善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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『花郎世紀』で見る新羅の歴史・その2 ~真平王親政時代~ ※追記あり

『大王の夢』はいつになったら子役時代が終わるんだー早く終わってくれーとウダウダ中の管理人によるw、引き続きの歴史ネタでございます。
今回は十二~十七世風月主ということで、『善徳女王』で御馴染みのユシン・ポジョン・ヨンチュン・ホリム(ホジェのモデル)と、ヨムジョンのモデルと思しき人物が入っています(・∀・) トンマンとチョンミョン、そしてチュンチュやアルチョンもちょっぴり登場しますので、これまた興味のある方は続きを御覧くださいv



* *


●十二世風月主時代 <591年春正月~596年>
王:真平王(25~30歳)
風月主:菩利(ポリ。19~24歳。生没年:573年~不詳)《真骨正統》
副弟:舒玄(ソヒョン)→龍春(ヨンチュン。578年~不詳)
四世風月主の二花と、一時は真興王の皇后にもなった叔明公主の次男。ちなみに、母の叔明は黄色い神鹿を夢に見てから菩利を生んだという。(叔明は長男の円光法師を生む時も仏様を夢に見てたり、なんというか、ドリーミング公主様である。) 秘宝の推挙によって舒玄・龍春と共に幼くして花郎徒に入った。
菩利は母の同母弟・世宗(セジョン)の長男である夏宗(ハジョン)とは幼い頃から仲が良く、585年、夏宗が右方大花郎になると、13歳でその副官にあたる右方花郎に就任した。この時、同時に思道太上太后に可愛がられていた舒玄(ソヒョン)も右方花郎となった。また、この年、兄妹のように育った僅か7歳の姪・萬龍娘主を嫡妻に迎えている。
591年正月、菩利は19歳の若さで風月主に就任すると、右方大花郎だった舒玄を副弟に、龍春を右方大花郎に任じた。副弟は次の風月主の座を約束されたようなものだから、誰しもが次の風月主は舒玄だろうと考えた。
ところが、数年後、大事件が起きた。
キム・ソヒョンマンミョン
菩利の妻・萬龍には異父姉がいた。名を萬明(マンミョン)と言い、未だ独身だったのだが、この萬明と舒玄が萬明の母・萬呼太后の許しを得ずに私通するという『事件』が発生。
元々、舒玄の母・阿陽公主(真興王と思道太上太后の娘)とそりの合わなかった太后はこれに激怒し、副弟の座を龍春に与えるよう菩利に命令。舒玄は太后の怒りを鎮めるために副弟を辞任するが、事態は好転せず、萬明は舒玄と示し合わせて逃亡した。太后はなんとか娘を手元に留めようと舒玄を萬弩郡へ左遷するも、萬明は舒玄を追って出ていってしまう。益々怒り狂った太后は舒玄を罪に問おうとしたが、菩利と萬龍が必死で説得して、思い止まらせたという。
※この経緯を見るに、萬呼太后のやりたい放題というか、この頃思道太上太后はすでに崩御したようで、美室ら大元神統の影響力が見られない。
ところで、当時、菩利の二人の姉・花明と玉明は共に真平王の側室となり、寵愛されていた。菩利も出世を見込まれていたが、仏門への思いが強く、596年に龍春に風月主の位を譲った後は上仙となっても仏道に専念し、萬龍ともども落飾したという。


●十三世風月主時代 <596~603年>
花郎世紀(龍春1)大王(ヨンチュン)
王:真平王(30~37歳)
風月主:龍春(ヨンチュン。19~26歳。生没年:578年~不詳)《大元神統》
副弟:虎林(579年~不詳)
龍春は在位三年で廃位された真智王(廃位後は幽宮で暮らし、581年に崩御)と、真智王の即位と共に皇后に立てられた智道皇后の嫡男である。智道は皇后となる前は銅輪太子と真興王に仕えていたため、異父兄(同父母兄とも)の龍樹葛文王と、異父姉の龍明公主がいる。
智道と龍明が真平王の後宮に入ったことから真平王を父と慕って育ち、秘宝の推挙により、庶弟の鼻荊(ピヒョン)と共に文弩の一門に入ると、二花・文弩に師事。郎徒をよく抜擢して衆望を集めた。
596年、19歳で風月主になると、古い慣習を改革、「骨品は王位臣位の区別のためのものだ。郎徒に骨品制度を用いる必要はない」として骨品に拘らずに人材を抜擢。花郎徒は大いに隆盛した。そうして抜擢された郎徒の中に、大男甫(テ・ナムボ)がいる。
花郎世紀(大男甫)
実はこの頃、左右前の九部の郎徒をまとめる郎頭には、美生(ミセン)の数多いる妾の一族の者ばかりが抜擢されていた。おかげで郎徒達は自分の妻や娘を花郎に献上して花郎と結びつき、そのような郎徒が「新善骨」と呼ばれ、優遇されるという事態に陥っていた。
大男甫は勇敢で人望もあったが、自らは賎人であるとして娘を献上しなかった。ところが当の娘は龍春に恋焦がれており、郎徒の娘達が務めるべき遊花の職に就こうとしない。(遊花になると、花郎の妾とされてしまう) 話を聞いた龍春は、大男甫の娘を側室に迎え、真平王は大男甫を龍春の宮の舎知に取り立てた。その後も大男甫は清貧を貫き、三人の息子は龍春と新羅に忠誠を尽くしたという。
こうして順調に年月も過ぎた603年8月、高句麗が北漢山城に侵攻してきたため、真平王は自ら一万の大軍を率いて漢水の戦いに出陣。風月主たる龍春と、上仙の秘宝も共に出陣し、大男甫は功を立てた。
ヨンス
ところでこの頃、真平王には嫡子(皇后腹の王子)がなく、龍春の同母兄・龍樹殿君をもって公主の婿とし、龍春をサポート役に命じようとした。龍樹は、父親が銅輪太子とも真智王とも言われており、もし銅輪太子なら真平王の異母弟ということになる。(ちなみに、『三国史記』には真平王の同母弟として579年に葛文王に任じられた伯飯・国飯がいるが、『花郎世紀』には全く登場しない。そして龍春は「龍春殿君」と呼ばれていないので、もしかしたら、「葛文王」や「殿君」の称号を与えられている龍樹は真平王の異母弟扱いなのかもしれない。そうなると、『三国史記』の伯飯・国飯って、もしかして龍樹のことなんだろうかという気もしてくる…)
しかし、嫡子がいないと言っても、真平王は数えで37歳。不安に思った龍樹殿君は龍春に相談し、龍春も「王は未だお若く、これから先、嫡子に恵まれれば不幸になる」と反対。よって龍樹は辞退したものの、真平王はともかく、摩耶皇后が聞き入れない。ついに龍樹を娘の天明(チョンミョン)公主の婿としてしまった。
マヤ花郎世紀(天明1)
何故摩耶皇后が聞き入れなかったか。それは、このころ10代とおぼしき天明公主が、龍樹を恋い慕っていると誤解していたからだった。実は天明が本当に慕っていたのは龍春の方で、天明は龍春に「わらわが本当に慕っているのはあなたです」と告白したが、龍春は受け容れずに兄を立て続けたため、天明の思いは益々募り、ついに龍春の位階は兄と並び、龍樹も天明の想いを知った。摩耶皇后が儲けた宴の夜、皇后と龍樹の計らいによってついに二人は結ばれた(!)が、龍春の自制心は揺らがず、より重用された。
こうして603年、声望を高めた龍春は虎林に風月主の位を譲った。
龍春はその後、王位継承を巡って様々な騒動に巻き込まれるが、結局二人の妻(天明公主&昊明公主)、三人の妾(大氏&美生の娘・梅生&秘宝の娘・紅珠)と共に隠居し、真徳女王の即位まもない647年8月に70歳で薨去した。龍春に葛文王の位が追尊されるのは、彼が養嗣子とした春秋(チュンチュ)が即位した時のことである。


●十四世風月主時代 <603~612年>
花郎世紀(ホジェ)大王(虎林)
王:真平王(37~43歳)
風月主:虎林(ホリム。25~31歳。生没年:579年~不詳)《真骨正統》
副弟:宝宗(ポジョン。580年~不詳)→庾信(ユシン。595~673年)
前方大花郎:廉長(586~648年)
虎林は摩耶皇后の同父母弟とされている…が、実は母は松花公主(英失と只召太后の娘。真骨正統)と確定しているものの、父は摩耶と同じ福勝かそれとも松花の情人だった秘宝なのかわからないという。何はともあれ、虎林は勇ましく力があり、撃剣を好んで早くから文弩に弟子入りした。同母姉摩耶が皇后として大いに真平王の寵愛を蒙っていたことから、596年、龍春は18歳の虎林を副弟に抜擢し、603年、虎林は25歳で風月主の座を得た。
仏教を深く信仰する虎林は、郎徒に「仙仏一道」を説き、花郎は仙道だけでなく仏道にも通じていなければならないと教育。自らも菩利から戒を受け、これによって花郎徒ではようやく仙仏融合が果たされたという。
私生活では、虎林は文弩と允宮の娘・玄剛娘主を妻としたが、玄剛は早くに卒去。継室として、夏宗と美毛(薛原と俊毛の娘)の娘・柔毛娘主を迎えた。この頃、すでに老齢となっていた美室はこの孫娘を溺愛しており、貴い子が見たいと虎林に命じて千部観音を作らせたという。(こうして誕生した善宗は、成長すると慈蔵法師と呼ばれ、律家の大聖人となる。)
612年、虎林は夫婦のように助け合ってきた宝宗ではなく、萬呼太后を後見に持つ庾信(ユシン)に風月主の座を譲り、自らは茂林居士と号した。この時、宝宗を信望する廉長はこの決定に肯かず、宝宗を風月主に立てるよう訴えたが、虎林はそれを難じ、宝宗の母たる美室も廉長を招いて決定を受け容れるよう説いた。それほど、この当時の太后の権勢は凄まじかったのだ。
虎林はその後朝廷に出仕することはなかったが、国家の大事があれば必ず虎林は諮問を受けた。そして、この時虎林と共に国家を支えた六人が、閼川・林宗・述宗・廉長・庾信(ユシン)・宝宗である。
花郎世紀(アルチョン)大王(アルチョン)花郎世紀(イムジョン)花郎世紀(ユシン1)花郎世紀(宝宗)
この七人は「七星友会」を結成し、徐羅伐の南方に位置する南山で会合した。『花郎世紀』によれば、三韓一統は多くはこの七星友会に従い始まり、達成されたという。


●十五世風月主時代 <612~616年>
花郎世紀(ユシン)花郎世紀(ユシン1)大王(ユシン3)
王:真平王(43~50歳)
風月主:庾信(ユシン。15~22歳。生没年:595~673年)《伽耶派》
副弟:宝宗(580年~不詳)→春秋(603~661年)
左方大花郎:廉長(586~648年)
前方花郎:欽純(598~680年2月)
『善徳女王』と『大王の夢』でも語られた通り、庾信は父・舒玄と母・萬明の恋愛駆け落ち婚によって誕生した。誕生時には、英雄に相応しくたくさん夢祥があったらしいが、当時はどうだったかと言うと、リアル駆け落ちだったため、真平王は同母妹・萬明の苦労を思って無位無官状態の舒玄を萬弩郡の太守に封じたりしている。
とはいえ、庾信が成長する頃には駆け落ち婚に怒り狂った萬呼太后も孫が見たくなり、庾信を徐羅伐に呼び寄せた。そして「これぞ私の真の孫だ」と再会を喜んだため、伽耶派はここぞとばかりに庾信を押し立てた。
伽耶派の後押しを受けた庾信は、609年、15歳も年上の宝宗の譲りを受けて副弟に就任する。勿論、庾信にも器量はあったが、実は宝宗が譲位したのは美室が萬呼太后の機嫌を損ねないよう命じたからで、こうして見ると、庾信は叩き上げどころか、ぽっと出の縁故採用に近いことがわかる。ちなみにこの時は、萬呼太后もさすがに美室に気を遣って、夏宗の娘・令毛娘主を妻とするよう庾信に命じた。
庾信は常に郎徒に対して、「新羅が三韓一統を成し遂げる力を持たないことは恥であり、高句麗・百済を平らげ、国に憂いがなくなってから富貴を享受すべきだ」と語って聞かせた。これによって知勇の徒が集まり、612年には遂に宝宗を押す花郎達の反発を受けながらも十五世風月主に至った。庾信は益々郎徒に兵具を造らせ、弓馬の練習をさせた。
これを見た龍春は、庾信を私臣に抜擢。庾信もまた報国を誓い、矢石を避けず龍春に従い遠征した。龍樹も天明公主との嫡男・春秋(チュンチュ)を庾信に託したため、庾信は大喜びして「必ず龍樹公の御子を三韓の主にしてみせます」と語ったという。
花郎世紀(善徳公主)大王(徳曼公主)
それから幾ばくも経ない頃、かねてより龍鳳の気を見せていた善徳公主が真平王の嗣子に選ばれ、龍春は皇婿となった。すでに摩耶皇后が崩御していたため、嗣子を諦めた真平王が善徳公主を王とし、その子に王位を継がせようとしたのである。(只召太后と真興王のパターンである) 当然、天明&昊明公主は不安を感じたが、庾信は春秋に天道自在を説き、春秋もまたそれを両公主に語って安心させたという。
ところで、時期ははっきりしないが、庾信は春秋を副弟に立てていた。(主と仰いでおきながら、自分の副官にするというのも不思議な話である)
しかし、花郎徒の半数を占めるといっても過言ではない大元神統派は、宝宗が風月主でないことに強い不満を抱いていた。そのため、616年、庾信はすでに37歳になっていた宝宗に風月主の座を譲った。


●十六世風月主時代 <616~621年>
花郎世紀(宝宗)
王:真平王(50~55歳)
風月主:宝宗(ポジョン。37~42歳。生没年:580年~不詳)《大元神統》
副弟:廉長(586~648年)
宝宗は美室宮主の庶子である。美室は579年、真平王の即位と共に親政を始めた思道太后の下で璽主となって政権運営に乗り出したが、この時同時に真平王の右后ともなっていたため、吉夢を見て真平王を寝所に引き入れた。が、数え年で13歳の真平王はまだまだ幼かったため、代わりに側近の薛原を侍らせ、宝宗を儲けた。美室は末っ子の宝宗を溺愛し、異父兄・夏宗や真平王も宝宗を可愛がった。
その宝宗は文章を好み、人のために笑って泣き、病の人どころか獣を見ても苦しみ、虫も草も殺したり抜いたり出来ない性格に育ち、飲酒も色も好まず、常に青い驪(馬?)に乗って笛を吹きながら市を通り過ぎたため、「真仙公子」と呼ばれていた。容貌も美しく、自分でも女になれないことを恨んでいたという。(!)
※宝宗の妻子に関しては、コチラをご参照ください。
虎林に愛された宝宗は、603年、虎林の下で副弟となり、夫婦のように従った。また、庾信のことは父のように畏れたため、庾信が笑って「どうして兄が弟と畏れるのです」と問うと、「庾信公は天上の日月です。私は人間の微塵に過ぎません。どうして畏敬せずにいられましょうか」と答えたという。
そんなことがあったからか、宝宗が長い副弟生活を経て616年に風月主になった時、庾信は郎徒に向かって「仙道を学びたい者は宝宗兄公に従え。国を護り戦功を立てたいと欲する者は我に従え」と語った。その後、美室が庾信に「宝宗は脆弱です。よく助けてやってください」と頼んだところ、庾信は「本当に弱いのは私です。兄(宝宗)は弱いと言っても、道は大きい方です」と答え、後年庾信が病に侵された時には宝宗が秘術を施し治療するなど、二人は得意分野の違いを互いに理解し、支え合った。「七星友会」でも、庾信は国家に大事があると必ず宝宗に諮問したという。
また、宝宗は非常に母思いで、美室が薨去すると、その手記七百巻を全て書写し、朝夕美室の肖像画に拝謁した。上仙の列に並ぶ時は必ず下座に着き、宇宙の真気を深く察し、自然の理に精通。学者と考えた方が良いような一生を送っている。


●十七世風月主時代 <621~626年>
大王(廉長)
王:真平王(55~60歳)
風月主:廉長(ヨムジャン。36~41歳。生没年:586~648年)《伽耶派》
副弟:欽純(598~680年)→春秋(603~661年)
前方花郎:礼元(607~673年)
廉長は龍春の異父弟である。といっても、父は真興王と大伽耶の月華公主の嫡男・天柱だから、血筋から言えば龍春に引けは取らない。風采がよく、弁が立ち、才覚に恵まれていたため母の智道太后に愛されて龍春に託され、その後は虎林に従った。
599年、廉長14歳の時、6歳年上の宝宗の美しさに心酔し、その弟となることを自ら願った。4年後、成長した廉長は虎林の下で前方大花郎に就任し、その勇ましさと力で郎徒達を心服させる。身長もとっくに宝宗を追い越し、いつも宝宗を赤子のように負ぶっていたという。
そのような育ち方をしたので、当然、609年に副弟の座が庾信に譲られた時には猛反対。612年に庾信が風月主になると、副弟に推挙されたが、宝宗にその座を譲り、宝宗に代わって左方大花郎に就いた。しかし、宝宗は副弟の仕事をそれほどしなかったので、結局廉長が全て代行していた。宝宗の妻・良明公主と私通して長明が生まれたのはこの頃である。
一方、この頃夏宗(ハジョン)と銀輪公主の娘・夏姫は宝宗の美しさを恋い慕っていた。色を好まない宝宗は夏姫に廉長と夫婦になるよう勧めたため、夏姫は廉長の妻となり、三男(夏長・閏長・春長)三女(春花・尹華・京華)の母となった。
616年、宝宗は風月主に就任するや、一年も経たない内に副弟であった廉長に譲位しようとしたが、廉長は笑って「実質的には、今も風月主のようなものです。急いで譲られる必要はないでしょう」と止めさせた。
なんだかんだと時間は過ぎ、621年、廉長は風月主に就任。副弟には庾信の要請を受けて春秋を任じた。結局、廉長は副弟期間も合わせると11年もの間郎政を執ったことになる。この間、真骨正統・大元神統・伽耶派の三派は互いに婚姻し、血が交わってついに統合されたという。ちなみに廉長自身も、三派の郎頭の娘を妾としたため、美生に並ぶほど庶子が多かった。
その後、廉長は善徳公主に従ってチルスクの乱の鎮圧に功績を立て、公主が即位すると調府令となって財政を握り、庾信・春秋らの外征を影から支えた。『花郎世紀』は、三韓統一は実質的には廉長に頼る形で成されたと綴っている。
※以上の経歴を見るに、『善徳女王』の廉宗(ヨムジョン)は明らかにこの廉長をモデルにしていると思われる。

※11月23日追記。

十七世風月主・廉長に対して「ヨムジョンのモデル」と書きましたが、これは二人が同一人物という意味で書いたのではないんですよー(誤解を招く書き方をしてしまってすみません(汗))
『善徳女王』のヨムジョンは、あくまで『三国史記』に登場する「廉宗」のことです。
ただ、この「廉宗(ヨムジョン)」なる人物は反乱を起こしたという記述以外には何も情報がなく、もしこの人物を作品に登場させるなら、上大等に就任したことが明記されているピダムよりもずっと自由に設定を作れるんですね。だから、『善徳女王』を見た時に、「何からインスピレーションを受けてこの経歴や性格を作ったんだろう?」と思いまして。
そうしたら、『花郎世紀』に、はじめはポジョンに忠誠を誓い、その後、善徳女王やユシン、チュンチュを経済的に支え、ミセンと並び称されるほどの資産と妾を持ち、チルスクの乱で功績を立てた「廉長(ヨムジャン)」という人物に当たりました。
もし『花郎世紀』を重視して善徳女王の生涯を描くなら、この「廉長」は欠かせない人間だったはずです。
でも、「廉長」は全く登場しませんでした。善徳女王の忠臣であり、ヨンチュンの異父弟で、大伽耶王家の血を引く上、ポジョンとチュンチュの間の風月主という、非常に出しやすい立場だったにもかかわらず。(おまけに、善徳女王崩御の翌年に死去しているので、その面でもいじりやすい)
そこで私が感じたのが、

「脚本家さん達は、この「廉長」を登場させない代わりに、大伽耶の要素を月光太子の子である「ウォルヤ(こちらは架空人物)」に、経済&政治的な面を「ヨムジョン(廉宗)」に反映させたのではないか」

ということだったんですよ。廉長に対して「ヨムジョンのモデル」と書いたのは、そういう意味だったんです。
……と、ちゃんと書けばよかったのに、きちんと書ききれなくてすみませんでしたー!!




●とりあえずの家系図
風月主家系図(後期)





ポジョンモテモテ伝説(・∀・)←コラ
そして、ドラマでは定番のユシン虐げられ伝説は、『花郎世紀』を見る限り全くのフィクションという感じがします…。小さい頃は徐羅伐で育つことも出来ないくらいアレでしたが(アレて)、十代前半で徐羅伐に出てからは、ばーちゃん萬呼太后の後見によって怖い者なしというか、実力のみならず、後見の力でかなり出世している感じがします。もちろんそこには、舒玄パパに野望を託したのに果たせなかった伽耶派の無念とかもあるのですが、表だって虐げられるとか、そういうわけではない雰囲気ですね。というか、むしろユシンの登場まではひとまず安定していた真骨正統・大元神統・伽耶派の関係が、ユシンの登場によって大きく動いた感すらあります。
何にせよ、現実には派閥の違う風月主達はお互いに気を遣いあって生きていたというのがよくわかります。風月主レベルの貴族になると、もう誰かが誰かを虐げるという事態は滅多になくて、お互いに相手を立てつつ、自分の権力も高めつつ…という。
そして、『善徳女王』ではミシルが真平王時代ずーっと踏ん張ってましたが、『花郎世紀』では大体ポジョンの任期辺りで死去したようです。この辺りから萬呼太后の影も薄くなるので、長い長い太后時代が終わり、次からは真平王の後継を巡って、後妻の僧曼皇后と、嫡女の善徳公主(『花郎世紀』中でトンマンはこう呼ばれています)の戦いが始まりますー。


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  1. 2013.11.12(火) _00:00:00
  2. 新羅歴史談義?
  3.  コメント:2
  4. [ edit ]

<<11月10日にいただいた拍手コメントへの返信 | BLOG TOP | 『花郎世紀』で見る新羅の歴史・その1 ~真興王・真智王・真平王時代~>>

comment

  1. 2013/11/21(木) 13:36:06 
  2. URL 
  3. Joon 
  4. [ 編集 ] 
こんばんは。
花郎のヨムジャンとピダム部下のヨムジョンは別人です。

Joon様へ

  1. 2013/11/23(土) 09:25:37 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
Joon様、はじめまして!緋翠と申します。

ご指摘ありがとうございます…! 誤解を招く書き方をしてしまい、申し訳ありません(汗)
この記事で確かに十七世風月主・廉長(ヨムジャン)に対して「ヨムジョンのモデル」と書きましたが、実はこれは二人が同一人物という意味で書いたのではないんですよ。
バレているかもしれませんが、一応この時代についてはそれなりに調べたので(笑)、『善徳女王』のヨムジョンが、あくまで『三国史記』に登場する「廉宗(ヨムジョン)」のことだというのはわかっているんです。ただ、この「廉宗」なる人物は反乱を起こしたという記述以外には何も情報がなく、もしこの人物を作品に登場させるなら、上大等に就任したことが明記されているピダムよりもずっと自由に設定を作れるんですね。だから、『善徳女王』を見た時に、「何からインスピレーションを受けて、この経歴や性格を作ったんだろう?」と思いまして。

『三国史記』のイメージだとヨムジョンは真骨貴族でもおかしくありません。それなのに、『善徳女王』のヨムジョンはわざわざ身分を商人に設定し、ムンノ&ミセンと繋がっているところからチュンチュに肩入れし、さらにミシルを裏切ってトンマンに味方するという、脇役にしては非常に複雑な設定を与えられていました。
そうしたら、『花郎世紀』で、はじめはポジョンに忠誠を誓い、その後、善徳女王やユシン、チュンチュを経済的に支え、ミセンと並び称されるほどの資産と妾を持って花郎徒に多大な影響力を持ち、チルスクの乱で功績を立てた「廉長(ヨムジャン)」という人物に当たりました。

もし『花郎世紀』を重視して善徳女王の生涯を描くなら、この「廉長」は欠かせない人間だったはずです。
でも、「廉長」は全く登場しませんでした。善徳女王の忠臣であり、ヨンチュンの異父弟で、大伽耶王家の血を引く上、ポジョンとチュンチュの間の風月主という、非常に出しやすい立場だったにもかかわらずです。(おまけに、善徳女王崩御の翌年に死去しているので、その面でもクローズアップしやすいのではないかと)
そこで私が感じたのが、

「脚本家さん達は、この「廉長」を登場させない代わりに、彼の役割のうち、大伽耶の要素を月光太子の子である「ウォルヤ(こちらは架空人物)」に、経済&政治的な面を「ヨムジョン(廉宗)」に反映させたのではないか」

ということだったんですよ。廉長に対して「ヨムジョンのモデル」と書いたのは、そういう意味だったんです。

……と、ちゃんと書けばよかったのに、きちんと説明せずに紛らわしいことを書いてしまい、本当にすみませんでした…!!(追記しておきます。汗)


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