善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

.

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --.--.--(--) _--:--:--
  2. スポンサー広告
  3. [ edit ]

『花郎世紀』で見る新羅の歴史・その3 ~善徳公主の王位継承~

『大王の夢』で、成長したチュンチュの登場時に「10年後 622年」との説明が。ってことは、ユシンが風月主云々の話も出ましたし、子役時代は612年のことだったんですね! チュンチュが10歳、ユシンが18歳くらいで見ればよかったようです(・∀・)




* *


龍春やユシンの項でも記したように、真平王には40歳を過ぎても嫡男がいませんでした。そこで真平王は、摩耶皇后との間に儲けた娘達のうち、未婚で最も素質のある善徳公主(トンマンのこと)を嫡女に選び、彼女に婿を迎えて嫡孫を得ようとします。実はこの時、この時代の特異性を示すことが二点起きているんです。
真平王の後宮
一つめは、真平王には、公主から生まれた息子が複数存在した、ということです。
特に、真平王の父・銅輪太子の姉妹・太陽公主が生んだ太元&好元兄弟は、確実に聖骨です。しかも好元はこの後子女を得ていますから、早世したわけでもありません。では何故この二人は王位継承者に選ばれなかったのか?
『花郎世紀』は、その理由を太陽公主の前歴に求めています。つまり、太陽公主はこの時代の常で、同父母兄弟である銅輪太子・真智王の両名の寵愛も受けていました。だから二人の王子も王位継承者に選ばれなかったというんですが、それを言ってしまうと、真平王やそれ以前の時代の皇后で、確実に王の寵愛のみを蒙っていたと言える人がそれほど多かったとも思えません。
となると、むしろ、この二人が選ばれなかったのは、太陽公主が大元神統の思道太上太后の娘であることが問題視されたからではないかという気もしてきます。ユシンの項でも見た通り、大元神統は思道の死後、著しく衰えていました。萬呼太后を筆頭に真骨正統が台頭する中、大元神統の申し子とも言うべき太陽公主の立后には凄まじい逆風があったのではないかと推測されるんです。

新羅の特異性を示す二つ目の出来事は、嫡女の座が長幼によって決まったわけではない、ということです。
通常、嫡女から嫡孫を求めるなら、皇后腹の長女が生んだ息子が該当しそうなものですが、『花郎世紀』によれば、確実に善徳公主の同母姉である天明公主の長男・春秋は、そのような扱いを全く受けていません。それどころか、高貴な王子はまず経験しない風月主に就任させるくらい、真平王は春秋に期待してないんです。
ちなみに、これは春秋の父親・龍樹が問題だったから、というわけでもありません。実は真平王は善徳公主の婿に最初に龍春を迎えますが、子供が出来ないとなると今度は龍樹を迎えているくらいなので、龍樹・龍春の兄弟に対する期待は非常に高かったと思われます。
でも、善徳公主から子供が生まれなかった時も、だからといって天明・春秋の母子を後継者にしようとはしなかった。これは物凄く不思議なことで、何故真平王が善徳公主にこだわったのか、その理由は『花郎世紀』七不思議の一つ、という感じがしますねー。

花郎世紀(善徳女王&龍春)
さて、その善徳公主の婚姻ですが、正確な時期は『花郎世紀』には描かれていません。ただ、その婚姻に関して春秋がユシンに相談していて、さらにそのことがユシンの風月主の任期中のことのように記されていることから、612年から616年の間と推測出来ます。この時、すでに摩耶皇后は崩御しており、善徳公主は初婚でした。
そもそも、『花郎世紀』によれば、真平王はこの頃、まだ若く独身の善徳公主に譲位しようとしていました。親孝行の善徳公主は当然遠慮して、王宮を出てしまいますが、この時、公主は龍春に私臣となって自分を補佐してくれるよう頼みます。そこで真平王は龍春に善徳公主に仕えるよう命じました(=夫になるということなので、天明が不安に思った)。
聡明な善徳公主が自分に好意を持っていると知った龍春は固辞すべきではないと公主に仕えますが、公主は懐妊せず、龍春はその座を辞退します。続いて真平王は龍樹に同じことを命じたので龍樹も仕えましたが、やはり懐妊には至りませんでした。

大王(勝萬)
一方、摩耶皇后を喪った真平王は、当然のことながら新たな皇后を迎えていました。僧満皇后と言い、若い彼女は見事王子を出産します。嫡男の誕生です。しかし、真平王はすぐには善徳公主から嫡女の座を取り上げなかったらしく、僧満が王子の立太子を熱望する最中、当の王子が夭折してしまいます。僧満皇后の憎しみは、龍樹&龍春の兄弟に向かいました。
とは言え、僧満皇后は自身の男子出産を諦めなかったらしく、この頃、真平王の側室のうち、宝路殿君を生んだ宝良宮主を後宮から追い出してもいます。
大王(宝良宮主)大王(宝路殿君)
※『大王の夢』では頻繁に「養子」という言葉が出てきますが、『花郎世紀』の世界観によれば、誰かを養子にするには、嫡女との婚姻が欠かせません。また、宝路殿君に王位継承の資格があったとも描かれておらず、従って、真平王から王位を継承するには、少なくとも善徳公主もしくは王の亡き後、僧満皇后と再婚することが条件だったのではないかなーという気もします。

とにもかくにも、このような情勢の中、626年、春秋は風月主に就任しました。


●十八世風月主時代 <626~629年>
花郎世紀(春秋)大王(春秋2)
王:真平王(60~63歳)
風月主:春秋(チュンチュ。24~27歳。生没年:603~661年)《真骨正統》
副弟:欽純(598~680年)
皆さんご存知武烈王。『花郎世紀』では「我らが武烈大王」と書かれている。
白玉のような美貌を持ち、寡黙で態度に落着きがあり、胸には大志を抱いている。幼少期の春秋はこのような人物であったため、ユシンは春秋を大器と思い、主君として仕えたが、春秋は謙譲して風月主ユシンの副官たる副弟の地位にあった。616年にユシンが退任した後も、宝宗・廉長に風月主の座を譲っている。
大王(宝羅宮主)
その頃、春秋は宝宗と良明公主の長女・宝羅宮主を妻(正宮夫人)に迎えた。宝羅は大変美しく、長女・古陀[火召]を生み、寵愛も深かった。(宝宗の娘を娶ることで、春秋は郎徒達の反発を抑えたのかもしれない)
一方、ユシンは妹の宝姫を春秋の妻妾にと考えており、蹴鞠にかこつけて春秋を自宅に連れ込んだ。ところが奇妙な夢を見て不吉に感じていた宝姫は病と言って出てこず、その妹の文姫が代わりに出てきたため、ユシンの目を盗んでこの二人が結ばれてしまい、625年、ついに文姫は懐妊。ユシンは勝手に懐妊した文姫を火炙りにして誰の子かと問い詰め(たらしい。マジか)、その時たまたま善徳公主と南山に遊山に出掛けていた春秋は煙を見て慌てたが、公主のアシストで無事文姫を助け出す。
大王(文姫1)
それから数ヶ月後、宝羅宮主が難産により薨去したため、文姫は正宮夫人となり、626年、春秋が風月主になると花君の座に就いて長男・法敏(文武王)を出産した。なお、宝姫は春秋との出会いを自ら反古にしたことを悔やんで独身を貫いていたため、春秋が妾として迎えたという。
春秋が風月主として花郎徒に君臨した四年間、彼が何を行ったのかは全く記されていないが、629年、春秋は廉長の副弟でありながらユシンの命令によって自身に風月主の座を譲った欽純に風月主の座を譲った。
そしてこの年の8月、春秋に一大変化が起きる。当時、僧満皇后に忌まれていた大将軍・龍春(52歳)は、徐羅伐に滞在しないようにしていたのだが、遂に舒玄・ユシン親子を率いて高句麗東部に出征し、娘臂城を陥落させたのだ。この大功により龍春は角干(臣下としての最高位)に進んだ。しかし、龍春の栄華とは裏腹に、この頃恐らく50代後半であった龍樹は、妻の天明公主と春秋を龍春に託して薨去した。
※そもそも、龍樹は602年頃に天花&天明公主を娶り、そのうち天花公主を龍春に譲った。が、天花公主は子を産むが、その子は夭折してしまう。610年代前半になって龍樹が善徳公主に仕えることが決まると、龍樹は妻の天花公主を白龍に賜り、独身となった。らしい。


●十九世風月主時代 <629~632年>
大王(欽純)
王:真平王(63~66歳)
風月主:欽純(フムスン。32~35歳。生没年:598~680年)《伽耶派》
副弟:礼元(607~673年)
欽純はユシンの同父母弟である。615年、18歳で前方花郎となった時、歴代の風月主である上仙らに拝謁したが、ここで運命の出会いがあった。十二世風月主・菩利に拝謁するためその邸宅を訪れた際、池の畔に異母弟・礼元の手を引いて佇む当時16歳の菩丹娘主を見るなり、恋に墜ちてしまったのだ。
菩丹は菩利が妻・萬龍の枕婢である厚丹との間に儲けた庶女である。尤も、厚丹は十三歳の萬龍が自分に代わって当時風月主だった菩利を助けるよう頼んだゆえに妾となった女性で、父は薛原、母は比台殿君の娘・厚満だから、血筋は悪くない。結局、菩利の子のうち、庶子の菩太&菩好、庶女の菩丹&利丹は厚丹の生んだ子女だった。
欽純は辛抱強く菩利に結婚の許しを請い、とうとう菩利も渋々婚姻を許した。幸い、菩丹は父に似て才色絶人、淑徳を兼ね備えており、彼女の生んだ七人の息子(獨棄、元帥、元宣ら)は皆有能で勇ましかった。菩利も娘の愛されっぷりを知ると、じゃあと妹の利丹も欽純の妾にし、彼女もまた二男(元訓ら)三女を生んだ。
兄ユシンの命令によって風月主の座を春秋に譲ることもした欽純だが、629年、無事風月主に就任。この年の8月に父・舒玄と兄ユシンが高句麗戦で大功を立てたのを見た欽純は奮起してさらに武芸に励み、一切郎政に携わらなかった。何かあれば妻・菩丹に意見を聞いて決断し、日頃の業務は副弟・礼元に任せたのだ。欽純の潔さは郎徒達に愛されたが、欽純は兄ユシンには及ばないと常に謙譲の精神を忘れなかったという。こうして善徳公主が即位した632年、欽純は礼元に風月主の座を譲った。
その後も欽純は数多の大戦に出陣し、息子達も三韓一統に貢献した。幸運にも欽純自身は長命を誇り、兄と並んで英雄として称えられたが、その過程で三男・獨棄がその嫡男・盤屈と共に戦死するなど、悲劇にも遭っている。
ところで、欽純は金銭感覚が拙い人物だったらしく、しょっちゅう廉長に無心していた(ユシン・春秋・欽純と、ここら辺は金銭感覚に乏しかった模様)。おかげで廉長から「お前が私を金庫にするから、私の子供達に金をかけられない。これでは私の損だ」と笑われたため、廉長の娘を妾にして勘弁してもらったという。



●善徳公主の即位
風月主の座が欽純から次の礼元に譲られた632年の1月、真平王は66歳で崩御した。ついに僧満皇后から嫡男を得られなかった真平王は、善徳公主を後継者に指名していた(らしい)が、その崩御の前後には当然、内乱が起きた。それがチルスクの乱である。
が、この乱についての詳細は『花郎世紀』には描かれていない。当時風月主だったはずの欽純や礼元の項にも言及がなく、その代わりに十七世風月主・廉長の項で触れられている。

陰附于善德公主 靖柒宿之亂 以功拔之 善德卽位 入令調府 以給庾信•春秋兩公而
「廉長は陰ながら善徳公主に付き従い、チルスクの乱で功績を挙げたために抜擢された。善徳公主が即位すると、調府に入って令(長官)となり、庾信・春秋の二人を経済的に支援した」



これによると、チルスクの乱で最も功を立てたのは、ユシンでもチュンチュでもなく、ヨンチュン(龍春)の異父弟・廉長ということになる。では廉長とは、どういう人物なのだろうか。


●二つの伽耶 ~大伽耶と金官加耶~
廉長は586年、真平王が二十歳を迎えたその年に、龍春の異父弟として誕生した。
父・天柱は真興王とその小妃・月華公主の息子だから、一見聖骨に見えるが、実は月華公主は大伽耶最後の王・異脳王の娘だった。月華は、『善徳女王』に登場した架空人物ウォルヤ(月夜)の父・月光太子(こちらは実在)の同父母姉妹なのだ。つまり、庾信(ユシン)が金官加耶の直系子孫なら、廉長は月光太子の行く末が定かでない以上、大伽耶の末裔を代表する身だった。
ちなみに、月光・月華の母は、新羅の両花公主(文弩の父・比助夫の妹)なのだが、何故大伽耶に新羅の公主が嫁いだのかというと、ことは法興王時代に遡る。
西暦ははっきりしないが、法興王時代、大伽耶は王位を巡る内乱が起きていたのか、新羅の介入を許してしまった。法興王は伽耶を南北に分け、異脳王を北国の王に、青明なる人物を南国の王にした。その後も揉めに揉めて、結局、561年、大伽耶は斯多含(サダハム)らに滅ぼされた。(『善徳女王』のサダハムの梅ネタはここから来ている。)
恐らく月華が真興王の後宮に入ったのはこの後で、天柱と徳明公主の二児の母となった彼女は、宮主として安定した生活を送ったと思われる。

ところで、『花郎世紀』には「伽耶派」という言葉が多用されているが、上記のように、廉長の大伽耶と庾信(ユシン)の金官加耶は新羅の王家を介して血の繋がりはあるものの、両国の王家同士は全く婚姻関係を結んでいない。別の派閥と言っていいくらいである。
しかし、それぞれの父である天柱と舒玄の時代(風月主は美生)から、大伽耶と金官加耶は協力していた。とはいっても、天柱の時代は、舒玄が天柱を立て、天柱を風月主にし、自らは副弟にと狙っていた。天柱が真興王の息子だからである。
この後、舒玄の萬明娘主との駆け落ちにより伽耶派は大いに勢力を削がれたが、結局この駆け落ちが伽耶派に真骨正統の後見を引き寄せ、庾信・欽純兄弟の風月主就任に大きく寄与する。廉長は、この庾信・欽純兄弟のみならず、異父兄・龍樹&龍春とも連携して、双方を繋ぐパイプ役として行動したことにより、龍樹&龍春を夫とする善徳公主の即位に貢献出来たのではないだろうか。



●とりあえずの家系図
風月主家系図(後期)
風月主系図(15~32)
花郎家系図




「実は廉長って凄いんじゃないか?」ということが言いたいだけの記事です!←コラ


関連記事
スポンサーサイト
  1. 2013.11.16(土) _11:00:00
  2. 新羅歴史談義?
  3.  コメント:2
  4. [ edit ]

<<粛訖宗(スックルチョン)と金庾信(キム・ユシン)@『大王の夢』 | BLOG TOP | 11月10日にいただいた拍手コメントへの返信>>

comment

管理人のみ閲覧できます

  1. 2013/11/23(土) 18:59:46 
  2.  
  3.  
  4. [ 編集 ] 
このコメントは管理人のみ閲覧できます

urekat様へ

  1. 2013/11/26(火) 22:18:22 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
urekat様、遅くなってしまいまして、すみません!こんばんは~v

『大王の夢』、変わりましたねー。安心しました!(笑) 今は子役時代より落ち着いてツッコミながら見ていますw

新羅の家系図、面白いですよね~! 調べ始めるとあっちこっちで同じ名前に出会うので、ついつい家系図を書いて整理したくなります(笑)

> サラブレッドの系図を見ているようです。

確かに…!すっかり失念していましたが、競争馬の世界によく似ていますねー。三大始祖は、トンマン時代の新羅だったら只召太后と玉珍と…ってつい考えてしまいました(笑)

> 良血を産み出す為に近親配合(インブリード) をよくしますが、新羅の王族は、かなり危険な配合してますね~

ですねー。聖骨も良血の一種ですもんね。そういえば、日本も奈良時代までは両親が皇族でないとダメだからと近親婚でしたし、ヨーロッパも王族でないと…という風に考えると、近親婚ってそんなに異様なことではないのかもしれませんね。

> 5代前までにおなじ血筋が入っているといいそうです。

勉強になります!確かに、トンマンとピダムは意外に血が遠いなーというか、一番近い共通の先祖が真興王なんですよね。意味深でいいなーと思いますv

あ、気を悪くするなんてことは全然ありませんよー!むしろ、私の方こそヤバい発言をしていないか心配です(ノ∀`;)
新羅歴史談義、続きも頑張ります!(・∀・)



 管理者にだけ表示を許可する
 




PAGE
TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。