近衛天皇に対面したのも、資料にある限りではこれが初めてです。翌日、白河北殿で叡子を待っていた高陽院と共に土御門東洞院第に還御した叡子は、どんな気持ちだったのでしょうか。
翌天養二年(1145)、鳥羽院と高陽院が一月、二月、五月と何度も宇治に渡御したことを考えると、三人は最も満たされた時を過ごしているように思われます。ところが久安と改元される頃にはすでに重く病脳していた待賢門院が八月に薨去すると、宇治御幸も叡子の外出もなくなります。それでも、高陽院の人生を左右した待賢門院が去り、代わりに今までよりもさらに得子を重視するようになった鳥羽院は、翌年四月十六日、叡子の妹[日章]子内親王を准三宮に宣下させます。十月四日には、得子の父故長実に正一位左大臣が贈られ、八十一歳の母源方子も正一位に叙されました。これで叡子たちは、大臣の外祖父を持つ准三宮無品内親王の叡子と[日章]子、近衛天皇、そしてまだ親王宣下のない乙姫宮と言う、末の妹を除けば申し分のない地位と身分を獲得しました。

●叡子の死●
久安三年(1147)三月二十八日、高陽院の父円理の七十賀が土御門殿で行われ、八十八歳になった円理の母一条殿藤原全子と、高陽院の母源師子が共に臨席しました。七十八歳の師子は叡子の誕生以前に落飾し、仁和寺で暮らすようになっていましたが、土御門殿にも度々滞在しています。
翌久安四年(1148)十月二十六日、十四歳の叡子と高陽院は、白河新宮(恐らく後の福勝院)に移徙しました。白河新宮は、高陽院にとっては初めて自分の意志で新造した御所です。
ところがその白河新宮に移徙してから四日後の三十日、かねてより優れなかった叡子の体調は立ち上がれなくなるほど悪化してしまいます。十一月五日、叡子は円理と師子が留守を守る土御門殿への還御を余儀なくされました。
高陽院も十日の暁には白河新宮を後にして、土御門殿に還御しましたが、叡子はとうとう座っていることも出来なくなり、臥したきりになってしまいます。ただ、不幸中の幸いか、苦痛はなかった為、病状を詳しく聞いた藤原頼長(高陽院の異母弟)は「中風(麻痺)だろうか」と推測しています。二十七日の戌刻(19~21時)には、仁和寺御室覚法宝親王(高陽院の異父兄)が土御門殿に来て、平癒を願い叡子を受戒させました。
このような病状を耳にした鳥羽院は、発病から一ヶ月が経った十二月六日にようやく土御門殿に御幸し、叡子と対面します。しかし深更には早くも還御するなど、十二歳で早世した長女禧子の病中とは違って聊か冷淡な対応が目立つことは否めません。
一方、七十九歳の師子は衰弱していく叡子を哀れむあまり、七日の辰刻(7~9時)、まともに話も出来ないほどに急激に体調を悪化させてしまいます。師子は亥刻(21~23時)になって迎えに来た覚法の輿で仁和寺の木寺に移り、落ち着きますが、この騒ぎが致命傷となってしまったのか、翌八日の辰刻、十四歳の叡子の命は敢えなく尽きます。奇しくも、翌年には近衛天皇の元服が決まっている最中での薨去でした。
しかし、高陽院の周辺は師子の病に一喜一憂しており、師子までもが薨去してしまわないよう、「内親王の夢」は秘匿されました。そのような中、十日に叡子は入棺され、その後を追うように、十四日の寅刻(3~5時)、師子も薨去します。高陽院は、娘と母を一度に喪ってしまいました。ちなみに、師子の死については「上下大いに哭す」と嘆いた頼長は、叡子の死に際しては何の感慨も残していません。
十六日、叡子の棺は香隆寺の北に安置され、二十二日、近衛天皇に正式に奏されました。翌年の元服は延期となり、代わりに一月二十四日、二十七日と、鳥羽院の長女である故一品宮禧子内親王に倣って叡子の法会が行われました。しかし、鳥羽院はこの法会にも御幸しなかったようです。
対する高陽院は月忌の法会を欠かさず催し、叡子の遺骨を納める為に叡子の殿舎を仁和寺に移築して勝功徳院を建立し、さらには福勝院に叡子の冥福を願う三重塔を供養するなど、七年の余生は叡子への祈りに満ちたものでした。そして久寿二年(1155)、七月の近衛天皇の崩御に続いて、十二月十六日、叡子と師子の八回忌を見届けた高陽院もまた六十一歳で崩御します。高陽院の法会では、叡子の乳母で信頼の篤い大納言局が、女房たちを代表して高陽院を弔っています。鳥羽院が五十四歳で崩御するのは、高陽院の死から僅か半年後のことでした。



□叡子内親王の年表□
嘉保二年(1095)
藤原泰子、誕生。
康和五年(1103)
1.16鳥羽院、誕生。
永久五年(1117)
藤原得子、誕生。
保延元年(1135)
12.4誕生。
12.21東三条殿に移り、皇后宮藤原泰子の養女となる。
保延二年(1136)
1.21五十日定。
1.26五十日儀。
2.9百日定。
3.27百日儀。
4.19叡子と命名され、親王宣下。生母も得子と命名され、従三位に叙される。
保延三年(1137)
4.12准三宮宣下。封千戸を賜る。
7.17魚味始。
12.10着袴の儀。
保延四年(1138)
11.24土御門東洞院第、焼亡。三条南殿に移御。
保延五年(1139)
7.25養母泰子と共に御輿で東三条殿に渡御。
7.28養母泰子に院号宣下。高陽院と号。
8.9高陽院殿上始。
8.17生母従三位藤原得子に女御宣下。
保延六年(1140)
10.27三条南殿から再建された土御門東洞院第に移徙。
永治元年(1141)
3.1土御門東洞院第で鳥羽院の賀茂御幸を見物。
3.7生母従三位女御藤原得子に准三宮宣下。
3.10鳥羽院、出家。法名は空覚。
5.5高陽院、出家。法名は清浄理。
12.27生母准三宮藤原得子、立后。皇后宮と号。
康治元年(1142)
2.27高陽院、鳥羽殿に御幸。
2.28~3.6両院(鳥羽院と高陽院)、宇治小松殿に御幸。
6.27両院、鳥羽殿に御幸。
6.28~30両院(鳥羽院と高陽院)、宇治小松殿に御幸。
10.26二条室町桟敷で両院、崇徳院、得子らと大嘗会御禊行幸を見物。
康治二年(1143)
1.9法勝寺に行啓。
天養元年(1144)
1.10法勝寺に行啓。鳥羽院、崇徳院も御幸。白河殿に一泊する。
11.28~29得子と共に白河北殿から初めて参内。
久安元年(1145)
1.10両院、宇治へ御幸。
2.10~13両院、宇治小松殿に方違え御幸。
4.7白河殿に方違え。
5.17両院、鳥羽殿に渡御。
5.18~20両院、宇治小松殿に御幸。
久安三年(1147)
3.28土御門東洞院第で養祖父円理の七十賀。
久安四年(1148)
3.9高陽院の甥藤原基実、土御門東洞院第で着袴の儀。
10.26酉刻、高陽院と共に白河新宮に移徙。
11.5病により土御門東洞院第に還御。
11.10高陽院、土御門東洞院第に還御。
11.27受戒。
12.8病により土御門東洞院第で薨去。
久安五年(1149)
12.8一周忌法会。
仁平元年(1151)
6.13高陽院御願の白河福勝院、落慶供養。
久寿元年(1154)
10.21福勝院に三重塔建立。
久寿二年(1155)
12.16高陽院、崩御。


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