善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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何故ピダムは、死に物狂いでトンマンに恋をしなければならないのか。(※プチ追記)

そろそろSSを更新しろとお思いの方も多いでしょうが、すみません、まだ語りますー(汗) なんかスイッチが切り替わっちゃいまして、今はSSを書けそうにありません…orz
でもせっかくの機会なので、妄想に思考を費やさず、頂いたご意見を理解する方へ費やしたいと思います。



古臭い考えではありますが、本来、一人の男が大人になるにあたって必要なのは、生涯を懸けられる仕事と、生涯を共にする伴侶だと私は思っています。そして、脚本を見るに、善徳女王はそこのところをちゃんと意識しているような気がします。

まず、ユシンは最初にトンマンを伴侶に選んだけれども、それは彼が生涯を懸けている仕事(新羅の将軍であり、伽耶の王族の使命)を捨てることも意味していました。しかし、ユシンは全く別の仕事を選べるような、器用な性格ではありません。だから、ユシンがトンマンと駆け落ちしきれなかったことは、あれで良かったと思えますし、ユシンが公私混同を許さぬ性格で、トンマンがニブニブで恋愛感情と言うものをよくわかってない女である以上、ケジメをつけ、公の部分に害がないようにする為にも、ユシンは王を伴侶には出来ず、二人は上手くいかない。ただ、ユシンも若く若く青臭い男(強調w)ですから、理性でそう思っても、頑張って自制しても、どこかで諦めきれず、思いが燻っていた。
けれども、その思いがミシルの乱と、ヨンモの妊娠を通して変わっていき、女王時代のユシンが出来上がったのだろうと思います。

一方のピダムも、ムンノと対立してまで、生涯の仕事を宮中に求めましたし、実際にそこでは彼の能力は日の目を見ました。
ただ、ピダムには、トンマンとは対照的に、世の中を侮り、何もかもを深く考えないと言う欠点があります。腕っぷしが立ち機転が利き、人の恐怖心を感じ取ることの出来る彼は、これまであまり熟考や用心をせずとも、なんだかんだと誰かを従わせ、自分の望むように物事を果たせたからです。
が、宮中はそう甘くなかった。例え下っ端貴族でも、彼らとて数多の人間を意のままに動かすしたたかさを持っている用心深い生き物で、一見ピダムに忠実でも、突然牙を剥いてくる。トンマンは用心深いので彼女に従っていれば大丈夫でも、ピダムはトンマンに甘えて用心深さは養わず、深い覚悟もなく中途半端なまま宮中に入った末に、あらゆる人から、仕事や女に対する見通しの甘さを指摘されます。そうしているうちにミシルの乱が起き、その結果に耐えきれずに蒸発しようとしたところをトンマンに連れ戻され、反射的にチルスクから彼女を護った後、ピダムはようやく真剣に悩みます。何に対する覚悟も信念もないまま宮中にいても、自分では上手くやったつもりが流されてしまうと言うことを、朧気ながら悟ったからです。
んで、考えた結果、ユシンが最終的には仕事(信念や公的な立場)から伴侶を選んだのに対して、ピダムは、51話で彼を抱きしめ慰め無理矢理連れ戻した上に、彼の為に仕事まで用意して「いいか、逃げんじゃねーぞ!」と可愛い顔して怖すぎるプレッシャーをかけてくるトンマンの暑苦しさを「トンマンは俺が気になるんだ。抱きしめてくれるぐらい愛情があるんだ」と彼の狭い了見で判断して、「それなら、俺がミシルのように力をつければトンマンは俺を誰よりも頼るようになって、惚れてくれるだろ。異性なら、結婚すんのが当たり前だし」と密かに盛り上がり、ソルォンさんとかに間接的に焚き付けられたこともあって、トンマンに惚れ直した。
例え、トンマンとしては「使える人材に逃げられて堪るか!」と言う気持ちが大だったにせよ、ピダムはトンマンの熱い慰留を無意識の愛情だと感じ(愛情について細かい違いがわかるヤツだとは思えませんw)、彼女を生涯の伴侶と勝手に認定し、公私共にパートナーとなるべく、最終的な出世の目標を「トンマンと結婚出来る地位」と決め、仕事を決めた。(←この辺の考え方がちょっとソルォンさんに似てるのではないかと勝手に推測。ただ、ソルォンさんと違って、ピダムは頼られはしても複数いる愛人の一人とかではなく、いずれはトンマンと両思いになり、唯一無二の夫婦関係を築きたかった)

……のかなーと、そんな風に見ています。んでもって、ユシンもピダムもそうやって仕事と伴侶を51話で決めたから、以降の二人は欠点はあっても、あくまで大人の男であって欲しいと思うのです。
そして、ツンツンユシンの愛を全く感知しなかったニブニブトンマンは、やはりピダムの場合も54話にてキレキレピダムに抱きしめられて、ようやく「えっ!? 何このデジャブ!」と吃驚し、悩んだ結果、体調が優れないこともあってか若い時と違って寂しくて寂しくて仕方なくなり、政略的にも好手だからとピダムを受け入れた。それが愛かどうかはわからないまま、ただ、ピダムなしでは生きていけずに死んでいった。(私は、ピダムが「トンマンの心」だから、彼が死んだ時トンマンも死んだのだと思ってますw)


話が脱線しましたが、さて、コメントを下さった方の中には、何人か、ナムさんが狂おしいばかりの恋情よりも、愛への不安を捨てられない少年としてのピダムを演じたことを評価していらっしゃる方がいらっしゃいました。
それぞれのコメントへのお返事はすでにしましたが、改めて、何故「ナムさんは女王時代、何を置いてもまず死に物狂いで恋するピダムを演じなければならなかった」と思うのか、纏めておきますー。


* *


何故そう思うのか、理由はただ一つです。
ナムさんが死に物狂いでトンマンに恋をし、執着し、欲するピダムを演じてこそ、ピダムを含めて、皆の役が、いい役になるからです。

と言うわけで、もしピダムが死に物狂いでトンマンに恋をしていなくて、それより親世代への未練や愛への不安をより大きく抱いているキャラだとしたら、全員の行動がどういう風に見えてしまう可能性が高いか、書いていきます。

・トンマン→情緒不安定な子供のような年上男のワガママに安らぎを覚え、キレた子供の抱擁にときめき、自ら選び取った使命よりそちらを優先させかけた。人生を懸けて求愛してくれたユシンをフっておいて、自ら選ぶ男がそんな男とは、男の趣味が悪すぎる。ピダムが恋をしているなら、熱烈なその気持ちが54話の抱擁を通して弱った心身を揺さぶった為にときめき、ピダムに寄り掛かる選択肢を考えてしまうと言う女心が理解しやすくなる。
・ユシン→あれだけ熱烈に愛し、今も穏やかな愛情を寄せているトンマンを、恋心より愛への不安が大きいような子供っぽい男に、大きな葛藤もなく、「彼女を頼む」と預けた。見る目がなさ過ぎるし、そんな男に負けたことを何とも思わないなんて異常では。
・チュンチュ→知略を自慢しておきながら、情緒不安定な子供に過度の恐れを感じて舌鋒鋭くその心を抉り、ピダムは悪くないと知りながらも反乱へと追いやったなんて、器量が小さすぎる。ピダムが恋に狂い、その恋心にトンマンがほだされたのなら、チュンチュの暴走は唯一無二の女を奪われた故の男の嫉妬にも見えなくもないが、ピダムが恋に狂ってないなら、単に同じ子供キャラに叔母さんを取られてムカついた子供のようにしか見えなくなる。
・ソルォン→56話で「ピダムは私に似てしまったようだ」と、愛と生き方について語っていた以上、ピダムが母性愛を求める少年演技をしたら、ソルォンまで大人の男から少年に格下げになってしまう。あんまりだ。
・アルチョン→お説教キャラであり、王たるトンマンに命懸けで忠義を誓うキャラでありながら、子供っぽく恋心より愛への不安が大きい、まずは妻より親代わりの人間でも用意した方が良さそうな男を、多忙極まる女王の夫にすることに何の異論も挟まないと言う、中途半端なキャラに。
・ピダム派の貴族→ただの情緒不安定な子供を、恋に狂って女王をモノにする為なら何でもする男と勘違いした上、その子供にカリスマ性を感じて畏怖し、作戦立案や戦いの指揮をまるっと任せると言う、アホすぎる設定に。
・ピダム→中年になっても惚れた女をモノに出来なくて焦れたり愚図ってるどころか、中年になっても思春期の悩みを引き摺る、恋すらまともに出来ない男になる。しかも、氷のようなトンマンを揺さぶる大人の男の色気もないと言う設定に。

……この話が、設定が、果たして死に物狂いでピダムが恋をした場合より、大衆受けが良かったり、キャラクターに深みがあったり、あるいは何かしらの強烈な萌えがあるのでしょうか。ナムさんの立場や年齢を考えても、母性本能をくすぐる役を目指すより、老け演技なんて出来なくていいから、国をも飲み込む情熱と狂気の恋をする役を目指す方が、よっぽど有意義だと思うんですが、これは私の思い込みなのでしょうか。

また、『SS 太一』は、出来映えは赤面ものなので私としては恥ずかしいばかりですが、このブログで最も拍手が多かったSSです。
そのSSで登場したピダムは、死に物狂いでトンマンに恋をし、トンマンを自分一人のものにする為ならなんだってする、と言うピダムです。トンマンに「やめろ」と拒まれてもしがみつき抱く、いずれトンマンが「愛してる」と言うようになるまで決して諦めない、そう言うキャラです。
そのキャラがウケたのに、ドラマのピダムには死に物狂いで恋するキャラを要求しないし、ドラマ的には、死に物狂いで恋をしない演技で良かったと言うのは、おかしいと考えざるを得ません。第一、死に物狂いで恋してない少年ピダムがいいなら、私のSSに多少は違和感を覚えるはずです。私のSSでは、ムンノもミシルも、トン&ピが互いへの理解を深める為のオマケに過ぎないからです。


また、まるでナムさんの演技を丸ごと否定しているように取られるのは、本意ではありません。(言葉足らずですみません。汗)
私が見る限り、ナムさんが演技をする際に、絶対に頑張らなければならない――つまりは、ナムさん個人の演技力なり熱意なり気迫なりが、ドラマの出来を、ひいては共演者の演技の評価を大きく左右するシーンや流れが二つあり、それが、女王時代のトンマンへの恋心と、チルスクとの立ち回りでした。恋心は上記の通りですし、立ち回りは武人キャラにとって最も大切なシーンです。
毒記事で書きましたが、自分や大事な人の生死がかかった際の立ち回りは、武人キャラ、ひいては若手役者の最大の見せ場なんです。最悪、多少下手でもいいので、尋常ではない気迫や狂気を見せなければ、時代劇として締まりがなくなります。普段の芝居をする時と同じテンションではいけないんです。
ヨウォンさんも、序盤の百済戦の時、立ち回りが上手いとは言えませんでしたが、基礎を積んでから撮影に臨み、ヒステリックなくらいに躁鬱のある、ハイテンションな演技をしました。それぐらいしないと、人の生死が軽くなり、話も、ドラマも軽く感じられてしまうからです。

ピダムは最強キャラの一人ですから、年がら年中余裕のないユシンと違って、命の危険なんて感じていない余裕綽々な態度の立ち回りが多いです。
だからこそ、数少ない強敵であり、本気でトンマンが身の危険を覚えるチルスクのような相手に対しては、それこそ死に物狂いで戦わないと、彼のトンマンへの気持ちの大きさも、チルスクの強さも、わからなくなります。
チルスクが死ぬシーンはユシンも大事でしたが、「あのピダムが死に物狂いで戦っている」と印象付けないことには、チルスクの行動や死の意味が全て曖昧になる。ユシンとチルスクは何度も戦い、その度にチルスクが圧倒的に強く、ユシンはひたすら粘ると言う設定がありましたが、ピダムはそこら辺がはっきりしていなかったからです。

前半戦のピダムの軽やかな演技とか、色んな表情とかは、確かに目は引きますし、上手く演じていると思います。でも、それはドラマや共演者の出来を大きく左右しない事柄です。女王時代のピダムの腹黒老け演技も、つかず離れずいるヨムジョンなりミセンなりソルォンなりが彼らの受け演技の巧みさで補えるものです。
それらに対し、女王時代のトンマンへの恋心と、チルスクとの立ち回りは、絶対にナムさんが頑張らなければ、破綻するものでした。トンマンとチルスク、その他皆の為に「一人の男としてのピダムの芯にあるもの」を表現する上で、大事なシーンでした。だから、そこを重視して、そこの演技に熱さが感じられなかったことを批判しています。


ちなみに、私がチュンチュ役のスンホくんのことを「いい役者さんだなぁ」と思う理由の一つは、ドラマの終盤、「恩知らずなことに、それまで彼のことを命懸けで守ってくれた女王たる叔母(主役)に対して、その恋人を彼女への反乱へと追い詰め、さらに彼女にも恋人を殺すよう何度も迫る」チュンチュと言う役を、悪役にしか見えない演技で見事に演じていたから、だったりします。
なんちゅうか、何回か思いましたが、スンホくんはよほど評価が高いのか、16歳にして、ホントにえらいハードルの高いことを要求されてるなと。

考えてみれば、ノベライズのチュンチュは、よくある『反抗期だけど、可愛い恋人や周囲の人達によって改心する、結局は善玉の役』でした。つまり、スンホくんが引き受けた時のチュンチュは、そう言う役だったはずです。
でも、いざドラマを撮り始めたら、そこには、悪役にならなかったピダムの代わりに、悪役となっているチュンチュがいました。誰か他の悪役キャラを用意し、その人にチュンチュを操らせてもいいのに、女王時代、そう言うキャラはヨムジョンも含めてチュンチュの周囲からは消えて、スンホくんは一人で悪役をこなしていた。せめてもの言い訳になるような恋人とのラブシーンもなく、最終回では遺言シーンもカットされ(未だにこのカットは許せませんw)、若いスンホくんのイメージアップをメインとするシーンはない。
56話で一人復耶会に置いていかれた時も、トンマンは打てるだけの手を打つと言う見せ場がありましたが、チュンチュの「崖っぷちのあの状態を打破して復耶会を味方にする」と言う見せ場はありませんでした。ユシンやピダムの立ち回りと同じく、彼の最大の武器である『舌先で人を動かす交渉術、説得術』は、あのシーンでこそ発揮すべきで、そのシーンを見せてこそ視聴者はチュンチュの器量を知ることが出来るのに、まるっとスルーされてしまった。
そしてチュンチュの最大の武器であるその技術が最もクローズアップされたのは、60話でピダムを追い込む時です。
同じように技術を、器量を見せるにしても、神国を救う為に復耶会を口説き落とすのと、「ピダムに反乱の意思はないが、私の即位には邪魔だから消えてもらう」とピダムを追い詰めるのでは、全く受ける印象が変わります。

だから、もし脚本が悪くて役者が損をしていると言うなら、誰よりも損をしているのはチュンチュ役のスンホくんです。彼こそ、女王時代の脚本がチュンチュをあれだけ恩知らずの悪役にしか見えないように描いたにも関わらず、文句も言わずに、一番損な役回りをきっちり演じきった見事な若手役者だと思います。

と言うわけで、脚本で損をしたと言う話をピダムに当てはめる場合は、彼がいったいどの点において、チュンチュ役のスンホくんより損をしたのか説明して頂かないと、私は納得出来ません。

こう言う意見も世の中にはあるんだな、と思って頂ければ幸いですー。





●オマケ●
昨日のメモを、ぺたり。

お返事を書いていてふと思ったんですが、最終回のピダム無双のシーンは、とても神話的です…って、書いてなかったなと。
どこが神話的かと言うと、あそこでユシンは、トンマンの身体と女王としての立場を護る為にピダムを刺すことで、トンマンの心を刺し殺したからです。

あのシーンは色んなキャラがいましたが、大事なのはトンマン、ユシン、ピダムでした。
何度か「ピダム無双のシーンはトンマンのシーン」と書いたように、あの時、ユシンは女王としてのトンマンを象徴し、ピダムはトンマンの心を象徴していました。トンマンが見つめていたのは、自分の中でほとんど一つになっていた、「女王としてのトンマン(=ユシン)」と、「一人の人間としてのトンマン(=ピダム)」の戦いだったんです。
その二つが、互いを憎まず、互いを認め合いながらも刃を交えている。ピダムが降伏しなかったように、トンマンの心は、もう女王としてのトンマンに屈することが出来ないほど強くなっているけれども、ピダムが一人きりで斬り込んできたように、トンマンの心に味方し、戦ってくれる人はいない。
ピダムが血を流し戦っていくのと同時に、トンマンの心も血を流している。仲間で、自分の味方であるはずの者達に斬られ、ボロボロになっていく。
そして、最後にアルチョン、ユシンがトドメを刺した。女王としてのトンマンを護る為に、トンマンに忠義を誓い命を捧げた男と、トンマンを愛し続けている男が、トンマンの心を殺す。

そこには、悪意は一つもなかった。誰かを不幸にする為に戦っている者は、誰もいなかった。
でも、トンマンの心は死んだ。彼女が生み育てた「女王としてのトンマン」が、「一人の人間としてのトンマン」を殺した。
かつて、トンマンを助ける為に息を合わせて戦った男達は、トンマンの為に生き続け、トンマンを殺した。
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  1. 2011.07.11(月) _18:28:54
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  3.  コメント:3
  4. [ edit ]

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comment

緋翠様の反応が気になって…

  1. 2011/07/11(月) 23:39:18 
  2. URL 
  3. あつ 
  4. [ 編集 ] 
久々に家のPCでお邪魔しました~!…ならいつもは?って突っ込みはこの際、しないでください~。(笑)

さっき脚本のどこが不満について長々書いたので、ここは少しで。何人かいたということならば、少なくとも私はナムギルが脚本のせいで損をしているとは思っていません。もっとも、得をしたとも思っていません。

私は、一般的に、悪役だから損というわけでもないと思うし、かっこいい役だから得というわけでもないと思うからです。悪役だって、その人が何故そんな悪の道に走ったのか(あるいは悪い選択をしたのか)きちんと描かれていたら、観客も悪役を憎み切れず、結果としていい役だったと言えるでしょうし、反対にいい人の役でも同じです。もちろん、変な人の役等々、どんな役でも損な役回りはないと思うのです。強いてそういう役回りがあるとしたら、それはドラマにとっていてもいなくても良い役回りだと思っています。

だから、チュンチュの役もそれほど損したとも思っていません。確かに、チュンチュに「王位をスンマンに譲れ」のシーンは、その後の新羅の未来を予感させるためにも必要だったように思いますが、善徳女王の中心人物をトンマンと前半のミシル、後半のピダム、そしてユシンとするならば、どうしてもチュンチュはその次です。その次の世代を担う人という意味で最重要人物ではありますが、「善徳女王」という物語自体ではどうしても次にならざるを得ないかと思います。

それは、ユ・スンホ君の演技がどうこうではなく、話の中心をずらすべきではないからです。確かに、チュンチュの設定からしても復耶会を説得するシーンは、チュンチュがどう説得したのか、チュンチュの見せ場でもあり得るし、個人的に私がとても見たいシーンではありますが、もしそれをしてしまうと、このドラマは「善徳女王」ではなく「武烈王」になってしまうと思うのです。きっと、歴史書なら書かれていたことでしょう。しかし、このドラマはあくまでも善徳女王の話なので、このドラマでは語られなかったのでしょう。

一方で、ピダムの役ですが、前にも書いたとおり、魅力的な役どころだと思います。しかし、なぜ、ピダムはトンマンを女性として愛したのか、仰るとおり狂おしいまで彼女を愛し、求めたというならば、何かきっかけがあったはず。そのきっかけが見えないから、私にはピダムが狂おしいまでに彼女を求めたとは思えません。それまでのピダムと狂うほど彼女を求めたピダムとに微妙なずれを感じるのです。この辺りは先ほど書いたことと重複になりそうなので、割愛します。ただ、書き残したこととして、前に私は「少年のような一面を持っている」と書きましたが、それは単なるピダムの一面であって、ピダム自体は色んな面を持ち、ユシンのような確固としたものを持っていない、不安定な人物だと言いたかったのです。そして、不安定な人物がトンマンに狂おしいほど恋するのもまた何だか違和感があります。ピダムの中で何かが芽生えたからこそ、トンマンを狂おしいほど求めたと考える方が私には自然に感じます。そして、その何かが私には脚本にないと思うのです。いや、正しくは、もともとはあったのだけれど、カットされたのかもしれません。少なくとも、ドラマでは放映されていない。しかし、そこは重要だったと思うのです。

もっとも、ミシルの死後、真相を聞いたトンマンがピダムを抱きしめるシーンがそうだという意見もありそうですが、あのシーンで私が感じるのは、トンマンについては惻隠の情、ピダムについては親に対する愛情です。いくらピダムでも、あの時の温かみだけで、トンマンを狂おしいほど求めたというのはあまりにも単純すぎる気がします。そんな単純な男を、トンマンともあろう人物が選ぶでしょうか?

ところで、チルスクの見せ場のシーンですが、私はあれで良いかなという印象です。チルスクという前の世代の最強戦士がその生涯の全てをかけてトンマンを襲うシーンですから、たかだか若造のピダムやユシンがその迫力でかなうはずがない。そこを強調したかったのかと思うのです。だから、ナムギルやオム・テウンさんがチルスク役のアン・キルカンさんを強調するためにああいうシーンになったのかと思うのです。あのシーンは、二人が真剣に戦うべきという点では賛成ですが、それ以前に二人が気圧されるほどの迫力でチルスクが戦い、そして敗れたというところに意味があると思います。そうすることで、チルスクという男の生涯の哀しさ、誰かの下で働くということの哀しさを表現できたのかなと思うのです。

何だか反論ばっかりしてますね~。…すいません。人様のブログで、反論ばかりするのもいかがなものかですよね…。

ただ、前にも書きましたが、一つの作品をお互いに熱心に見ているという点では同じなのに、こんなにも感じ方が違うんだなと改めて思います。そして、きっとどれも正解なんだろうなとも思うのです。人の感じ方は、まさに千差万別。同じく、ピダム好きでもおそらく感想が違うでしょうし、好きなシーンも違うはず。チュンチュにしてもそう。トンマンにしても…以下同文。

そうすると、誰もが同じ感想を持つ本って、きっと面白くないのでしょうね。色んな人が読んで色んな感想が出るからこそ、本にしてもドラマにしても面白いのではないでしょうか。

なんてことを考えました~。

PS.ワタクシ、ヨウォンさんについては、この作品しか拝見していませんが、かなりいい演技だったと思ってます。そりゃ、走り方が兵隊っぽくなくてアヒルっぽいとかちょっと思いましたが(笑)、泣き方は色んな泣き方で微妙な感情の違いを表現するし、人を殺した時の恐怖の表現とかも、上手かったと思います。トンマンの悲しみ、恐怖がとてもよく伝わりました。そして、ミシルとの争いにしても、ミシルに対して当初は抑えた演技で対抗し、徐々にそれを凌いでいく様は前半の見せ場の一つだと思います。この二人の女優の攻防は、とても素晴らしかった。そんな風に思っています。

スンホ君は言わずもがな~。他の作品も良作が多くて、(大分先ですが)兵役から帰ってきたらどんな俳優になるのか末恐ろしいです。まぁ、取りあえず、そんな遠すぎる将来のおそれより(笑)、「ペク・ドンス」が楽しみです。

あつ様へ

  1. 2011/07/12(火) 18:59:26 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
両思いの緋翠です、こんばんはーw
えーっとですね、どうも私の言葉が悪くて言いたいことが伝わってないようなので、今回は箇条書きにします(笑)

・ピダムとチュンチュの扱いについては、クレジット上は同等なのだから、本来は善悪が変わっても比重は変わらないようにすべきだと思います。ノベライズでは確かに同じくらいの比重だったのに、女王時代のチュンチュはまず出番がピダムより圧倒的に少なく、ピダムと違って彼の最大の武器を示す機会もない上に、ラストシーンは散々ピダムを始末するよう迫った挙げ句に、宣戦布告の後にトンマンが倒れたのを見てるだけと言うシーンです。あれではチュンチュが後に武烈王になるのを不安視した視聴者がいてもおかしくないです。ですから、悪役だからではなく、演じるキャラクターの質なり正当性と言う点でも損をしたし、役者として見せ場がなかったと言う点でも、スンホくんは主要6人の一人であるにも関わらず、損をしました。スンホくんがあれで損をしていないと言うなら、それはスンホくんに、損をしているように見せない演技力があったからでは。また、遺言シーンカットでキャラクターが完結しなかったのは、『善徳女王』と言うドラマの質をも落としています。しかもチュンチュはトンマンの後継者役であり、これは息子同然で、最終回で無視していい役どころではありません。サンタクをカットしてでも入れるべきでした。だから、スンホくんには監督を批判する権利があると思います。

・脚本の変更ですが、それでピダム以外のキャラが具体的に現状よりどう得をするのか、ドラマの展開がより優れたものになったか、ドラマのテーマはそれで正しいのかについて、あつ様のように私は思えません。少なくとも、トンマンの能力や覚悟、死んだ人達との絆と、ピダムやユシンやチュンチュの器量やテーマを軽んじるような改変は、ピダム主役ならともかく、トンマン主役である以上有り得ないのでは。詳しくは次のお返事にてw

・同様に、女王時代のナムさんの演技について批評するなら、ナムさんの少年っぽい『不安』をメインとする役作りは、他のキャラ達を良く見せる役作りだったかを教えてください。即位前はピダムは一部のキャラに絡み、トンマンやミシルにたまにちょっかいを出すだけの脇役でしたが、仰る通り、女王時代のピダムは全員に関わっています。つまり、ピダムの役作りは全員の役作りやその評価を左右するんです。『長編時代劇のメインキャストとしての力量』には、必ずそのことを意識した上での役作りが必要とされます。ナムさんやそのファンだけが満足するような役作りではいけないんです。特に相手役なら、最低限主役との恋模様だけはその役者さんの全てを注ぎ込み、主演女優を、その役を輝かせるべきです。そしてそれは演技力の問題だけでなく、脚本に忠実に演じるかどうかと言う熱意の問題でもあります。私が見る限り、トンマンを取り巻く主要5人でその役目を果たしていなかったのは、ナムさんだけです。

・これはSSを書いている身としても言いたかったのですがw、魅力的な役を与えてもらっておきながら、役の気持ちが見えなかったり不自然に感じたらすぐに脚本のせいだと批判するのは、おかしくありませんか? 再び名前を出して申し訳ないんですが(汗)、私は大和さんの舞台を見て、「脚本が悪い。入り込めない」と途中から思っても、脚本より、いきなり不自然だと感じるような演技をした大和さんをまず批判します。もし役者がきちんと演じていれば、同じ脚本の中で、しかも中盤を過ぎても出来が良かった脚本に対して、いきなり白けたりしないからです。もし脚本がダメなら、その脚本が描く恋模様がダメなら、その脚本の中の他の恋模様にも違和感を覚えて然るべきではないでしょうか。だから、女王時代のトン&ピの恋模様を素直に楽しめないなら、まずは役者の演技を批評すべきだと思います。あつ様も力があると認めてらっしゃる脚本の意図を、まず汲むべきだと。50話まではきちんとキャラの心情や恋心やその他の流れがきちんとわかる作りで、残り12話はそれらがわからない作りになってるなんて、私には変な言い分に聞こえます。

・ピダムと言う役自体は悪役でも構いませんし、ノベライズでも悪役でしたが、現実問題、スター力のあるヒョンジョンさんや演技力と時代劇スキルのあるスンホくんならともかく、あの時点でナムさんに長編時代劇の悪役(しかもラスボス)を演じる力はありませんでした。長編時代劇ファンとして、断言します。ヨムジョンの「ピダム公、万歳」が入った以上、製作陣も同じ思いだったと思います。脚本上は誰もが一度は畏怖するピダムなのに、女王時代の彼には小物っぽさが漂いましたし、長編時代劇のラスボスに相応しい圧倒的なオーラもなく、宣戦布告を迫力たっぷりに演じられるような時代劇スキルもなければ、脚本を忠実に表現する柔軟性もない。しかも、監督が底力で踏ん張っている終盤戦ですから、序盤のように、演出や編集で、ナムさんや他の役者さんを彼らの実力以上の出来映えに見せることも不可能です。善徳女王では、ミシルを演じるより、終盤戦の悪役を演じる方が何倍も大変なんです。だから、チュンチュ、ヨムジョン(とミセン)が悪役を分け合ったのは正しい選択だと思います。あの三人ぐらいしか、終盤戦で悪役を演じる力量がありませんでした。

・ピダムがトンマンに惚れるキッカケについてかなりご不満のようなのですが(笑)、それならユシンはどうしたらいいんですか? ユシンこそ、惚れるキッカケはあやふやで(下手をすれば覗きとも捉えられかねない)、それでもあれだけ暑苦しくトンマンへの恋心を演じ、視聴者はユシンの報われない恋を気の毒だと思っても、「いつ惚れたのかわからないし、無理のある恋愛だ」とか、「下心満載だな」とは思いませんでした。それは、恋には具体的な理由なんかなくてもいいからでは? 日常生活でだって、ある日突然理由もわからず好きになることもあるでしょう? 勿論理由は気になりますが、それより大事なのは、男の恋心が本物かどうかで、ユシンは本物だと伝わった。もしあつ様にはピダムの恋心が本物だと伝わらなかったなら、それは役者がきちんと演じなかったからではありませんか? そしてそれは、脚本が良いにしろ悪いにしろ、役者が自分の役目を怠ったと言うことだと思いますし、そこを論じずに脚本を批判するのは、ファンのエゴに感じられます。

・あつ様は51話でピダムの心に湧くのは近親の情と仰いますが、それは若い男の性を無視した判断のように思います。アルチョンのような遊花に見向きもしない説教臭いジジイな若者ならともかくw、ピダムのように遊女の谷間を目で追うタイプの若い男は、綺麗で若い女の子に抱きつかれただけで、まず勝手に大なり小なりムラッときます。賢くても、関係ありません。生体反応みたいなもので、理性があるから普通に振る舞うだけです。しかもあの時のピダムは、砂漠で一人、飢え死にしかけているような精神状態でした。理性なんかあるわけがない状態です。そこへ前からちょっと気になってた女の子が現れ、彼の苦しみを真摯に聞いて「何故私に話さなかった。つらかっただろう」と彼女の方から優しく抱きしめ慰めてくれたんです。例えムラッとくる余裕はなくても、代わりに彼女が女神に見えたりはしませんか? 私には白馬の王子様的な定番スタイルだと感じましたし、これで男がその女の子に惚れないなら、あと何をすればいいのか、私にはサッパリわかりません。

・また、↑から9年経ってもトンマンが靡かないからこそピダムの中では愛憎が膨らみ、ユシンのことで嫉妬に囚われた時に「お前に触れられればときめく」etcの台詞で憎しみが薄れて、代わりに愛しさともどかしさが増し、諸々の問答を経てトンマンの為に神国を救おうと力を尽くしたのでは。私が言う「死に物狂いで恋する」ピダムは、ふとしたキッカケから湧いた「トンマンが欲しい」と言う恋心とも欲望ともつかぬ衝動が憎悪にぶれたりしながらも段々大きくなり、その大きさと揺るぎない欲望がトンマンの「私」の部分を揺さぶり、ピダムもまたトンマンの「私」の部分の変化と共鳴して互いに互いへの依存や愛情を大きくしながらも、二人ともトンマンの心をより大きく占めるのは愛か打算かわからず、不安を抱えていたように理解しています。よくある男女のすれ違いでも、二人の立場が普通じゃないから、大事になったと。だから、ピダムは「とにかくトンマンが欲しい=死に物狂いで恋する」演技をベースにすべきで、トンマンは「ピダムの強い欲望と恋心に揺れる自分の心を恐れつつ、抗いがたいその魅力に徐々に屈して、ピダムに心を預けていく」演技が大切だと思いました。

・私はドラマ準拠カテゴリーでドラマの台詞を使ってトン&ピのSSを書いていますが、ええと、あれには納得して頂いているのでしょうか?あつ様のコメントを読んでいると、ドラマ準拠で↑のキャラ設定をベースに女王時代のトン&ピの恋愛を書いても、納得して頂けないように感じますw

・チルスクが「果たせなかった命令を果たす」と宣言していなかったり、自害ではなくあの二人に斬られると言う形だったら。あるいはチルスクが死ぬ場面でなかったり、チルスクがムンノに匹敵する最強キャラでなかったり、チルスクの役者さんが小物でチルスクがモブに近い十花郎程度の役だったら、こんなに文句は言いません。また、「誰かの下で働くことは悲しく、だから不本意にも実力的には格下で気迫でも劣る若者二人に敗れ、一定の満足を得て死ぬ」では、何の救いもなく、あつ様の仰るドラマのテーマともズレているように思います。チルスクは誇り高い武人であり、花郎達が憧れる花郎でした。臨戦無退、その精神の権化のようにムンノに食らいつき、砂漠でトンマンを追い詰めた彼が、彼の人生を変えた主の命令を全うする為に戦って、自決するんです。チルスクの凄まじさを強調したかったのなら、ユシンとピダムは何の余裕もなく、命懸けで戦わなければ「チルスクも老いたな。弱いし、素直に生き残れば良かったのに」とすら思えます。オムさんは相変わらず下手なのであのだだっ広い空間を埋めるような気迫は出せていませんでしたが、表情には気迫がありました。チルスクが気圧されはせずとも、せめてチルスクが感じるものがあるくらいには「(もう主のいないチルスクと違って)主を死なせない」と言う二人の気迫が要ります。チルスクの哀しみは、彼が死に物狂いで戦おうとも、もうミシルは生きていないし生き返らない、その点にあるからです。だから、あのシーンで大切なのは、私は「チルスクという男の生涯の哀しさ、誰かの下で働くということの哀しさ」ではなく、「主を喪ってもなお主に尽くすことしか出来ない武人の一途さとその哀れさ」であり、「最期の戦いで、彼の命を与えるに値する武人を見出だせたことへの、武人としての満足感や、気持ちいい敗北感」であるべきだと思います。そして、前者は最終回でのトンマンが死んだ後のユシンを、後者は最終回のピダム無双でのピダムの対ユシンの感情を暗示しています。だから、物凄く物凄く大事なんです。


いやー、私も反論してばっかりですみません…(汗)
でもあつ様と話しているおかげで、改めて色んなことを考えられますし、「ああ、私ってかなりの善徳女王オタクになってきたな…」と遠い目にもなりますww

あ、ヨウォンさんとスンホくんへのお言葉、嬉しいです。ありがとうございます!
私も50話までのナムさんはかなりいい演技だったと思ってます。「クサイw」とウケたりはしましたが…(すみません) ナムさんの演技に関して批判しているのは、51話以降ですので!(コラ)


最後に、結局あつ様は、ナムさんの女王時代の演技は、他のメインキャストをより良く見せる演技だと思っているのかいないのか、そこのところにだけはお答え頂けると嬉しいですw

お返事

  1. 2011/07/12(火) 23:40:04 
  2. URL 
  3. あつ 
  4. [ 編集 ] 
さっき、若干辛辣なことを書いたので、気が引けているのですが…(笑)←なら書くなよ!(笑)

私も長編時代劇が大好きです。特に最近の韓国の時代劇がとても好きです。(中国は、中国の歴史そのものに嫌悪を感じるので見ませんww)昔は、大河もよく見ていました。もっとも心に残っているのは「翔ぶが如く」。西田敏行さん演じる西郷と鹿賀丈史さん演じる大久保のストーリーは実に見ごたえありました。確か、あれは小学生くらいに見たものですが、未だに印象深く残っています。後は、「春日局」「武田信玄(表題は忘れました)」…いろいろ見てました。しかし、最近の大河は私自身が役者の好みがうるさくなったためか、それとも、私自身が歴史を(ヲタと言えるほど)学び、それなりにドラマの題材となるような歴史上の人物に対するイメージというのが出来あがってしまていて、多分、どんなに上手い役者がやったとしても、私が納得できるものではないと思ってしまっているためか、判断つきかねますが、そう思っているので見てません。

その代わり、昨今の韓国歴史ドラマブームにあやかり、今まで全く知らなかった韓国の歴史を題材にした時代劇をよく見ています。

緋翠様と私とどっちがより深く長編時代劇を愛しているか、より詳しいかなんてことは、全く不毛だと思うのでやめます。

しかし、私は長編時代劇に対して、前に緋翠様がおっしゃられていたように、緋翠様と全く違うとらえ方をしています。

私は、こと長編時代劇については、フィッシュボーンのようなイメージを持っています。分かりずらい言い方ですかね?すいません。

前に緋翠様は、ご自分の長編時代劇のとらえ方をピラミッドという言い方をされていたと思います。私の勝手な解釈ですが、これを縦軸を重視する見解と言うなら、私は横軸を重視するのです。

つまり、私は歴史の流れ、善徳で言うならば、トンマンの生涯(魚の背骨)を通じて、そこに登場してきた人々(背骨から出ている大骨、小骨)それぞれが、どう生きたか、それを見ているのです。

ですから、私の中には、こと長編時代劇においては、「他のメインキャストをよりよく見せる演技」というのは存在しないのです。

私は演技論・演劇論を学んだわけではないので、その長編時代劇に対する見方はもしかしたら誤ったものかもしれません。しかし、私は単なる長編時代劇ファンとしてではありますが、そういう見方で今まで時代劇を見てきました。ですから、今更、これを否定されたとしても困惑するだけで、変える気も全くありません。(笑)

それを前提にして話を続けると、私が長編時代劇において重視しているのは、役者として誰か(主役)を目立たせる演技をしたかどうかということより、自分が演じているキャラクターがどういう人物で、どういう人生を歩んだか表現する演技をすることを重視しているのだと思います。

ただ、短編である場合は少し異なります。短編の場合は、時間的制限が長編以上にあるので、主題(これは長編・短編問わず、必ずあると思っています。これがないお話は全く無意味です。)に向かって全てのキャラクターがこの主題を表現することに長編以上に、集中すべきだと思います。しかし、長編は短編と違って時間的制限がある程度解除されている分、自分が演じるキャラクターの人生を表現することも重視していくべきだと思うのです。

もちろん、それぞれのキャラクターが一人で演じているわけではないし、全てのキャラクターが一つの主題に向かっていく必要は、長編だろうが短編だろうがあると思います。しかし、全てのキャラクターの行動が他の全てのキャラクターの行動に影響することによって、話が(歴史が)動いていると、私は認識しています。それを統率(舵取り)するのが、脚本であり、監督だと思っています。

多分、この認識が大分、緋翠さんと違うので、ことナムギルの演技に対する評価(笑)も違うのではいでしょうか?

また、緋翠さんと私の間で不毛に繰り広げられそうな(笑)ナムギルの話になりますが、確かに、彼はまだ若く、俳優といっても10年そこそこ、イ・ソンジェさんやコ・ヒョンジョンらと同格というのは甚だおこがましい俳優です。しかし、私は彼の才能は無視できないと思うのです。私は、彼がその前に出演した数点の映画で「忠武路の顔」とまで評され、善徳女王という作品である意味、主役より注目を浴びたのは、何も周りが彼を上手く見せる努力をしただけでは説明できないと思います。もしかしたら、彼の容姿もその人気に火をつけた理由だったかもしれません。しかし、果たしてそれだけでここまで一大ブームの如くなるのでしょうか?彼の魅力についてトクトク語っても、こと緋翠さんにとっては苦痛でしかないと思いますので(笑)(←えぇ。それは、私に対して、某「江」女優や浅野ゆ○子さん、高島○子さんの魅力をえんえん語られても何も響かないのと同じ位、あるいはそれ以上だと理解しています。)、この辺でやめますが、少なくとも私が言いたいことは、彼のピダムの演技に大衆を引きつける何かがあったからこそ、ここまで人気を得られたのだと思います。もちろん、それは、ナムギルだけの技量ではありません。「善徳女王」という脚本、監督、彼を囲む俳優たちの熱演も後押ししたと思います。ですが、彼自身の技量も私は無視すべきではないと思います。チュンチュやヨムジョン、ミセンしか、悪役を担う力量がなかったとおっしゃいますが、彼らに役者としてそれらの力量が確かにあることは認めますが、もし、彼らにしか役者としての力量がなく、ナムギルに全くないというのなら、それこそ、ナムギルが悪役に見えるような演技を彼らがすべきではないですか?

私は、役者としての力量云々はともかくとして、ピダムという役を結局、脚本家が(あるいは監督が)どうしたかったのか、悪役でもない、かと言って善人の役でもないという非常に中途半端な地位に置いたことが疑問です。簡単な勧善懲悪の話ではないとおっしゃられていたように記憶しますが、それはもちろん、そのとおりです。しかし、ただ誰かの策略に従って反乱してしまった人物とする位なら、いっそ、ピダムを徹底的な悪役にした方がまだよかった、そう思うのです。それは、ピダムという人物が、誰かに引き摺られて行動する人物と言うより、もっと能動的な行動をする人物だと、私が捉えているからです。でも、これは、何もピダムをナムギルが演じたから思うのではありません。たとえ、ピダムを他の誰が演じたとしてもそう思ったと思います。ですから、私がナムギルのファンだから彼のために変えた方が良いと思っていると思われるのは、甚だ心外です。彼の恋心が上手く伝わらなかったのは脚本と言うより、役者の演技をまず批判すべき、とおっしゃいますが、私は彼が恋をしたというのは分かりますが、なんであの状況でピダムがトンマンに女性として愛し、狂うほど求めたのかわからないと言っているだけで、それは、演技云々ではなく、その過程が書いてないからだと言いたいのです。多分、これを例えば、スンホ君やミセン役の俳優さんがやったとして、彼らの台詞なり行動なりに何らの変わりがないのなら、やはり私は同じことを思ったと思います。

また長くなりそうなので、ユシンの恋やその他のことについては、また別の機会にぜひさせていただきたいという意見だけ述べて、割愛させていただきます。

話が若干それましたが、結論として、女王時代のナムギルの演技が、メインキャストをよりよく見せる演技をしたかどうか、私にとっては余り重要でないことだと思っています。むしろ、そんな演技をする必要はないとすら思っています。

もっとも一方で、善徳女王の恋の相手なんだから、彼女をもっと輝かせるべきだと言われそうですが、それこそ、この善徳女王というドラマは恋愛劇ではありませんし、むしろ、ナムギルにしてもヨウォンさんにしても、後半の中心人物となる二人が、それぞれ自分のキャラクターがどう感じ、どう生きたかを視聴者に伝える演技に集中すべきであって、相手を輝かせる演技をする余裕がある位なら、そちらの方に全精力を注ぐべきだと思います。主演だから、ヨウォンさんが一番輝いているべき、という認識は、少なくとも、私にはありません。

PS.う~ん。ドラマ準拠のSSについてですが、私が好きな「ミセンの恋愛談議」は私はとても気に入っています。というより、あんな話を間に入れれていれば、私はもっと二人の関係が単なる主従を越えていたということを分かりやすくできたのではないでしょうかとおもっています。もちろん、きっかけが書かれたら尚、良いかとは思いますが、こんな話が間に入っていれば、きっかけについてのエピソードがあってもなくても、若干どうでもよくなります。ピダムが「狂おしいほど彼女を求める」理由が分かるからです。ですが、こういうエピソードがない以上、私には二人の間に主従を超えた何かが芽生えたのはいつなんだと気にかかります。


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