善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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『花郎世紀』で見る新羅の歴史・その4 ~善徳女王時代(前)~

「『善徳女王』と『大王の夢』に出てくる『花郎世紀』を元に歴史を追っていこう!」というはちゃめちゃ企画、第四弾です。今回はトンマン時代前半戦(632~639)ですーv

※ネットで調べた漢文を元にしているので、間違いも多々あると思われます。



* *


●『三国史記』に見る善徳女王の治世 ~前半戦~
(この色は『花郎世紀』による人物紹介です)
花郎世紀(善徳女王)大王(善徳女王)
善徳女王の治世は632年2月に始まりました。
即位と同時に、善徳女王は「宋室乙祭(ウルチェ。善徳女王の夫の一人)」に国政の総括を命じています。
大王(乙祭)花郎世紀(乙祭)
治世のはじめに行われた政策を見ていくと、内政としてはまず民心の慰撫を中心に据え、632年10月に民衆への食糧支援を、翌633年正月には大赦を行い、租税を一年間免除するという大胆な政策を執っています。
また、恐らく即位当初から建設し始めたのだろう芬皇寺が634年正月に落成すると、同時に年号を真平王が用いていた建福から仁平に改めました。なお、女王の寺院建設はその治世を通じて続き、635年には霊廟寺も落成しています。
外交的には、633年8月、百済の武王が小手調べとばかりに西辺にある西谷城を陥落させましたが、女王は反撃に出ていません。一方、632年12月、633年7月と唐に使者を派遣し、唐との友好関係を求めましたが、唐からやっと即位を承認され、「柱国楽浪郡公新羅王」に冊命されたのは635年のことでした。
その後も民衆の支持を重視する女王は、同年10月、水品(真智王の同母弟・仇綸と、真興王と美室の娘・般若公主の間に生まれた嫡男。二十四世風月主・天光の父)龍春(善徳女王の夫。十三世風月主)に命じて各地を視察させ、翌636年正月、この水品を上大等に任命しています。
花郎世紀(善徳女王&龍春)
しかしこの年3月、女王は重病に罹患し、その隙をつくように5月、百済の将軍于召が独山城を襲撃しようと玉門谷に潜伏。これを見事見破った女王は、将軍閼川(アルチョン。七星友会の筆頭格)と弼呑(ピルタン)に命じてこれを撃破させました。
さらに崇仏政策として、同月にいとこの慈城法師(十四世風月主・虎林と、十一世風月主・夏宗の娘・柔毛との間に生まれた息子)を唐に留学させるという決断を下します。そして637年1月には思真(般若公主の同父母弟。つまり真興王と美室の息子)を角干に、7月には閼川を大将軍に任命しました。恐らくこの頃に真平王の影響下を脱した女王の本格的な親政が始まったものと推察されます。
花郎世紀(アルチョン)大王(アルチョン)
しかし638年10月、今度は高句麗が七重城に侵略。女王は再び閼川を現地に派遣し、逃げ散った民衆を慰撫させます。もちろん閼川の仕事はそれだけでなく、11月、彼は七重城の外で高句麗軍と戦い、大勝利を収めました。
この一戦を受けて対高句麗戦線の強化の必要性を痛感した女王は、3ヶ月後の639年2月、北の小京とした何瑟羅州の鎮守に真珠(九世風月主・秘宝と、真興王と大伽耶の月華公主の娘・徳明公主との間に生まれた息子。↓でも登場)を据えます。

善徳女王の治世は、こうして対高句麗・百済戦線の強化や、国内の政治体制の整備、法師の唐留学など後半生への布石を終えたところで折り返し地点を迎えました。



一言メモ:こうやって見ると、善徳女王時代の『三国史記』って、一番『花郎世紀』で見た名前が出てきてますねー。特に真珠が兵部入りして約5年後の639年に北の小京の守護に抜擢されていることから、花郎徒の有力花郎には相当なエリートコースが用意されていたことが窺えます。


●二十世風月主時代 <632~634年>
王:善徳女王
風月主:礼元(26~28歳。607~673年)《真骨正統》
大王(礼元)
副弟:善品(24~26歳。609~643年)

礼元は、十二世風月主・菩利と、真平王の異父妹である萬龍の間に生まれた嫡男である。その性格は典雅で、身分の低い者にも礼を尽くしたため、郎徒から慕われた。前任者の欽純とは義兄弟となったこともあり、実の兄のように親しく、欽純時代から郎政を取り仕切っていた。
しかし、礼元が花郎徒を率い始めた頃、郎徒達をまとめる郎頭は十七世風月主・廉長の息のかかった伽耶派で占められており、真骨正統の礼元は彼らを従わせるのにずいぶん苦心したようである。他にも、伽耶派の真珠(廉長とは、大伽耶の血を引くいとこ同士。『三国史記』にも登場)が長い間左方大花郎の地位に在りながら風月主になっていないというこじれそうな問題もあったが、礼元は真珠をうまくなだめて、彼を兵部に入れることに成功している。(『三国史記』によると、真珠は639年に対高句麗戦線の重要拠点を任されている)
とにもかくにも、三年の任期の間、礼元は副弟・善品と協力して真骨正統・大元神統・伽耶の三派を均等に用い、仙道においては宝宗に、武道においては庾信に従って花郎徒を治めた。
風月主を退任した礼元は、まずは礼部に、続いて調府に入り、善徳大王(善徳女王のこと)におおいに「寵幸」された。(この場合の「寵幸」は、男女関係も含めて考えた方が良さそうである。) さらに内省に入り「衿荷臣」(側近か)に抜擢されたが、善徳女王が崩御すると、数え41歳の若さで宮中を退いてしまう。
再び礼元が脚光を浴びるのは春秋が初めて唐に向かった時たった。隠居していたところを、欽純の後押しを受けて春秋と共に唐に赴くことになったのだ。
かつて、礼元の叔父・円光は陳→隋に留学経験があったため、中原では名を知られており、唐でも礼元は「円光法師の甥っ子だ」と脚光を浴びたという。春秋よりも活躍していた節すらある。
その中で、礼元は「新羅と百済は通婚関係なのにどうして争ってるの」と聞かれた時、「そもそも百済は高句麗に追われて南下したため、我が国が兵を貸してやり、我が国に服属していたが、反逆してきた」と答えており、当時の新羅王家の名分が窺える。
さらにこの時、唐に新羅の婚姻制度について聞かれてからというもの、近親婚を恥じるようになったため、息子の呉起がいとこに当たる雲明を娶った時は、怒って対面を許さなかった。後に欽純に諭されて考え直したというが、ここから唐と新羅の風習の違いや、当時近親婚と認識された範囲を知ることが出来る。
さて、唐から新羅に戻ってきた礼元は、その後は順調に稟主、礼部令、理府令と出世し、官位も伊[冫食]に至り、執事部大等として文武帝13年(西暦673年)に67歳で死去した。文武王は礼元を惜しみ、上大等の礼をもって葬儀を行わせたという。


●二十一世風月主時代 <634~637年>
王:善徳女王
風月主:善品(26~29歳。609~643年)《大元神統》
副弟:良図(25~28歳。610~670年)

善品は、真智王の同父母弟である仇輪の息子である。母は美室と真平王の娘・宝華公主で、異母兄は635年に上大等になった水品(水品の母は美室と真興王の娘・般若公主)だから、兄弟で善徳女王に重用されているということになる。
礼元と共に花郎徒に入った。容姿に優れ、言動も極めて品格があり、文章にも精通していた。私生活では礼元の妹・宝龍を妻とし、一男三女を儲けた。息子が順元、長女が文武王の王后である慈義、次女が先述の雲明、三女は文武王の宮主である夜明である。
634年に風月主になると、善品は礼元の時の制度に全て従って花郎徒を治め、副弟には礼元の部下である良図を任命。在任中にはこれといった事件はなく、637年に任期を終えると礼元に従って内省に入り、礼部に転任。しかし、643年、唐に使者として赴いた際に病を得てしまい、妻子を遺して35歳で早世した。

●その後の宝龍
一方、善品の死によって寡婦となった宝龍は、春秋の正室である文姫が仙元を出産した際、請われて乳母になった。すると、なんとその頃十代後半だった法敏(文姫の長男。626年誕生)が宝龍の美貌に惚れ込んでしまった。困った宝龍は長女を法敏に許す代わりに、自らは尼になろうとしたが、今度は春秋がそれを惜しんで遂に宝龍を側室にしてしまい、二人の間には一子・幢元が誕生した。
その後、654年に即位した春秋は宝龍を宮主とし、法敏を太子に立てると宝龍の長女を太子妃に立て、その宮の名を慈義とした。順元は仙元・幢元ら殿君と共に宮中で成長したという。また、善品は娘の立身に伴い高位を追贈された。
宝龍・慈義の母娘は、風月主の終焉に大きく関わることとなる。




●二十二世風月主時代 <637~640年>
王:善徳女王
風月主:良図(28~31歳。610~670年)《真骨正統》
大王(良図)
副弟:閏長(613年~不詳)→軍官(25~28歳。613~681年)

良図は複雑な家庭環境で生まれた人物である。父は夏宗の息子・毛宗(柔毛&令毛の同父母兄弟)、母は真平王の娘である良明公主だが、二人は夫婦ではなかった。良明公主は、十六世風月主・宝宗の正室だからである。
何故このような関係が生じたかというと、元凶は宝宗にあった。女を愛せない宝宗が、妻に申し訳ないと思い、次々に自分の部下を妻と通じさせようとしたのだ。その結果、良明公主は夫との間に二女(宝良・宝羅)を儲けた後、はじめは廉長との間に一子・長明を、28歳の時には毛宗との間にこの良図を生んだ。幸か不幸か、良明公主は5歳年下の毛宗に惚れ込み、良図を宝宗の養嗣子にしてくれるよう宝宗に頼んだため、元々良図の名付け親になるくらい良図を気に入っていた宝宗はそれを喜んで受け容れた。
さて、困ったのは良図で、長ずるに従い兄の長明に嫡子の座を譲りたがったが、廉長はそれを許さず、息子の長明にも良図に仕えるよう命じた。良図はそれを拒み、長明には友人として、廉長に対しては父として接し続けたという。
こうして良図が成長した頃、良図の6歳年上の異母姉宝良は祖父にあたる真平王の寵愛を受け、宝路殿君を生んでいた。しかし、当時、男子のいなかった僧満皇后は宝良に嫉妬。皇后に後宮からの退去と貴族との結婚を命じられた宝良は、もともと愛情を抱いていた良図を夫に指名する。
宝良の意向を受けた良明公主が真平王に頼んで良図を宝宗の養嗣子とすることを認めさせ、ついに二人は夫婦となった。しかし、良図はこの婚姻に肯かず、すったもんだの末に二人が夫婦になるまでには数年の時を要した。らしい。

良図と花郎徒の関わりを見ていくと、まず良図は廉長に従って621年、12歳で花郎となり、20歳頃、欽純の命令で礼元に従属した。仏法を崇敬、文章をよくし、撃剣の名手でもあった。
この通り良図は花郎徒で育った人物だったが、自身が風月主になると、「宝宗公の真の嫡子はそなただ」と宝良に語り、名目上は彼女に花郎徒の統治を委ねたという。が、実権は良図が握り、制度改革に踏み切った。
まず、郎頭の階級を七つ(郎頭、大郎頭、郎頭別将、上頭、大頭、都頭)から大都頭と大老頭の二つを足した九つに増やした。さらに、13~14歳の郎徒を童徒、18~19歳を平徒、23~24歳を大徒に分類し、大徒のうち、「入望」を望頭に、才能や功績があるものを臣頭に昇進させた。ただし、そこから郎頭に出世できのは望頭のみで、臣頭には出世の道はなかった。ちなみに、大徒は30歳になると兵部に属すか、農工に従事し、年を取ると郷里へ帰ったという。(このような郎徒達から花郎徒の噂が広まったと考えられる。)
では、この郎頭に出世できる「入望」とはなんなのか?
実は、「入望」とは、上仙や上郎と言った花郎の摩腹子のことを指した。端的に言えば、母親が花郎の愛人でない限り、出世出来なかったのだ。
この制度のために、郎頭たちは妻が妊娠するとこぞって妻を花郎の愛人に差し出した。寵愛を受けるシステムまで出来上がっており、郎頭の娘達も花郎徒に入って上官の寵愛を受けるまでは郎徒達との結婚も出来なかった。(郎徒の娘で花郎徒に入った者は「奉花」、寵愛を受けた者は「奉露花」、子を産んだものは「奉玉花」と呼ばれた。)良図はこの制度に対して一家言あったが、そういう良図も好色で、郎頭の妻の多くは良図の子を産んだという。

良図の抱えていた問題は制度面だけでなく、副弟争いもまた、良図を悩ませていた。
彼が風月主に就任した時、後に中侍となった文忠や善祭らが副弟を望んだが、良図は廉長の長男・閏長を副弟に命じ、その妹春花を愛妾としていた。しかし、閏長は年若い上に再三罪を犯したため、ついに廉長が廃位させ、今度は文忠・善祭・善眞・夏長らが副弟の位を争った。
この時、良図は幼馴染でもあるいとこの軍官を推挙した。実はかつて良図は軍官の姉明蘭と関係があったものの、宝良に遠慮して明蘭を長明に娶わせたという過去があった。その長明は、当然といえば当然だが母の良明公主を怨んでおり、軍官が説得するまで打ち解けなかったのだ。良図は軍官の賢さを愛でて抜擢した。
上仙(花郎や風月主のOB)の多くは風月主を父に持たない軍官の抜擢に反対したが、良図は軍官を「普賢宮(法興王の同父母妹)の嗣孫である」として副弟に任命し、自らの妾の天雲を軍官の妻とした。
このようにして波乱万丈の風月主生活を終えた良図は、軍官と共に多くの軍功を立て、670年には唐で投獄されるという悲劇にもあったが、681年に起きた風月主制度を終焉させる反乱に連座して死を賜るまで新羅の中心部で生き抜いた。良図は宝良をはじめとする妻妾との間に多くの子女を儲け、軍官には妹二人も娶らせたが、多くはその反乱で連座したという。



●風月主の家系図
※ものすごく細かいので、パソコンでの閲覧を推奨します。
風月主家系図(後期)
・赤紫は夫婦・正室といった嫡子を持てる正式な夫婦関係、ピンクは妾・側室・宮主などの愛人関係(正式なもの、そうでないものを含む)を示しています。
・緑のラインは真骨正統、青のラインは大元神統、黄土色は俊室&俊華の家系を示しています。
・オレンジのラインで囲まれている人は、風月主経験者です。




善徳女王時代、前半戦を見てみました。
この辺は記述が細かいというか、花郎徒の仕組みや、何故地方にまで花郎徒の名声が浸透したかがわかりますねー。そして、花郎徒のヤバさと言うか、「どええええ」なこともたくさん書いてあって、少々困惑しますw
また、ドラマでは登場しませんでしたが、トンマンの恋人だったかもしれない礼元がチュンチュ・ポプミン親子に尽くしているのがまた面白いですねv

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  1. 2013.11.27(水) _20:00:00
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