善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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備後守藤原季通と「院姫君」藤原璋子の疑惑について。

わりと当たり前のように事実認識されている季通と璋子の恋愛関係ですが、冷静に分析してみると、果たして事実として有り得るのか、首を傾げたくなる部分があります。てなわけで、季通と璋子の関係について、考察してみました。

◆藤原季通のプロフィール◆

○家族構成○
父:藤原宗通(1071~1120)……藤原道長の次男頼宗の孫。極官は正二位・中宮(藤原璋子)大夫・民部卿・権大納言。邸宅は五条坊門高倉第。備中国と因幡国が知行国で、容体頗る人に勝る。(『中右記』)
母:坊門の尼上(1073頃~1150)……藤原顕季(1055~1123)と藤原経平女の長女。一女五男の母。
同父母兄弟:
長女宗子(1089~1155)……藤原忠通の嫡妻。少なくとも一男二女の母となるが、聖子以外育たなかった。
長男信通(1091~1120)……宗通の嫡男だったが、瘧病により父の後を追うように死去。
次男伊通(1093~1165)……兄の死去により出世株となり、太政大臣に至った。激情家で、受領層の叔父藤原長実に超越されたことに激怒して三年間出仕しなかったことがある。
(三男季通
四男成通(1097~?)……今様と蹴鞠の達人で、蹴鞠の専門書を執筆するほど。第二大納言であった保元三年(1158)に辞職し、翌年十月十五日に出家入道した。その後の消息は不明。
五男重通(1099~1161)……成通に続いて大納言に至るも、成通同様子女に恵まれなかった。

○年譜○
承徳二年(1098)十月二十日、父宗通の高倉宅で信通・伊通と共に着袴の儀。
〔康和二年(1100)一月五日、信通と伊通、叙爵。〕
〔長治三年(1106)一月五日、成通、叙爵。〕
〔天仁元年(1108)一月二十四日、備中守伊通、昇殿。〕
同年九月六日、美濃守に在任。(『殿暦』)
天永二年(1111)四月十一日、左兵衛佐季通、所労。(『中右記』)
〔天永三年(1112)一月十五日、侍従成通〈按察大納言四男〉蔵人に補任。〕
天永三年(1112)一月二十七日、春除目で備後守〈院分〉に補任。(『中右記』)
同年十月二十三日、左兵衛佐に在任。(『中右記』)
〔永久二年(1114)十二月二十五日、伊通、藤原顕隆の娘に通ず(婚姻)。〕
〔同年十二月二十六日、成通、越後守藤原敦兼の娘に通ず。〕
永久三年(1115)十月二十八日、右兵衛佐季通、白河院御所で行われた三宮若宮(後の源有仁)の元服に奉仕。(『永昌記』)
永久四年(1116)四月四日、右兵衛佐季通、白河院主催の鳥羽殿北面歌合に出詠。卯の花、郭公、菖蒲、早苗、恋の五首。
永久五年(1117)一月七日、兵衛佐季通、四位を辞す。よって、この年の勘文に入るのを止められたが、四位に叙すよう訴え申したため、関白忠実、季通を改めて四位に叙した。(『殿暦』)
〔同一月十九日、重通、左兵衛佐に補任。〕
〔元永元年(1118)十月二十六日、宗子、内大臣藤原忠通を聟取る。〕
元永二年(1119)三月九日、夕、備後守季通、内大臣藤原忠通が初めて催した種々の御遊に参入。(『中右記』)
同年七月十三日、備後守季通、内大臣藤原忠通主催の歌合に出詠。忠通と同じ左方。
保安元年(1120)一月二十八日、春除目で備後守を退任。
長承三年(1134)九月十三日、前備後守季通、藤原顕輔主催の歌合に出詠。月、紅葉、恋の三首。
保延二年(1136)十月八日、備後前司(季通)、藤原頼長宅に参入。楽会あり。(『台記』)
康治元年(1142)一月五日、備後前吏(季通)、藤原頼長から坊官賞を譲られ、正四位下に叙される(元は従四位上)。(『台記』)
同年八月七日、藤原頼長宅で季通の子童、着袴の儀。腰結い役は権大納言藤原宗輔。(『台記』)
康治二年(1143)六月三十日、藤原頼長の仰せを源為義に伝える。(『台記』)
久安六年(1150)、崇徳院主催の久安百首に出詠。

○略歴○
藤原宗通と、その嫡妻藤原顕季長女の三男。『秦箏相承血脈』に名を連ねる箏の名手で、教え子に少納言宗綱、後白河院女房安芸局、待賢門院藤原璋子、僧最兼がいる。
生没年は不詳だが、兄弟の年齢から見て、恐らく1095年頃に誕生したと思われる。
季通の母方の祖母(顕季の嫡妻藤原経平女)は、璋子の父公実の母方の叔母である。同時に、顕季は公実の父実季の養子にもなっていたため、公実は妹苡子の入内の僅か七日前であるにも関わらず、季通らの着袴の儀に参入している。璋子の入内に際して、伊通と成通が璋子の侍所別当となり、本来なら新婦の親が務める御衾役に宗通が指名されたのも、公実時代からの両家の縁を考慮した上での決定ではないだろうか。
叙爵に関しては、宗通の子息の叙爵は八歳から十二歳の間に行われているので、伊通が従五位上に叙された1103年から、成通の叙爵が行われる前年の1105年までには行われたはずである。
二十代半ばまでの季通は、決して兄弟の中で出世が遅れているなどということはなく、永久五年(1117)には従四位に至っていた。また、嫡男として公卿への道を行く信通や、幼い頃は白河院の判官代であったものの、父の知行国備中の国司に就任してからは院司を辞している伊通らが朝廷の儀式によく登場しているのに対して、季通は白河院の知行国備後の国司を八年間務めたことからもわかるように、その奉仕の対象はほぼ白河院に限られていた。
なお、信通・伊通・成通は婚姻の記録が『中右記』に残されているものの、季通の場合は、『中右記』の欠落箇所に記録があるのか、婚姻の有無自体が不明である。ただ、信通と成通が十八歳、伊通が二十二歳で白河院の近臣の娘と婚姻していることを考えると(なお、伊通は婚姻以前に一子を儲けている)、永久五年時点で二十三歳前後の季通が独身である可能性は低いのではないだろうか。
『尊卑分脈』によれば、極官は正四位下左少将備後守で、歌人であり、琵琶・箏・笛・郢曲に堪能であった。また、子女に従五位上少納言の伊長(宗綱・宗長とも)、仁和寺の権少僧都任慶、園城寺の阿闍梨行忠、延暦寺の僧範源、園城寺の法橋智秀がいた。



以上をまとめると、季通は璋子の箏の師匠で、璋子との関係を噂された永久五年(1117)冬の時点では、季通約二十三歳、璋子十七歳でした。満年齢に当てはめれば、大学四年生と高校一年生になります。なお、璋子が十一歳の時から結婚が決まっていた内大臣忠通は、二十一歳(満年齢で二十歳)です。



* *


●忠実が二人の関係を記し始めた時期。

季通と璋子の関係を記す現存史料は、時の関白藤原忠実の『殿暦』のみである。
その『殿暦』に二人の関係が記され始めたのは、永久五年(1117)九月二十七日に忠実が璋子の入内を耳にした時……ではなく、それから半月も経った、十月十一日だった。
 実は、九月二十七日の段階では忠実は璋子の立后までは耳にしておらず、ただ「女御になる」と聞いただけだったのだ。そのため、破談の理由を「内府(忠通)では姫君(璋子)の心に叶わなかったのか。それで女御になるのだろうか」と傷心を隠さず綴っている(忠通もまもなく不例となっている)。
そして、忠実のトーンが変わった十月十日は、忠実と白河院の間の連絡役となっていた藤原宗忠が、忠実に破談と「入内(※女御になるのみならず、立后も含めた入内を忠実は「入内」と記している)」を知らせた日であった。この日、忠実は璋子に悪評があると記しているが、まだ季通の名はない。
季通の初登場は、忠実が再度情報を確認し、「入内一定」を宗忠から聞かされた、翌十一日なのである。忠実は、決して最初から璋子を「乱行の人」と罵倒していたわけではないのだ。


●「密通」ではない。

ところで、『殿暦』では、

①「件院姫君備後守季通盗通之」(十月十一日)
②「備後守季通通云々」(同十五日)
③「件人備守季通★(★=見が二つ組み合わさった漢字)」(十一月十九日)
④「備後守通事」(十二月四日)

と、通算四回、季通と璋子の関係に触れている。にも関わらず、その関係がいつから噂になっていたのかなどの情報は全く記されていない。記す気にもならなかったか、もしくはわからなかったのかもしれない。
ちなみに、この記録からもわかるように、忠実は二人の関係を「密通」とはしていない。②④の「通」は通常の婚姻にも用いられるから負の意味とも限らないし(例えば、『中右記』では伊通と成通の婚姻を「通」と記している)、他には①「盗通之」と③「★」とあるのみである。
まず、③「★」は、「見える」と言えば男女が逢ったことを示す時代だから、季通と璋子が肉体関係を持ったことを意味している。
一方、①「盗通之」は、「季通が璋子を盗み出して通じた」の意だが、そうなると、季通は在原業平のように璋子を院御所から盗み出したという話になる。さすがに忠実もそれは有り得ないと思ったのか(白河院の御所は、北面の武士が伺候するなど、当時、最高ランクの警備が行われている場所である)、「盗通之」は最初の一度しか使っていないし、その後に続けて「およそ種々の聞こえがある。真実とはし難いが、世間は皆知る所である」とも記している。忠実本人が、「本当とは思えない」と言っているのだ。
これらの記述からして、忠実は、季通と璋子に関する具体的な情報を得ていたわけではなかったのだろう。何せ、忠実自身が、その年の春には噂すら耳にしていなかったようなのである。


●寛大な摂関家?

実は、季通はその年の正月にも『殿暦』に登場している。正月の叙位儀で、「四位を辞したい」と一度は言いながら、再び四位に叙すよう訴えるという、謎の行動を取っていたのだ。
この頃、璋子を嫡男忠通の婚約者と見なしていた忠実は、この謎の申請を直ちに了承し、そのことを何の文句も添えずに『殿暦』に記している。もちろん、季通と璋子の関係にも全く触れていない。もし正月時点で忠実が二人の噂をちらりとでも知っていたとしたら、忠実の行動はあまりに奇怪である。

そして、忘れてはいけないのは、璋子の婚約者忠通である。もし季通が璋子と通じたなら、内大臣忠通は六年来の婚約者を受領の季通に寝盗られたということになるからだ。
が、なんとこの約一年後、忠通は自らが主催する初の御遊という晴れの舞台に季通を招き、共に音曲を楽しんでいるのである。いくら二人に血縁関係があり、季通の姉宗子を忠通が嫡妻に迎えた後とは言え、宗子の弟は五人もいるのだから(しかも全員管弦が得意)、わざわざ自分の権威に傷をつけた季通を呼ぶ必要はない。しかし、忠通はこの数ヶ月後にも、自らが主催する歌合に季通を招いている。
では、忠通は婚約者を寝盗った男と仲良く出来る性格だったのか? 答えは否である。
実は、璋子が入内するちょうど十ヶ月前にあたる二月十三日、季通の従弟・右少将藤原実衡(璋子の従兄でもある)が忠通の車とすれ違う際に下車しないという無礼を働いたことがあった。すると、忠通はそれを見過ごさず、その場で直ちに実衡の雑色を捕らえさせ、車の簾を引き落とさせるという制裁を加えた(『殿暦』)。
この事件を聞いた忠実は、「内大臣に無礼を働くとは、実衡は気でも狂ったのか」と記しており、実衡の父仲実も、大納言として健在であるにも関わらず抗議した記録はない。
要するに、摂関家の権威は一時よりは落ちたとはいえ、格下の相手が下車しなかった、つまり会釈にあたる行為をしなかっただけで、内大臣たる忠通にはその非を強く咎める権利があったのである。
ということは、もし本当に婚約者を寝盗られ、しかもそれが「世間が皆知る所」だったなら、面子丸潰れのとんでもない無礼を季通に働かれた忠通が、個人的に季通と親しくするはずがない、と考えるのが自然ではないか。


●璋子と通じるということ。

殿上人、それも受領に過ぎない季通が内大臣忠通の婚約者を寝盗るというのは、非常に危険かつ過激な行動であるが、璋子の背後には、忠通以上の危険人物がいる。それは、言うまでもなく、璋子の養父白河院である。
かつて、白河院の曾祖父三条院は、十七歳の愛娘・当子内親王と通じた従三位藤原道雅を「勅勘」つまり勘当し、手引きをした内親王の乳母を追放した。
藤原道長がいたために最高権力者とは言いきれなかった三条院ですら、公卿を相手に独断でこれだけの処罰を行ったのである。白河院は、三条院よりも遥かに強大な権力者である。その白河院が璋子が十一歳の時に忠通を婿に選んでいる以上、たかが受領に過ぎない季通が璋子に手を出した日には、何らかの言いがかりをつけて流刑にされてもおかしくない。
つまり、璋子と通じるということは、当時の最高権力者コンビである白河院と摂関家を、ひいては世の中を敵に回すことと同義なのだ。


●手引きをした者は誰か?

道雅の例を見ても、季通が深窓の令嬢たる璋子と通じるには、乳母か乳母子の手助けは欠かせない。だが、その女房はいったい何を考えて、北政所として栄華を掴む予定の主人に、受領ごときを通じさせたのだろうか?
忠通はすでに庶子もいるほど男として成熟しており、璋子が処女でなければそれを見抜く可能性は高い。処女ではないからと離婚されることはないが、寵愛に悪影響を及ぼすのは必至である。
女房は主人が栄えてこそその恩恵に預かれるのに、何故白河院や摂関家を裏切ってまで、季通ごときに肩入れするのか。万が一うまくいったとしても、若い璋子が後先を考えずに白河院にその女房を追放させる可能性も、ゼロではないのである。しかも、白河院はただでさえ女房の風紀にうるさく、露見すれば一族郎等が干される可能性もある。
そうなると、女房が手引きした理由は、もはや璋子の心情に求めるしかない。璋子が季通に恋をして、女房に手引きを求めたとすれば、可能ではある。


●璋子の事情。

しかし、そうなると、璋子は深窓の令嬢として育てられた処女であるにも関わらず、長年婚約している忠通を最悪の形で裏切り、愛する季通を政治的には破滅させようとするという、愚かかつとんでもない女ということになる。忠実もそう考えたから、璋子を「奇怪不可思議」「乱行の人」と評し、その日記で璋子のみを中傷したのだろう。(実は、忠実は一言も季通を非難していない。これは、忠実が季通を直接知っていて、「あいつかそんな大それたことは企まない」と感じたためではないだろうか。)
ところが、後々の璋子を『殿暦』『中右記』『長秋記』で見ると、愚かでもなければ冷血でもないし、女房の勝手を許すような性格でもない(白河院と同じく、璋子も問題を起こした女房は追放している)。忠実自身、政治的な相談を璋子としていたり、璋子の死後も決して彼女を愚か者扱いしたり、軽んじるような発言はしていない。ちなみに、忠実は生涯毒舌家で、璋子の死から半年後に死にかけている鳥羽院のことをかなり厳しく非難しているくらいなので(『台記』)、璋子に問題があるなら黙っていられるはずもないし、頼長が養女の入内に際して璋子の入内時の例を用いることも許さないだろう。
第一、いくら若いといっても、数えで十七歳の娘といえば、何もわからない子供ではない。十一歳で忠通との婚姻の日時まで決めるところまでいっていた以上、白河院は璋子に早くから摂関家の嫡妻に相応しい教育を施してもいただろう。これで恋心を奔放に発揮するようなら、狂っているとしか言いようがないし、そんな娘が入内して何も問題が起こらないわけがない。
が、現実には、『殿暦』には入内後丸一年の記録があるのに、そのうち璋子に関する問題といえば、入内七日後の「をめかる。極めて見苦しきか」ぐらいで、以後は何もない(「をめく」は「叫ぶ」の意で、病人の苦痛の呻き声などにも用いられるが、「をめかる」という活用はない)。なお、その十日後に再開された『中右記』にも、璋子の異常行動は記されていない。
そして、璋子が入内から一年も経たないうちに懐妊し、皇子を出産した時、貴族は各自の日記で璋子の出産を大いに賞賛した(『御産部類記』)。璋子は、日記の中ではいくらでも毒舌になれる貴族から認められるような、真っ当な中宮だったのである。
そうは言っても、入内から出産まで、実は二年もない。常識的に考えて、そんな短期間に「乱行の人(何をしでかすかわからない危ない女)」が変貌を遂げたと見るより、始めから真っ当な人間だったと考える方が自然ではないだろうか。


●白河院と鳥羽天皇の決断。

しかし、前述の通り、季通は璋子の箏の師で、さらに「故大納言の娘」かつ「天皇の乳母の娘」である璋子の立后を伴う入内は、前代未聞の栄光だった。璋子の栄光は、摂関家にとっても、摂関家に遠慮して娘を入内させなかった公卿にとっても許し難いことだったはずで、「噂」が立つ素地がここにある。
季通が璋子の出産の翌年の任期満了まで備後守でいられたのは、そのような状況を踏まえた上で、白河院自身が季通の潔白を信じていたからだろう。
が、季通が備後守を退任して以降、白河院が死んで鳥羽院の時代になっても官職に就けなかったのもまた事実である。白河院は季通を勅勘したわけではないが、季通が政治的な没落を余儀なくされたことに変わりはない。
何故、季通は噂が立った時には罷免されず、それから二年以上も経ってから没落したのだろうか。

実は、季通が備後守の任期を終える頃、鳥羽天皇は忠実の娘の入内を考えていた。璋子はすでに顕仁親王の母というこの上ない実績を築いていたにも関わらず、その立場は極めて予断を許さないものになっていたのである。
何せ、璋子には「あと十年以内に大納言になれるかどうかも不確かな公卿の兄三人」という極めて脆弱な後見しかなかったから、鳥羽天皇の苦悩も無理はないが、第一皇子の出産すら璋子の地位を確固たるものにしなかった以上、白河院は璋子のマイナスになる要素は一つでも取り除いておきたかったに違いない。備後守として宮中に出入りする季通との噂を蒸し返されて、「密通」の疑惑を立てられでもしたら、それこそ大問題になる。事実かどうかはともかくとして、鳥羽天皇の心象が著しく悪化するのは間違いない。
これらの事情から考えるに、季通が備後守に代わる官職を得られず、朝廷から排除されたのは、その十ヶ月後に忠実の内覧が停止された事件と同じく、白河院が璋子と顕仁親王を護るために行った苦渋の処置と見なしてもよいのではないだろうか。そして、後の行動を見るに、鳥羽天皇もまた、白河院のこれらの措置に一定の理解を示したのではないだろうか。



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  2. 待賢門院藤原璋子
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