善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

.

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --.--.--(--) _--:--:--
  2. スポンサー広告
  3. [ edit ]

待賢門院の根性ある御産記録〔禧子・通仁・君仁・統子(恂子)・雅仁・本仁〕

前に待賢門院の第一子崇徳天皇こと顕仁親王の誕生を巡るあれこれを書いたので、今回は残りの六人について書きました(・∀・)


2.長女禧子内親王
長女禧子内親王は、保安三年(1122)六月二十七日、三条西殿で誕生しました。この時期はどの日記も欠けているので詳細はわかりませんが、懐妊時期は出産予定日の266日前なので、だいたい前年九月から十一月頃と考えられます。
ちなみに、鳥羽天皇が関白藤原忠実の嫡女を入内させようとしたことに端を発する、「関白辞任事件」がその年の正月にあったことを考えると、その後一年以内に天皇と中宮の仲が回復したというのは少し意外にも思えますが、鳥羽天皇は禧子をどの子女よりも溺愛していて(コチラをご参照ください)、間違いなく実子です。その証に、禧子は生後二ヶ月の八月二十四日には准三宮に叙され、十月九日から十一月二十八日まで息災長寿を願う祈祷も行われ、禧子七歳の大治三年(1128)四月十三日には、親王としては最高位の一品にも叙されたり、常に鳥羽天皇の嫡女として遇されています。
なお、鳥羽天皇の譲位は禧子の誕生から半年後の保安四年正月二十八日に行われ、鳥羽院は三条西殿、白河殿と居を移した後に、六月十日に新造の二条東洞院第に移徙し、御所としました。この移徙には中宮璋子も同行しています。



●天皇時代の鳥羽天皇と中宮藤原璋子の関係●
鳥羽天皇と中宮藤原璋子は、約五年間で二子を儲けるという、わりとよくいる(幸運な)天皇と中宮でした。
揉めたこともありますが、関白藤原忠実の嫡女(後の藤原泰子)の入内問題は、そもそも関白嫡女の嫁ぎ先が内裏以外には有り得なかった時代なので、中宮璋子との仲がどうだったか以前に、起こらなきゃおかしい問題です。いつ死ぬかわからない老齢の祖父白河院しか後見がいない鳥羽天皇としても、血縁関係のない壮年の関白との仲を悪化させないためには、その嫡女の入内を要請することは欠かせなかったはずですし。「摂関家の養女を中宮にし、彼女を寵愛することで、異母弟を差し置いて息子への譲位に成功した」白河院も、それがわからないはずがありません。
だから、むしろ、そんな時ですら璋子は一ヶ月里居をしたら二、三ヶ月は内裏にいる、という生活である……つまり、二人の夫婦関係が破綻しなかったということが個人的には驚きです(例えば、藤原道長の父兼家は、第一皇子を産んだ娘詮子を差し置いて他の女御が立后された時、娘も皇子も二度と参内させないという形で怒りを露にしています。参内しない、というのは天皇への抗議行動の一つでもあるんです)。
んで、これはやはり、鳥羽天皇の祖父兼養父と言って差し支えない白河院の采配だと思うんですよ。白河院としては、鳥羽天皇が十五歳になっても関白嫡女の入内がないから璋子を入内させたわけですが、関白が二十五歳も年下の忠実である以上、いずれ自分が関白より先に死に、その時璋子が関白から迫害され、苦境に立たされるのはわかっていたはずです。本当に何よりも璋子が可愛いなら、入内という選択肢だけは有り得なかったはず(だから、僅か十一歳の璋子を関白忠実の嫡男忠通と婚約させ、十七歳まで粘ったんでしょうし)。
「白河院の養女への溺愛」フィルターを取っ払って考えると、璋子の入内は、決して璋子のためではなく、鳥羽天皇が「后妃不在」なんて不面目な十六歳の幕開けを迎えなくて済むように、唯一自分の自由になる持ち駒の養女璋子を慌てて入内させたのではないかなーと、そう思えます(調べてみると、平安時代の天皇の中で、元服前に即位したのに十五歳になっても独身だった天皇は、廃位されたも同然の陽成天皇と鳥羽天皇だけです)。
でも、一応璋子も白河院がずっと育ててきた養女なわけで、だから崩御するその時まで「自分の生きているうちは関白嫡女は入内させない、一帝二后は許さない」と踏ん張ったのではないでしょうか。白河院が崩御を覚悟した時に「忠実の嫡女だけは后妃にするな」と鳥羽院に遺言したのも、「自分が遺言しない限り、後見が薄弱な璋子の地位は到底守れない」と常日頃から考えていたからかなと…(実際には、遺言してもあまり意味はありませんでしたし)。
天下三不如意とか言われる白河院ですが、鳥羽天皇の後宮問題も、どう考えても「不如意」の一つです。『殿暦』や『中右記』を見れば、白河院の理想は

「鳥羽天皇は関白忠実の嫡女を中宮にして皇太子を儲け、璋子は忠実の嫡男忠通の正室になって子女を儲ける。そして、いずれは鳥羽天皇の第一皇子が天皇となり、そこに璋子の産んだ忠通の嫡女が中宮として入内する。璋子は関白の正室、中宮の母として尊ばれ、従一位に叙される」

なのは明らかなので。
しかも、この後宮問題が原因で、二十年間ずっと自ら教育・サポートし続けてきた忠実を罷免せざるを得なくなったわけなので(『中右記』によれば、白河院は関白嫡女入内の噂が出てから処罰するまで一年も我慢しています。怒りに任せて罷免したわけではありません)、人事問題も「不如意」の一つと見てよいのではないでしょうか。まぁざっくり言えば、白河院も毎年熊野に行って神頼みしたくなるくらい大変だったんですな(・∀・)(←ざっくりし過ぎではw)

そして、様々な問題がある中で鳥羽天皇に中宮璋子を寵愛する意志があったことも、鳥羽天皇という人物を考える上では外せません。
ぶっちゃけ、第一皇子が生まれた以上、鳥羽天皇の中宮璋子に対する「義務(中宮の最重要任務の達成への協力)」は終わってるんですよ。璋子が嫌いなら、もう寵愛する必要はないんです。禧子を生ませる必要性はないんです。
でも、禧子が生まれた。まだ満年齢では十代の鳥羽天皇的に、中宮璋子が「寵愛したい相手」じゃないなら、禧子の誕生はないと思います。鳥羽天皇が盛ってるお年頃だったとしても、周囲は女官だらけで別に相手には困りませんし(・∀・)←言い方を考えろ。 何より、一番鳥羽天皇に発言力があったであろう二位の乳母光子(璋子の生母)は禧子誕生の一年半前に薨去しているので、ふつーに考えて、禧子懐妊時の鳥羽天皇はやっとつまみ食いし放題になっててもおかしくないんじゃないかと(以下略)
えー、まとめると、「顕仁も禧子も、鳥羽天皇が中宮璋子を寵愛したかったから生まれた」っつーことでいいんじゃないですかね(・∀・)←

次は、譲位後に生まれた五子についてです。



* *


3.次男通仁親王
譲位後最初に生まれたのは次男通仁親王で、天治元年(1124)五月二十八日に誕生しました。着帯がその年の正月二十日なので、懐妊時期は前年の九月頃ではないでしょうか(※天治元年は閏二月があります)。
この頃、鳥羽院は二条東洞院第にいて、中宮璋子の方にもこれといった用事はなかったようです。実は十月十一日から十一月二十五日まで長男崇徳天皇は大嘗会のために一本御書所にいて、その間に行われた行幸では璋子が常に天皇と同輿したという記録があるので、逆に行幸がない九月は鳥羽院の元にいた可能性が高いです。
明けて保安五年(1124)正月は二条東洞院第で迎えたようで、五日の朝覲行幸では六歳になった天皇が初めて一人で鳳輦に乗って同所に行幸し(一人で拝礼をした天皇を見て、感激屋の白河院は感涙にむせんでます)、璋子はそこで天皇を迎えて、還御の際は天皇と同輿して入内しました。二十日の着帯の儀は、日没後に璋子が内裏から程近い正親町東洞院第に行啓して、待っていた鳥羽院の手で着帯した後、その夜のうちに内裏に還啓するという慌ただしさです。言い換えれば、そこまでするくらい、胎児の父が着帯の儀を行うことは重要視されていました。
閏二月十二日、白河での花見御幸に璋子は華やかに装った女房を連れて行啓しています。この後参内した記録は見当たらず、三月十四日、璋子は二条東洞院第から御産所の三条西殿に行啓・退出しました。白河院と鳥羽院は同車して行列を見物してから、三条西殿に御幸しています。普通、夫が天皇や上皇の場合は御産所には入らないものですが、鳥羽院はそのまま三条西殿の東対を御所にして、御産定もこの日に行われました。
天治と改元された翌月の五月十九日、御産気があり、白一色の調度に改められましたが、出産には至りませんでした。祈祷が加速した結果、二十八日夕刻に再び御産気があり、子刻、平安に第二皇子が誕生します。この皇子は「儲け君(東宮)の誕生である」と祝福され、生後一ヶ月にも満たない六月二十二日に親王宣下を蒙り、通仁と命名されました。通仁は七月二十三日には参内していますが、赤子の通仁一人での参内は不自然ですから、たぶん母后の璋子も参内して半年振りに天皇と対面したのではないでしょうか。この後、璋子は八月十二日に三条西殿から二条東洞院第に行啓します。

4.三男君仁親王
三男君仁の誕生は、天治二年(1125)五月二十四日のことでした。天治元年十一月二日には懐妊が発覚して、妊娠初期の璋子の参内の可否が議論されているので、通仁の出産後、二条東洞院第に行啓して間もなく第四子を懐妊したことになります。鳥羽院の祖父白河院もその中宮賢子を寵愛したことで有名ですが、璋子の懐妊のペースはその賢子よりも早いです。
ところで、ちょうど懐妊が疑われ始めただろう十月後半には、鳥羽院と璋子は禧子や通仁も連れて三条西殿にいたようです。十月十五日から鳥羽院は三条西殿の東対で精進を行い、白河院の先例にならって、二十一日から十一月二日まで高野山に参詣しているんです。
この参詣が終わった後、璋子への院号宣下が沙汰され始めて、十一月二十四日、国母として名高い上東門院と陽明門院にならって待賢門院という院号が宣下されました。この時他に候補に上がったのは、全て三条西殿に因んだ院号で、二条院、南三条院、美福門院、坊門院、桃華坊院、教業坊院です。院号を宣下された待賢門院は、御幸始として十二月二十六日に久し振りに参内しました。
翌天治二年正月二十二日、摂政藤原忠通が待賢門院の安産祈願として三条西殿で小塔を供養するということがありました。摂関にある人物が、一家と無関係な后妃のために安産祈願を行うことは稀有のことで、待賢門院と忠通の友好的な関係が見て取れます(待賢門院から見れば、忠通は御産続きで参内出来ない自分の代わりに天皇を養育する存在であり、忠通から見れば、前年に着袴の儀を終えた娘をいずれは入内させるためにも待賢門院との協調は欠かせません)。
一方の鳥羽院は二月十六日に作文会を、三月三日の節句に和歌会を初めて行いました。時を同じくして金葉和歌集の編纂作業も続いています。
四月三日、御産定が三条西殿で行われ、五月二十四日の子二刻(23時半)、第三皇子が誕生しました。実は女院の御産はこの時が初めてで、しかも三人目の皇子です。当時の日記には賞賛の言葉が飛び交っていますが、御産自体は難産で、最中に非常赦まで行われています。事前の祈祷や、誕生前日に白河院が方違御幸をしていることを考えると、予定日よりかなり早い出産だったのかもしれません。
君仁も病弱で(詳しくはコチラ)、行始(初の外出)は誕生から三ヶ月も経った八月二十五日。行き先もほど近い二条東洞院第です。

5.次女統子内親王
統子は初名を恂子(あなしこ)と言い、大治元年(1126)七月二十三日に誕生しました。鳥羽院と待賢門院は天治二年十一月三日から一ヶ月間精進潔斎を前提とする熊野参詣(初度)を行っているので、待賢門院の懐妊時期は九月からこの十一月三日までと見てよいのではないでしょうか。ちなみに、九月九日に君仁親王の百日儀が行なわれています。ハイペースですね。その上、妊娠初期に熊野参詣です。考えるだけでぞっとしますが、それでも参詣しなければという焦燥感があったのかもしれません。
明けて正月には、待賢門院は白河院と鳥羽院と共に、八日と九日に法勝寺へ、十三日に日吉へ御幸していたのですが、十五日に鳥羽院が疱瘡に罹患したため、鳥羽院が回復するまで御幸は行っていません。二十六日には大治と改元、白河院が千僧御読経を何度も行わせた甲斐もあってか、鳥羽院は無事回復しましたが、以後、白河院の殺生禁断令は厳しくなります。三月、待賢門院は鳥羽殿や三重塔供養や石清水八幡宮に御幸しています。
こうして迎えた七月二十三日、第二皇女が誕生しました。幸い、この皇女は健康そのものであったらしく、生後半月で行始を行い、八月十七日、恂子と命名され、親王宣下を蒙りました。
しかし、皮肉にも恂子の誕生から二日後に賀茂斎院が退下したため、恂子は親元を離れて斎院となることを余儀なくされます。恂子が待賢門院といられるのは、賀茂祭がある翌年四月まででした。

6.四男雅仁親王
待賢門院の子女はすでに五人になっていましたが、残念ながら障害があり病弱な通仁と君仁には皇位継承は期待出来ず、従って、待賢門院には健康な皇子の出産が期待されていました。
そのような雰囲気の中で恂子の百日儀を終えた待賢門院と鳥羽院、白河院は、十一月、二度目の熊野参詣を行います。そして還御した十二月、待賢門院は第五子を懐妊しました。この間、雪見御幸や禧子の着袴などの行事があり、年始には三条東殿での朝覲行幸、五度に及ぶ法勝寺御幸に加えて、待賢門院の御願寺円勝寺の五重の塔の供養と、多忙を極める中での懐妊です。特に、正月八日、十日、十三日の法勝寺御幸では、なんと牛車に乗ったまま夜通し呪師による猿楽を見物しています。しかも、二十七日からは再び精進潔斎して三度目の熊野参詣に出立しています。さすがに還御してからは懐妊がわかったからか御幸は減りましたが、四月五日には生後一年にも満たない恂子に付き添って初斎院御所に御幸して、翌日の准三宮宣下と卜定を見届けました。着帯は二日後の八日に行われたので、恐らく四月で妊娠五ヶ月だったと考えられます。七月十七日に御産定も行われ、大治二年(1127)九月十一日の戌刻、第四皇子が誕生します。待望の健やかな皇子でした。
また、今回は待賢門院自身の回復も早かったようで、十月二十二日には白河殿に方違御幸を行い、二十九日には六歳になった禧子と共に鳥羽殿に御幸して、高野山に出立する白河院と鳥羽院を見送りました。皇子への親王宣下は十一月十四日に行われ、二十一日には、記録上では待賢門院は三年ぶりに参内、内裏に二泊三日して五節を見物しています。
何はともあれ、通仁から雅仁まで四人の子女を毎年出産していた待賢門院は、大治三年(1128)、ようやく御産のない年を迎えます。

7.五男本仁親王
本仁親王は、大治四年(1129)閏七月二十日に誕生した、待賢門院の末子です。正月三十日に懐妊が判明していることを考慮すると、大治三年冬、ちょうど長男崇徳天皇の元服の支度が宮中を挙げて行われていた頃の懐妊でした。
この後、待賢門院は十一月十日に最勝寺の塔供養に、十二月二十一日には白河に雪見の御幸を行った他、明けて元旦には国母として参内し、元服した崇徳天皇の拝礼を受けています。この時、待賢門院は額髪を上げて、紅の単衣を着た上に、匂い襲の袿を三領、紅の打衣を十二領、梅襲の二重織物の表着、紅梅の小袿、赤色の二重織物の唐衣を重ねた、想像するだけで目も眩むほどの豪華な装いをしていました。
体調も良かったのか、正月以降も月に数回は御幸をしながら迎えた七月六日の深夜、待賢門院と鳥羽院を驚愕させる報せが白河院の住む西対代廊からもたらされます。白河院が霍乱(胃腸炎)により重体となり、明日をも知れないというのです。
実はこの日、白河院は安産の為の祈祷を行うために一人で二条東洞院第に御幸し、三条西殿に還御してから霍乱の症状が出たのですが、御産間近の待賢門院たちには心配をかけまいと隠していました。しかし、数えで七十七歳と高齢でもあり、暫くして死を覚悟した白河院は、病を披露させ、参上した鳥羽院たちに「御産を控えた今、死の穢れに触れることなどあってはならない。朕はもう動けない。ゆえに、二人は直ちに他の御所に御幸をするように」と命じます。そうは言っても、鳥羽院と待賢門院は父親同然の白河院をいきなり放り出すことなど出来ず、終夜泣きながら付き添いました。しかし、翌日白河院は呆気なく崩御してしまいます。
九日、待賢門院は急遽御産所に選ばれた三条京極第に渡御しましたが、自身の安産祈願の翌日に白河院が急死したこともあってか心労が甚だしく、陣痛のような腰の痛みに苦しみます。その上、閏七月十日には、療養中だった次男通仁が赤痢で薨去。周囲は待賢門院を慮ってその死を隠したものの、そもそも通仁は白河院の崩御以前に持病の痢病のために乳母の家に渡御し、待賢門院たちの指示で祈祷を受け続けるという状態だったので、体調不良の待賢門院がずっと会えていない通仁を常よりも案じていたことは考えられます(この後、薨去を知った待賢門院は、通仁の乳母大炊殿を自身の女房として側近くに置いています)。
十九日夜半に待賢門院は産気付いたものの、周囲の予想通りの難産で、二十日の未刻の終わりに、なんとか第五皇子を出産します。母子共に無事なことは「大慶事」とされました。また、五皇子の母になった女性は史上初であったため、待賢門院は「大幸の人」とも讃えられています。
皇子は健康で、八月二日に早くも行始がありました。待賢門院はというと、八月九日から五日間三条西殿で服喪した後、一ヶ月に及ぶ三条京極第での療養中に、法金剛院建立を決意します。そして、九月十六日、頻繁な御幸のある「日常生活」に戻りました。





こうして見ると、待賢門院は非常にタフな生活をしてます。何より、四年連続の出産! 平安時代にこんなにハイペースな御産をした后妃(女院)は他に見当たりません。白河院が鳥羽院の浮気を許さなかったとも言われていますが、后妃ではない女性が産んだ皇子が即位するのは近衛天皇以降のことで、それ以前には一例もないのに、白河院が情人まで管理する必要があるんでしょうか。やっぱり、「通仁、君仁、恂子、雅仁、本仁も、鳥羽院が待賢門院を寵愛したかったから生まれた」っつーことでいいんじゃないですかね(・∀・)←コラ
また、以後懐妊がなかった理由ですが、白河院と通仁親王の死に際して「安産のため」という共通点があったことを考えると、待賢門院自身が次の懐妊を望まなかったのかもしれませんし、鳥羽院も、平安時代最多タイの七子を産んだ待賢門院に(しかも最後は難産)、八人目は望まなかったのかもしれません。


関連記事
スポンサーサイト
  1. 2013.06.21(金) _21:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
  3.  コメント:0
  4. [ edit ]

<<6月16日から19日に頂いた拍手コメントへの返信 | BLOG TOP | 後白河院と二条天皇の後宮今昔。 ※多少おちゃらけています>>

comment


 管理者にだけ表示を許可する
 




PAGE
TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。