善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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日本と新羅の史書に見る、真平王の時代。

トンマンのことを知るには、まずはパパの真平王を!……と『花郎世紀』を眺めているんですが、なかなか難解です。在位期間が長いもので、ややこしいややこしい。
整理がてら、三国史記、花郎世紀と、日本の史書である日本書紀の記述を一つの年表にぶち込むと言う暴挙に出てみました!(ちょっとは椿さんの参考になればなーと思います…!)

日本人として面白いのは、金官伽耶、大伽耶共に、真平王の時代には滅亡していますが、真平王時代に幾度も「任那復興」が日本国内で掲げられ、それに高句麗や百済も巻き込んでいるところです。
神功皇后の新羅征伐はなかったことだと一般的には認識されていますが、個人的には新羅と言うか、朝鮮半島での日本(国内にある勢力)による戦争は、何度もあったと思うんですよねー。中世ヨーロッパに例えると、イギリスを思い描いて頂ければわかると思うんですが(フランスが朝鮮半島です)、島国には島国の利点があって、大陸に飛び地を持ち、大陸の勢力争いに介入することは可能です。文化的な先進性と兵の強さは違いますし。
と言うわけで、三国史記には全く記述がありませんがw、真平王時代は勿論、トンマンやチュンチュの時代にも、日本と新羅、高句麗や百済と言った国々は、微妙なパワーバランスで、文化的な交流もあり、時には戦争も…と、かなり活発に交流していたと思います。
百済の義慈王や、新羅の武烈王(チュンチュ)が、即位前に日本に使者として来ていたと言うのも、そう言う事情を鑑みるに、まあ、あっただろうなと。

結論としましては、あくまで個人的な意見なんですがw、任那は、イギリスが中世にボルドー辺りに持っていた領土と同じようなものだろうなーと思っています。ヨーロッパで本格的な文明が始まるのは、東アジアのそれと大体1000年違いですし、だとすれば、時期的にもピッタリ来るなーなんて…(コラ)


この色は、真平王の後宮事情に関してです。後宮事情については、正確な年代がわかるものは少なく、前後の関係や推定年齢から算出しています。なので、「この頃」表記があるものは、前後数年の間にあったと考えられる、とお考えくださいー。
この色は日本書紀からです。


* *


567年。
白浄(真平王)、誕生。父は銅輪太子(18歳?)、母は萬呼公主(13歳)。

570年頃?
松花公主(真興王と萬呼公主の母・只召の娘)、福勝の娘・摩耶(本名は福盻○?)を産む。

572年。
3月、銅輪太子(23歳?)が宝明宮の犬に噛み殺される。

576年。
8月、真興王(43歳)、崩御。真興王の次男・金輪(真智王。20歳くらい?)が即位。

579年。
真智王が廃位された為、13歳で即位。
3月、思道の命令により、真興王の代から後宮にいる宝明と美室が真平王の傍に侍り、性教育を担当することになる。宝明は真智王の娘・昔明公主を妊娠中だったので辞退し、美室が担当するも、幼少の為に上手くいかず、美室は衿荷として近侍した薛原(31歳)との子供を妊娠してしまう。
8月、朴英失の息子であり伊サンの弩里夫(55歳)を上大等に任命。
9月、真平王はすでに出産を終えた宝明を寵愛し、宝明を左后に、美室を右后にする。これから3年間、宝明は真平王の寵愛を独占する。
10月、倭に枳叱政奈麻を遣わして貢ぎを進める。
真智王廃位の功績により、文弩(42歳)は阿サンになり、八世風月主に就任。副弟は美室の従兄弟かつ臣下の秘宝(31歳)。
幼少の為、太上太后思道法主(46歳)、智道太后(25歳くらい?)、萬呼太后(25歳)の三太后が政治を見る。思道は法雲(出家の身)の為、政令の多くが思道の姪であり璽主でもある美室(30代前半)から出る。また、思道の娘・阿陽公主が舒玄の母である為に伽耶派が力を増した。しかし、最も力を持つのは真平王の母である萬呼で、彼女は真骨正統の首主になる。智道は思道と萬呼の間を上手く立ち回り、文弩の正派を扶助する。
真智王の后・智道は、思道太上太后の命令に従い真平王の後宮に留まった為、龍春(2歳。真智王と智道の息子。十三世風月主)は真平王を父と呼ぶ。
真興王と思道の娘・太陽公主(20代?)も、銅輪、真智王に仕えていたが、真平王の後宮に入る。太陽の末の妹・銀輪公主も後宮入り。


580年。
美室、薛原の子・宝宗を産む。宝宗は美室の私子として宮中で育つ。
2月、伊サンの后稷を兵部令に任命。
6月、倭に安刀奈麻・失消奈麻を遣わして、調を進める。納められずに返還される。(任那の調?)

581年。
新たに位和府を設置。
隋が建国され、10月には百済王が『上開府儀同三司帯方郡公』(従一品)に冊封され、12月には高句麗が『大将軍遼東郡公』(正一品)に冊封される。

582年。
正月、秘宝(34歳)が風月主に就任。美室、菩利(10歳)と舒玄(10歳くらい?)と龍春(5歳)を秘宝に推薦し、仕えさせる。
10月、再び倭に安刀奈麻・失消奈麻を遣わして、調を進める。納められずに返還される。(任那の調?)
この頃、宝明、真平王の娘・良明公主を産む。良明は昔明と同じ宮に暮らし、共に真平王に愛される。

583年。
正月、船府署を設置し、大監と小監をそれぞれ1名置く。
7月、倭、百済と任那復興を図るも、上手く行かない。

584年。
2月、元号を建福と改める。
3月、調府令を1名置いて貢ぎ物と賦税の事務を司どらせる。乗府令を1名置いて車馬の事務を司どらせる。
倭より、難波吉士木蓮子(なにわきしいたび)が派遣され、任那に辿り付く。

585年。
正月、薛原の副弟になって以来そのままだった美室の弟・美生(36歳)が、夏宗(22歳)を風月主にする為に、美室の命令により風月主に就任。夏宗、副弟に。
大宮、梁宮、沙梁宮の三宮にそれぞれ私臣を置く。
この頃、美室、菩利の姉・花明か玉明を夏宗の正妻にしようとするも、萬呼に聞き入れられず、花明と玉明は後宮入り。これより後に、二人とも真平王の子女を産む。

580年代半ば。
美室、真平王の娘・宝華公主を産む。
太陽公主、真平王の子・太元殿君と好元殿君を産むが、真平王は嫡男としては受け入れず、殿君の地位に留める。
摩耶皇后、真平王の子・天明公主を産む。
真平王の娘・天花公主、誕生。(母親は不明)


586年。
正月、礼部令を2名置く。

588年。
世宗と美室の子・夏宗(25歳)が風月主に就任。
12月、上大等の弩里夫が死去。伊サンの首乙夫を上大等に任命。

この頃、真平王の銀輪公主(20代?)への寵愛が薄れた為、思道の命令で夏宗が銀輪の夫になる。

589年。
3月、萬呼太后(34歳)の異母弟で、菩利(16歳)と花明と玉明の兄・円光法師(20代)が陳へ行き仏法を求めるが、同年、陳は隋に滅ぼされ滅亡。円光は隋に留学する。
7月、西部で洪水が発声し、民家30360が流出浸水、200人余りの死者が出る。

591年。
正月15日、萬呼太后(37歳)の異母弟かつ娘婿の菩利(19歳)が風月主に就任。副弟に舒玄。(数年後に萬明と駆け落ち)
2月、領客府令を2名置く。
7月、南山城を築く。(その周囲は、2854歩)
11月、倭は紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、2万余の軍を編制して筑紫に出陣。吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に遣り、任那のことを訊ねる。

この頃、真興王と智道太后の娘・龍明公主、後宮入り。

593年。
7月、明活城を築く。(その周囲は、3000歩)

594年。
隋より『上開府楽浪郡公新羅王』に冊封される。(これまでに百済、高句麗は隋と親密な関係を築いており、新羅は随分と出遅れている)

596年。
龍春(19歳)が風月主に就任。真平王(30歳)の摩耶皇后への寵愛により、副弟に摩耶の弟・虎林(18歳)が抜擢される。
3月、曇育を隋に派遣し、仏法を求める。同時に使者を隋に派遣して、貢物を献じる。
10月、永興寺で火事が発生。350戸が類焼する。

この頃から、昔明、真平王の娘を二人産む。

597年。
三郎寺が完成する。
年末頃、倭から使者の吉士磐金が遣って来る。

598年。
倭に、孔雀一隻を献上する。

600年。
円光(30代後半?)が朝聘使の奈麻・諸文、大舎・横川に従って帰国。
新羅と任那の間でが戦いが勃発し、推古天皇(47歳)は任那を救うべく、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍として新羅を撃ち、五つの城を陥落させる。真平王(34歳)は多々羅、素奈羅、弗知鬼、委陀、南迦羅、阿羅々の六城を献上することで和睦を求めるも、倭軍が撤退すると、任那に侵攻。

この頃、摩耶皇后、真平王の娘・徳曼公主を産む。

601年。
9月、倭の対馬で新羅の間謀・迦摩多が捕らえられ、上野に流される。倭は高句麗、百済へ使者を送って、任那救援を求める。
11月、倭が新羅攻めを議論する。


602年。
2月、倭は来目皇子を撃新羅将軍とし、25000の兵を授け、出陣させる。
6月、筑紫に駐屯中の来目皇子が病に臥し、新羅進攻が延期される。

8月、百済が阿莫城に来襲、百済を大敗させるも、貴山(アルチョンの弟)と箒項が戦死。
9月、大奈麻の上軍を隋に遣わす。高僧の智明が上軍に従って帰国し、真平王(36歳)は智明を大徳に任じる。

603年。
4月、倭、2月に来目皇子が死去した為、当麻皇子を征新羅将軍に任命。
7月、当麻皇子は難波より出陣するも、明石で妻が休止した為、新羅攻めを中止する。

8月、高句麗、将軍・高勝を派遣して北漢山城を攻める。真平王(37歳)は自ら一万の兵を率いて防戦する。龍春(26歳)、秘宝(55歳)も参戦。
この頃、嫡男のいない真平王と摩耶皇后、龍樹殿君(30代前半)を天明公主(10代半ば?)の婿に選ぶ。
天明公主、龍樹の子・春秋を産む。
虎林(25歳)が風月主に就任。副弟には、虎林が愛している(?)宝宗(24歳)。

604年。
7月、大奈麻の万世・恵文らを隋に遣使朝貢させる。
南川州を廃して、北漢山州を設置する。
良明公主、宝宗の娘・宝良を産む。

605年。
7月、曇育が入朝使の恵文に従って帰国する。
8月、百済の東辺を侵す。

この頃、蘭若公主(30代後半。真興王と美室の娘)、真平王(40歳前後)の娘・雨若公主を産む。
昔明公主、後宮を出て、冬蘭の妻になる。


608年。
真平王(42歳)、円光(40代半ば?)に命じて、隋に高句麗遠征を求める乞師表を書かせ、隋に送る。
2月、高句麗が北部の辺境を侵し、8000人を捕虜とする。
4月、高句麗が牛鳴山城を陥落させる。
多くの新羅人が日本に帰化する。

609年。
正月、ユ信(15歳)が風月主に就任。毛只嶽の下の地面が陥没し、9ヶ月間焼けると言う奇異が起きる。

610年。
7月、新羅の使者・奈麻の竹世士と、任那の使者・大舎の首智買が筑紫に到着。10月には日本の都へ。

611年。
真平王(45歳)、隋に乞師表を奉呈し、救援を求める使者を送る。(煬帝はこれを了承、翌612年から614年まで、隋は高句麗へ3回遠征し、激戦を繰り広げる。百済は双方に通じるも、翌612年、百済人の日本への帰化が急増)
8月、新羅は奈麻の北叱智を、任那は大舎・親智周智を日本に遣わし、朝貢する。
10月、百済、カ岑城を百日間包囲する。県令の讃徳が固守するも、矢尽き弓折れて戦死し、落城する。

613年。
7月、隋の使者・王世儀が皇龍寺に来て百高座を設け、円光などの法師を迎えて仏教を説いた。

614年。
2月、沙伐州を廃して一善州を設置。
永興寺の塑仏が自然に壊れ、それから間もなく、太上太后思道法主(81歳)が崩御。

615年。
2月、群臣に酒食を三日間下賜する。
10月、地震。

616年。
宝宗(37歳)が風月主に就任。副弟に、宝宗の妻・良明公主(35歳?)の私臣であり、智道太后の私子・廉長(31歳)。
7月、日本へ奈麻の竹世士を派遣し、仏像を献上する。
10月、百済、母山城に来襲。

618年。
隋が滅亡。唐に禅譲する。
北漢山城の軍主・辺品がカ岑城奪還の為に百済に出陣し、城を取り戻すも、讃徳の子・奚論が奮戦して戦死する。

621年。
龍春の異父弟・の廉長(36歳)が風月主に就任。
7月、使者を唐に派遣して朝貢する。唐の高祖は通直散騎常侍・痩文素を新羅に派遣して、璽書と屏風と錦のあやぎぬ三百緞を下賜する。

この頃、すでに摩耶皇后は崩御。真平王(50代前半?)は成長した徳曼公主(20歳前後?)を嗣子に選び、龍春(44歳?)を侍らせる。不安に思う龍春の妻・天明を、春秋(19歳?)が慰める。

622年。
正月、真平王(56歳)は皇龍寺に行幸。
二月、龍樹を内省の私臣に任じ、大宮、梁宮、沙梁宮を合わせて司らせる。

この頃、宝宗(40歳前後)と良明公主(40歳前後)の娘・宝良(10代後半)が後宮入りし、真平王(50代後半)の子・宝路殿君を産むが、僧滿皇后に嫉妬され、後宮から出されてしまう。良明公主が真平王に頼み、宝良は良図の妻に。

623年。
2月、兵部大監を2名置く。
7月、新羅は奈麻の智洗爾を、任那は達率の奈末智を日本に派遣し、揃って来朝。仏像一組、金塔、舎利を捧げる。(※達率は百済の官位)
10月、唐に使者を派遣して朝貢する。百済が勒弩県を侵す。
この頃、新羅が任那を征伐し、任那は新羅に降った。吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に遣わし、任那のことを問うと、新羅は内官家であることを認め、調を奉る為に、奈麻の智洗遅を吉士磐金に、任那は達率の奈未遅を吉士倉下に添えて派遣する。しかし、日本の新羅征討軍が港に満ちているのを見て、使者は調を献上することなく帰国する。(この時、日本側は数万の軍を用意し、新羅に派兵しようとしていた)
11月、磐金・倉下らが新羅から帰り、日本は新羅が調を貢上しようとしている時に攻めてしまったことを悔やんだ。


624年。
唐より、翌年、高句麗の無道を唐に訴える。
正月、侍衛府の大監を6名、賞賜署の大正を1名、大道署の大正を1名置く。
3月、唐の高祖より、『柱国楽浪郡公新羅王』に冊封される。
10月、百済が来襲。級サンの納催が桜岑、岐岑、烽岑の3つの城を堅守するも、速含、[止支]暫、穴柵の3つの城が落城、納催は戦死する。

625年。
11月、唐に使者を派遣して、高句麗が唐に通じる道(党項城周辺?)を塞いでいる為に朝貢出来ないことを訴える。

この頃、徳曼公主、龍春に代わって、龍樹を侍らせるも、龍春に続いて妊娠なし。
僧滿皇后孫氏、嫡男を産み、徳曼の代わりに嫡子にと望む。


626年。
春秋(24歳)が風月主に就任。副弟は、ユ信の同父母弟・欽純(29歳)。
7月、唐に遣使朝貢する。唐の高祖より朱子奢を派遣され、高句麗と和親するように諭される。
8月、百済が主在城に来襲、城主の東所が防戦に努めるも戦死し、落城。高墟城を築く。
徳曼公主(20代半ば?)に促されて(?)、春秋はユ信の妹・文姫(10代後半?)を次妃に迎える。文姫、春秋の子・法敏を産む。

627年。
6月、使者を唐に派遣して朝貢する。
7月、百済の将軍・沙乞が西の辺境の二つの城を落とし、男女300人余りを捕虜として連れ去る。
8月、冷害により、不作に。
11月、使者を唐に派遣する。

628年。
2月、百済がカ岑城を包囲するも、真平王(61歳)は派兵し、百済軍を打ち破る。
夏に大きな干ばつが発生した為、市場を移し、竜の絵を掲げて雨乞いをするも、秋から冬にかけて飢餓が民を遅い、人身売買が横行する。

この頃、僧滿皇后の子が夭折?僧滿皇后、龍樹と龍春兄弟を忌む。

629年。
ユ信の弟・欽純(32歳)が風月主に就任。副弟は、菩利(57歳)の子・礼元(23歳)。
8月、龍樹(58歳?)と龍春(52歳)兄弟、真平王(62歳)の命により高句麗の娘臂城に出征し、娘臂城を陥落させる大功を立てるも、龍樹薨去。この戦いには、他にも、白龍(天花公主の夫)、舒玄、大因らが出陣。また、ユ信(35歳)が初陣を見事に飾る。
9月、使者を唐に派遣して朝貢する。

631年。
5月、チル宿と石品が反乱、鎮圧される。
7月、唐に美女二人を献上するも、返される。

632年。
正月、真平王(66歳)、崩御。唐より、左光禄大夫を追贈される。(631年と言う説もあり)
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  1. 2011.08.20(土) _16:46:54
  2. 新羅歴史談義?
  3.  コメント:4
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管理人のみ閲覧できます

  1. 2011/08/21(日) 18:08:36 
  2.  
  3.  
  4. [ 編集 ] 
このコメントは管理人のみ閲覧できます

凄いです!

  1. 2011/08/22(月) 06:57:23 
  2. URL 
  3. 椿 
  4. [ 編集 ] 
緋翠さん、おはようございますv

凄いです…!2日間実家に缶詰めだったので、やっとゆっくり読めますーv
先ずは一言お礼を!ホントに凄く助かります!ありがとうございますv

お勉強が楽しい今日この頃ww


くろねこ様へ

  1. 2011/08/23(火) 18:03:58 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
くろねこ様、はじめまして!お返事が遅れてしまい、すみません…っ。管理人の緋翠と申します。

くろねこ様のコメントを拝見して、凄く懐かしい気持ちになりました。一年ぐらい前は、私もくろねこ様と同じような状況でして(笑) チャングムだけは父が後半部分を流し見していたので知ってはいましたが、「ふーん…」といたって冷静に眺めたぐらいだったので、善徳女王は衝撃でした。

そしてそして!考察や語りにも力を入れているので、うっ、嬉しいです…!
ピダムに関して…と言うより、ミシル死後の脚本に対する謂れのない批判・非難に対しては、前からずっと反論したかったのですが、そんな人を見たことがなかったので、今こうしてまた同じ思いの方からコメントを頂けて幸せですーvまた元気が出ました!(笑)

最後に、お気遣いありがとうございます。これからもお楽しみ頂けるよう、頑張りますv

椿様へ

  1. 2011/08/23(火) 18:17:45 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
椿さん、こんばんはーv
ご実家での冷蔵庫戦争からの無事のご帰還、嬉しいですw

おお、良かったです…!た、ただ、たまーに「あれ、これはもっと前かな?」などの疑問があったりしまして、無断で改変することがございますので、ご注意くたざい…っ(すみませぬー。汗)

私もお勉強が楽しい今日この頃っすww


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