善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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SS 安らぎ

久々の隠居連載番外編、今回はトンマン妊娠中のお話です。
お楽しみ頂けますようにv


* *


 忘れもしない、あの色。
 彼の瞳から溢れた、あの色。
 彼の唇から、躯から流れ落ちていった、あの色。
 日々この身に纏っていた至高の色と同じ、あの色。
 あの色が、お前の死に装束になるなんて思いもしなかった――。

「トンマン、トンマン!」

 揺さ振られて覚醒した時、トンマンは夢の中の出来事を覚えていなかった。
 ただ躯中を震えさせる恐ろしさに口を利くことも出来ず、吐き気も治まり人心地がついた時には、確かな腕の中にいた。

「ピダム……」

 やっとのことで声を絞り出すと、腕の力が強まった。

「…………泣いて、いました」

 ピダムもまた、上手く声を出せないようだった。切れ切れに呟かれた言葉は苦衷に満ちていて、擦れた声は、少し前まで夜更けになれば彼女を翻弄していた男のものとは到底思えないくらい、怯えていた。
 そして、夢で見たことすら思い出せないトンマンは、何故だかこの時ピダムが考えていることだけは、何よりも早く感じ取ることが出来た。
 ――どうして、泣いていたのですか。また、私が何かしたのですか。
 トンマンは口にすることすら憚られるらしいその想いを汲み取り、首を横に振った。
 かつて、玉座に在った頃、トンマンはよく一筋の涙と共に目覚めていた。何故泣くのかわからないまま、ただ夢の中で涙だけが溢れて、暁にその名残を残すことが、間々あった。いつしかそんな目覚めにも慣れて、夢の記憶も涙も夜の闇に溶けてしまうようになっていたけれども、涙の跡だけは残った。まるでそれが、一滴だけ残った、「トンマン」の心であるかのように。

 玉座から退いた後も、夢の名残は消えずに在り続けた。
 それにピダムが気がつかない時もあったし、涙が流れない朝も増えていたけれども、その夜、暗闇の中で触れた枕は、零れ落ちた涙でしっとりと濡れていた。あたかも、ずっと忍び泣いていたかのように――。

「違うんだ、ピダム」

 その涙がピダムを拒むものではないと言うことだけは伝えなければならないと、トンマンは顔を上げてピダムを見つめた。

「違う……」

 本当は、悲しくて泣いたんじゃない、と言いたかったはずなのに、その言葉は出なかった。記憶の残らない夢の中で、ただ一つ瞼に焼きついたあの色が、その言葉を阻んだ。
 困惑と共に微かに視線を彷徨わせた時、月光に照らされたあの色が瞳を支配した。真紅の裳が卓の上に花のように広がっている様は、月明かりの妖艶さがそうさせるのか、血溜まりを思い起こさせた。

「……?」

 トンマンの視線を追いかけるように振り返ったピダムは、当然のことながら、背後の卓に広がる光景を、血溜まりとは思わない。真紅の裳はめでたいものでしかなく、忌まわしい記憶と結びつくようなものでは有り得ない。再びトンマンへと眼差しを向けても、いったい彼女が何にそう思い乱れたのか、杳として掴めなかった。
 そのもどかしさを埋めるように、ピダムはやわやわとトンマンの肩に触れた。それに応じるように再びピダムを見つめたトンマンの双眸からは、涙は消えていた。頼りなく揺れていた眼差しがピダムに定まると、自然とピダムの唇に微笑が浮かんだ。
 ただ、ちょうどピダムは月光を背にしていたので、トンマンにはピダムの表情までは定かにはわからない。それに気がついたピダムは、微笑みかける代わりに真っ白な頬に手をかけて、ゆっくりとそこに唇を寄せた。艶かしさの滲むことはせず、ただ愛おしさだけを伝えるように頬や額に唇を落とすと、ピダムは耳元で静かに囁いた。

「……もう、悲しくない?」
「……悲しくない」

 けれども、そう問いかけるピダムの声には悲しみが宿っている。それを打ち消したくて、トンマンはピダムの両手に自分の手を重ねて、その懐に飛び込んだ。そんなトンマンを、ただ優しく抱きしめてくれるピダムの懐は、これまで感じていたよりもさらに深く、温かかった。



 それからのことは、やっと心身が落ち着いたトンマンが眠ってしまったからか、朧月夜のように全てが霞んでしまって、判然としなかった。明け方にトンマンが起き上がった時には、隣で眠るピダムの向こうにも、卓の上にも真紅の裳などなかったし、寝台の上で座り込むトンマンをそっと摩るピダムにも、物憂げな様子はない。

「今朝は早起きですね」
「……うん」

 ピダムは少し冷えてしまっていた繊手を包み込むように両手で握ると、そっとトンマンを自分に寄り掛からせ、その肩に上衣をかけた。
 トンマンが身籠っていることが判明して以来、ピダムは努めて細々とトンマンを気遣っていた。特に近頃は悪阻が酷いので、身体の負担を減らす為に、花びらに触れるように接している――と言うのは表向きの理由で、ピダムが慎重になった一番の理由は、トンマンがピダムの濃密な口づけに吐き気を催すと言う、大惨事が起きたからだったりした。
 ちょうど何を食べても戻してしまう状態だったトンマンは大して衝撃を受けなかったその一件は、ピダムには大打撃だったらしい。あれ以来、ピダムは全くトンマンの唇に近づかなくなり、それまでは、契りは控えても、未練がましく続けていた柔肌への愛撫も、布越しの至って健全なものへ変わった。
 そして、それはもうわかりやすいピダムの変化を、トンマンは歓迎した。身体がつらい時にピダムが近付き過ぎると、正直、扱いに困ることもあったのだ。それなら、いっそ放っておいてくれると助かる――と言うのが、トンマンの正直な気持ちだった。

「ピダム?」
「はい」

 とは言え、甘えればこうして優しく抱きしめてくれるピダムの優しさにはいつまでも浸っていたくて、その朝、トンマンは優しい腕の中で再びまどろんだ。髪を撫でてくれるこの手がある限り、瞳に映るあの色に惑わされることはないと感じながら。


**


 そして、月は満ち、二人でその家へ隠居して、二度目の夏の始まった頃。一度目の夏とはかけ離れた身体になったトンマンは、ピダムの眼には、昨夏よりもさらに、何をするにも大変そうに見えた。

「喉が渇かない?」
「うーん……少し、かな」
「水を持ってきます」

 腹に巨大な温石を抱えているのも同然の身体は、大して動いてもいないのにじわりじわりと汗を掻く。宮医曰く、幸いにも双子ではないので、腹の膨らみもまだマシと言うことだったが、トンマンのすらりと細い身体しか知らなかったピダムには、今の体型は十分異常だ。

(腹だけ太るって、やっぱり気味が悪いよな……)

 あんなに伸びきった腹から赤子が出たら、その後はいったいどうなるのだろう。ちゃんと瞬時に元に戻るのだろうか? 悪阻から始まった一連の騒動に衝撃を受けて以来、ピダムはトンマンの身体の急激な変化に恐怖すら覚えている。
 第一、改めて膨らみきった腹を見る度に、本当に無事に産めるのかと不安にかられてしまう。今度はピダムは何の助けにもなれないと言うことがまた、物思いを暗く澱んだものへ変えていく。
 が、ピダムが悩もうが、もはやトンマンは揺らがなかった。毎日、朝起きると食事の前にピダムと並んで鎮護国家の為に仁王経を読み、次に赤子が元気に産まれるよう祈った。トンマンにも、高齢出産に対する不安はある。ちなみに、ピダムはトンマンの無事のみをとにかく祈った。
 また、無闇に走らないようにと、今のトンマンは公主だった頃の装束を身に付けていた。夏に相応しい空色のその装束は、佳穏亭にミシルを訪ねた時のもので、トンマンにとってもピダムにとっても思い出深い一品だ。少し若々し過ぎるかとトンマンは恥じらったが、ピダムは誉めてなだめて脱がせなかった。大人しくしていてくれるなら、なんだって言うつもりらしく、過去のトンマンの言葉を掘り起こして、毎日公主時代の夏の衣裳を着るよう説得した。

「『衣裳櫃の肥やしにするのは勿体無い』と仰っていたじゃありませんか」
「でも、娘が産まれたら着せたいから、今着るのは……」
「『まずは、ちゃんと平安に御産を終えることを考える』とも仰ったでしょう」
「まあ、それもそうか」

 実は、トンマンは徐羅伐にいた頃の装束のうち、外出時に使っていたものは全てこの家に持ってきていた。もっと言えば、乱の後の療養期間に女官や事情を知る女人達の縫ってくれた種々の衣をトンマンは嫁入り仕度として運び込み、今は、それらの衣のうち、ゆったりとした作りのものや、あまり動きづらいものを着ていた。トンマンが縫うのは、専ら産まれてくる赤子の為のものだけだ。
 また、その女人達の縫ってくれた衣は千差万別で、女官長の仕立てたものはとにかく華麗でよくトンマンの肌に馴染み、マンミョン夫人のものはトンマンの年齢相応に落ち着いた色合いで着心地が良く、しかし残念なことに、少々ピダムの受けが悪い。ユシンが寄越した妻ヨンモからのものは、トンマンが着るには若干愛らしい上に少しぶかぶかしていて、見ている分にはときめくが、着るとなんだか気恥ずかしい。アルチョンの妻シンガンは、皆が絹の衣装を寄越す中、花郎の装束よろしくよく練れた麻で動きやすい衣装を仕立てた。他にも、髪飾りや耳飾りはチュンチュが選りすぐった品々を贈ってくれたので、とかく着るものに困ることはない。
 質素極まるピダムの荷物とは真逆だが、トンマンは「絹や宝飾品は財産だ」と、常日頃は、シンガンの仕立てた衣以外は大切にしまっていた。自分で楽しむより、いつか産まれるかもしれない我が子へ遺そうと考えた為だ。
 が、トンマンと比べて蓄財に無頓着なピダムは、せっかくもらったのだから、着てしまえばいいのにと思いながら、女王だった頃お忍びの際に着ていた衣裳か、麻の衣しか着ないトンマンを見つめていたのだ。おかげで、ピダムは予想以上に膨れた腹に怯えつつも、華やかな衣に包まれて煌めくトンマンの姿を独り占め出来て、幸福なことこの上ない。……迫り来る御産さえ、なければ。

(何かあったら、どうする……?)

 どうするも何も、御産に関してはただトンマンの力に任せるしかないのだが、あれこれと考えずにはいられない。早産だったら、逆子だったら、上手く産まれなかったら、後産が下りなかったら、難産で力尽きてしまったら。心配事は山のようにピダムの前に立ちはだかり、夜になると、夢の中では、病に苦しんでいた頃の、青褪め、やつれた姿をしたトンマンが力なく彼に手を伸ばした。

『ピダム……』

 消え入りそうな声でなんとか彼を呼んで、それきり瞼が動かなくなる――そんな夢を見て、汗だくになって起き上がったのは、一度や二度ではない。良い夢など、見た試しがなかった。

「ん……」

 そんな時、すぐ傍にある豊かな黒髪が波打って、すきま風に仄かに声を立てているのを見ると、ピダムは一も二もなく夜着を被った。近頃のトンマンの眠りは、元気一杯の胎児に蹴られて覚めることも多い。せっかく良く眠れている幸運な夜に起こしてしまうなど、とんでもない。
 そうして夜着を直していると、ピダムの眼差しは自然とトンマンに吸い寄せられた。伏せた睫が作り出す淡い影、微かに光を宿す柔らかそうな唇、多少丸みを帯びて、透き通るような頬。それらが織り成すあどけない寝顔は、昨夏のそれよりもさらに寛いで、無防備だった。
 その時ふと、ピダムの瞼に別の光景が蘇った。まだトンマンが仁康殿にいた頃、彼が上大等になって間もない頃の一夜が。
 あの時、トンマンは彼に寝かしつけられて、確かに穏やかに寝入ったように見えた。けれど、今こうして見下ろしている寝顔と比べると、あの時の寝顔は、心から安堵したものではなかったのだと痛いほどに感じられた。
 ――二人で隠棲して、身籠って……これで、トンマンはやっと安らぎを得たのか。ただ結ばれただけでは、安らぎは得られなかったのか。夫婦になって、その証を授かって、漸く安らげる……それが、トンマンだったのか。
 知っているようで知らなかった彼女の本当の姿を目の当たりにしたピダムは、刹那、眉を寄せた。けれどもすぐに愁眉を開くと、再び妻に寄り添った。……きっと、そうして欲しいと願ってくれているだろうからと。



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  1. 2012.09.13(木) _20:00:00
  2. 隠居連載『蕾の開く頃』
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