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善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

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鳥羽院と藤原泰子(高陽院)の前半生

更新するネタがない!ホントにない!!ネタはあるけどSSになってない!!←

いきなりこんな挨拶ですみません(汗) こんなブログでもコメントをくださる皆様、ありがとうございます。毎日トン&ピのことを考えているのに、どうしてSSにならないのか、歯がゆいです…スランプ…。ところで台風が猛威をふるっていますが皆様大丈夫でしょうか。

あ、これだけは言わせてください。

ヨウォンさんのお姫さまのご誕生をお祝い申し上げまーす!(*´▽`*)

いやー無事にお生まれになっててよかったよかったv 姉妹でトンマンとミシルごっこや、トンマンとチョンミョンごっこや、トンマンとソファごっこが出来ますねv ←えっ

そう言えば『奇皇后』に善徳女王で見た人がいっぱい出てるので第一話だけ副音声で見てみたのですが、脚本が『テジョヨン』の脚本家さんなもので、笑うしかないというか、まじめに感情移入するにはつらいものがありました(笑) 武将のハジョンはカッコよかったけど!というか、ハジョンの役者さんはホントすごいですね。おバカなハジョンから見始めて、軍師、悪役の武将と三回見ましたが、毎回全然違う人に見えます。上手いな~と唸りました。
さて、『テジョヨン』ではお月様将軍とか能面くんとか変なあだ名ばかりつけていましたが、奇皇后はどうなるでしょうか。そして、果たして今夜放送の第二話を私は見るのでしょうか!?←

その他直近のネタと言えば、鳥籠さんでしょうか。
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(2014/08/08)
篠原 千絵

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表紙を見ると裸の金髪男が寝そべっているという、どんなジャンルのマンガだよwwと突っ込みたくなりますが、恐らくロードス島攻防戦を日本一詳細に描いた本じゃないでしょうか。見開きでオスマン軍の進軍経路やら、ロードス島の城塞と包囲網が描かれていたり、すごいです。

あ、私生活を言えば、ネズミの国に行って、謎解きしたりもしました。
IMG_0531.jpg
ぼーん!

途中でこのように火山が噴火したりもしましたが、無事100%解けました!わーいわーい。


さてさて続きは日本史の待賢門院ネタです。今回はちょっと脇道にそれて、高陽院を取り上げてみました。
かなり前に書いたものなので、(見直しはしたのですが…)あれこれ変だったらすみません(汗)




* *


●摂関家嫡女の系譜●
後に高陽院藤原泰子と呼ばれるようになる姫君が誕生したのは、嘉保二年(1095)、父藤原忠実十八歳、母源師子二十六歳の時でした。ところが、当時の日記には、忠実に娘が生まれたことは全く記されていません。代わりにあるのは、「七月五日に忠実の嫡妻が男子を出産した」と言う記事です。実は当時、師子はいわゆる日陰の身であり、その娘も「わき腹」の娘であるため、その誕生を大々的に祝福される立場ではありませんでした。
忠実の嫡妻は、すでに結婚して七年目になる正室源任子。村上源氏の当主たる左大臣俊房の娘で、忠実の元服に伴い婚姻した女性です。すでに前年に忠実の長女を産み、正五位下にも叙されています。一方の師子は、俊房の同母弟顕房の娘で、三、四年前に白河院の皇子(後の仁和寺御室覚法法親王)を産んだ後、忠実の祖母であり俊房・顕房の同母妹でもある麗子の後見を受けて、忠実の別妻となっていました。
このままでは師子の子女は庶子として生きていくことになったはずですが、康和元年(1099)六月に忠実の父師通が薨去し、任子の子女が皆夭折してしまったことにより、師子は一躍表舞台に現れます。
康和四年(1102)、三十三歳の師子は右大臣内覧忠実の嫡妻として従三位に叙され、十二月十七日、師子の姫君(泰子)と若君威徳(忠通)の着袴の儀が行われました。姫君はすでに八歳になっていて、かなり遅い着袴ですが、この八年は、師子が嫡妻になるまでにかかった年月でもありました。以後、姫君は忠実の日記『殿暦』に頻繁に登場するようになり、小さな病を幾つか経験しながらも、健やかに育ちます。
そして嘉承二年(1107)十月、十三歳の姫君は践祚したばかりの五歳の鳥羽天皇の女御代として、御禊行幸に供奉し、天皇の中宮候補筆頭として認知されました。八歳差と言うのも、忠実と師子を見れば不安要素ではなかったはずです。
しかも、忠実と天皇の祖父白河院は共に姫君の入内を望み、何度も話し合っていたと言うのに、何故か天皇が元服しても入内が決まりません。忠実は『殿暦』に、入内成功を祈る祈祷を行ったことと同時に「思うところがあり、今は入内を行わない」と記しています。「思うところ」が何なのかは様々に推測されていますが、不吉な兆しがある度に尻込みしている白河院を催促するなど長男忠通と院姫君(藤原璋子)の婚姻には積極的なところを見るに、白河院自身に文句があるわけではなさそうです。

やがて即位から十年が経ち、痺れを切らした白河院は永久五年(1117)の天皇十五歳の冬十二月、ついにその養女藤原璋子を入内させ、翌年二月には立后させてしまいます。姫君が手にするはずだった中宮の座が、埋まってしまったのです。その上、十八歳の中宮璋子と忠通との縁談は七年にも及ぶもので、この二人も婚姻するものと思われていました。つまり、姫君にとっては、義妹として手を携えて生きるはずだった少女が、生涯最大のライバルに変貌してしまったわけです。姫君の人生は一変しました。
とは言え、鳥羽天皇にとっては関白忠実は即位以来のパートナーですから、中宮となった璋子が貴族社会から第一皇子を出産して、その皇子が「皇太子」として認識されて一定の地位を築いた後になって、天皇は内密に姫君の入内を打診しました。しかし、そもそも異母弟との迭立を回避するために譲位を決行して以来政治の第一線で生きてきた白河院が二后並立を許すはずもなく、天皇の要請から約一年後の保安元年(1120)十一月八日、白河院はついに「関白(忠実)の姫君の入内は許さない」と表明し、四日後、十八歳の天皇は忠実の内覧を停止します。当然と言えば当然のことながら、若い天皇は院政を始めて二十年になる六十八歳の白河院との全面対立は回避したのです(というより、あっさり引き下がったところを見るに、そもそもどこまで本気で姫君を入内させるつもりであったかも不明瞭です)。
翌年正月二十二日、忠実は関白を辞任し、宇治での籠居を余儀なくされます。姫君の入内の望みも潰え、恐らく姫君も、宇治に移住します。すでに姫君は二十七歳になっていました。
ちなみに、宇治は姫君も何度か訪れたことがあり、また、宇治にある法定院には、忠実の大伯母にあたる四条宮こと太皇太后寛子が暮らしていました。寛子は平等院を建立した藤原頼通の娘で、父から莫大な遺産と荘園群を相続し、八十歳を超えてなお摂関家の女主として重きをなしています。そんな寛子にも、かつては、後冷泉天皇の皇后となりながらも子女を儲けることが出来ず、つらい思いをした時期がありました。
実は、道長の末娘嬉子が後冷泉天皇を出産して以来、もう百年も摂関家の娘から天皇が誕生していません。姫君には百年振りの栄光が求められてもいましたが、今や姫君はその機会を永遠に喪おうとしていました。


●異例の院参●
大治四年(1129)の七夕、天皇経験者としては破格の長寿を保った白河院も、ついに崩御の秋を迎えました。あくまで気丈な白河院は、「姫君と鳥羽院の婚姻はならない」と言う遺言も残しましたが、裏を返せば、璋子が待賢門院となって七人の子女を儲けてもなお、そのような遺言をしなければならないほど、「鳥羽院に相応しい妻は摂関家嫡女である」と言う意識が白河院にあったと言うことになります。
そうは言っても、忠実はなかなか正式に籠居を解かれず、白河院の死から二年以上が経った天承元年(1131)十一月十七日、ようやく鳥羽院と待賢門院への対面を許され、正式に政界に復帰しました。翌年正月十四日には内覧に宣下され、忠実は前太相国として政界で重きをなしていきます。鳥羽院との関係も良好で、九月二十四日、鳥羽院は忠実の本拠地とも言うべき宇治に初めて御幸し、十月には忠実を連れて高野山に参詣しました。
そして面白いことに、待賢門院と摂関家の関係も良好でした。待賢門院は白河院の生前から摂関家に対しては好意的で、白河院の反対を押し切って忠実の次男頼長と三院の対面を推進し、贈り物も用意しましたが、その好意は忠実の政界復帰後も変わりませんでした。翌長承二年(1133)二月八日に頼長が初めて春日使を務めた際には、わざわざ御幸をしてまでその様子を見物し、三日後に忠通と頼長が院御所に挨拶に来た時も、二人が退出する際の行列を見物しています。どちらも鳥羽院は参加していないことからも、国母待賢門院の摂関家との協調を何より重視する姿勢と、それによって自らの地位とその子女を護ろうというしたたかさが感じられます。

しかし、忠実の思惑は違っていました。彼は摂関家の当主であれば誰しもが望むように、娘を后にしたかったのです。
そこで忠実は、待賢門院に唯一残された同母兄、右衛門督実能と手を組みます。六年前に長兄通季を喪って以来、実能は待賢門院と家門の為に何としてでも大臣になりたいと熱望していましたが、異母兄実行との差を埋められず、もう十年も権中納言のまま足踏みしていました。忠実は頼長とこの実能の長女(幸子)を婚姻させ、代わりに姫君の婚姻も承諾させようと考えたようです。
肝心の鳥羽院はと言うと、彼もまた、摂関家との縁組はやぶさかではありませんでした。何故なら、平安時代の名だたる天皇は皆摂関家の娘と婚姻し、繋がりを得ているんです。何より、関白忠通の娘聖子を中宮にしている息子崇徳天皇は、すでに十五歳になっています。歴史を見ると、関白と成人した天皇が手を結べば、院の政治力は著しく低下します。そうなる以上、二人を牽制する為にも、鳥羽院には摂関家の資産を一手に握る忠実と手を組む必要がありました。こうして、この年の四月から五月にかけて、姫君の院参(入内の院バージョン)が決定します。鳥羽院は側近の受領たちに、急ぎ院御所の一つ土御門東洞院第を修造させ、姫君の御所に定めましたが、事が露見しないようにさせていたようです。

さて、そんな中、待賢門院は五月十八日に院参の噂を耳にし、六月二日、正式に鳥羽院から院参を告知されます。同じ頃、実能もその長女と頼長の婚姻を告げ、苦悩する待賢門院に二つの婚姻を納得させようとしています。そして、ついに待賢門院も実兄の説得に陥落しました。忠実が実能と手を組んだことは、間違いではなかったわけです。
待賢門院の了承を受けて、十一日、鳥羽院は白河北殿に移って待賢門院との同居を一旦解消し(十四日の昼には密儀で待賢門院御所に御幸して、一緒に田楽見物をしたりもしていますが)、婚姻の前準備を始めました。さらにその日の内に忠実に「姫君との婚姻を行う」という院宣を下し、正式な宣下を受けた忠実は急ぎ支度に取り掛かります。つまり、鳥羽院は最初に待賢門院の了承を取り付けてから、新婦である姫君側にその意思を正式な形で伝えたわけです。婚姻の日まで二十日もない中での、慌しい支度が始まりました。
六月十九日、頼長が婚姻したその日に、ついに姫君の院参定が行われました。婚儀前日の二十八日には、鳥羽院が土御門東洞院第に御幸して御所を検分しています。それによると、姫君と鳥羽院の御在所は共に寝殿で、東面を姫君が、西面を鳥羽院が使うことになっており、姫君の女房の局は合わせて十六もありました。鳥羽院はその夜、鳥羽殿に方違えして翌日に備えています。
明けて二十九日の暁、鳥羽殿は白河北殿に還御し、姫君は初めて土御門東洞院第に渡御しました。その行列の前駈は摂関家縁の公達や諸大夫十人、その後ろに姫君と師子の車、女房の網代車三両、忠実の車、女房の車二両、最後に昵懇の公卿二人が続きました。女房は合わせて二十人と中宮クラスではありますが、意外にも公卿の数は少なく、あまり物々しくはありません。
その代わり、酉刻(17~19時)に鳥羽院が白河北殿から土御門東洞院第に御幸する際は、右大臣以下十五人もの公卿がお供をしました。土御門東洞院第では、姫君側の公卿として、忠実、忠通、内大臣藤原宗忠(『中右記』著者)らが宿直しています。
亥刻(21~23時)、鳥羽院から側近藤原顕頼が使者として姫君に遣わされ、姫君からは関白忠通が使者として遣わされると、亥刻も終わり頃、鳥羽院が姫君の御在所に入って一夜を共にしました。この日から三夜、七月二日まで婚儀は続き、以後、姫君は「院の上」あるいは「院女御(※正式な女御宣下はなく、あくまで通称)」と呼ばれるようになります。時に、姫君三十九歳、鳥羽院三十一歳でした。

ただし、院が妻となる女性の寝所に渡御して婚姻するという形は物議を醸しました。そもそも、后妃が天皇の寝所に参上して婚姻するように、天皇や院はあくまで花嫁を迎える側になる、というのが一般的な方法だからです。ところが、鳥羽院はわざわざ新たに御所を用意し、それを院の上の御所とした上で婿入りしています。このような例は、藤原道長の娘が小一条院(東宮を辞退して院号宣下をされた人物)と婚姻した時以外にはありません。
鳥羽院のこのやり方からは、少なくとも二つの意図が感じられます。まずは、鳥羽院自ら姫君の御所を用意し、正式な婚儀を行うことで、姫君を歓迎し、尊重しているという意思をアピールすること。もう一つは、同居している妻が第一の妻として扱われる当時において自分の御所に迎えずに通い婚形式を取ることで、「院の上とはあくまで通い婚であって同居はしない、第一の妻ではない」と言うことを内外に示したのだとも取れます。

鳥羽院は婚姻から三日後の七月三日、白河院の命日まで五日間行われる法華八講に臨御する為に、白河北殿に戻りました。七月は白河院と堀河天皇の命日があるので、鳥羽院は毎年忙しく過ごしていますが、忙しくなるとわかっていながらわざわざその直前に婚姻をする必要があったのか、ちょっと疑問も残ります。


●逆風の中での立后●
鳥羽院と院の上の夫婦生活は、始まって三日で中断されて以後、長く再開されませんでした。それと言うのも、いざ婚儀を終えた鳥羽院は、待賢門院への対応にかかりきりとなった為です。(ちなみに、天皇の二后並立は前例のあることですが、唯一無二の国母がこのような屈辱を味わうことは前代未聞ですから、国母の待賢門院と、すでに成人しつつある崇徳天皇の思惑に鳥羽院が神経を尖らせるのは、当然っちゃ当然ではあります。)
七月六日、鳥羽院は待賢門院を自身の御所である白河北殿に連れていき、再会した二人は共に落涙しました。しかし、九日に院の上の立后が大々的に噂されると、鳥羽院は「待賢門院が鳥羽院を呪詛しており反逆罪の疑いがある」として、待賢門院と親しい高僧らに極秘で詮議を行うことで高僧らが待賢門院に与しないようプレッシャーをかけ、巧妙に待賢門院を孤立させています。
この頃の待賢門院は、この婚姻を自身の重厄によるものと感じ、これ以上の禍がないようにと、高僧らに厄を払うための祈祷をさせていました。鳥羽院はそれを逆手にとって、祈祷を呪詛と位置付けて待賢門院から高僧を遠ざけ、待賢門院自身にも自身への服従を求めます。(この時の待賢門院の呪詛疑惑は、後に彼女が落飾した時の事件と相通じるものを感じなくもないですねー。これがグレードアップしたバージョンというか)

一方、その間も婚儀以来同居すらしてない院の上の側では『婚儀』が進み、七月五日には院の上の政所と侍所を十三日に始めることが決定し、九日までに「家司は院が、職事は摂関家が選ぶ」旨の院宣が下りました。そして予定通り、十三日に所始は行われ、家司、職事などが正式に任命されましたが、何故か院の上への叙位はなく、鳥羽院も、待賢門院とは過ごしても土御門東洞院第には全く訪ねてきません。
しかも、婚姻の後、忠実は院の上の立后を考えていましたが、鳥羽院のみならず息子の忠通からも立后に反対され、忠実は嘆きます。二人が反対したのは、第一に上皇夫人の立后には前例がない為でしたが、本音を言えば、鳥羽院は待賢門院の、忠通は娘聖子の権威を護る為に反対したのではないでしょうか。その上、鳥羽院の長女禧子内親王が病脳し、十月に薨去した為、年内の立后を言い出せる状況ではなくなってしまいます。
このような情勢を前にした忠実は、今度は鳥羽院の若き寵臣である播磨守藤原家成に狙いを定め、彼から鳥羽院に院の上の立后を嘆願させます。実能の時と同じく、目的の為なら格下の者やかつて敵対した相手でも手を組むという、忠実のしたたかさが見えてきます。

何はともあれ、忠実の作戦はまたしても効を奏しました。翌長承三年(1134)三月一日、忠実は忠通と内大臣宗忠を呼び出し、院の上の立后が内々に議定され、鳥羽院から立后の次第について話があったことを語ります。宗忠によれば、忠実はこの上なく上機嫌でした。
翌日、院の上は「勲子」と命名され、ようやく従四位下に叙されました。さらに即日准三宮に宣下されて五百戸の封邑を与えられ、立后の日程も「八日に立后宣下、十九日に宣命」と発表されました。ちなみに、命名に関しては「勲子」の他にも「君子」が候補に上がり、一体どちらにするかが暁(!)まで話し合われています。
また、忠実は鳥羽院からどの后の先例に従って儀式を行うのか問われて、醍醐天皇の養母で藤原基経の娘温子が、醍醐天皇の即位と共に皇太夫人に立った寛平九年(897)の例を用いると答えています。鳥羽院は、それなら皇子に恵まれなかった温子より、その異母妹で朱雀・村上両天皇を産んだ穏子の例を用いてはどうかと提案していますが、何故か忠実は温子も吉例だからと変えませんでした。
一体、温子の何が吉例なのか。一連の流れを記録している宗忠は語りませんが、温子と言えば、「先妻が早世した為に、先妻の遺児(醍醐天皇)の養母となり、国母になった」人物です。数えとはいえ、すでに四十歳となった上、鳥羽院との同居もない娘勲子の現状を見た忠実は、勲子の皇子出産よりも、待賢門院の崩御と、それによって勲子がこの時十六歳の崇徳天皇の養母として国母になることを現実的な夢として望んだのではないでしょうか。

五日、土御門東洞院第では立后定が行われ、定文の例としては白河院の祖母陽明門院が用いられました。そして九日の夕刻、予定より一日遅れて勲子に立后宣旨が下り、勲子は土御門東洞院第から東三条殿に退出し、東対を御所としました。忠実の母一条殿こと藤原全子も、孫娘の晴れ姿を一目見ようと宇治から上京しました。
ところが立后宣下があったこの日、鳥羽院はと言うと、待賢門院を連れて石清水八幡宮に参詣し、白河北殿に還御したのは夜半と言う有り様でした。忠実や忠通はこの御幸にも供奉しており、立后を前にじっと沈黙を守る待賢門院に対する配慮が見て取れます。
十四日からは立后の支度が本格的に始まりましたが、忠実は生憎と十五日から十八日まで病にかかり、その間は消息で支持を送るにとどめています。鳥羽院はと言うと、立后の為に退出した女御などには書簡を遣わすのが一般的であるにも関わらず、一向にその気配がありません。

こうしてついに訪れた三月十九日は、麗らかな日でした。ところが立后の儀式は天気とは裏腹なものになります。
まず午刻(11時)に宗忠が参内すると、崇徳天皇に仕える蔵人弁資信が「准三宮勲子を皇后宮として立后させるにあたって、今の皇后宮令子内親王を太皇太后宮にすることになったが、皇后宮がいきなり太皇太后宮になった先例はない」と言うのです。勲子の立后を後押ししてきた宗忠は、「太皇太后宮とは言わば帝の祖母である。今の皇后宮令子内親王は鳥羽院の養母であるから、帝には祖母にあたられる。太皇太后宮となるのに何の不都合があろうか」と論破しますが、不穏なスタートです。
その後も左大臣藤原家忠(忠実の叔父)を始めとする人々は未刻(13時)にようやく参内し、鳥羽院からの返事も遅れた為、宗忠は憤懣やる方ならず、日記に「このような沙汰は昨日の内にあるべきなのに、この大事を当日に沙汰するとは、懈怠の源である。公事が不便である」と怒りをぶつけています。
また、勲子と言う名前も「勲は読みがわからない。改名すべきだ」と問題になり、泰子と改名されました。(このことから、この当時、女性の諱の読み方が社会に知られていないだけでなく、読み方すらはっきりとしない漢字を諱に用いたこともわかります。)
こうして、申刻(15時)にやっと「皇后宮を太皇太后宮に、従四位下藤原泰子を皇后とせよ」と仰せが下り、宣命が作られましたが、天皇は咳病を理由に、紫宸殿で行うべき皇后宮職の任命式を清涼殿の簾中で行いました。
日が沈む頃、東三条殿ではようやく饗宴が行われました。しかし、内裏からは泰子の理髪の為に少輔典侍藤原能子が来るはずなのに、刻限になっても現れません。他の内侍、命婦、女蔵人らも「主上(天皇)の仰せがないから」と現れず、結局匂当内侍の美濃だけが参上し、内裏女房の為の禄を全て賜りました。が、参入しなかったのは内裏女房だけではなく、公卿では右大臣源有仁を始め、待賢門院の近親や鳥羽院の側近ら十人が饗宴を無視し、鳥羽院もそれを罰することはありませんでした。
しかも、四月九日に土御門東洞院第への行啓を終えた泰子の元へ鳥羽院が赴くのは、なんと四ヶ月後の八月二十三日のことでした。その上、滞在は二泊三日と非常に短く、もはや鳥羽院には泰子との間に子女を儲ける意思がないことは明白です。つまり、鳥羽院は泰子を妻の一人にはしても、待賢門院と長男崇徳天皇の座を揺るがせるつもりは全くなかったと言えます。


●まとめ●
鳥羽院と藤原泰子の婚姻は、待賢門院と崇徳天皇の凋落を示す出来事とされています。
が、実際には、崇徳天皇には一人娘聖子を入内させ、天皇の後見役になっている関白忠通がいて、忠通には姉泰子から皇子が誕生することを望まない理由がありました。それは、忠通にはもうその皇子に入内させる娘がいないという厳然たる事実です。一人娘を、ひいては自分自身を護るためにも、忠通には出来る限り崇徳天皇を護る必要がありました。
そして、肝心の鳥羽院にとっても、重要なのは「泰子と婚姻し、一方で待賢門院を護ること」でした。確かに待賢門院は白河院という最大の後見を喪っていましたが、待賢門院は同時に、歴史的にも権威を持つ国母であり、鳥羽院にとっては彼の意向をよく汲んで時には白河院とも対立もしてくれた重要な政治的なパートナーだからです。崇徳天皇の時代が続く限り、鳥羽院には待賢門院は必要不可欠の嫡妻でした。
その待賢門院の様子は『長秋記』に詳しく、すでに婚姻に対する覚悟は出来ていたものの、憤りと悲歎から思い悩む様子が窺えます。一方で、待賢門院は自身の子女には全くそれを悟らせなかったことや、鳥羽院への信頼が一気に失われたことを感じさせる冷ややかな言動も垣間見えています。すでに入内から十五年以上の歳月が経ち、その間、ほぼ同居して暮らしてきた夫婦なればこその葛藤が窺えます。
では、すでに成熟した大人であっただろう泰子自身の考えはどうだったのかというと、実は両親に囲まれている泰子自身の言葉は何一つ残されておらず、推測するしかありません。それでも、三日間の新婚生活以後、一年二ヶ月も会いに来なかった夫に対して、どこまで夫婦としての感情を持てたかは、疑問が残ります。ただ、泰子の気苦労の多い前半生や育ちを思えば、軽々しく自身の感情を見せることはなかった、あるいは許されなかったであろうと思われます。
いずれにせよ、この段階では泰子の個性は日の目を見ていません。泰子の人物像は、この後、養女の叡子内親王を迎えてから、異母弟頼長の目を通して綴られていきます。





管理人、待賢門院はもちろん好きですが、高陽院と美福門院も好きです。この三人は、後宮というジャンルで見た時、すごく画期的な人生を送っていますし、それぞれに濃ゆくて、いつかこの三人を主役にした物語が書けたらいいのになーと儚い夢を見てしまいますw
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  1. 2014.08.10(日) _16:46:19
  2. 待賢門院藤原璋子
  3.  コメント:2
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  1. 2014/08/17(日) 20:52:29 
  2.  
  3.  
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すごく勉強になりました!

  1. 2014/08/18(月) 08:20:59 
  2. URL 
  3. ゆきめ 
  4. [ 編集 ] 
高陽院泰子の記事、とても興味深く拝読しました。
鳥羽院や忠通の思惑というか本音が彼らの行動から窺いしれて、そうだったのかーとなりました。

忠通としてはその時点では聖子に皇子誕生の可能性があり、崇徳院ではなく鳥羽院に肩入れする理由はなかった。
その時の状況を細かく見ていくことが重要なのですよね。
つい忘れがちになってしまいますが(汗)。

待賢門院は赤子の臍の緒を切ったことからもわかるように、なかなか気丈で気の強い女性でした。
まあ国母として子供を守る母親なら気が強くて当たり前、という気もしますが。
そんな待賢門院のことを「守ろうとする」鳥羽院という表現が素敵です(*^^*)
歴史書を読むと事実だけが書かれるためどうしても鳥羽院が待賢門院をないがしろにしたと読めてしまうのですが、実際にはものすごくフォローをしているのですよね。

高陽院は男女が一緒に寝ている扇だったかな?を捨てさせたという逸話から男嫌いと書かれたりしています。
でも私は結婚が遅かった自分を恥じる慎み深い女性だったんじゃないかな~と思っています。
潔癖症だったかもしれませんけど。

まあ実際のところはわかりませんが、自分の小説で高陽院はそうした設定にしています。
マイブログで「私本保元物語・私本平治物語」という小説を書いています。
高陽院は「法皇の死」というパートから登場します。
緋翠さまは博識で造詣が深くていらっしゃるので、なんだか恥ずかしいのですけれど、良かったら私のブログにも遊びにいらしてください。

長々と失礼しました。
ではまた♪


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