善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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藤原(西園寺)綸子

※日本史ネタです。



貴族社会と武家政権の距離が定まっていない鎌倉時代ならではの夫婦というと、九条道家と藤原綸子が面白いわーと思って調べ始めてはや1年。物凄いスローペースで調べているので、プロフィールを作るだけで偉い時間がかかってしまいました。(『玉蘂』も買った!←)
道家はとにかく書き残したものが多いイメージというか、日記はそれほど残っているわけではないのですが、願文が多くて長いんですよね。そこで息子達にダメ出ししたり、家族を次々に喪う自分の不幸を嘆いたり、一方で仕事面の強運に感謝しつつ、北条氏から疑われている件に関して無実を主張したり、あれこれ語っています。筆マメですな。で、日記には女房(綸子)がどーしたこーしたの記述も結構目立ちます。奥さんがどこにいるかは把握・記録しておきたいタイプだった模様です。
ただ、道家の肉声という面では、百人一首でお馴染み、藤原定家の『明月記』がなかなか興味深かったです。一番印象的なのは、長女の藻璧門院の最期で、彼女が逆子を出産している現場に立ち会った際の、
「片足を出しめおはします」
でしょうか。いくら藻璧門院が危険な状態だったとはいえ、穢れを厭わず娘の出産(それも、すでに娘の長男は即位しているから、道家の今後がそこにかかっているわけではない出産)に立ち会い、赤子を取り上げる位置にいたこと。逆子と知ってうろたえ、隣室にいる人に聞こえるくらいの声で叫んでしまう父親の悲哀。藻璧門院の死後、定家に「夢に藻璧門院が出てきて、歌を詠んだ」と語る件も含めて、道家の憎めない人柄を感じます。

一方の綸子については、定家は43歳の綸子が世間で言うところの「主痩病」にかかって一ヶ月くらい臥せっていた時、
「大北政所(綸子)は、賢いうえに思慮深く、仁義を貴ぶ人物だ(彼御辺適賢慮仁義之人也)」
ということを言っていて、「へー」と思ったんですよねー。定家は結構毒舌で、まー日記でもずけずけ物を申す面倒なじじ…おじいさんで、その定家がこういう誉め方をしているのは、『明月記』をテキトー読みした限りでは見かけなかったもので。なんで定家がそう書いたかを考えると、例えば道家と教実が同時に重病となってなかなか治らず先行きが見えない時、定家から黄門という女房づてにお見舞いを言われても、あれこれ愚痴ったりせずに「心中を察してください」と言葉少なに告げる辺りかもしれません。
あと、この当時絶大な権勢を誇り、綸子の右腕ともいうべき存在だったこの黄門こと中納言局は、なんと平知盛とその嫡妻四条局(治部卿局)の娘なんですよね! つまり、知盛の娘が、源氏将軍が途絶えた後の鎌倉将軍の生母(頼朝の姪の娘)に仕え、権勢をふるっているわけです。こういうところを見ると、源平合戦は壇ノ浦で終わっても、不思議な因縁は続いていたのだなと感じます。

そして綸子と言えば、その動向が鎌倉でわりと注目されがちだったことも特徴的です。例えば、長女に先立たれた綸子は出家を心に決めますが、「関東」が思い止まるよう強く説得して、結果的に出家をやめさせてますし、綸子の死も死因も、その後幕府がどのように弔問の使者を送ったのかも、『吾妻鏡』にバッチリ載っている。(綸子の生年がわかるのも、『吾妻鏡』に享年六十一と記されているからです)
綸子は将軍頼経の母で、公経の嫡女ですから、注目されるのは当たり前っちゃそうですが、綸子の死去当時は道家も生きていたから、北条政子のような権力があったわけではないはずです。それなのに綸子が重要視されている理由が、気になるところですなー。




* *


●略歴
藤原(西園寺)公経の長女。母は公経の嫡妻にして源頼朝の外姪・藤原全子。初名や幼名は不明だが、道家が摂関となってからはその解任後も北政所と呼ばれ、長男教実が摂政に就任してからは大北政所、准三宮宣下の後は准后と呼ばれた。夫の道家も、その日記『明月記』の中で綸子を度々准后と称している。諱の「綸子」は、同時代でも資料によって遍が違っており、共通しているのはつくりの「侖」である。これは、諱の由来が道家の先祖に当たる御堂殿こと藤原道長の嫡妻・源倫子にあるゆえではないかと考えられる。
承元二年(1208)四月二十五日、18歳の時に公経の一条室町亭で16歳の左大将九条道家と結婚する。二人の母は父母を同じくする姉妹、すなわち従姉弟同士の婚姻だった。婚姻に至った経緯は明らかではないが、すでに道家の両親が早世し、祖父兼実も薨去していたことを考えると、この婚姻は道家の叔母宜秋門院と、その夫で道家を可愛がっていた後鳥羽院の意向によるものだったと推測出来る。その証に、公経は後鳥羽院のお気に入りの側近で、院は婚姻を祝して道家に馬も贈っている。後鳥羽院はこの後も十三歳年下の道家を政治的に重用し、当初は土御門天皇に入内予定だった道家の同母姉立子を自身の嫡流と定めた順徳天皇に入内させている。一方で綸子の父公経も婿を丁重に遇し、藤原定家の日記『明月記』によれば隣家に居を構えて頻繁に道家を訪れては二人で懇談するなど、緊密に連携を取っていた。さらに綸子との子女が誕生すると、その外祖父としても重きをなし、権力を獲得していった。承久の乱当時摂政であったために再起不能とも思われた道家が政界復帰を遂げたのも、この公経の力が大きかったと言われている。
このように綸子と道家の婚姻は当時としては比較的一般的ないとこ同士の、それも政略的な色彩の強いものだったが、夫婦仲は良かったらしい。判明しているだけでも綸子は結婚翌年から男子8人、女子6人の計14人の子を分娩し、難産もあったもののなんと第一子の藻璧門院と第十四子の行昭の年齢差は22歳。このため、孫よりも子女の方が若いという例すらあり、例えば第十三子の粟生姫君と行昭は、当時中宮だった藻璧門院に会うために生後間もなく綸子に連れられて参内している。
公的な、すなわち北政所としての綸子はというと、承久の乱以前からかなり厚遇されており、承久二年(1120)正月にはすでに従三位に叙されて、子女が入内したわけでもないのに輦車宣旨を受けていた。道家が乱で失脚してからも北政所と呼ばれ続けているのは、その最たる例だろう。(これには、当時の摂政関白であった近衛家実に嫡妻がいなかったことも関係しているかもしれない。)そして最も特筆すべき事柄は、道家の復帰後、綸子数え43歳の時に准后宣下があったことである。これは、内親王でもなく、天皇の后妃・准母でもない女性に対しての史上最年少の准后宣下だった。ちなみに、道家には後年出家を前に宣下があったものの辞退しているから、道家は始めから綸子のみを准后とするつもりだったと考えられる。なお、嫡妻のみが准后という先例は道家の曽祖父忠通の時のもののみであり、道家には忠通に倣うことで摂関家嫡流を己のものとする意志があったのかもしれない。その後も綸子はスキャンダルもなく夫と子女、さらには孫達を支え、遂には婚家である九条家の財産分与にも大きく関与した。晩年に作成された『九条家処分状』には道家と並んで綸子の署名があり、娘達へは同文をかな文字にした綸子の書状が与えられたのである。
鎌倉から頼経が上洛した年に落飾した綸子と道家は、一緒に東山に隠棲した上に、二人で二女仁子の元を訪ねるなど大概行動を共にしているから、落飾前と変わらず夫婦間の交渉のある生活であったらしい。しかし建長の頃になると綸子は体調不良が目立つようになり、最期は不食の病に罹ってしまう。道家からの知らせを受けた仁子が泊まり込みで見舞うなど、手は尽くしたようだがそれが死病となった。しかも、それが打撃となったのか、百日にもならないうちに道家も後を追うように世を去った。これにより、屋台骨を立て続けに喪った九条家は後退。綸子の子女たちはこの時代には珍しく女子一人を除いて成人したが、承久の乱の痛手から九条家を復活させたような奇跡は彼らの間では起こらなかったのだった。


●生没年
建久二年(1191)~建長三年(1251)11月14日酉刻


●呼称
諱:綸子、[王侖]子、[才侖]子
称号:北政所、大北政所、准后
※出家後の法名は不明。


●住まい
一条室町第(一条東殿、一条西殿など)→東山


●所領・財産
綸子はこの時代の他の女性と同様に独自に所領を持っていた。その所領は道家が晩年に作成した処分状に「准后御領」として名を連ね、子女に分配されている。
ちなみにその処分状は全ての所領分配を記したものと、各々の子女らにあてて個別に作成されたものがあるが、前者の署名は道家の花押のみであるにも関わらず、後者は全て道家・綸子の連名で、綸子も花押、あるいは捺印をしている。このために花押と印判を作成したのか、それとも元々所持していたのかは不明だが、下記の通り綸子は独自に所領を保持していた。ということは、書類に署名することもあったはずで、花押・印判はかねてより持っていたものと考えるのが妥当ではないだろうか。
・一条室町亭……長女の藻璧門院に伝領したが、藻璧門院が崩御し、本来ならその遺領を継ぐべき立場である遺児の[日皐]子内親王も夭折したため、藻璧門院の猶子となった実経に伝領した。
・肥後国窪田庄……これも実経に伝領した。
・播磨国神戸荘……石山尼※から寄進されたもので、領家職三位殿(藤原光兼)が管理していた。嫡孫忠家に伝領された。
・阿波国高越寺……神戸荘と同様に寄進・管理され、嫡孫忠家に伝領された。
・美濃国郡戸荘……元は道家の叔父、九条良輔の嫡妻八条禅尼の所領であったが、石山尼から寄進された。ただ、地頭の中原師員は処分状が作成された頃になると年貢を送って来なかったため、道家と綸子は子細を関東(幕府)に訊ねたが、返事はまだないという。

※石山尼の正体は不明だが、暦仁元年の頼経上洛の際に共に上洛し、さらに道家が個人的に対面していることから考えると、道家、綸子夫妻に近い人物で、頼経の下向時に共に鎌倉入りしたのではないだろうか。


●実家
父:藤原(西園寺)公経<承安元年(1171)~寛元二年(1244)8月29日>
母:藤原(一条)全子<不詳~安貞元年(1227)8月7日>
兄弟:綸子、実氏、三条実親嫡妻、懐成親王乳母、実有、嘉子、実雄、道融、実藤、実材、成子

後に公経が西園寺を建立したため、実氏の子孫は西園寺家と呼ばれるようになったが、生前の公経はまだ西園寺とは呼ばれていない。公経の先祖は後白河院の生母待賢門院の同母兄通季だが、彼は閑院流の嫡流とされながらも早世したために、通季の子孫からは未だに大臣が出ていなかった。公経はそれを常々口惜しく思い、我こそはと考えていたという。しかしながら彼の肖像画からは、とてものことそのような野心家ぶりは感じられない。公経は細面で色白、柔和な顔立ちをしており、父実宗とは全く似ていない。母親似だったのかもしれない。
母全子は道家母の同母妹で、頼朝の外姪である。この血筋は道家と綸子の四男三寅が将軍に選ばれた一因になった。公経の嫡妻となり、綸子と実氏(1194年誕生)と早世した娘の他、恐らくは三条実親の嫡妻などを儲け、諱が判明していることから推測すれば叙位もあっただろう。綸子が婚儀を挙げた他、道家との新居にもなった一条西殿はそもそも全子の邸宅で、全子から綸子、綸子からその子女へと受け継がれた。
綸子37歳の夏、赤痢を患った全子は数十日の闘病の末、七月二十七日朝に北山亭に渡り、翌日明恵房高弁によって出家。娘婿の道家も見舞ったが、八月七日の未刻の終わりに薨去し、東山滝の堂に葬られた。公経は彼らしく至極過差な仏事を四十九日と百箇日に催して世間の顰蹙を買ったという。
綸子の三歳年少の同母弟である実氏は肖像画がなかなか特徴的な人物で、真顔の人々の中では珍しくドヤ顔で唇の右端に笑みを浮かべており、父公経にも増して面長、一重まぶたである。そしてこの笑みが暗示しているように、公経が二十八歳にようやく公卿入りしたのに対して、十八歳の若さで公卿になるという破格のスタートを切った彼は、生涯負け知らずの政治家人生を歩むのである。
道家は絶頂期には息子が関白と征夷大将軍、娘が中宮となって朝廷・鎌倉・後宮の全てを掌握するのだが、晩年にはその全てにおいて苦戦を強いられ、撤退を余儀無くされていく。そして公経・実氏親子は当初は綸子夫妻と、後年は独自にその地位を築き上げ、言い方は悪いが落ちぶれる九条家を踏み台にする形で権力を手にしていくのである。


●婚家
義父:藤原(九条)良経<嘉応元年(1169)~元久三年(1206)3月7日>
義母:藤原(一条)氏<仁安二年(1167)~正治二年(1200)7月13日>
夫:藤原(九条)道家<建久四年(1193)6月28日~建長四年(1252)2月21日>

道家は切れ長の二重まぶたを持つ祖父兼実や、美しい眉に細身の父良経と同じく肖像画が残っているが、二人に比べると切れ味がないというか、特に特徴のない顔立ちをしていたようである。二重まぶたの垂れ目で、大きくも小さくもない鼻、赤く厚めの唇に髭を上品に生やしており、目に付くのは微笑んでいることぐらいだろうか。この父親から絶世の美女が生まれるのだから、世の中は面白い。
さて道家は良経とその嫡妻一条氏の長男である。二人は建久二年(1191)六月二十五日に一条室町第、すなわち後に道家と綸子が住んだその邸宅で婚姻し、以後十年の結婚生活で東一条院立子や道家、教家ら七人の子女を儲けた。ところが七度目の御産の二日後、一条氏は三十四歳の若さで急逝。道家は八歳の少年だったが、不幸中の幸いと言うべきか、一歳の時に彼はすでに兼実の養子になっており、また「尼公」と呼ばれる女人に養育されたようで、後年彼は「尼公」を養母と呼んでいる。一方、まだ若い良経は一年後に松殿寿子と再婚するも、僅か五年余りで頓死してしまう。これは不審死とされ、後白河院や知足院こと藤原忠実の祟りではないかとされた。こうして道家は両親を亡くし、翌年には頼みの兼実も薨去。すでに正二位中納言の高位にあるとはいえ、彼と九条家の将来には暗雲が立ち込めたかに思われた。
しかし彼は後鳥羽院や叔母・宜秋門院に鍾愛され、1歳違いの同母姉立子と共に出世を果たしていく。綸子との婚姻から一年も経っていない承元三年(1209)三月二十三日、立子は東宮守成親王の御息所となり、親王の即位に伴い女御宣下を蒙った後、同五年正月に立后、中宮となった。翌年、道家は二十歳にして内大臣となり、承久三年(1221)四月二十日、彼女が生んだ懐成親王の即位によって、20代にして藤原頼通以来のリアル外戚摂政になるのである。が、ほぼ同時に始まった承久の乱でキャリアはリセットされ、雌伏の期間を過ごす。とはいえこの間の日記にも、彼が宜秋門院、東一条院(立子)の他に修明門院や北白河院らとも交流を持っている様子が記されており、長男教実を表に立てながらも隠然たる権力を持っていたことが窺える。
安貞二年(1228)十二月に三十六歳で関白として現場復帰してからは、長女を時の後堀河天皇に入内させ、長男に関白職を譲り、さらには天皇外祖父にして将軍実父という藤原道長以来とも言うべき摂関家の隆盛を果たしたが、それに留まらず綸子腹の男子を有力寺院に次々に送り込み、ついには皇子が原則であった仁和寺御室の座をも獲得した。しかしながら繁栄も長くは続かず、長女藻璧門院の難産による崩御を始め、長男教実の急逝、外孫四条天皇の崩御などにより権勢を喪っていく。特に壊滅的な打撃となったのは、四条天皇の後継を巡って、自身が推す順徳天皇皇子が敗北したことである。道家は新帝後嵯峨天皇に子女あるいは孫娘を入内させることはなく、天皇との関係は疎遠だった。さらには鎌倉での四男頼経を巡る複雑な情勢によって北条氏からも警戒され、頼経が帰京させられた晩年は、東山での隠居を余儀無くされた。その後も関東での将軍を取り巻く陰謀が道家の差し金だと噂されたり、三男良実との深刻な不和から六男実経を摂関の座にゴリ押しするなど、自身の後継者問題もあり、何かと衆目を集めている。おかげで今もその死には北条氏による暗殺疑惑が付き纏っているが、私的な見方をすれば、道家の死は綸子の死から百日以内のことで、妻の後を追うように薨去したとも言えるのである。



●子女
長女:藻璧門院[立尊]子<承元三年(1209)5月22日子刻~貞永元年(1233)9月18日>
 後堀河天皇中宮。后がねとして育てられ、入内。天皇に寵愛され、四条天皇、[日皐]子内親王の母となるが、第三子の死産により早世。その死の瞬間が藤原定家によって生々しく記録されている。道家や教実、そして誰よりも夫の後堀河院の悲嘆は甚だしく、一年後、後を追うように崩御した。「言ひしらぬほどの美人」(『五大帝王物語』)。
長男:九条教実<建暦元年(1211)1月5日~文暦二年(1235)3月28日>
 洞院の摂政。後堀河天皇関白、四条天皇摂政。綸子の妹・嘉子を嫡妻とする。道家が失脚中も出世し、幼くして九条家を支えたが、ようやく手にした栄華の絶頂期に道家と同時に病に罹り、道家は助かったものの、教実は早世してしまう。道家と綸子はその死を歎き、教実を嫡流としてその子女を養育。嫡男忠家を後見し、長女[女彦]子を四条天皇に入内させた。
なお、肖像画を見る限り、教実は通った鼻筋にはっきりとした二重まぶたが涼しげななかなかの美形である。
二女:仁子<建暦元年(1211)12月か建暦二年1月~不詳>
 道家の妹・菩提院禅尼の猶子。近衛北政所。従一位。二十七歳の時に最新式の嫁入婚でライバル近衛家の当主兼経の嫡妻となり、三男八女を産む。兼経の仁子への愛情は深く、在世中から財産管理を任せた上、兼経の日記には毎日のように仁子が登場、道家と綸子の姿も見え、兼経自身も仁子の兄弟達と交流を持っていた。仁子も夫の愛情に応え、兼経に先立たれた後は近衛家の重鎮として孫の家基や新陽明門院らを後見し、靡殿と呼ばれた。
三女:田中殿→九条禅尼<建暦三年(1213)9月13日~不詳>
 宜秋門院猶子。宜秋門院から九条家の財源となる莫大な所領を伝えられ、自身もそれを教実の長女・宣仁門院を猶子として伝領した。九条禅尼と呼ばれていることから、九条家にとっては本領とも言うべき九条殿に住んでいたと思われる。
二男:円実<建保二年(1214)~文永久年(1272)11月26日>
 別当僧正。興福寺・長谷寺別当。大僧正。幼くして仏門に入り、南京を支配。ただ素行に少々というかかなり問題があったようで、非道の噂があり、晩年の道家からも「家門の為にならぬ不審なことがないということはなく、その行儀についても、また私の恥となるであろうか」と危惧されている。近衛兼経と親しかったのか、彼の日記にも何度か登場している。
三男:二条良実<建保四年(1216)~文永7年(1271)11月29日>
 後嵯峨天皇関白。幼少期は「不当の心操」により道家から捨て置かれたが、十一歳で書を能くするほどの才覚を見せたため、公経から出仕の後押しを得る。教実の死後は道家からも期待を寄せたものの、頼経失脚に関与したとして義絶されてしまう。道家の良実に対する憎しみは尋常ではなく、子々孫々に至るまで良実を許すなレベルのことを書き残している。
この良実もまた、肖像画では美形である。教実に比べると鼻が大きいが、代わりになんと目尻からかなり長い睫毛が描かれており、それが彼の二重まぶたに余韻を残している。
四男:三寅→頼経<建保六年(1218)1月16日寅刻~康元元年(1256)8月11日>
 鎌倉幕府第四代征夷大将軍。入道将軍。乳児の頃に鎌倉へ下向し、将軍に就任したが、成長するにつれ反北条の旗頭として道家ともども警戒され、京に送還されてしまう。しかしその後も不穏な噂は絶えず、息子の頼嗣も将軍の座から降ろされてしまった上、親子ともども早死にしている。道家と綸子は将軍時代、生き別れ状態の頼経の上洛を強く望み、ついに頼経が華々しく上洛して再会を果たすと、在京中に出家した。
五男:慈源<承久二年(1220)~建長七年(1255)7月18日>
 天台座主。無動寺別当。青蓮院。大僧正。舞好きな少年で、幼い頃は禅師御房と呼ばれた。剛毅な性格だったのか、師との激しい口論が記録に残っている。が、出家した息子達の中では最も頼りになる人物であり、素行にも問題がなかったため、道家の失墜後も重きをなした。
六男:一条実経<貞応二年(1223)~弘安七年(1284)7月18日>
 後嵯峨天皇関白、後深草天皇摂政。公経、道家の両者から鍾愛され、[立尊]子の猶子となる。道家からは教実の嫡男忠家の後見として期待され、摂関の座にごり押しされる。義兄兼経の元にはそのごり押しに不満を抱く良実と後嵯峨天皇の声が寄せられており、実経が最高権力と同時にとんでもない反対勢力を得てしまったことがわかる。綸子からは一条室町第を伝領されたが、結局権勢を手にすることはなく、忠家とも後に穏やかならざる関係となってしまう。
実経もまた肖像画が残っているが、彼はびっくりするぐらい兄達には似ていない。細面で一重まぶた、鼻は大きく、鼻以外は完全に西園寺家の血を感じる顔立ちである。
四女:禅門の姫<嘉禄元年(1225)10月4日未時~嘉禎二年(1236)3月頃>
 公経猶子。夭折した。頼経がこの姫の喪に服したことが『吾妻鏡』に記されている。
七男:福王御前→法助<嘉禄三年(1227)閏3月5日~弘安七年(1284)11月21日>
 開田准后。仁和寺宮(御室)。准三宮。道家夫妻の最愛の息子であったため、頼経の猶子として臣下で初めて仁和寺の御室の弟子となり、幼くして准三宮に。准三宮という立場から、道家の葬儀では兄弟の中で一番の上座に座った。子供の頃、籠で小鳥を飼っており、それを巡る逸話が残っている。
五女:香御前?→[イ全]子<安貞二年(1228)6月~建長五年(1253)九月十九日>
 四条天皇尚侍。従三位。「ためしなき程の美人」(『五大帝王物語』)であったため、尚侍として入内したという。藻璧門院亡き後は嫡女とされ、女子の中で最も多くの所領を受け継いだが、両親の後を追うように早世してしまう。琵琶の名手。もし香御前と同一人物なら、熊野参詣を果たしたことがある。
六女:今姫君→栗生禅尼<寛喜二年(1230)1月2日夜半~不詳>
 綸子の晩年、その領地二箇所を譲られ、その時の譲り状が現存している。縁故がないために両親からは将来を案じられていたらしく、尚侍である姉[イ全]子と同居するよう言い遺されている。
八男:今若君→行昭<寛喜三年(1231)5月20日戌刻~嘉元元年(1303)1月5日>
 常住院大僧正。三井寺長吏。天王寺別当。栄華の絶頂期に誕生したため、粟生姫君同様、誕生後間もない頃から参内している。行昭が三井寺長吏に就任したことで、道家の息子達は主要寺院のトップを制覇した。


⚫︎年譜
・建久二年(1191)、誕生。
・建久四年(1193)7月、道家誕生。
・同五年(1194)、同母弟実氏誕生。
・建仁三年(1203)2月13日、道家元服。
・承元二年(1208)4月25日、一条東殿で正二位権中納言左大将九条道家と婚姻。6月20日、行始で京極殿へ。7月9日、道家権大納言に昇任。
・同三年(1209)3月23日、義姉立子、東宮守成親王(順徳天皇)の御息所となる。5月22日、長女[立尊]子誕生。
・同四年(1210)2月10日、修明門院の八幡御幸を見物。9月3日、道家の為に「最殊勝」な吉夢を見、道家感涙する。10月19日、熊野詣より帰京した母全子の元に赴く。
・建暦元年(1211)1月5日、長男教実(牛丸)誕生。1月22日、義姉立子、中宮に立后。8月20日夜、着帯。11月7日、春華門院崩御。道家悲嘆に暮れる。
・同二年(1212)1月、二女仁子誕生。2月7日、道家が二度摂関に就任するという吉夢を見る。6月29日、道家内大臣に昇任。8月20日、中宮立子に皇子降誕がある旨の吉夢を見る。道家と共に、後鳥羽院の熊野参詣を見物。24日にも母全子と共に見物。10月15日、道家と共に一条殿に帰る。12月8日、父方の祖父である入道内大臣実宗、六十四歳で入滅。12月19日、牛丸真菜始。
・同三年(1213)9月、三女田中殿誕生。
・建保元年(1214)、次男円実誕生。
・同二年(1215)12月10日、道家、右大臣に昇任。
・同三年(1216)、三男良実誕生。
・同四年(1217)、3月2日、中宮立子、諦子内親王を分娩。4月28日、教実元服。
・同五年(1218)1月16日、四男頼経(三寅)誕生。10月10日、中宮立子、懐成親王を分娩。11月26日、懐成立太子。12月2日、道家、左大臣に昇任。
・承久元年(1219)6月25日、三寅、鎌倉に下向。
・同二年(1220)、五男慈源誕生。1月8日、雅具の養君である牛王丸、戴餅の儀。1月10日、道家と宜秋門院を見舞う。5月13日、密々に北野社参詣し、広隆寺にも寄る。5月15日、道家と日野寺に参詣。5月23日、道家が博陸に至るという最吉夢を見る。5月24日、小童(円実か)の下向が来春に定まる。
・同三年(1221)1月27日、姫君([立尊]子か)と共に密儀で吉田・賀茂・北野社などに参詣。1月28日、輦車宣旨後初の参内。4月20日、懐成親王践祚(九条廃帝、仲恭天皇)、道家、摂政氏長者に昇任。5月14日、公経、拘禁される。7月7日、道家、摂政を停止される。7月9日、仲恭天皇、廃位され道家の九条邸に渡御。
・貞応元年(1222)3月25日、立子、女院宣下(東一条院)。
・同二年(1223)、六男実経誕生。
・元仁元年(1224)12月17日、教実、左大将に昇任。
・嘉禄元年(1225)10月04日、四女姫君(公経猶子となる)誕生。12月9日、三寅(頼経)元服。
・同二年(1226)1月17日、頼経、征夷大将軍に補任。12月13日、良実元服。
・安貞元年(1227)閏3月5日、七男法助(福王)誕生。8月7日未時終わり、母全子死去。8月13日、著服。11月23日、頗る不例。
・同二年(1228)1月9日、教実室嘉子、彦子を分娩。7月、五女[イ全]子誕生。10月27日、慈源、天台山に入室。12月24日、道家、関白に補任。
・寛喜元年(1229)7月、藤原恩子、教実の子忠家を分娩。9月、持病の邪気に悩まされる。11月3日、[立尊]子、従三位に叙される。11月16日、[立尊]子入内。11月26日、[立尊]子露顕、女御宣下。
・同二年(1230)1月2日、六女粟生姫君誕生。1月24日、[立尊]子、立后兼宣旨。2月16日、[立尊]子、中宮に立后。3月14日、中宮[立尊]子の入内に供奉。3月15日、従二位に昇叙。4月17日、新姫君(粟生姫君)を伴い密かに入内。11月11日、中宮着帯。12月9日、頼経、竹御所と婚姻。12月17日、教実室嘉子、次女を分娩。
・同三年(1231)2月12日、中宮、若宮(秀仁親王)を分娩。3月7日、従一位に昇叙。4月26日、教実、左大臣に補任。5月20日、八男行昭(今若君)誕生。7月5日、道家、従一位に昇叙。教実、関白に昇任。10月28日、秀仁親王立太子。12月9日、道家と共に一条東殿から一条西殿に移御。12月22日、公経、出家入道。
・貞永元年(1232)1月21日、実経元服。4月27日、中宮着帯。9月3日、中宮、姫宮([日皐]子内親王)を分娩。10月4日、秀仁親王践祚(四条天皇)。12月27日、准三宮。
・天福元年(1233)3月23日、主痩病で不例。4月3日、中宮、女院宣下(藻璧門院)。4月6日、所労危急。9月18日、藻璧門院、若宮を死産し、崩御。10月22日、藻璧門院崩御の悲しみから23日に出家する予定だったが、関東によって制止される。
・文暦元年(1234)、良実室麗子、嫡男道良を分娩。3月1日、頼経室竹御所、着帯。5月20日、九条廃帝崩御。7月27日、竹御所、男子を死産し死去。8月6日、後堀河院崩御。
・嘉禎元年(1235)1月10日、道家らと西園寺を訪れる。2月4日、[日皐]子内親王に准三后宣下。2月28日巳刻、教実、病のため摂政大臣を辞任。3月、仁子の婚姻が延引される。3月28日、教実薨去。道家、摂政に再任。10月2日、良実、内大臣に補任。10月8日、頼経との対面を望む。
・同二年(1236)3月、公経の猶子となっていた四女、死去。6月9日、良実、右大臣に昇任。12月7日、諦子内親王、准三后宣下。12月21日、諦子、女院宣下(明義門院)。
・同三年(1237)1月11日、法成寺修正を見物。1月14日、仁子、近衛兼経と近衛殿で婚姻。1月26日、仁子、露顕の儀。3月10日、道家、摂政を兼経に譲り、兼経、摂政に補任。4月10日、小女(恐らく五女)、明義門院猶子となる。7月20日、猶子忠家、昇殿。8月2日、[日皐]子内親王、薨去。12月20日、仁子、長女を分娩。
・暦仁元年(1238)1月9日、仁子長女の行始を見物。1月20日、教実子の尊信、円実の弟子となる。1月23日、賀茂、稲荷、吉田、祇園、北野社などに年首参詣。2月13日、道家邸にて仁子長女の五十日儀。2月17日、頼経入洛。白河にて道家、公経、近衛家実らと見物。2月22日、頼経と一家で対面。2月29日、密々儀で六波羅に赴く。3月1日、慈源、天台座主に補任。3月9日、香御前、熊野参詣の為の精進に入る。3月14日、道家邸にて仁子長女の百日儀。3月22日、頼経が六波羅にて催した仁王八講に道家らと赴く。4月3日、香御前、熊野より帰京。4月7日、頼経拝賀により密々に六波羅に赴く。4月10日、福王、仁和寺に入室。4月11日、嫡孫忠家元服。4月25日、道家出家。6月23日、福王出家。7月17日、法性寺で落飾。戒師は道家と同じく良快前大僧正。7月20日、良実、左大臣に昇任。9月18日、仁子、二女を流産。10月13日、頼経、鎌倉へ下向。12月28日、宜秋門院崩御。三女田中殿、所領を譲られる。
・延応元年(1239)2月22日、隠岐院(後鳥羽院)崩御。5月29日、隠岐院に顕徳院と諡号を送る。7月26日、法助、准三后宣下。10月、仁子、三女を分娩。11月21日、二棟御方、頼経の子頼嗣を分娩。
・仁治元年(1240)2月21日、五女[イ全]子、尚侍に補任。10月20日、実経、右大臣に補任。
・同二年(1241)、仁子、四女宰子を分娩。1月5日、四条天皇元服。12月1日、教実長女彦子、従三位に叙される。12月13日、彦子入内。12月17日、彦子、女御宣下。
・同三年(1242)1月9日、四条天皇崩御。女御彦子と同車し、内裏から退出。1月20日、土御門院皇子邦仁、元服し、践祚。3月25日、良実、関白に補任。3月28日、仁子、五女を分娩。4月14日、良実室麗子、従二位に昇叙。12月18日、女御彦子、良実猶子となり、准三后に宣下される。
・寛元元年(1243)2月23日、彦子、女院宣下(宣仁門院)。3月29日、明義門院崩御。8月10日、久仁親王立太子により、実経、皇太子傅に補任。
・同二年(1244)4月28日、頼経、将軍を辞任。5月1日、仁子、六女を分娩。6月1日、良実、左大臣を辞任。6月13日、実経左大臣に、忠家内大臣に補任。8月27日、父公経(覚勝)薨去。
・同三年(1245)、仁子、七女を分娩。7月5日、頼経出家。
・同四年(1246)1月16日、道家と共に仁子夫妻の近衛殿を訪れる。1月28日、良実、関白を辞任。1月29日、久仁親王践祚により、実経、摂政に補任。2月11日、近衛兼経、一条邸を訪れ道家夫妻に謁見。4月22日、兼経、東山に赴き道家夫妻に謁見。4月23日、近衛兼経、仁子からの男子誕生を請い願文を記す。6月5日、近衛殿を訪れる。10月10日、仁子、長男基平を分娩。12月14日、実経、左大臣を辞任。12月24日、忠家、右大臣に補任。
・宝治元年(1247)1月19日、実経、摂政解任。近衛兼経、摂政に補任。12月20日、東一条院崩御。12月17日、北政所仁子、次男信昭を分娩。
・同二年(1248)、忠家室の三条公房女、長男忠教を分娩。初の曾孫か。
・建長元年(1249)1月23日、北政所仁子、三男を分娩。
・同二年(1250)4月10日、近衛殿を訪れる。10月14日仁子と実氏室貞子が従二位に叙される。11月、道家、処分状を作成。
・同三年(1251)1月22日、仁子、第十一子を分娩。8月11日、仁子、東山に赴き道家の病を見舞う。9月2日、仁子、綸子の病を見舞うため東山を訪れ、一泊する。9月12日、兼経と仁子、東山に向かい、実経、忠家らと対面。閏9月18日、兼経と仁子、道家からの要請により東山を訪れ綸子を見舞う。仁子、二泊する。10月15日、処分状を作成。11月14日酉刻、薨去。
・同四年(1252)2月21日、道家薨去。
・同五年(1253)9月19日、尚侍[イ全]子薨去。



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  1. 2014.07.22(火) _00:00:00
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