善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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『花郎世紀』で見る新羅の歴史・その1 ~真興王・真智王・真平王時代~

いずれも花郎徒を大きく取り上げている『善徳女王』と『大王の夢』。
せっかくなのでこの機会に便乗して(笑)、花郎の歴史を何回かにかけてまとめてみることにしましたv ドラマとかなりキャラクターの違う方も多いので、わかりにくい文章と内容ではありますが、少しでも「へー」と思っていただけたら幸いです!

※日本語訳ではなく、ネットで探した原文を元にしているので、必ずしも正しいことが書かれているわけではありません。




* *


●風月主の誕生~七世風月主時代 <540~579年>
そもそも風月主が誕生する前、花郎徒は源花と呼ばれる骨品を持つ若い女性が率いていた。
しかし、真興王の即位間もない540年、亡き法興王時代の源花・俊貞と、真興王の生母にして法興王から郎徒を託された摂政・只召太后の任じた新しい源花・南毛の間で源花争いが勃発。さらに俊貞が太后の夫である英失と通じたため、もともと英失を嫌っていた太后はこの機にと俊貞の郎徒たちを追放するよう命じ、さらに郎徒不足を憂慮して、魏花に郎徒の増員を命じた。これに嫉妬した俊貞は、南毛を酒宴に誘い、殺害。南毛の郎徒が報復に出てしまう。
この事件により、只召太后は源花の座を廃し、仙花と呼ばれていた青年たちを花郎に改め、花郎の集団を風月と号させた。その主たる風月主には魏花が任じられたが、すでに老齢の魏花は就任後まもない540年のうちに副官の未珍夫に風月主の座を譲った。
つまり、実質的にはこの未珍夫が風月主の始祖であり、そしてこの未珍夫の子が、美室(ミシル)と美生(ミセン)である。

こうして始まった風月主制度だが、上記の通り、初期の風月主の任命権は完全に只召太后が握っていた。初代魏花(任期540年)、二世未珍夫(同540~548年)、三世毛郎(同548~555年。南毛の弟)、四世二花(同555~561年。魏花の子)は、いずれも太后の下命によって花郎徒の副官から風月主へと至っている。
サダハム
この傾向が変わってくるのは二花の風月主時代からで、太后は二花の推挙によって五世風月主に斯多含(サダハム。任期561~564年)を、斯多含の遺言と二花の嘆願によって本来風月主など経験すべきではない高貴な世宗(セジョン。同564~568年)を六世風月主に任じている。そして、これを最後に、只召太后は『花郎世紀』から姿を消す。
花郎世紀(セジョン)
異変が起きたのは、この世宗の時代である。
すでに成人し、王権を手にした真興王が、異父弟・世宗の正妃である美室(ミシル)を寵愛し、568年、ついに彼女の願いによって風月主を廃し、源花の地位を復活させて美室を源花に任じたのだ。なお、この時、薛原(ソルォン)・美生(ミセン)が源花の副官にあたる奉事郎に、薛原の母・金珍が花母に就任し、世宗は各地を転戦することを余儀なくされた。
花郎世紀(ミシル)
こうして、以後四年もの間、源花の座は美室のものだった。ところが572年3月の銅輪太子薨去により、政局は一変。美室の徐羅伐追放を決意した真興王は世宗を風月主に再任しようとするが、世宗は薛原にその座を譲り、美室と共に都を出てしまう。
こうして七世風月主に薛原(任期572~579年)が、その副官に美生が就いたが、戦功のある世宗に心酔して転戦していた文弩(ムンノ)の一派が、これに反発。
花郎世紀(ソルォン)花郎世紀(真智王)
やがて美室を復権させた真興王が崩御し、真智王政権がスタートすると、真智王の正室たる智道皇后を後ろ盾に持つ文弩が国仙に、その副官に秘宝が立てられ、花郎徒は骨品を持つ花郎の多い薛原派の雲上人(ソニョル率いる雲上人徒の由来)と、叩き上げの文弩派の護国仙(イムジョン率いる護国仙徒の由来)に分裂してしまう。
577年、両派の対立を阻止し、美室を皇后に立てなかった真智王を廃位すべく、美室は一計を案じる。未だに独身の文弩をいとこの允宮と婚姻させ、廃位に協力した褒賞に真骨の身分と八世風月主の座を提示したのだ。世宗の説得もあり、文弩はこれを承諾。允宮は仙母と呼ばれた。思道太后は両派の統合を目指して美室を源花に、世宗を上仙に、文弩を亜仙に、薛原と秘宝を左右奉事花郎に、美生を前方奉事花郎に任じた。
花郎世紀(ペクチョン)花郎世紀(真平王とノリブ)
こうして、579年の真智王廃位・真平王即位と共に、八世風月主文弩の時代が始まった。


●八世風月主時代 <579~582年>
花郎世紀(ムンノ)
王:真平王(13~16歳)
風月主:文弩(ムンノ。42~45歳。538~606年)
仙母:允宮(548~606年)
副弟:秘宝(549年~不詳)
世宗(セジョン)が密かに思道太后の詔を受けて真智王を廃位した際、世宗に従い廃位に協力して功を立てたことにより、骨品を得て阿[冫食]に進み、仙花の地位と風月主の座を得た文弩。
もともと勇猛果敢で郎徒達に慕われていた文弩が任期の間に取り組んだのは、花郎徒の改革である。
副官である副弟はそのままだが、前方奉事郎は前方大花郎に、左奉事郎は左方大花郎に、右奉事郎は右方大花郎に改名され、各々三部の郎徒を率いた。左方大花郎は道義・文事・武事を、右方大花郎は玄妙・楽事・芸事を、前方大花郎は遊花・祭事・供事を管轄した。また、真骨花郎・貴方花郎・貴門花郎・別方花郎・別門花郎の地位を新設。十二~三歳の真骨及び大貴族の子弟から志願者を募り、左花郎二人・右花郎二人を選んだ。この左右花郎は各々小花郎三人と妙花郎七人を率いた。


●九世風月主時代 <582~585年正月>
王:真平王(16~19歳)
風月主:秘宝(34~37歳。549年~不詳)
前方大花郎:美生(550~609年)
左方大花郎→右方大花郎:大世
秘宝は、法興王と玉珍宮主の子・比台角干を父に、二世風月主未珍夫の妹・実宝娘主を母に生まれた。薛原と同い年であったため共に歌や笛を学んだが、いずれも薛原の腕前には及ばなかったことから、文弩に従い剣の腕を鍛えたという経歴の持ち主である。最初に思道太后の兄弟である弩里夫の娘・細珍娘主を、細珍の死後は真興王と伽耶の月華公主の間に生まれた徳明公主を正室に迎えた。徳明公主との長女・紅珠は龍春の側室となり、一女は武列王(春秋)の側室となっている。
また、秘宝は美室の臣でもあったため、美室は秘宝の推挙した者達を数多く抜擢した。後の十二世風月主・菩利、ユシンの父・舒玄、そして十三世風月主・龍春は、皆秘宝が抜擢した人物である。585年正月、長年花郎徒に籍を置きながら美生が未だ風月主に就任していなかったため、文弩から美生に風月主の座を譲るよう命じられ、退いた。そして生涯戦場に身を置き、勇猛な部下を育て続け、上仙の位に至った。


●十世風月主時代 <585~588年>
花郎世紀(ミセン)
王:真平王(19~22歳)
風月主:美生(36~39歳。550~609年)
右方大花郎→副弟:夏宗(564年~不詳)
右方花郎:菩利&舒玄(ソヒョン)
美生の父は二世風月主・未珍夫、母は思道皇后の姉・妙道夫人。美室と父母を同じくする姉弟である。
561年、12歳の時に美室の命令によって五世風月主たる斯多含の郎徒となったが、馬にも乗れなかったため、父の未珍夫は辞退させようとしたという。しかし、斯多含が周囲に「彼は愛する人の弟で、舞の名手として衆人を慰める人物だ」と謝ってまわったため、花郎徒に残り、翌年、前方花郎となった。その後は美室が薛原を取り立てたため、風月主に就任した時には36歳になっていた。しかも、これは美室が長男夏宗を風月主に就任させるためであった。この頃は、風月主の座は前任者から後任者に譲られる形になっていたのである。
また、美生の風月主時代は真平王が王権を握り始めた頃であり、従って政局も複雑化していたのか、花郎徒も統合元流(過激派)、美室一派、文弩一派、二花流、伽耶派の五つの派閥に分かれて争っていた。

1.統合元流
花郎世紀(イムジョン)
貴賎に拘らず内外から人材を抜擢し、国力増強を目指す一派。文弩派の中でも先鋭的な人物である林宗(イムジョン)・大世・修日らが主導した。

2.美室一派
花郎世紀(ハジョン)
大元神統による政権運営を目的とする一派。中心人物は、美室の長男・夏宗(ハジョン)や、真興王と思道太上太后の三男・仇輪ら。

3.文弩一派
真骨正統による政権運営を目的とする一派。只召太后の遺志を遵守する者、つまり当時最も権力を有し、旧規を守る者が属した。中心人物は、只召太后の娘・叔明公主の三男・菩利や、叔里夫ら。

4.二花流
真興王と叔明公主の子である貞粛太子を風月主に、太子の異父弟・円光(後に法師となる)を副弟に立てることを目指す一派。統合元流と文弩一派の混じり合った派閥。

5.伽耶派
花郎世紀(ソヒョン&ヨンチュン)
大伽耶の公主である月華宮主と真興王の子・天柱を風月主に、金官加耶の王子であった金武力と阿陽公主(真興王と思道皇后の娘)の嫡男・舒玄(ソヒョン)を副弟にと望む一派。


結局、美生は三年経っても、この複雑な派閥争いを制御出来なかった。この事態を憂えた上仙たちは、夏宗に風月主の座を譲らせ、美生は調府に入った。


●十一世風月主時代 <588~591年>
花郎世紀(ハジョン)
王:真平王(22~25歳)
風月主:夏宗(ハジョン。564年~不詳)
副弟:菩利(573年~不詳)
右方大花郎:舒玄(ソヒョン)
夏宗(ハジョン)は真智王の時代、578年に15歳で花郎に入り、英才教育を受けた。歴史を斯多含の兄・吐含に、歌を二花に、剣を文弩に、舞を美生に学び、全てマスターしたという。また、常に真興王から受けた恩を思い、毎年その誕生日と忌日にはどんな天候であろうと郎徒を率いて陵墓に詣でるような清廉な人物であったため、衆望が高かった。
前述のように、夏宗が風月主になった時、花郎徒では風月主の座を巡る抗争が激しさを増していたが、夏宗自身は位階を棄てて仏道に専念したいと願っていた。そして、この無欲さが思道太后、美室、二花、世宗らの危機感を煽ったのか、なんと、舒玄を前方花郎に立てることで二花・美室・伽耶の三派が団結した。
花郎世紀(思道太后) ←思道太上太后    萬呼太后→マノ
ちょうどこの頃、成人した真平王は思道(父方の祖母)・萬呼(母)・智道(叔父・真智王の皇后にして、自身の側室)の三太后を重んじ、この三者に政治を委ねていた。思道はすでに出家していたため、思道太上太后の一派は579年に璽主に就任していた美室を表に立て、さらに思道の娘・阿陽公主の血を引く伽耶派も脚光を浴びた。萬呼太后は最も真平王から愛されていたため、真骨正統の主となり、智道太后は両者の間を出入りしつつ、文弩派を後見していた。
よって、文弩派である先々代の風月主・秘宝は、菩利に代わって智道太后の次男・龍春を副弟に推したが、菩利の異父兄・貞粛太子を夫としている萬呼太后としては、聞ける願いではない。ところが、そこで伽耶派の筆頭たる舒玄が「龍春公は先帝の子である。どうして敵対できるだろう」と前方花郎の座を譲り、また龍春は大元神統でもあるため美室派も文句は言わなかった。おまけに渦中の菩利まで龍春を愛し、次代の副弟の座を約束したため、自然と真骨正統と大元神統の争いは緩やかになっていった。
花郎世紀(ソヒョン&ヨンチュン) (←『花郎世紀』によると、同世代の二人)
こうして夏宗は争いを収め、風月主の座を菩利に譲った。


●とりあえずの家系図
風月主家系図(後期)
新羅家系図(萬呼)





その1ということで、ハジョンまでを取り上げてみました(・∀・)
こうして見ると、『善徳女王』はキャラクターに関してはあれこれ設定がいじってるのがわかります。特に、ムンノがセジョン大好き人間であったというのは物凄く意外でした。というか、セジョン・ハジョン親子の人望がハンパないんですよ! そこはドラマは全然違いますなw

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  1. 2013.11.10(日) _00:00:00
  2. 新羅歴史談義?
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