善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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『花郎世紀』で見る新羅の歴史・その5 ~善徳女王時代(後)~

段々長くなってきた『花郎世紀』特集も、やっと終わりが見えてきました…!
また、思えば善徳女王時代の『三国史記』とか『日本書紀』ネタはあまりやってこなかったので、この機にとそちらもついでにまとめてみました。ウィキより遙かに長ったらしい、自己満足記事になっているので、お暇な時にでもどうぞーv




* *


善徳女王の治世後半(640~647年)は、百済・高句麗に加えて、日本でも政権交代がありました。従って、『日本書紀』にも朝鮮半島に関する記述が多く見られます。というわけで、『三国史記』を中心に、『日本書紀』の記述も交えて善徳女王時代の後半戦を見ていこうと思います。

●『三国史記』と『日本書紀』に見る善徳女王の治世 ~後半戦~
640年夏5月、女王は若者達を唐へ留学させようと考え、唐の太宗(李世民)に彼らを国学へ入学させてくれるよう頼みます。実は太宗は教育の充実を重視し、国子監(学校)を増築、教員も増やして、唐のみならず周辺諸国(新羅、高句麗、百済、高昌、吐蕃)からも学生を募集して定員(3260人)いっぱいにしようとしていたのです。
また、『日本書紀』によれば、前年の10月に続いて、この年の10月、唐の学問僧清安と日本人留学生高向玄理が唐から日本へ向かう際に、新羅を経由させています。この二人には新羅、百済の使者(朝貢使)も同道し、11日に日本へ到着しました。

一方、641年3月、40年もの治世を誇った百済の武王がついに崩御します。武王にはその皇后が善徳女王の妹・善花公主であるという伝説があり、『花郎世紀』でも新羅と百済は通婚関係にあるとされていますが、善花公主の実在も含め、真相は解明されていません。とにもかくにも、太子の義慈が即位し、百済の新政権がスタートします。
この年の政権交代はこれだけでは済まず、同年9月、今度は高句麗に激震が走ります。重臣である淵蓋蘇文(『日本書紀』によれば伊梨柯須弥)がクーデターを起こして栄留王を殺害し、6月に死去していた栄留王の弟の子・宝蔵を擁立したのです。
さらに10月9日には、日本の舒明天皇が崩御。舒明天皇には古人大兄皇子や中大兄皇子ら複数の皇子がいましたが、次の天皇が決まらず、3ヶ月を経た642年1月15日、ついに皇后の宝皇女が推戴され、皇極天皇となりました。3月、新羅は即位を祝賀する使者を日本に送っています。
こうして、641年、三つの国で王が変わりましたが、各地の政変は642年も続きます。『日本書紀』によれば642年1月に義慈王の母が死去するや、王の弟や同母妹をはじめ、高官ら40人が島流しになり、唐でも、太宗が承乾太子を廃位し、643年、その同母弟李治を新たに太子に立てるという事件がありました。


そのような中、善徳女王も苦難の時を迎えます。642年7月、即位1年の義慈王が大軍を擁して新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させたのです。8月には義慈王は高句麗と共謀して新羅~唐間の航路を断とうと党項城を狙ったため、女王は急ぎ唐に救援を要請。しかし、西方の要衝である大耶城を百済の允忠将軍に攻め取られてしまいます。(大耶城についてはコチラもご参照ください)
チュンチュ(内省私臣)ユシンのキンキラ鎧
この年の冬(10~12月)、大耶城奪還を志す女王は、大耶城城主夫人だった娘を百済軍に殺害され、復讐に燃える春秋(十八世風月主。龍春の養嗣子)の要請を受け、彼を高句麗に派遣、援軍を請います。しかし、春秋は交渉に失敗し、拘留されてしまいます。義兄の庾信(十五世風月主)が大軍を率いて救出に赴いたことで辛うじて釈放されますが、結局高句麗を味方につけることは出来ませんでした。また、女王は庾信を対百済の最前線にあたる押梁州の軍主に任命し、百済の侵攻を防がせます。

高句麗との同盟を諦めた女王は、翌643年3月、慈蔵法師が唐から帰国すると、9月、百済・高句麗の挙兵に先立ち、唐に使者を派遣し、援軍を求めます。しかし、この時の交渉は上手くいかず、644年1月、改めて使者を遣わしました。その結果、太宗は高句麗に新羅侵攻を取り止めるよう使者を派遣しますが、高句麗はこれを拒否。
ついに唐と同盟を結んだ女王は攻勢に転じ、9月、庾信を上将軍・蘇判に任じて百済を討たせ、加兮城など7つの城を陥落させます。10月には太宗が高句麗遠征を開始しており、太宗と女王が示し合わせて侵攻を開始したことがわかります。これを受け、645年1月、今度は百済が大軍を挙げて買利城を攻撃したため、女王は再び庾信を上州将軍に任じて出撃させました。
女王の政策はそれだけでなく、新羅王家の威信を示し、仏法の加護を知らしめるため、慈蔵法師の要請に応じて同年3月、徐羅伐第一の規模を誇る皇龍寺に九重塔を建立。また、5月には太宗の要請に応じて高句麗に3万の援兵を派遣します。その隙を突かれて、庾信の防衛空しく百済に七つの城を奪い取られましたが、この援兵が、唐と新羅の同盟をより強固にします。
一方、こうして朝鮮半島が戦いに明け暮れる中、この年の6月12日、日本でも乙巳の変が勃発。中大兄皇子による蘇我蝦夷、入鹿親子殺害を受けて14日に皇極天皇が譲位し、弟の軽皇子が即位、孝徳天皇が誕生しています。
太宗の高句麗侵攻は長期に及びましたが、10月、高句麗の要衝・安市城が陥落せず、双方大ダメージを蒙ったことにより、軍を退きます。
新羅も恐らく撤兵し、その兵が帰国したであろう11月、伊[冫食]の毘曇が上大等に就任しました。
花郎世紀(ピダム)大王(ピダム1)花郎世紀(廉宗)
この645年をもって、善徳女王時代の戦いは終わりを告げますが、『日本書紀』によると、646年9月、新羅の弱体化を見て取った日本から高向玄理が派遣され、新羅が長年手にしていた任那の調を納める権利、つまり任那の領土に対する統治権を認めないことと、新羅から日本に人質を差し出すよう通告します。
新羅が日本に人質を差し出すのは実聖尼師今以来のことですが、前例のないことではありません。ところが、こうして玄理が新羅に滞在している最中の
647年1月、ついに新羅でも内乱が勃発します。上大等の毘曇が廉宗と共に反乱を起こし、8日、女王が崩御したのです。女王は善徳と諡され、狼山に葬られました。
乱が鎮圧されたのは、崩御から11日後の1月17日のこと。毘曇が捕らえられて処刑され、30人が処分されました。




●二十三世風月主時代 <640~643年>
大王(軍官)
王:善徳女王
風月主:軍官(29~31歳。613~681年)
副弟:天光(616年?~不詳)

晩年には上大等に昇進するも、逆賊として処刑されるという波乱万丈の人生を送った軍官は、冬蘭と昔明公主の間に生まれた。父の冬蘭は、法興王が同父母妹の普賢公主との間に儲けた梭失公主の曾孫にあたり、普賢公主の嫡流である。対する母・昔明公主は、只召太后の娘である宝明宮主が真智王との間に設けた娘で、廃位後の579年に誕生した。宝明宮主が真平王の左后に立てられたため、昔明も真平王の後宮で育ち、成長すると真平王の側室となって二人の公主を生んだが、その後、後宮を出た。その頃、冬蘭は郷歌などの歌唱の名手であったことから、昔明が冬蘭に歌舞を学び、遂に結ばれて娘・昔蘭に恵まれた。真平王は二人の婚姻を許したが、冬蘭は昔明の身分を尊んで主君として仕え続け、その後二人はさらに次女・明蘭とこの軍官を儲けた。
また、母の昔明が真平王の後宮において異父妹・良明と同居し、三世を誓うほど親密だったことから、軍官は生まれた時から良明の息子である良図と親しくしていた。その親密さは母同士の命令に従って、三世を誓ったほどである。

成長した軍官は良図に従う形で花郎徒に在籍したが、良図が風月主になった時、軍官は自らが権門の出でないことから閏長に副弟の座を譲った。しかし閏長は好色で金に煩く、多くの公主や遊花を通じて縁者好みも甚だしかったため、見かねた父・廉長に処罰され、軍官が改めて副弟に任命された。
軍官は良図&宝良夫妻に忠実ではあったが、厳格な人物で、副弟時代、宝良に内通して権力を握った察儀(良図の側近)の専横を見かねて彼を斬り殺そうとしたこともあった。(ただし、この時は逃げ回った察儀が宝良に泣きついたため、宝良の懇願に免じて命だけは助けた。以後、軍官を恐れた察儀は花郎徒の政治に口を出さなくなったという。)
軍官と察儀の噂は善徳女王にも届き、内々の宴において宝良とこんなやり取りがあった。

善徳「(宝良に)そなたが傍においている者は美しいと聞きましたが、果たしてその美しさはどれほどのものなのでしょう」
宝良「臣は、天子は臣下の家の中のことは問わぬものと聞いております。ですが、陛下がもしどうしてもと仰せなら、私臣を一人、お見せ致します」
こうして宝良が軍官を連れてくると、善徳女王は軍官に直に尋ねた。
善徳「人は汝の美しさを噂しているが、その美しさはどこから生まれているのだ?」
軍官「臣の美しさは外見のことではありません。ただ、心の内にあるものです」
善徳「汝の心の内には何の美しさがある?」
軍官「臣は宝良夫妻の為に死ぬことを望んでおり、宝良夫妻は陛下の為に死ぬことを望んでおります。美しさとは、このことでしょう」
これを聞いた善徳女王は軍官に食事を下賜し、宝良に言った。
善徳「そなたの部下は、一人でも我が部下十人に勝りますね。よく育てなさい」


私生活を見ると、軍官は638年に「傾国の色あり」と評されるほど類希な美貌の持ち主である天雲を妻としたが、そもそも彼女は良図の愛妾だった。とはいえ、天雲は身分卑しい女性ではなく、当時の上大等である水品と、廉長の妹・天長の間に生まれた長女である。
良図も、もともと天雲の弟・天光を側近にしていた上、天雲に惚れ込んで、自ら天長に申し込んだほどだった。しかし、天雲へのあまりの寵愛ぶりに、宝良が事態を憂慮。頭の上がらない妻に諌められた良図は、天雲を妻にするよう軍官に命じ、さらに天雲の弟である天光を軍官の部下にさせたのだ。
軍官は640年についに風月主となったが、良図の命令により天光を副弟に、天雲を花主(花郎徒の女主)に任命せざるを得なかったことに苦悩し、天雲に「郎徒は必ず私のことを「私情で部下を選ぶ男だ」と言うだろう」と漏らしている。対する天雲は、軍官に「我らはこの髪一筋たりとも主君の恩を受けていない部分はありません。どうして主君の命に逆らえましょうか」と賢く応じて軍官を安心させている。
軍官は風月主時代、全て良図の時代の方針に則って郎徒を治め、宝良も引き続き権勢を握った。天雲も宝良を立て、不平を言う者をよく宥めた。気立てのよい天雲を軍官は大切に思い、歴代の風月主が皆郎頭の妻や娘を妾にしたにも関わらず、軍官自身は全く彼女達に手を出さなかったという。風月主を退任後、軍官は良図と共に善徳女王の側近となり、爵位を与えられた。
『三国史記』によれば、軍官は文武王政権で重用された。即位間もない661年7月には南川州の都督に、664年2月には漢山州の都督に任命され、兵部令に昇進し、680年2月、伊[冫食]として上大等を拝命した。しかし、翌年7月に文武王が崩御すると翌月には上大等を罷免され、同月29日、ユシンの甥・欽突らの反乱に連座する形で嫡男の天官ともども自決を強いられた。





●二十四世風月主時代 <643~647年>
王:善徳女王
風月主:天光(616年?~不詳)
副弟:春長(26~30歳。618~679年)

前述の通り、天光の父・水品は善徳女王の下で636年から 645年まで10年ほど上大等を務めた人物で、彼は新羅王室のサラブレッドといってよい血筋を持っていた。父が真興王と思道皇后の三男・仇輪で、母が真興王と美室の長女・般若公主という、共に真興王を父とする両親から誕生したのである。また、思道と美室はどちらも大元神統の代表的存在であることも忘れてはならないだろう。
その水品は、十七世風月主である廉長の妹・天長を妻とした。(廉長が586年生まれで、水品の母・般若公主は560年代後半に誕生したことがわかっているので、水品は恐らく580年代後半頃に誕生し、善徳女王の時代には50~60代だったと推測される。)水品と天長の間には長女天雲、長男天光、次女天鳳が生まれたが、いずれも美貌の持ち主で、天雲は二十三世風月主軍官の、天鳳は二十四世風月主春長の正室となった。天光が二十四世風月主だから、水品の子女は640年から652年まで、10年以上も花郎徒の頂点に君臨したということになる。

天光が14才で花郎になったのは、欽純が風月主の座にあった真平王時代末期のことである。その美貌から良図に愛されて側近となり、「情は夫婦の如し」であったという。軍官の項で説明した通りの事情で副弟となり、良図の命令によって良図の愛妾・春花の同父母妹・尹華を正室に迎え、風月主に昇進すると彼女を花主に、副弟には尹華の同父母兄・春長を任じた。
実は、かつて天光には尹華の同父母兄・夏長と副弟の座を争って勝ち得た過去があった。ゆえに良図が気をつかって春長を副弟とさせたのだという。しかし実際にはそれだけでなく、天光は尹華の資産に大いに助けられている面があった。尹華は廉長とその正室夏姫の次女だが、夏姫はその母・銀輪公主や祖母・思道太后から莫大な遺産を相続しており、夏姫からその遺産を受け継いだ尹華には夫を遥かに凌ぐ財力があったのである。

風月主となった天光は、義父・廉長以降、花郎徒が伽耶派に支配され、郎頭に廉長の摩腹子ばかりが用いられている現状を憂えた結果、彼らを罷免し、真骨正統や大元神統の人間を抜擢した。これに不満を抱いた者達は廉長に抗議したが、廉長は笑って「お前達は郎徒のくせに風月主に従わないで、私に何を求めるのか」と取り合わなかったという。
この時罷免された伽耶派の郎頭の中に、察忍という者がいた。すでに齢60を過ぎてなお大老頭として権力を持ち、百人ほどいる妻妾&子女を自由に出入りさせて、まるで上仙(風月主のOB)のように振る舞っていた。その家族も、息子の察斗(603年誕生)・察石(605年誕生)は都頭として数十人の妾を持ち、郎頭の多くは察忍の婿、察忍の妻・玉斗里は歴代の風月主の閨に侍って夫を支えた絶世の美女といった具合である。(軍官の項で登場した察儀は察忍の末息子。)
天光はもともと察忍に好意を持っておらず、彼らを罷免すると真骨正統の萬徳を大都頭に、美生に仕えた唐斗の子である唐甫を大老頭に任命。特に唐甫は察忍の婿だったが、大元神統に鞍替えしたため、伽耶派は驚愕して上仙に助けを求めた。
しかし、天光はさらに改革を断行し、年齢制限も任期もなかった郎頭に定年を設定した。大老頭は60歳まで、大都頭は55歳、都頭は50歳、大頭と上頭は45歳、郎頭と大郎頭は40歳までと決めたのだ。また、一方では真骨正統、大元神統、伽耶派を均等に採用し、摩腹子でもそうでなくとも才覚によって望頭(郎頭予備軍)に取り立てたため、花郎徒は大いに興隆し、天光は人望を集めた。恐らく、これらの大胆な改革には、上大等である水品を後見に持っていることも大きく寄与したのではないだろうか。
天光の改革は制度面に留まらず、彼は新羅が百済と高句麗から侵攻を受けるという危機的状況にあることを重視し、郎頭に郎徒を率いさせ、弓馬を習わせた上で、武術に優れた者を兵部に異動させた。天光の時代に花郎徒で重要視されたのは、武事だったのだ。
けれども皮肉なことに、それが最も効を奏したのは、647年正月に善徳女王が病に倒れ、毘曇(ピダム)と廉宗(ヨムジョン)が謀反を起こした時だった。謀反を受けたユシンは新王を奉じて「督戦」した時、都の兵が少ないのを見た天光は、郎徒を率いて敵陣に突撃し、毘曇を敗走させて乱を平定したのだ。この功績により、天光は護城将軍に抜擢され、風月主の座を春長に譲った。
この後も天光は功績を残し、中興二十八将に撰ばれている。また、『三国史記』によれば、三韓一統に貢献し、673年8月に波珍[冫食]として中侍に任命され、678年3月まで務めた。

天光は外柔内剛、様々な理を明察、兵士や民を愛恤し、酒をたしなんでも飲み過ぎはせず、色を好んでも規律を乱すことはなかったという。
なお、天光と尹華は7人の子女を得たが、天光には妾もいた。後に最高位の角干に至る真福の妹・真[冫束]、夏姫の兄・孝宗の娘・孝月、尹華の妹・京華、察儀の妹・察言、萬徳の娘・萬水の5人で、各々子女がある。妾のうち、察言と萬水は郎頭の娘で、特に察言は天光が罷免した察忍の娘である。察忍は子孫に、「新主(天光)は真の英雄である。私達が一時罷免されたとしても、私の外孫は新主の一族であり、すなわち、新主に尽くせば我が一族もまた栄えるであろう」と戒めている。
とにもかくにも、真骨正統、大元神統、伽耶派の三派は天光に従って婚姻関係を結んで和睦し、皆天光の人徳を敬ったという。



●風月主の家系図
※ものすごく細かいので、パソコンでの閲覧を推奨します。
風月主家系図(後期)
・赤紫は夫婦・正室といった嫡子を持てる正式な夫婦関係、ピンクは妾・側室・宮主などの愛人関係(正式なもの、そうでないものを含む)を示しています。
・緑のラインは真骨正統、青のラインは大元神統、黄土色は俊室&俊華の家系を示しています。
・オレンジのラインで囲まれている人は、風月主経験者です。





以上、善徳女王時代の花郎徒の模様を見てまいりました(・∀・)(トンマンの時代ということで、詳しくお送りしましたv)
この辺りは『善徳女王』では完全にスルーされ、『大王の夢』でも宝良が早々に殺された以上はあんまり期待できませんが、風月主の終焉に向けての重要な伏線となっている気がします。特に、早死にした善品の妻子は、恐らく善徳女王の許しもあってチュンチュ(春秋)に引き取られており、チュンチュが即位すると、彼女達は真骨正統を、ユシン一家は伽耶派を代表して争うことになります。
とはいえ、善徳女王時代の花郎徒は、何度も出てきたように伽耶派といっても大伽耶出身の廉長の一門に牛耳られていました。廉長の子女は全員が花郎徒に関係し、妹・天長の生んだ甥や姪も加えると、廉長が648年に死去するまで、花郎徒は廉長の強い影響下に置かれたままであったと見てもよいのではないでしょうか。

さて、この特集もたぶん次でラストとなります。もはや『善徳女王』は全く出てこない時代になりますが、お付き合いいただければ幸いです…!



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  1. 2013.11.30(土) _20:00:00
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