善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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後白河院と二条天皇の後宮今昔。 ※多少おちゃらけています

待賢門院の四男後白河院(雅仁)は、数え十七歳(満年齢だと高校一年生にあたる十五歳!)の時に、長男二条天皇のパパとなりました。息子と十六歳しか歳が違わないという、ひっじょーに若いパパです。
その結果、いざ二条天皇が即位した時、パパ三十二歳、息子十六歳という、「どっちもこれから皇子が誕生する可能性大」な状態になっていました。

で、ですよ。
実は後白河天皇は、即位前に立太子すらさせてもらえないレベルの中継ぎ天皇でした。後白河天皇の長男二条天皇に皇位を継承させるのにあたって、「父親が生きてるのに即位させないのはどーなの?」というわけで即位させてもらった、ただそれだけの存在でした。なので、なんと後白河天皇は、平安史上稀に見る、「摂関を出す家から后妃を迎えていない天皇」だったんです。
でも物事は何が幸いとなるかわからないもので、中継ぎとしてスルーされている後白河天皇の後宮はあまり束縛がなく、その結果、待賢門院の兄弟たちが後白河天皇の後宮に娘や孫娘を入内させました。これは当然将来の帝を自分の家から出すことが目的で、もし二条天皇に何かあったり、二条天皇が皇子を儲けられなかったり、あるいは二条天皇の後見が壊滅状態になれば、後白河天皇の他の皇子が皇位につく可能性はあるわけですから、無駄骨にはなりません。

という訳で、二条天皇即位時、後白河院の後宮には、以下の三人の后妃がいました。(待賢門院の後見を受けていた二条天皇の生母源懿子は、二条天皇誕生から六日後に死去)
※順番は後白河院の後宮に入った順です。

1.従三位藤原季子(高倉局。高倉三位)(1126~1177.3.11)
父&後見:中宮(忻子)大夫・権大納言・藤原季成(1102~1165.2.1。待賢門院の異母弟。庶子)
母:(たぶん)藤原顕頼女
wikiでは生年不明になっていますが、『愚昧記(【王宗】子の同母弟実房の日記)』によると、1177年に数え52歳で薨去しているので、雅仁(後の後白河院)より一歳年上と確定。懿子の薨去から二年後に待賢門院も没して、寂しくなっていた頃の雅仁と出会い、二十二歳(1147年)に長女を儲けて以来、十一年の長きに渡って寵愛され、二男四女を産んだ。実は一番雅仁の子供を産んでいる人。1160年には「高倉三位」と呼ばれているので、たぶん後白河天皇の譲位までに従三位に叙されていたんじゃなかろうか。後白河天皇の側に中宮や女御が入侍してからは、後見の差が物を言ったのか、子を儲けていない。

2.中宮藤原忻子<承香殿>(1134~1209.8.12)
後見&祖父:左大臣藤原実能(故人。待賢門院の同母兄)
父:右大将権大納言藤原公能(1115~1161.8.11)
母:従三位藤原豪子
1155年10月20日、祖父実能の沙汰で入内。場所は内裏ではなく、後白河天皇が即位式を前に行幸した一本御書所だった。このとき二十三歳なので、たぶん実能ははじめから入内を狙って忻子をそこいらの貴族の嫁にはせんとキープしてたんじゃないかと思われる。六日後、即位の儀式が行われた後、一本御書所で露顕の儀があり、天皇が渡御して女御に宣下された。この時の位階は従四位上で、この日、ようやく家司が補任された。これは待賢門院や摂関家の娘が入内前に家司を補任し、従三位で入内したのとはかなり開きがある。
中宮になったのは、東宮守仁親王(二条天皇)が【女朱】子内親王と婚姻後(ついでに保元の乱も終わった後)の1156年10月27日。藤壺が空いてたのに、中継ぎ天皇の中宮だからか入れてもらえなかった。
六歳年下の同母妹は、近衛天皇と二条天皇の后になった多子(まさるこ)。

3.従三位女御藤原【王宗】子<梅壺>(1145~1231.4.6)
後見:皇后宮統子内親王(後白河天皇の同母姉)
父&後見:内大臣藤原公教(1103~1160.7.9。待賢門院の異母兄実行の嫡男)
母:藤原清隆女
1157年10月11日に、なんと十三歳で入内という、衝撃デビュー。二条天皇より二歳年下なので、後白河天皇からすれば娘のような年齢である。んが、父の公教のこの入内への意気込みは強く、入内の時、全部待賢門院の先例にならって儀式を行った。なので、当時皇后宮の統子内親王が腰結をしたり、統子内親王の御在所の弘徽殿を婚儀の場としたりしたらしく、その後、女御となってからは梅壺を御所とした。いつだか不明なものの、従三位に叙され、(少なくとも1160年には年官年爵があるので、たぶんそれまでに)准后にもなっている。


こうして見ると、血縁的には全員いとことか親戚だったりしますが、まー年齢的には見事にバラバラですよねw しかもこの他に、坊門局とか、公能のもう一人の娘とかが寵愛を蒙っています。(このうち坊門局は四人の皇子の母になっているので、たぶんお気に入りだったんでないかと。)
さて、譲位時の後白河院には二十五歳の中宮忻子と、十四歳の女御【王宗】子がいました。季子の皇子は難しいとしても、忻子と【王宗】子から皇子が生まれれば、間違いなく皇位継承に割って入れます。てなわけで、1158年8月11日に譲位した後白河院は、間もなく里内裏にしていた高松殿を院御所にして、そこに忻子と【王宗】子も連れていきました。翌年元日には、御所の西側に忻子、東側に【王宗】子と、両手に華状態の後白河院がいます。(年齢的に考えると、皇子誕生の機会がある忻子が一番寵愛されたんじゃないかと(・∀・) つか、【王宗】子相手じゃ後白河院がロリコ(殴))

一方、十七歳になった二条天皇には、東宮時代からの妃が一人いました。

1.東宮妃→中宮→高松院・【女朱】子内親王(1141.11.8~1176.6.12。射手座)
後見:左大臣藤原伊通&権大納言重通兄弟(美福門院の従兄たち)、大納言藤原宗能(【女朱】子の乳母の父)、鳥羽院→後白河院。
養母:皇后宮統子内親王(異母姉)
父:故鳥羽院
母:美福門院
十四歳でやっとこさ親王宣下をされ(←何気に酷い話)、鳥羽院崩御の四ヶ月前に元服したての東宮守仁親王の妃になった。十四歳の東宮と十六歳の東宮妃なので年齢的にはバッチリなものの、実は甥と伯母だったりする。内親王で准后なので、女御にはなってない(女御は臣下の位)。二条天皇が即位してからは、摂関家専用の藤壺を御所にして(リアル藤壺の宮)、宇治にも後白河院や統子と一緒に行っている。


まとめると、【女朱】子は、美福門院、摂関家、後白河院に加えて、鳥羽院の側近だった信西の後見を受ける最強の妃なんです。つまり、この後見がある限り、二条天皇には【女朱】子以外の后妃は有り得ないとゆー状態でした。(そのわりには、即位翌年の1159年に女房に皇女を生ませてたりしますがw←こら)
んが、【女朱】子はわりと内裏にいなくて、1159年2月21日に立后した時には、前後二ヶ月ほど参内しませんでした。【女朱】子はこの時十九歳、出産可能な年齢に達していて、チャンスはバリバリありましたが(もっと他に言い方は…)、後白河院の皇后宮忻子(【女朱】子が中宮になったので、忻子は皇后宮にスライドしました)にも【女朱】子にも懐妊がないまま、十二月九日、世に言う平治の乱が始まります。
この事変の始まりは、八月に高松殿が火事で全焼して以来、宿無し状態の後白河院が寄宿していた姉上西門院(もと皇后宮統子内親王)の御所三条烏丸第に、藤原信頼と源義朝が攻めてきたことでした。
(※後の建春門院こと上西門院の女房小弁局に出会ったのは、もしかしたらこの居候時代(←ちょ)だったかもしれないですね(・∀・) 居候ゆえに忻子は同居出来なかったみたいですし。てか、居候ゆえに御所が燃えちゃった上西門院が気の毒です。←)







平治の乱がなんで起こったんだとかは諸説あるので説明は避けますが、結果的に、信西と信頼が死んで、大内裏は使えなくなりました。あ、平治の乱を鎮圧した平清盛は京の武力代表として益々重用されるようになって、その正室平時子は二条天皇の乳母典侍になりました(・∀・)
そんな中、二条天皇と中宮【女朱】子は美福門院御所の八条烏丸第で、後白河院は八条堀河第で1160年のお正月を迎えます。
んが、なんとこの正月二十六日に、(まだ乱の処理も終わってないのに)(ついでに美福門院御所にいるはずなのに)二条天皇は新しい后を迎えました。しかもしかも、その后は前代未聞の御方でした。

2.太皇太后宮藤原多子(1140~1201.12.24)
父&母:皇后宮忻子と同じ。
【女朱】子の同母兄近衛天皇の中宮→皇后宮となって、現在は太皇太后宮。養父の故藤原頼長と、現在前関白の藤原忠通の対立のあおりを受けて、気の毒過ぎる前半生を送った二十一歳。たぶん近衛天皇とはオママゴト夫婦状態で引き裂かれている。
この頃は河原御所(京の外)にいたらしい。


「義兄の妻だった人」とデキちゃうのは庶民でも問題ありまくりなのに、再婚不可の后がそうなっちゃったので、二条天皇は後世あれこれ言われてます。が、敢えて十八歳(満年齢十六歳)の若き二条天皇の気持ちを想像するなら、

二条(#゚Д゚)「鳥羽院と美福門院のおかげで即位したから、一度は朕を寺に追い払った養母美福門院や(※二条天皇は九歳から十三歳まで仁和寺にいました)、赤の他人の信西を尊重してきたのに、信西のヤツは信頼に襲撃された挙げ句、逃げ出しやがって(※逃亡と言うより敵に首を渡さないよう自害しました。結局晒し首になりましたが)。大内裏に兵が踏み込んでくるなんて、朕は前代未聞の赤っ恥天皇だよ! 不徳極まったわ!」

ってとこではないかと(え)。
じゃあもう故鳥羽院派は頼らないと考えて『脱★鳥羽院』を決意したとすれば、どうするのか?を考えたら、まずすべきことは「not鳥羽院派もしくは鳥羽院派(゚⊿゚)イラネな勢力と手を組むこと」じゃないですか。そこで当時の公卿を見てみると、

左大臣藤原伊通(娘は近衛天皇中宮で、現皇太后宮呈子。美福門院派)
右大臣関白藤原基実(十八歳なので娘なし。妹は十五歳)
内大臣藤原公教(元鳥羽院側近だが長女を後白河院の女御にしており野心あり。次女は幼少か)
大納言藤原宗能&第一権大納言藤原重通(美福門院派)
第二権大納言藤原公能(忻子と多子の父)
第三権大納言藤原季成(季子の父)
第四権大納言藤原経宗(生母懿子の同母弟。側近だが、平治の乱に関与)


と言う感じでした。この上に、基実の父・前関白忠通がデンと構えている状態です。
となると、必然的に二条天皇が最終的に組みたい相手は実際に政務を執っている摂関家だったはずですが、実権を握る忠通としては、娘はまだ子供を産める年齢でもありませんし、何より近衛天皇時代を美福門院派と手を組んで乗り切った以上、いきなり掌を返して反発を食らうのは避けたかったはずです。(近衛天皇時代、忠通は入内問題で大失敗をして、保元の乱が起きるに至り、摂関家は財産も権威もたくさん失った。)
忠通が「美福門院派潰しは他の人間にやって欲しい。で、その後ウチの娘を中宮にしたい」と思ったとしたら、多子はまさにうってつけの人材でした。もし多子が皇子を産んでも、「先々帝の后の皇子」は絶対に「摂関家出身の中宮の皇子」に叶いませんから。
んで、多子の父公能としても、長女忻子が後白河院の皇子を産む気配がない以上、外戚になる為には三女多子に頑張ってほしいでしょう。後白河院も、美福門院派が実権を握るよりは、二条天皇や忠通との三頭体制が望ましい。
それに対して美福門院派はと言うと、信西がいなくなったら、一気に執務能力が低下しちゃったらしいんです。その証に、この年八月、左大臣伊通は隠居役の太政大臣に追いやられ、左大臣は関白基実、右大臣兼一の上は公能、内大臣は基実の異母弟基房になり、摂関家を除けば公能が政界トップに立ったんです。二条天皇は、美福門院派なしでの政治体制を確立しました。

ところで、多子が入内した里内裏ってどこなんでしょう。(美福門院御所だけは、常識的に考えてマジでないと思う…とゆーか、もしそうだったら二条天皇ったら鬼!(;´Д`)←コラ)
この辺は日記がないんで推理もとい妄想ですが、『今鏡』には「忍んで入内すると、昔の御住まいも同じ様子で」という一文があるんですよ。「昔の御住まい」が、近衛天皇に入内した時の内裏のことなら、実はそれは摂関家の本邸東三条殿なんです。んで、この東三条殿は、二条天皇が何度も里内裏にしていて、この翌年には多子も里内裏東三条殿で暮らしているんです。…となると、摂関家との盟約の証としても、二条天皇は東三条殿で多子を入内させたんじゃないかなーと思うのでした★

ちなみに【女朱】子は、この春(1~3月)以後全く参内しなくなり(そりゃそうだ)、八月に病により落飾します。まだ二十歳なのに。美福門院もショックが強かったのか、十一月に四十四歳の若さで崩御してしまいました。二条天皇はこの時、かつての養母が死んだのだから服喪をと迫られても、服喪しませんでした。

が、多子との関係も長続きはしませんでした。1161年八月、公能が薨去してしまった為、ついぞ懐妊に至らないまま多子は内裏を退出し、一年は服喪しないといけなかったんです。また、四月に法住寺殿御所が出来て以来、久し振りに後白河院と同居出来るようになっていた皇后宮忻子も退出を余儀なくされます。
そして皮肉にも、九月三日、二条天皇が疱瘡に罹患した最中に小弁局が後白河院の皇子を出産します。小弁局は宮中で帥三位と呼ばれるようになっていた平時子の妹ですが、二人は母も違いますし、顔見知りだったかも不明です。でも時子の同母弟時忠たちは、皇子の立太子を希望したらしく、二条天皇は時忠たちを流刑にしました。後白河院も清盛も二条天皇の死後まで(皇子の立太子が決定されるまで)時忠を呼び返さなかったところを見ると、二人からすれば、「皇子の立太子なんて時忠の世迷い言」扱いだったのかもしれませんねー(←「平家にあらずんば」を言った人でもあります)。
そうは言っても、二条天皇の後宮は空っぽのままで、対する後白河院の元には、一年前に薨去した父公教の服喪を終えた女御【王宗】子が参入していました。幼かった【王宗】子もすでに十七歳、そろそろ懐妊の可能性が出てくる頃です。これまで適齢期の后二人を懐妊させられなかった二条天皇が焦り始めても無理はありません……が、何より、忠通の「待ってました!」な瞬間だったのではないでしょうか。

忠通(`ω´)「故美福門院派と、公教・公能を亡くした閑院流は弱体化した。後白河院ともギクシャクする気配がある。今こそ、十六歳になった我が娘育子を中宮にし、二条天皇の外戚となるのだ!」

二条天皇にしても、手を組む相手は摂関家しかいません。そこで三人目の后、藤原育子が登場します。

3.中宮藤原育子(1146~1173.8.15)
養父&兄:関白左大臣藤原基実(1143~1166)
父:前関白藤原忠通(1097~1164)
母:忠通の女房督殿
本来なら庶子だが、正室宗子の子は聖子一人しか育たなかった為に、忠通の次女として育った。忠通が年なので、三歳年上の異母兄の養女に。二条天皇にとっては初めての年下の后。


育子の入内決定と同時に、新政権の為の里内裏となる押小路東洞院第の建設も始まり、九月には育子の異母兄基房が内大臣から右大臣になりました。故美福門院派の筆頭太政大臣伊通を納得させるために、十二月の入内前日には美福門院の嫡女【日章】子内親王に八条院という院号を宣下しています。入内当日には、育子は摂関家の伝統に従って藤壺に入り、二条天皇はその様子を見物するほど積極的です。
全ては順調…かと思いきや、問題が一つ。それは、【女朱】子がまだ中宮である、ということでした。この結果、明けて1162年二月、【女朱】子には後白河院の御所高松殿で立后したことにちなんで高松院という院号が宣下され、その半月後、育子は中宮に立ちました。三月には押小路東洞院第が落成、二条天皇と中宮育子が引っ越して、この御所が二条天皇の最後の住まいとなります。さらに、後白河院と手を切った代わりに、仁和寺時代の師・覚性入道親王(後白河院の同母弟)を朝夕そばにおいて重用します。
時に、二条天皇二十歳の春のことでした。

対する後白河院は、この年の正月は東三条殿で迎えており、女御【王宗】子だけでなく、面白いことに、上皇になってから初めて八条院との同居が記録されています。そして、後白河院はやっぱり忻子と【王宗】子からの皇子誕生を期待していたようで、1163年、1164年、1165年と二人と同居しています。(ちなみに1164年8月に讃岐(崇徳)院が崩御しましたが、後白河院は服喪しませんでした。さすがに酷くないっすか…。)(でも、おかげで当時は讃岐院が怨霊になるなんて考えてなかったこともわかります)
が、後白河院も二条天皇も庶子は生まれるのに后妃からは一人も子が生まれないまま年月が経ち、1164年2月に忠通が、1165年2月に伊通が薨去し、鳥羽院時代からの重臣は皆この世を去りました。重石が取れた二条天皇は、流刑地から呼び戻していた外叔父経宗を1164年閏10月には右大臣に据え、11月に誕生した次男を育子の子「一宮」としてしまいます。んが、この「一宮」は、生母が誰だかはっきりしていない庶子です(それくらい身分が低かったのではないかと)。そこまで身分の低い生母を持つ天皇は例がなく、当然、二条天皇は育子の懐妊を熱望していたと思われますが、その前に、二条天皇本人が病に蝕まれていました。
1165年2月から二条天皇は体調不良が目立つようになり、4月には大赦に奉幣、改元、覚性入道親王による祈祷などあらゆる手を尽くしますが、病気は進む一方。ついに、天皇のままでは受けられないお灸治療を受けるために、6月25日、譲位に至ります。譲位当日に「一宮」に親王宣旨を下して立太子させるという慌ただしさでした。中宮育子は国母に、関白基実は摂政となります。しかし、譲位した二条院は、治療も虚しく、「一宮」こと六条天皇の即位の儀の翌日、二十三歳で崩御しました。二条院の二条は、押小路東洞院第が二条大路に面しているからでしょうか。

その後、生後一年にも満たない天皇も、生母の身分があまりに低い天皇も前代未聞だったためか、九月には時忠が呼び戻され、十二月、小弁局が生んだただ一人の子である五歳の皇子に親王宣旨が下されました。さらに、翌年には摂政基実が薨去してしまったことで、基実を婿にしていた清盛も腹が決まったのか、基実の死から三ヶ月後に小弁局の皇子は立太子し、小弁局も従三位に叙されます。以後、忻子や【王宗】子が後白河院と同居したという記録は見当たりません。



最後に。
こうして、皇子を複数生んだ愛妾でも、正式な后でもなく、皇子を一人生んだだけの小弁局が、後宮の勝者になりました。この小弁局は、建春門院となった後、三十五歳の若さで崩御する時、息子高倉天皇には病を知らせず、医師に体を見られるのを嫌がる后が多い中、激痛に耐えながら腫れ物に針を刺させ何度もお灸を行うなど、生き残るために必死で闘った女性でした。


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  1. 2013.06.16(日) _00:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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