善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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(・∀・){御所のボロさは、暗ければわかりませんよ!@統子・雅仁・本仁の髪削ぎ

源師時の『長秋記』をゴシップ日記と酷いあだ名をつけて愛読している管理人。この記事でも、『長秋記』から、太皇太后宮令子内親王の二条堀河御所で行われた、統子・雅仁・本仁の三人の親王の『髪そぎの儀(生育儀礼の一つで、吉日に髪の毛の先を切ってもらうこと)』を取り上げてみました。
このうち、本仁は『中右記』によると前年に五歳で着袴の儀を行っておりまして、その日のハプニングがちょっと面白いです。

●『中右記』より●

1133年の元日、五宮(本仁)の着袴の儀がある日だからと、予定通り、巳時(午前九時から十一時)に院御所に参入した、『中右記』著者の内大臣藤原宗忠(七十二歳)。
ところがどっこい(古)、詰め所にあたる殿上の間に入ると、そこにいたのは大納言源師頼(六十六歳)と、早めに来ていた関白藤原忠通(三十七歳)だけ。他の公卿も殿上人も全然来ていない。(二年前に今宮(雅仁)の着袴が行われた時は、巳時に全員が集まっていたのだから、連絡ミス?)
待つこと暫し、他には誰も来ないと判断するや、臣下のトップたる関白忠通は静かにキレた
 ■
(#゚ω゚)「五宮の御着袴は巳時開始だ。どいつもこいつも遅参してやがるが、この私は毎年元日の今頃に邸で行っている拝礼も振り捨てて参上してるんだぞ。それなのに万人が遅参とは、いったいどういう了見だ?」

文句を言いつつも着袴の儀があるのは間違いないので、殿上で宗忠らとおしゃべりすること数刻(二時間以上。お茶は出してもらえたんだろうか…。←)。
未刻(午後一時から三時)になって、ようやく人が集まって、院への拝礼と着袴の儀が始まったのでした☆



平安の腹黒魔王(?)として名高いものの、意外と感情的な肉声が少ない忠通なので、ここまでイラついてるのは珍しい気がします。まあ四時間も待たされれば誰だって怒りますよね。
しっかし、忠通はたぶん道中ですでに「あれ?」となったでしょうね。あちこちの車で通勤ラッシュ状態のはずの院御所周辺が、日曜祝日のようにスッカスカだったはずですし。そんな中を参上したら、気軽に愚痴を言える宗忠がそこにいたので、愚痴ったんだろうなという図が浮かびましたw

では本題に入りまして、以下、『長秋記』を適当に意訳したものを中心とした、師時いわく「とっても優美」な儀式の様子をお届けします。時は長承三年(1134)、舞台は築十年の二条堀河御所(太皇太后宮令子内親王の邸宅)です。




* *


十二月四日。曇り時々雨。
お召しに依り大宮(太皇太后宮の令子内親王。鳥羽院の准母。五十七歳)のもとに参上すると、女房を通して「明日、院(鳥羽院)がここに渡御なさることは日来辞退申し上げており、宮(令子)が院御所にお渡りになる御予定だと仰せになっておられましたが、巳講の隆覚が申すには、『月夜の陰の儀式でございます。宮の御所の中が放壊しているのは見苦しくはないでしょう。特に、御座や御几帳などは皆伝を尋ねて得ました〈藤原顕頼卿(鳥羽院と待賢門院の近臣。待賢門院の従兄顕隆の嫡男)に借りたそうだ〉。今となっては、上皇(鳥羽院)がこの御所に御幸なさるのに何の不都合がありましょうか』とのこと。院にもそのように申し上げました。ついては、そなたが引出物の沙汰をするように」と仰せになった。


『平安=雅』なイメージが崩れていきますね!(・∀・)←
仮にも大宮の御所なのに、「五日の夜なら(月も沈んで)暗いだろうし、御所の中がボロくてもわからないですよ!」って…オイオイw 『たまきはる』にあった「ホコリだらけの八条院(←当時随一のお金持ち)御所」といい、「必要に応じて綺麗にしたらええんよ(・∀・)」感がハンパないです。って、それでいいのか平安貴族。

さてさて、当日はというと。

十二月五日、雨。
今夜は、院の若宮(雅仁親王。八歳)、前々斎院(統子内親王。九歳)、五宮(本仁親王。六歳)が、御髪をそぐ為に太皇太后宮御所にお渡りになる。上皇(鳥羽院。三十二歳)と女院(待賢門院。三十四歳)も同じく渡御なさるご予定だ。
長くこの儀式があるべきだと言われつつ行われなかったが、申刻(午後三時)に大宮から儀式を行うことを一定した由を改めて院に申し上げられた。よって、直衣を着て大宮の御所(二条堀河第)に参った。
先に太皇太后宮大夫(源師頼。師時の異母兄。六十七歳)が参入なさったので、銀薄様を進めた。すぐにお返しになった。あらかじめ御手本〈絵二巻〉の裏に玉柳の筥を置き、唐組でその中に結んで進納した。劔の袋は唐地の錦を裏組らに改替し、沈地の御劔〈これは高名な劔である。御堂(藤原道長)の御劔だという〉を入れた。


プレゼントに道長の剣!いやー、意外なところで道長の名前がw(記憶遺産おめでとう!(・∀・))
しかし、これは鳥羽院へのプレゼントなんですが、院相手に臣下の剣を贈るってのはどうなんでしょうかね。道長だからあり、なんでしょーか。なんかそんな気がしてきました。←
ちなみにこのプレゼントは大宮令子内親王と師時が相談しながら決めたもので、前日の記事にはこうあります。

斎院(統子内親王)への御料(贈り物)は、下官(師時)の所持している十五番絵二巻で、これは堀河先朝(堀河天皇)の御直筆の和字(かな文字)である。予(師時)は大宮に申し上げた。「裏の銀紙は玉柳の筥に置かれてはいかがですか」と。大宮は「玉柳の筥はこの宮に在る。銀紙はすぐには用意出来そうにない」と仰せになった。「その紙は、明日午時に進上いたします」と申し上げた。


要するに、統子内親王からすると会ったことのないおじいちゃん(堀河天皇)の筆跡をプレゼントしてもらえたんですね…ほっこりします(ノД`)
この辺は意味不明な部分もあるのですが、銀色の薄様とか、唐錦とか、玉柳とか、絵巻になってる文字の御手本とか、それだけで「綺麗だろうなぁあ(*´д`*)」と思えるので、それでよしとしますv←

では五日にもどりまして、続いては御所の模様替えです。

御所は、寝殿の御格子は上げておき、入御の後に下ろすことになっていたが、煩わしいこともあるだろうから橋隠の間とその西の二間を除いて御格子を下ろさせた。ただし、御几帳の帷は外に在る。御車寄せの間は格子を下ろすべきである〈光忠が□□〉。西間を除いたのは、簾中が暗くなるようにする為である。御所の中は所々に薫りを施させ、侍に魚の香りがあれば制止させ、これを停めた。


薫りにうるさい師時。「魚香」って、焼き魚臭いとかじゃなく(←)、たぶん「雅な薫りじゃねえ」ってことなんでしょうが、時期的に冬なだけに、焼き鮭くさい侍たちを想像しちゃいます(・∀・)美味しそうでいいじゃん。←
「わずらわしいこと」ってのは、やはり明るいとボロが丸見えになることなんでしょうか…。←コラ

こうして、ついに御幸の時刻になりました。

夜陰に及び、女房の右衛門督〈予(源師時。五十八歳)の娘である〉が先に参仕した。東廊の妻に車を寄せて下り、入御した。供奉(ぐぶ)してきた女房達は車から下りないことになっていて、ただこの右衛門督一人がお仕え申し上げると決まっているとのことだ。
亥時(午後九時)に御幸があった。前駈の者が西門に入る間に大夫(師頼)と相談して、中門の下に下り立った。(太皇太后宮の)宮司らは衣冠を着て伺候していたが、殿上人ではないので進み出ず、みな侍の前の屏の北辺りに立った。先に上皇が入御し、同車なさっていた宮(雅仁)と五宮も中門廊で御車から下御した。上皇は御烏帽子、宮達は直衣である。中門廊、渡殿などを経て寝殿にお入りになった。(女院の)御車寄所は打板と御屏風・御几帳をいつものように儲けてから、女院の御車を寄せた。前々斎院もお乗りである。宰相中将藤原公教(待賢門院の異母兄実行の嫡男。三十二歳)が召しに応じて御車寄せに参り、奉仕した。女院が入御した後、上皇と宮達が簾中に入御した。


師時のお嬢さんは待賢門院お気に入りの女房だったらしく、熊野参詣のお供の他に、待賢門院の内緒の御幸にも女房でただ一人お供したりしています。
そして、意外にもこの日に待賢門院の兄貴二人(実行、実能)が来てないという(・∀・)オイオイ 公教は待賢門院の甥ではありますが、なんせ鳥羽院と同い年ですし、対面記録が他にないので、その公教に車から下ろしてもらうのはさぞ恥ずかしかったことと思います。
ちなみに、『今鏡』によれば公教は自分のイケメンぶりをよく知ってるタイプで、変色する勢いで香を焚き染めて女房たちから持て囃されていたそーです。ついでに、若い頃にはこの令子内親王の御所に友人と忍び込み、戸締まりされた屋内から聞こえてくる女房たちの様子を盗み聞きして「なんて風流な御所なんだ」と感動したという話もあります。セキュリティは無視してくださいw

上皇が師仲(師時の嫡男。十九歳)を召し、御髪剃の雑具らを進めるようにと仰せになった。師仲は階間を昇り、順次雑具らを進めた。
御手洗には吉方の石と山菅(やますげ)、山橘(藪柑子)などを入れた。また、御手筥の蓋には檀紙(みちのく紙)を敷き、御櫛一枚を入れた。三人の宮の御料は各々このようであった。侍と召仕たちがこの御料を持ち、階の際で師仲が受け取って、順次進めた。本所(太皇太后宮?)より仰せがあって、師仲がこの沙汰を奉仕した。
この後、上皇は手ずから格子を下ろし、女房が御燭を供した〈女房が言うには、畳や御屏風、鏡筥などを西北に押し寄せて格子を下ろし、その後、元のように調度を立てたという。鏡台が傾き倒れたが、鏡は割れなかったらしい〉。
御在所は母屋の御調度の前である。女院は西向き、上皇は北向き、大宮は東向き、前々斎院は南向きにお座りになり、宮達(雅仁、本仁)は庇の御座に並んでいらっしゃった。上皇が碁盤を取って、大宮の御前にお立てになった。次に斎院(統子)がこれに昇り、東を向いてお立ちになった。水などを上皇が大宮に献上され、大宮が(統子の御髪の裾を)剃られた。
終わったら、(統子は)元のようにお座りにになった。次に今宮(雅仁)と五宮がこのように儀式を行われた。


やっと儀式です。
ここで興味深いのは、鳥羽院が格子を下ろしたりあれこれ働いているところではないでしょうか。格子の下ろし方知ってたんだ!という(・∀・)←
統子が母屋で雅仁と本仁が庇なのは、統子が准三宮だからかなと思いますが、こんな夜中に満年齢五歳の本仁がちゃんと座っていられたかは疑問ですね(笑) 東向きに立って髪を切ってもらっている間、真正面にいる待賢門院が子供達がちゃんと儀式を終えられるようなだめていたのかもしれません。
また、この時母屋にあった調度は由緒正しいものでした。↓再び前日の記事より。

寝殿の御装束を見た。御帳台の前の庇調度はいつもと同じだった。ただし龍鬚の上に唐錦茵を敷き、上皇の御座として設けてあった。御帳台の西二間はいつもと同じように母屋の御調度を立てた。ただし内筥は御厨子の西に並んで立てた。(中略)この内筥は普通の調度ではない。これは後一条院が造らせ、二条院(後一条院の長女・一品宮章子内親王)に(裳着のお祝いとして)献上されたものである。二条院が菩提樹院(後一条院の墓所)の土地代として京極大殿〈藤原師実(忠実の祖父)〉に渡され、大殿(師実)がこの宮(令子内親王)に献上されたのである。(略)
(大宮は)後出家以後、御几帳の帷には青鈍色を用いていたが、今度は吉事であるので、朽木形を用いられた。これは下官(師時)が申し上げ行ったことである。


調度のことは『栄花物語』にも載っていて、調度品の伝わり方的な視点からも面白いです。鑑定団でもお宝の伝わり方って重視されますし。←そこ?
では話を儀式の後に戻しまして。

儀式が終わった後の御対面は数刻(二時間以上)に及んだ。今宮(雅仁)に急な事があってお出になられたので、上皇が師仲を召して扶持させた。下官(師時)は殿上の燭を取って(今宮の)前を行き、この壺の中にお入れし奉った。事が終わると、また還御なされた。小門大壺が用意するべきだろうか(?)
この後、大層長い時間が経ってから、上皇が師仲を召して(御髪剃の)雑具らをお渡しになった。師仲は順次受け取り、元のように侍らに渡した。次に中央の間の御格子を上げて、上皇は御絵を取って女院の御車にお入れになった。
大夫(師頼)は西の戸口で御劔を取って、庭に下りて師行(師時の子)に授けた。下官は御琵琶を取って、藤原親隆(待賢門院の母方の従兄で側近)に授けた。出御の後、車を召して女子(右衛門督)を乗せた。その後、退出した。
供奉した上達部は、大納言は藤原頼長(実能の娘婿)、中納言は藤原伊通と藤原顕頼、参議は藤原経忠(鳥羽院の乳母夫)と公教と実衡(待賢門院の従兄)らである。
今夜の儀式は甚だ優美であった。


トイレに行った記録のある親王ってのも珍しいw しかも、後の後白河院かと思うと、なんかこのあどけなさがより可愛く見えます(笑)(それにしても、大宮が待賢門院もと呼んだにしても、真冬(今の暦で12月22日)の夜中に何時間も喋るんか…)
琵琶や剣については、前日条に

指図はなかったが、御琵琶を一面、女院に進上される予定である。ただし袋はないという。予(師時)は「袋がないというのは穏便ではないのではないでしょうか。関白(藤原忠通)などにお尋ねになるべきです」と申し上げた。また、「上皇に御劔などを献上なされるので選び申すように」と仰せがあった。劔は五つ六つあったが、沈地水精束の御劔が尤も吉であるので、その旨を申し上げた。


とあるので、待賢門院は琵琶も弾いたんでしょうか。箏はプロ級ですし、意外と音楽に堪能な人だったのかもしれません。



日記はこれで終わりです(・∀・)
最後に、自分が主催したも同然の儀式を「今夜の儀式はとても優美だった(だって有能な俺が指揮したんだからな!)」とドヤ顔で締め括った師時に感謝して終わりますw



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  1. 2013.07.11(木) _20:00:00
  2. 待賢門院藤原璋子
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