善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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粛訖宗(スックルチョン)と金庾信(キム・ユシン)@『大王の夢』

『大王の夢』にて「上大等」「ユシンの祖父」として登場中のキョンフォン@『太祖王建』ことキョンちゃん。※正しい役名はスックルチョン(粛訖宗)です。
大王(スックルジョン)2
どうも『大王の夢』の粛訖宗は役者さんの都合か、善徳女王時代になっても長々登場しそうですが、『三国史記』と『花郎世紀』によれば、粛訖宗は立宗葛文王と金珍娘主の間に生まれた人物です。
立宗葛文王は同父母兄の法興王よりも早くに死去しているので、粛訖宗も、530年代に生まれたのだろうと推測されます。立宗の嫡男である真興王は534年生まれなので、そんなに年齢は変わらないですね。

※家系図にすると↓の感じ。(中央右側に粛訖宗がいますー)
新羅家系図(萬呼)

母の金珍は大元神統の女性で、サダハムやソルォンの母でもあります。つまり、粛訖宗とサダハムとソルォンは各々父親は違いますが、母親は同じなんです。(残念ながら金珍には男癖が悪い(あの『花郎世紀』の世界基準で!)という欠点があったらしく、母を諭す時などは兄弟で協力したそーです)
さて、血筋的に見れば優れた粛訖宗ですが、彼が若い頃に何をしていたのかは全くわかりません。彼の子供時代は、真骨正統の只召太后が絶対的な権力を握っていましたし、金珍は不遇な時代を過ごしていたと『花郎世紀』にもあるので、注目されることなく過ごしていたのではないでしょうか。

そんな粛訖宗が『花郎世紀』世界に登場するのは、594年、舒玄(ソヒョン)と萬明(マンミョン)が駆け落ちした時のこと。「萬明の父」として粛訖宗は登場します。
しかし、娘が駆け落ちしたというのに、粛訖宗は出てきません。『花郎世紀』では二人の駆け落ちに怒り狂ったのは萬明の母である萬呼(マノ)太后であり、存命なら60代であろう粛訖宗の言葉はありません。とすると、粛訖宗はこの時すでに死去していた可能性も考えられます。
また、『花郎世紀』によると、只召太后の娘である萬呼は、はじめは銅輪太子の妃となり、白浄(後の真平王)を生んでいました。銅輪太子の薨去は572年3月のことですから、萬呼が粛訖宗を夫としたのはそれ以後となります。
さらに、萬呼は粛訖宗との間に萬明を儲けた後、貞粛太子(真興王と、萬呼の姉・叔明公主の間に生まれた男子)を夫として、579年に萬龍娘主を儲けたことが明記されています。となると、萬呼と粛訖宗の夫婦関係は、長く続いていたとしても真興王の晩年から真智王の時代に当たる572~578年の6~7年間なんですねー。

『大王の夢』では完全に萬呼太后の夫であり、なおかつ上大等にまでなっている粛訖宗ですが、ホントはどんな人物だったのか、謎が多い人でもあります。
まあ何にせよ、もし『大王の夢』で粛訖宗が善徳女王の時代まで長生きしたら、「御年100歳…!」と考えて間違いなかろうと思いますw

そして、何故『大王の夢』の粛訖宗は真骨正統の当主である萬呼太后の夫となりながら、大元神統の当主たる思道(サド)太上太后と協力し合っているのか?

という疑問に対しては、一応、「粛訖宗は思道のイトコで、二人とも大元神統だから」という風に言うことも出来るんですが、『花郎世紀』的世界観でいくとそんなの無理でしょうし…(ノ∀`;)
ちなみに、『花郎世紀』では真平王時代初期(579~590年頃)に思道が権力を握れたのは、『三国史記』にも登場する真平王時代の上大等弩里夫(ノリブ)が思道の兄で、だから彼と協力して政権を運営したとあります。弩里夫は『三国史記』によれば588年に死去していますから、両方の記述を合わせて考えると、

588年までは思道がブイブイ(古)言わせてたけど、588年に弩里夫が死去したことにより思道らは危機感を抱き、風月主夏宗の後見を強くするなど(詳しくはコチラ)頑張った。が、徐々に萬呼に権力は移っていった。

という感じなんでしょうか。

まー何にせよ、『武人時代』では見事に主役ウィバンを演じているキョンちゃんがこの先どんな困ったじーさんになっていくのか、それを楽しみに(早送りしながらw)『大王の夢』を楽しみたいと思います!←コラ
でもドラマとしては、『武人時代』の方が楽し(以下略)
武人(イ・ウィバン)武人(チョン・ジュンブ)武人(イ・ゴ)武人(ムビ)
↑の画像の左から二番目がダブル主演の一人・上将軍チョン・ジュンブという役なのですが、この上将軍を演じる役者さんが大変ツボです。1話から徐々に正体が暴かれていく感がもーすんばらしくて、週5放送なのに早送りもせず欠かさず見ていますv ムビと閻魔様も素敵v(*´∀`*)v

続きにはユシンの簡易年表と子女のことが(自分用に(;´∀`))メモってあります。




* *


ユシン年表
◆595年 1歳
誕生。

◆598年 4歳
同父母弟・欽純(フムスン)、誕生。

◆609年 15歳
徐羅伐に上り、副弟となる。また、龍華香徒を率いる。

◆612年 18歳
十五世風月主に就任。
夏宗(ハジョン。49歳)と美毛(ミモ)の次女・令毛(ヨンモ)を娶る。

◆615年 21歳
弟・欽純を前方花郎に任命。

◆616年 22歳
副弟・宝宗に風月主の座を譲る。

◆626年 32歳
弟・欽純に命じて、妹・文姫の夫である春秋を十八世風月主に擁立。

◆629年 35歳
弟・欽純、十九世風月主に就任。
8月、副将軍・中幢の幢主として、大将軍・波珍[冫食]の龍春、大将軍・蘇判の舒玄と共に高句麗の娘臂城を陥落させる。

◆642年 48歳
8月、決死隊一万を率いて高句麗に進軍し、春秋を取り戻す。大将軍のまま、押梁州の軍主(都督)に就任。

◆644年 50歳
9月、上将軍・蘇判に就任。百済に侵攻し、加兮城、省熱城、同火城ら七城を陥落させる。

◆645年 51歳
1月、百済戦から徐羅伐に帰還するも、間もなく上州将軍に任命され、百済戦に出撃する。

◆647年 53歳
10月、百済軍の茂山城、甘勿城などへの侵攻を受け、一万の兵を率いて出陣。勝利を収める。

◆648年 54歳
3月、百済軍が腰車城など十城を陥落させたため、押梁州都督として出陣。
4月、百済の将軍八人を捕らえ、一千の首級を斬獲。八人の身柄を、品釈と古陀[火召]の遺体と交換する。
さらに進撃し、嶽城など十二城を陥落させる。この功績により、伊[冫食]・上州行軍大 官に昇進。
再び進撃し、進礼城など九城を陥落させる。

◆649年 55歳
8月、百済軍の石吐城など七城への侵攻を受け、出陣。大勝利を収める。

◆654年 60歳
3月、妹婿・春秋、即位。<武烈王>

◆655年 61歳
3月、外甥・法敏、立太子。
10月、外姪・智[火召]公主を継室として娶る。

◆656年 62歳
長女・晋光の夫・欽突(30歳。妹・政姫の次男)が二十七世風月主に就任。

◆660年 66歳
1月、上大等に就任。
5月26日、武烈王と共に兵を率いて徐羅伐を出立。
6月18日、南川亭に到着。
6月21日、太子・法敏に従い、弟・欽純と共に大将軍として兵五万を率いて百済の南へ進軍。
7月9日、黄山原(ファンサンボル)で、百済の階伯と四度戦闘。弟・欽純の三男・盤屈、敵陣へ突撃し、戦死。これを見て奮起した新羅軍が勝利を収める。この後、唐軍との集合時間に遅れて合流する。
7月18日、百済の義慈王が太子と共に降伏。

◆661年 67歳
6月、武烈王春秋(59歳)、崩御。外甥・法敏が即位(文武王)。

◆662年 68歳
欽突、風月主の座を呉起(文武王の正室・慈儀皇后の同父母妹・雲明の夫)に譲る。

◆664年 70歳
弟・欽純の六男・元宣(28歳)、二十九世風月主に就任。

◆667年 73歳
婿・欽突の娘(ユシンの孫かは不明)を妻に持つ天官(29歳。二十三世風月主・軍官の嫡男)、三十世風月主に就任。(任期は674年まで)

◆668年 74歳
12月、太大角干(ユシンのために新設された最高位)の官位を贈られる。

◆673年 79歳
7月1日、薨去。




○家族構成
◆正室:令毛(ヨンモ)娘主(?~654年?)
長男:三光(?~683年以降)
長女:晋光……政姫の次男・欽突(627~681年)の正室。
   娘:太子妃……政明太子(神文王)の妃。
次女:信光……文姫の長男・法敏(626~681年)の側室。
三女:釈光……宝路殿君(真平王と宝良宮主の子)の継室。
四女:令光……欽純の三男・盤屈(?~660年)の正室。

◆継室:智[火召](チソ)公主(630年代?~不詳)
四男:元貞
五男:長耳
六男:元望



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