善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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『花郎世紀』で見る新羅の歴史・その6 ~風月主制度の終焉~

『花郎世紀』おっかけ記事もついに最終回となりました。我ながら、長かったです…。(読んでくださった皆様、もっと上手くまとめられなくてすみません(汗))
ここまでお付き合いくださいました方、本当にありがとうございますー!

■花郎徒の身分制度
花郎徒は骨品を持つ花郎と、平民もいる郎徒とに分けられる。花郎は花郎徒の首長たる風月主以下、上郎とも呼ばれ、大体30代になると各官庁に配属された。郎徒は九人の「郎頭」が統率した。また、風月主の正室は「花主」と呼ばれ、郎徒の妻女は花郎の妾とされることが多かった。花郎のOBは「上仙」と言い、相談役のような役割を持っていたらしい。

○花郎の身分
・風月主〔プンウォルチュ、花郎徒の首長〕&花主〔ファチュ、風月主の正室〕
  ↓
・副弟〔プジェ、花郎徒の副官〕
  ↓
・左方大花郎〔道義・文事・武事を司る〕&右方大花郎〔玄妙・楽事・芸事を司る〕&前方大花郎〔遊花・祭事・供事を司る〕
  ↓
・左花郎二人&右花郎二人
  ↓
・小花郎三人&妙花郎七人


○郎徒の身分
・郎頭〔ナンドゥ、郎徒のまとめ役〕
(大老頭〔~60歳〕、大都頭〔~55歳〕、都頭〔~50歳〕、大頭&上頭〔~45歳〕、郎頭別将、郎頭&大郎頭〔~40歳〕)
  ↓
・望頭〔マンドゥ、花郎の摩腹子〕&臣頭〔シンドゥ、功績のある者〕
  ↓
・郎徒〔ナンド〕
(大徒〔テド、23~24歳〕、平徒〔ピョンド、18~19歳〕、童徒〔ヒョンド、13~14歳〕)


○遊花の身分
郎徒の娘は遊花として花郎徒に入って花郎の寵愛を受けない限り、婚姻できなかった。
・奉花〔ポンファ、花郎徒に入った者〕
・奉露花〔ポンロファ、花郎の寵愛を受けた者〕
・奉玉花〔ポンオクファ、花郎の子を産んだ者〕






* *


●二十五世風月主時代 <647~652年>
王:真徳女王
風月主:春長(30~35歳。618年~不詳)
副弟:眞功(26~31歳。622~681年)
真徳女王の即位に伴い風月主となった春長は、善徳女王時代に花郎徒で絶大な権力を誇った廉長の三男である。母は夏宗(ハジョン)と銀輪公主の娘・夏姫で、父母を同じくする兄が二人、姉妹が三人いた。このうち、長兄の閏長は副弟になったものの品行があまりに悪かったために罷免され、次兄の夏長は副弟争いに敗れている。姉妹も、長女の春花と三女の京華は妾どまりで、次女の尹華だけが風月主の妻として花主に至った。
兄弟の浮沈を目の当たりにしたからか、春長は寛大で忠実な性格に育った。前任の天光の妹である天鳳を妻とし、風月主となってからも、副弟には天光の愛妾である眞[冫束]の弟・眞功を迎え、天光の命令に従って花郎徒を治めている。
一方で、天光が一度は罷免した察斗を大都頭に任じ、萬徳を大老頭に昇進させたため、伽耶派の勢力回復のきっかけも作ったが、天光の影響下を脱した後も春長は花郎徒を眞功に委ね、昼日中から察斗や天鳳と共に飲んだくれていた。そのため、案じた天鳳から「兄の天光は風月主であった時、朝から晩まで奔走していました。どうして郎君(春長のこと)は風月主となったのに何もなさらないのですか」とたしなめられたが、春長ははぐらかすばかりだったという。
では春長は何もしなかったかというと、そうでもなかった。彼は常日頃から子弟が乱行を働かないよう戒め、天鳳と共に郎頭の妻子を監督した上、郎徒を積極的に出陣させ、自らも密かに窮乏する地域に出向いては支援活動を行っていたため、人望はずば抜けていたのだ。
この通り、春長はやる気がないわけではなかった。では何故彼が花郎徒でリーダーシップを取らなかったかを考えてみるに、父の廉長の存在が強く影響しているのではないかと思われる。実は廉長は春長が風月主に就任した翌年に死去しており、しかも母の財産は天光に渡っていて、春長の権力基盤が薄弱だったことは想像に難くない。対する天光は真徳女王を即位させた功労者で夏姫の財産を手にしており、眞功も察斗の娘を妾にするなど花郎徒に強力な地盤を持っていた。春長が花郎徒で大人しくしていたのは、周囲との軋轢をなくす為だったのではないかとも考えられるのだ。
春長は風月主を退くと、抜擢されて倉部に入ったが、俄に執事部に転任し、『三国史記』によれば、678年に天光の後を受けて中侍に出世しているが、これも1年で辞職した。
春長の性格は祖父の天柱によく似ていたらしい。また、宝宗の生きざまに強い憧れを抱き、暇があれば天鳳と共に宝宗を祀る祠に詣でていた。さらに、宝宗の嫡女である宝良には母に仕えるように奉仕した為、宝良は良図との娘・良時を春長の妾にしたという。


●二十六世風月主時代 <652~656年>
王:真徳女王→武烈王(50~54歳)
風月主:真功(31~35歳。622~681年)
副弟:欽突(26~30歳。627年~681)
眞功は、風月主制度を終焉に導いた人物の一人であり、『花郎世紀』において「三奸」と罵られる悪役である。ちなみに、「三奸」の残り二人は、欽突と興元。いずれも真興王の末裔にあたる。
眞功の父・思隣は、真興王と美室の間に生まれた寿宗殿君(後に思眞と改名)と、摩耶皇后&虎林の姉・好隣の間に生まれた。思隣ははじめ、七星友会の林宗(イムジョン)の大舎(部下のこと)だったが、そこで林宗の妾・好明と密通し、真[冫束]が誕生した。そこで林宗が好明を思隣の妻とし、622年、二人の間に眞功が誕生した。
眞功は風采がよく、優秀な軍略家だった。が、唯一の欠点は、好色で、貪婪な一面があることだった。
例えば、640年代後半、達福の娘・欽信は善徳女王の異母弟・宝路殿君に嫁いで二人の娘を生んでいた。ところが欽信の美貌に惚れこんだ眞功は、かねてから親しくしていた欽信の弟・欽突と計って欽信と密通。宝路殿君は気付かなかったが、それを知った欽信と欽突の母・政姫は激怒して眞功と欽突の罪を兄・庾信に告発しようとした。この時、欽突は慌てて察儀に賄賂を渡し、彼から宝路殿君の母・宝良に取りなしてもらうよう頼ませ、宝良が政姫を説得したためになんとか事が表沙汰にならずに済んだという事件があった。
しかも、この一件はこれだけでは済まず、649年、欽信は眞功の子・信功を出産し、宝路殿君を棄てて眞功の元に居ついてしまった。眞功は密通を隠すため、「欽信娘主は病だから、離婚してはどうか」と宝路殿君に勧め、さらに庾信の三女・酌光との再婚を提案。宝路殿君がこれに応じたため、眞功は独身になった欽信を妻に迎え、652年、風月主に就任すると、欽信を花主とした。当然この一件には批判があったが、眞功は無視し、欽突を副弟として花郎徒を牛耳った。
眞功がこのように強引な態度を貫けたのは、彼の身分や能力が優れていたのみならず、察儀に代表される伽耶派の察氏一門が花郎徒を支配していたためだったという。特に察儀は欽突と生死を共にすることを誓うほどの仲で、都頭別将の地位でありながら大都頭の職務を代行。それだけでなく、宝良と密通して真徳女王にも謁見し、女王からも爵位を加えられ、寵愛されていた。
風月主を退いた後も、『三国史記』によれば、眞功は武将として三韓一統に貢献している。


大王(春秋1)
ここら辺から武烈王チュンチュとその長男文武王の時代です。


●二十七世風月主時代 <656~662年>
王:武烈王(54~59歳)→文武王(36~37歳)
風月主:欽突(30~36歳。627~681年)
副弟:興元(不詳~681年)
欽突は達福と、庾信の同父母妹・政姫の間に生まれた次男である。兄に戦死した欽運、姉に欽信がいる。欽突は庾信と令毛の娘・晋光を妻としており、政姫の妹・文姫(後の文明皇后)の一番のお気に入りだったという。眞功より五歳年下だが、二人は大変親しかった。
さて、かつて欽突は亡き善品と宝龍の長女・慈儀の美貌を聞き、彼女を妾にしようと宝龍に働きかけたことがあった。しかし、宝龍はこれを拒否。しかも、幾ばくも経ずにその宝龍が誰の子とも知らせずに春秋の子・幢元を生んだため、まさか父親が春秋とは考えなかった欽突は宝龍の醜悪さを噂させ、彼女を恫喝したという。
ところが655年、春秋の即位に伴い、宝龍は春秋の側室として宮主に、慈儀は太子法敏の妃に立てられてしまう。後日の禍を恐れた欽突は、慈儀を廃位させようと、再び人々に慈儀に人徳がないことを噂させた。この時、欽突の味方をしたのが文明皇后となった文姫で、彼女は彼女で法敏が即位して慈儀が皇后となり、その子が太子に立てられれば、真骨正統が復権し、伽耶派が追いやられるのではないかと案じていた。こうして文明皇后は晋光の妹・信光(つまり庾信の娘)を法敏太子の妾にさせ、いずれは信光を皇后にすべく、欽突を暗躍させた。
法敏太子と欽突は対立を深めたが、656年、欽突は眞功の譲りを受けて風月主に就任。しかしこの時、法敏太子と慈儀の間には嫡男・昭明殿君が誕生し、春秋こと武烈王もまた、慈儀の賢明さを愛でていた。形勢不利と見て取った欽突は、一転して宝龍に接近し、娘を宝龍の息子・順元の妾にしてくれるよう頼むも、宝龍は欽突の姦計を恐れてこれを言葉巧みに拒絶。
その後も欽突は宝龍の三女でこれまた法敏太子の妾になっていた夜明宮主や、宝龍の娘婿・呉起に接近していたが、ちょうどその頃、夜明宮主が仁明殿君を出産。仁明は「龍鳳の姿(善徳女王にも用いられた誉め言葉)」であったため、法敏太子は昭明より仁明を可愛がり、欽突は言葉巧みに仁明の家臣となることを願い出た。夜明宮主はやむを得ずこれを承諾し、ここに夜明宮主&欽突の同盟が誕生した。
百済を滅ぼして間もない661年、武烈王が崩御して法敏太子が文武王となると、慈儀は皇后に立てられた。慈儀皇后は欽突の悪行を承知していたが、文明太后のために黙認していたという。

このように欽突は文明太后の下で権勢を手にしたが、その欽突の副弟・興元も腹に一物あった。彼は真平王と太陽公主の次男・好元の嫡男であり、常々好元やその兄・太元が真平王の後継者となれなかったことを怨んでいたのだ。興元は妹・言元を欽突の妾にして欽突に従いながらも、「帝統在己(己こそが正統なる王位継承者である)」と考えていた。
なお、欽突と言元の間には645年に長男・欽言が誕生している。興元はこの甥の正室に自分の娘を入れていた。


●二十八世から三十二世風月主の時代 
花郎徒に大きな影響力を保持した廉長が死去し、その息子である春長も風月主を退任すると、眞功と欽突が風月主であった652~662年の間に、花郎徒は完全に眞功・欽突・興元らの支配下に落ちた。
三人は郎徒を私兵として権力を握り、二十八世風月主・呉起(慈儀の同父母妹・雲明の夫。任期:662~664年)も二十九世風月主・元宣(十九世風月主・欽純の子。欽突のいとこ。任期:664~667年)もそれを覆すことは出来なかった。文武王の母である文明太后が欽突の後見だったからである。
667年に欽突の娘婿・天官(二十三世風月主・軍官の嫡男)が風月主に就任すると、花郎徒と風月主の座は欽突一派のものとなった。三十世風月主・天官(任期:667~674年)、三十一世風月主・欽言(任期:674~678年)、三十二世風月主・信功(任期:678~681年)と欽突の娘婿・嫡男・甥が風月主になり、欽言と信功に至っては興元の娘婿でもあったため、花主には二代続けて興元の娘が選ばれたのだ。

風月主一覧
□二十八世 <662~664年>
王:文武王(37~39歳)
風月主:呉起(30~32歳。633年~不詳)
花主:雲明
副弟:元宣(27~29歳。636年~不詳)
□二十九世 <664~667年>
王:文武王(39~42歳)
風月主:元宣(29~32歳。636年~不詳)
□三十世 <667~674年>
王:文武王(42~49歳)
風月主:天官(29~36歳。639~681年)
花主:欽突の娘
□三十一世 <674~678年>
王:文武王(49~53歳)
風月主:欽言(30~34歳。645~681年)
花主:興元の娘
□三十二世 <678~681年>
王:文武王(53~56歳)
風月主:信功(30~33歳。649~681年)
花主:興元の娘


一方、欽突は後宮政策にも着手し、正室晋光との間に生まれた娘を、665年に文武王の三男・政明太子(後の神文王)の妃とした。けれども政明太子とその母・慈儀皇后はこの太子妃を歓迎しなかった。実は、政明太子には他に寵愛する女性がいたのだ。

○文武王の后妃と子女
皇后:慈儀(善品と宝龍の長女)
 長男:昭明太子――妃:昭明宮(欽運の娘)
 三男:政明太子(後の神文王)――妃:欽突の娘
宮主:夜明(善品と宝龍の三女)
 次男:仁明殿君


慈儀皇后の早世した長男・昭明太子の妃は欽突の亡兄・欽運(655年に戦死)の娘で、武烈王の命令により昭明太子と婚姻した彼女は、夫の死後、自ら願い出て夫を祭る祭主となり、昭明宮と呼ばれていた。慈儀皇后と政明太子はこの昭明宮を度々訪れ、ついに政明太子は彼女を寵愛して理恭殿君を儲けたのだ。慈儀皇后は昭明宮に太子の後宮に入るよう命じ、称号も善明宮と改めさせた。政明太子は欽突の娘ではなく、この善明宮を寵愛した。

そして、三韓統一もなされ、庾信も死去した文武王時代の末、とうとう老齢の文明太后が崩御。最大の後ろ盾を喪った欽突の娘は完全に政明太子の寵愛を失ってしまい、政明太子の外戚となることを諦めた欽突は、ついに夜明宮主とその子・仁明殿君を擁立しつつ、自らの即位を目論むようになる。
謀略を始めたのは、慈儀皇后も同様だった。681年、文武王が重態に陥ると、文武王の勅命と称して、当時護城将軍の地位にあった眞功に代わって、北方から呼び寄せた義弟・呉起を護城将軍に任命したのだ。当然、欽突らと通じている眞功は将軍の証である印符を呉起に渡しはせず、「陛下が病で上大等軍官公の文もないのに、どうして重職を軽々しく人に渡せるか」と反抗。
こうして両軍の対立が激しさを増す中、ストッパーとなり得る最後の人物、文武王が崩御してしまう。長年連れ添った夫の死ではあったが、慈儀皇后はこれを秘し、密かに地方の軍勢を召集。一方で欽突らは夜明宮と上大等軍官の邸宅を制圧して、ついに慈儀皇后と欽突による内乱が始まった。

ここで両者の勢力を整理しておこう。
まず、真骨正統の慈儀皇后サイド。皇后は文武王(享年56歳)との間に生まれた次男・政明太子を擁立し、軍を率いている中心人物は皇后の義弟・呉起(48歳)である。呉起と共に私兵を繰り出して戦ったのは、順知、愷元、幢元(皇后の異父弟。武烈王の子)、元帥(欽純と菩丹の四男。呉起の姉・星喜の夫)、龍元の五人だった。
対する伽耶派の欽突サイドは、文武王と夜明宮の間に誕生した仁明殿君を擁し、欽突(55歳)、眞功(60歳)、興元と、風月主信功(33歳)率いる花郎徒が軍の中心となった。また、文武王の近衛軍にあたる侍衛府の三徒も欽突が手中に収めていた。
これに対して、臣下の頂点たる上大等軍官(69歳)と角干眞福は、実際に乱が勃発するまではどっちつかずだったようである。

さて、欽突らは侍衛府の協力もあって徐羅伐の制圧を果たしたかに見えたが、慈儀皇后サイドの私兵が乱入。驚いた欽突らは文武王のいる王宮に進撃してこれを包囲した。そこへやって来たのが眞福で、彼は囲みを破って欽突らに徐羅伐の外は皇后サイドの軍が制圧しており、欽突らの軍が敗北必至であることを告げた。
実はこれ以前に、欽突らは将兵の心を掴むために、「この戦いは、上大等軍官と角干眞福が受けた、仁明殿君を擁立せよという帝の密勅を果たすための蜂起である」と偽っていた。ところが実際には、軍官は無視を決め込み、眞福は欽突らの軍を破ったため、兵士が混乱し、欽突軍は統制を失ってしまう。
軍官らの協力を得られなかったことを知った欽突は、王宮の包囲を解いて兵を退けようとするも、呉起らが撤退中の欽突らを散々に打ち破って乱を平定。欽突、眞功、興元の「三奸」は捕縛の上処刑され、侍衛府と花郎徒からも処刑者が続出した。『花郎世紀』には書かれていないが、『三国史記』によれば、軍官も嫡男天官ともども「欽突らの反乱を知りながら報告しなかった」として処刑された。
三韓一統と共に隆盛を迎えた伽耶派は、ここに敗北したのである。そして、慈儀皇后と共に戦った五人はそれぞれ上大等・中侍などの高官に至り、呉起の嫡男大問はこの『花郎世紀』を執筆した。

政明太子の即位に伴い太后となった慈儀は、花郎徒の解散と、郎徒らの兵部所属を命じた。けれども地方では依然として花郎徒を求める声が強く、重臣らも花郎の伝統を絶やさぬよう進言したため、風月主制度は崩壊しても、花郎の気風は新羅を長く支え続けたという。




●風月主の家系図
※ものすごく細かいので、パソコンでの閲覧を推奨します。
風月主家系図(後期)
・赤紫は夫婦・正室といった嫡子を持てる正式な夫婦関係、ピンクは妾・側室・宮主などの愛人関係(正式なもの、そうでないものを含む)を示しています。
・緑のラインは真骨正統、青のラインは大元神統、黄土色は俊室&俊華の家系を示しています。
・オレンジのラインで囲まれている人は、風月主経験者です。




以上、長々見てきた『花郎世紀』もついに完結です!(*´▽`*)
いやー長かったです(笑) おまけに日本語訳がない状態で書いているので、我ながら「?」な部分が多いというか、わかりにくいところばかりで申し訳ないです(汗)
最後の方は、ユシンの甥・欽突(フムドル)が大活躍で、反逆者なものですからもーあれこれ言いたいように言われていますが、『三国史記』を見ると、彼はフツーに三韓一統に貢献した一人なんですよね。それが三韓一統がなされるや、嫁姑争いもあり、伽耶派と真骨正統の主導権争いもあり、最終的には慈儀皇后が勝ったという…。
『大王の夢』では勿論ここまでは描かないでしょうし、宝龍や慈儀が登場するかも謎です。ただ、ほとんど同世代の慈儀と欽突の愛憎渦巻く争いは、若い頃には欽突が慈儀を妾にしようとしたという過去もありますし、韓国でドラマにしたら絶対に欽突・慈儀・文武王の三角関係込みで濃ゆいことになりそうな気がしますw

ではでは、これでおしまいです。ここまでお付き合いくださいました方々、本当にありがとうございました~! そろそろSSの更新に戻ります(・∀・)
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  1. 2013.12.03(火) _20:00:00
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