善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

.

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --.--.--(--) _--:--:--
  2. スポンサー広告
  3. [ edit ]

ピダムを敗走させた男。 by『花郎世紀』

『花郎世紀』を読んでたら、ピダムの乱についての記述があったのでメモメモ。

<原文>
時國事漸劇
公與諸郎頭率郎徒
親習弓馬
拔其萃者以補兵部
公居位五年
郎政多敀武事
善徳帝疾大漸
毗曇·廉宗謀反
庾信公奉新主督戰
時京師兵少
公盡發郎徒
先突其陣
毗曇敗走亂平
公以功擢爲護城將軍

詳細は続きにて!


* *


ちなみにこの文章はどこにあったかと言うと、二十四世風月主・天光(チョングァン……でいいのかな)のところにありました。

●天光のプロフィール●
生没年:615?~?年
風月主任期:643~647年(ピダムの乱は647年1月)
父:水品(633~645年に上大等を務める。次の上大等がピダム)
母:天長(十七世風月主・廉長の妹で、ヨンチュンの異父妹)
妻:尹華(廉長と夏姫の娘)
業績:郎徒制度を改革し、673年には中侍に任命されました。
家系図:
           真智王
┌───興道娘主    ∥─龍春公…春秋公(武烈王)
│     ∥────智道王后
│善兮王后┬起鳥公    ∥
│    └両花公主   ∥┬廉長公
│     ∥─月華公主 ∥└天長公主
│<大伽耶>異脳王 ∥┬天柱公 ∥
│       真興王└徳明公主∥─天光公
│       ∥ ∥  ∥  ∥
│       ∥ ∥ 秘宝郎 ∥
│       ∥──般若公主 ∥
│       ∥ ∥  ∥─水品公
│       ∥ ∥┬仇輪公
│       ∥ ∥└銀輪公主
│未珍夫公   ∥ ∥  ∥─夏姫娘主
│  ∥─美室宮主───夏宗─柔毛娘主
├妙道娘主     ∥     ∥
└───────思道王后   庾信公

真骨正統と大元神統で言うなら、明らかに大元神統の申し子である天光公ですが、月華公主は月光太子の同父母姉妹なので、大伽耶最後の王・異脳王の子孫でもあります。また、ユシンやチュンチュとも家系的にちょっと関わりがあり、彼がピダムの乱の際にユシンに味方したと言うのは、わかる気がします。

ではでは、ピダムの乱について書かれている部分の話を!


<原文をなんとなく訳してみる>
※原文ではわかりにくいので、まず旧字体を普通の漢字に直して、アバウトに訳しました。善徳女王に出てくるキャラは名前をドラマの通りにしています。

時国事漸劇
時に、国事は漸劇していた。(この頃、新羅は百済に幾つもの城を奪われるなど敗色が濃かった。)
公与諸郎頭率郎徒
(天光)公と郎頭達は郎徒を率い、
親習弓馬
弓馬に親しんでそれを習い、
抜其萃者以補兵部
そこから何人かを抜擢して兵部に補充することもあった。
公居位五年
(天光)公が風月主の地位にあった五年の間は
郎政多故武事
武力(増強)の為に花郎の制度が変わった。(?)
善徳帝疾大漸
善徳帝(トンマン)の病が段々重くなると、
毘曇・廉宗謀反
ピダムとヨムジョンが反乱を起こした。
ユ信公奉新主督戦
ユシン公は新たな主を奉り、軍を指揮した。
時京師兵少
この時、徐羅伐には兵が少なかった。(ピダムは徐羅伐の東の守りである明活山城を占領している。)
公尽発郎徒
(天光)公は全ての郎徒を動員して
先突其陣
ピダムの陣に突撃した。
毘曇敗走乱平
その為にピダムは敗走し、反乱は平定された。
公以功擢為護城将軍
(天光)公はその功績を讃えられて、護城将軍に任命された。


……と言うわけで。
ちょこっと時代背景を話しますと、天光が風月主になる直前、642年7月に新羅は百済に大敗を喫して、40以上もの城を奪取されています。さらに同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城を、百済が大耶城を陥落させたりと、百済(と高句麗の連合)の前に、トンマンは難局を迎えます。
天光が風月主になったのはちょうどこの次の年の643年です。新羅の危機を前に、上大等の水品を父に持つ天光は、軍事面の強化を図る為、花郎のかつてないほどの武力増強を目指します。(水品はトンマン即位の翌年に上大等に就任しており、政治的なパートナー、あるいはこの当時の政府の頂点に立っていた人物と見ることが出来る)

※また、鍛え上げられた郎徒が兵部に帰属したことを見ると、花郎が軍事組織ではなかったと推察出来ます。

天光が花郎と郎頭、郎徒を鍛え上げる一方で、宮中もまた揺れます。643年9月には唐に救援を求めた結果、「女を王に迎えていることが全ての元凶である。唐の王族を新羅の王とせよ」と足元を見られてしまい、644年一月にはなんとか唐から高句麗へ警告を発してもらうことに成功するものの、高句麗のヨン・ゲソムンには跳ね除けられてしまいます。
644年9月に大将軍となったユシンが百済から7つの城を奪い返しますが、百済との戦争は続きます。645年5月には、唐の太宗(李世民)が高句麗を侵略するのに合わせて援軍3万を派兵しますが、手薄になったところを百済に狙われ、またしても7つの城を奪われます。
そんな中、645年11月にピダムが上大等に就任。(水品が隠居、あるいは死去したのか、それとも退任に追い込まれたのかは不明)

ここから、今回わかったことも含めて諸々の記述を総合すると、

646年末頃からトンマンの病が重くなる。
647年1月にピダムとヨムジョンが「女主不能善理」として蜂起するも、王宮である月城は占領出来ず、明活山城に陣を構える。
ところが乱の渦中である1月8日にトンマンは崩御。狼山に葬られる。
その為、ユシンは新たな王(スンマン。真徳王)を奉じて戦おうとするが、寡兵の為に苦戦。
天光は自ら鍛え上げた郎頭と郎徒を率いてピダムの陣に突撃し、意表をつかれたピダムは敗走。
正月17日に乱は平定され、ピダムを始めとする20人以上が処刑される。
スンマンが即位し、アルチョンが上大等に就任。天光は功績を讃えられて護城将軍に任命され、風月主の地位は春長(廉長と夏姫の息子。天光の従兄弟であり、妻の兄弟)に譲る。


って感じでしょうか。
わからないのは、『花郎世紀』にはこの後チュンチュの息子である文武王の代になって反乱を起こして処刑された人も(風月主になったからと)記載されているのに、ピダムに関しては情報がないんですよねー。ヨムジョンについても。
真徳女王のwikiには「女王を廃そうとする親唐派の花朗徒(ファランド)の内乱を鎮めた立場から擁立された真徳女王」って書いてある以上、ピダムのことが『花郎世紀』に書かれていてもおかしくないと思うんですが……って言うか、『花郎世紀』には花郎の主・風月主が女王派と書いてあるんですが、wikiの↑の記述はどっから来たんだー?
関連記事
スポンサーサイト
  1. 2011.01.25(火) _00:20:56
  2. 新羅歴史談義?
  3.  コメント:0
  4. [ edit ]

<<1月24日に頂いたコメントへの返信 | BLOG TOP | 1月22日に頂いたコメントへの返信<追記>>>

comment


 管理者にだけ表示を許可する
 




PAGE
TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。