善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

RhododendRon別荘

.

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --.--.--(--) _--:--:--
  2. スポンサー広告
  3. [ edit ]

はるばる唐から来た人は~♪ ※加筆

酷い暴風ですが、皆様無事おうちに帰れましたか?( 」´0`)」 濡れた方は風邪にお気をつけてー!

続きは、女王時代に纏わる歴史ネタです。


* *


●トンマンの南光坊天海●

『花郎世紀』によると、ホリム(ホジェのモデル。十四世風月主)は風月主の任期中に、「世俗五戒」で有名なあの円光法師の父・ポリ沙門によって受戒し、それによって仙花と呼ばれた花郎に仏教を広く知らしめ、仙仏融和に一役買っています。
また、ホリムとユモ(ハジョン娘)の息子ソンジョンは、受戒して慈蔵法師と号し、善徳女王時代には唐へ渡り、帰国後は国統となって芬皇寺に住み、皇龍寺の九重塔を建てさせました。(着工は645年3月で、完成は翌年)
この慈蔵法師は、トンマンの従兄弟であり、尚且つトンマンの治世におけるキーパーソンでもあります。

三国時代の僧侶は、端的に言えば、宗教者と言う鎧を纏った高学歴のスパイみたいなものでした。三国のみならず、唐や日本とも、僧侶を行き来させ、互いに人間USBな彼らから情報を得ていたわけです。
そして、世界中どこでも、乱世では宗教者が調停役として飛び回るように、彼らは優秀な外交官でもありました。
と言うわけで、トンマンの従兄弟である慈蔵が636年に唐へ渡った一番の目的は、真徳女王時代にチュンチュがそうしたように、女王の近親者として自ら人質になり、唐との親善を図ることだと考えられます。事実、643年に慈蔵が帰国してから、翌年の正月には唐の太宗李世民は高句麗遠征を本格的に開始し、新羅も645年5月には3万もの兵を出してそれを助けています。
ここら辺の出来事を年表にすると。

644年
1月 新羅、百済、使者を唐に派遣して朝貢。唐、高句麗と百済に告諭、ウィジャは表文を差し出して陳謝するが、高句麗のヨン・ゲソムンは唐の使者・相里玄奨が来た時には兵を繰り出して新羅の二城を破っており、ポジャン王が呼び戻すも、玄奨の言には従わない。百済、王子のプヨ・ヒョ(孝)を太子に立てる。
2月 この頃?帰国した玄奨から話を聞いた太宗は、高句麗討伐を決意。
7月 太宗は出兵準備を開始。洪州・[食堯]州・江州の三州に命じて兵糧の為の船四百隻を造らせ、幽州・営州の都督二人に、彼らの兵と、契丹・奚・靺鞨の兵を率いて遼東を攻撃させ、高句麗の反応を確かめる傍ら、黄河以南からの兵糧輸送ルートを海路に設定する。
9月 高句麗、銀と官吏を唐に送って討伐を思い止まらせようとするも、失敗。トンマン、ユシンを上将軍・蘇判に任じて百済を討たせ、大耶城近辺の加兮城など七城を奪取。
10月 太宗、出陣を言い渡す。
11月 太宗、洛陽に到着。長安と洛陽で兵三千を募集し、戦艦五百隻を莱州から海路で平壌(高句麗の首都)へ。李世勣に歩兵及び騎兵六万、蘭・河二州の胡人を率いて遼東に赴かせる。諸軍及び、新羅・百済・奚・契丹に命じて、高句麗を討たせる。日本では、蘇我蝦夷・入鹿親子が、甘樫丘に邸宅を築き、軍備を整える。(←唐の遠征を受けてのものか?)
645年
1月 李世勣が幽州に到着。
3月 太宗、定州(河北)に到着。
4月 高句麗の建安城、蓋牟城が破られる。
5月 高句麗の卑沙城、遼東城、白厳城が破られる。百済、新羅が唐の高句麗遠征に兵を徴発されると知って、その隙に新羅の七城を襲い取る。ユシンが応戦する。唐軍、安市城を落とせず、大打撃を被る。(5月~9月にかけてのことか?)
6月 12日、飛鳥に三韓の使者が訪れ、貢物を捧げる儀式を執り行う中、蘇我入鹿が暗殺される。(乙巳の変)※ 13日、蘇我本宗家が滅亡。 14日、孝徳天皇が即位、中大兄皇子が皇太子となる。
9月 古人大兄皇子が謀反の罪で処刑され、蘇我本宗家に組した有力者は完全に消えた。
10月 太宗、撤退命令を出す。高句麗は十城を陥落され、七万人を唐に連れていかれた。高句麗も唐も、三大戦で死傷者甚大。(太宗は2月に長安に着く)
11月 新羅、伊[冫食]のピダムを上大等に任じる。
12月 内陸部の飛鳥から、海に近い摂津の難波長柄豊碕宮(大阪城のすぐ傍)へ遷都。

※……この事件は、国際情勢を見ても、中大兄皇子が重臣暗殺などと言う、諸外国に付け入る隙を公的な場で見せるのは有り得ないので、使者と言うのは入鹿を暗殺する為の謀であって、本当の使者は来ていないと考えるのが自然に思えます。むしろ、この時の高句麗は絶体絶命だったことから、日本に援軍を求める使者が来て、援軍を出すか否かで対立があり、中大兄皇子が強硬手段に走ったとも考えられますねー。

こうやって見ると、ユシンは高句麗遠征軍を指揮してはいなくて、アルチョンの名前もなく、三万もの軍勢を率いたのが誰なのか、全くわかりません。
んで。思うに、この時三万の軍勢を率いたのが、ピダムだったのではないでしょうか。そして、遠征直後の11月に上大等になったのは、高句麗に大打撃を与えたことによる論功行賞の人事だったのではないでしょうか。

トンマンはその治世の間、一貫して唐に訴えたのは、高句麗と百済に対する征伐でした。新羅はどちらへも出兵出来るので、どちらを攻めるかは唐に任せたわけです。
が、唐はまず地続きの高句麗を伐ちに往き、滅ぼすつもりが力及ばず、打撃を与えただけで撤退してしまいました。そしてこの間、トンマンの父方の従兄弟であるユシンは百済との戦線を担当し、チュンチュは私怨もあって、百済滅亡を望んでいます。
特に、641年に即位した百済王ウィジャは高句麗よりずっと好戦的で、日本にも重臣である佐平を送って友好を結ぼうとしました。乙巳の変により力を持った日本の中大兄皇子は、646年9月には、それに応えて任那の支配権を百済に渡すよう新羅に求め、人質を要求します。疲弊した唐は、暫くは征伐軍を出せないことを見越した上での要求です。

つらつら考えるに、ピダムの乱は、高句麗戦線の手詰まりにより、外交方針の転換を迫られる中で起きています。
そして、善徳女王のブレイン慈蔵法師が、658年まで生存しているにも関わらず真徳女王時代には全く出てこないのも、彼が高句麗戦線の軍師的なポジションにいた為に、ピダムの乱を契機に失脚したからではないか…と思いまして。慈蔵法師だから死なずに済んだのかなーと。





●太宗李世民の和蕃政策●

『三国史記』によると、643年9月に、救援を求めて唐に赴いた使者に、唐の二代皇帝太宗李世民(←ミシルの「このミシルと話がしたいなら、李世民を連れてこい!」の台詞の世民さんです)は、三つの策を提示しています。

1.辺境の兵に契丹と靺鞨の兵を合わせて遼東に攻め入れば、高句麗と百済は警戒して一年は攻勢を止めるだろうが、本格的な征伐軍でないとわかれば、さらに攻勢を強めるだろう。
2.数千の軍服と軍旗を支給するから、それを用いて新羅の兵を唐の兵に化けさせれば、高句麗も百済も怖じ気づいて逃げ出すだろう。
3.百済は、海を天下の嶮と考えて油断しているから、数百の船に唐の兵を載せて、百済を直接襲撃する。ただし、女人が王である限り、新羅は軽んじられるであろうから、唐の皇族を一人遣わして、王としたい。当然、唐の軍を遣わしてその王を護衛するが、新羅が安定すれば、軍は引き、あとはそちらに任せる。

調べてみると、この話は太宗の外交方針をよく表現していて、なかなか面白いんですね~!
まず、1と2は要するに「権威は貸す」けど、「軍は出さない」と言うことですね。隋は高句麗遠征で滅びたようなものですから、慎重な姿勢を見せるのは当然です。
問題は、三番目。よく「唐にバカにされ~」と善徳女王が表現されるのは、この「女が王なんてダメ。うちの皇族一人やるから、王を変えたら」逸話も一役買っています。
んが、唐と言う国は、いわゆる漢民族の儒教国家とはかけ離れた、北方の鮮卑系が打ち立てた国家です。気っ風が違います。
特に太宗の頃は、まだまだ遊牧民気質が強く、女の人は堂々と顔を出して馬に乗って街中を往き、打鞠(ポロ)をして遊びました。遊牧民は、夫が外で狩りをしなければならない為に、妻が家政(財産)を一手に握ります。事実、太宗の息子の嫁は、これから半世紀も経たないうちに則天大聖皇帝として即位し、15年も皇帝であり続けました。唐の家臣は、それを受け入れられるだけの精神的土壌があったわけで、その唐の太宗が、新羅の女王に必要以上の嫌悪感を抱く理由はありません。

しかも、太宗は始めから「国が安定すれば、兵は引くし、あとは任せる」と言っていて、これは太宗の外交政策を見るに、詭弁とは思えません。
何故なら、太宗は漢民族が蕃族と嫌う西域の高昌国や吐蕃国や、長年対立していた東突厥などの諸民族を、積極的に都・長安に受け入れ、一方で彼らに一定の自治を認めて唐はあくまで間接統治に徹すると言う、羈縻政策を執っていました。
加えて、太宗は軍事的に重要な民族の首長には、和蕃公主と呼ばれる皇族の娘を親善大使として嫁がせると言う政策を選んでいました。
個人的に、三番目の策は、この和蕃公主の男版ではないかと思うんです。

太宗の時代の和蕃公主とは、太宗の本当の娘(真制公主)ではなく、名義上の公主(仮制公主)で、皇族の中から特別に選抜され、教育された女性のことを指しました。
本当の娘でないのは、いざと言う時に人質にされても切り捨てられるようにする為でもありますが、何より、和蕃公主には親善大使として、女として、非常に優れた器量が求められます。甘やかされ、世間知らずになりがちな公主に務まるような簡単な任務ではありません。
生きている限りは、命懸けで両国間の調停役とならなければならない役目を背負った女性なわけです。それも、唐にとっては大切な同盟国(格下ではありますが)に赴任する、政治的にもとても重要な存在です。(こう言う役目が女性に振られる以上、太宗が女王をバカにすることがあったとは思えないんですよねー)

つまり、和蕃公主を重視し、この時すでに二人の和蕃公主を手懐けたい国に送り出している太宗は、「新羅には女王がいるのだから、和蕃公主の男版・和蕃王を、皇族の見目麗しく賢く忠誠心に篤い男の中から選り抜き、親善大使として送りたい」と考えたのではないでしょうか。
そして、和蕃公主が一人で嫁がないように、和蕃王にはいくらかの軍を与えて送り出し、上手く新羅を手懐けさせて高句麗遠征に協力させ、ついでに和蕃王の持参金代わりに、高句麗遠征用に造った船で百済も滅ぼし、その後はもう軍は撤退させて、新羅との関係は和蕃王の裁量に任せる…と言うのが、太宗のやり方だと思うんです。必要なものさえ手にしたら、あとは固執しない、それが太宗、あるいはこの時代の唐なのではないでしょうか。

また、李世民と言う人は、協力して欲しい国に対して、国王の首をすげ替えさせて恨みを買うような真似は、していません。
それを考えると、この提案は、トンマンを廃位しろと言うことではなく、王に等しい権威を持つ地位である葛文王に唐の皇族を任命させるか、もしくはトンマンと唐の皇族を婚姻させて、新羅に唐の文化を広めて、深い友好関係に持ち込むことが最大の狙いであったと考えられます。
でも、父母の血統が最重要視される新羅の王たるトンマンは、骨品から外れた夫を迎えられないし、臣下も受け入れ難い。だから、代わりに三万の軍を派遣して、友好の証とし、世民はそれを受け入れたのかなーと。太宗は、異文化に寛容な唐前期の皇帝ですから。
と言うか、そうでない限り、真徳女王の代に同じ話が起きないのも、友好関係が続いているのもおかしいんですよね。いくらチュンチュが人質を出そうと、「女王じゃ無理」と言われるはずです。


以上、
もしかしたら、唐から超絶イケメン有能皇族が、トンマンの夫になる為に来てたかも!(*゚∀゚)
と妄想真っ盛りの4月バカ緋翠でしたw
関連記事
スポンサーサイト
  1. 2012.04.03(火) _21:05:38
  2. 新羅歴史談義?
  3.  コメント:4
  4. [ edit ]

<<思わぬところにスンマンが!@昭陵十四国酋長、蕃王石刻像 | BLOG TOP | 4月1日に頂いたコメントへの返信>>

comment

緋翠さん今晩は~v

  1. 2012/04/25(水) 23:01:11 
  2. URL 
  3. りば 
  4. [ 編集 ] 
今回、和蕃公主に食いついてますv

さてその前に。唐が遊牧民族の手で打ち立てられた国で、女は顔を出し馬に乗って街中を往来、ポロに興じたという描写は、女性が巧みに馬を操って生き生きと街をゆきかう唐の街の様子が目にうかんできそうです。女性が元気な風が吹いてた国だったんですね~vま、とりあえず当初は。

吐蕃における二人目の和蕃公主、金城公主を迎える為に使者が唐に赴いた時も、武即天の宮中でやはりポロの試合が行われたそうですね!騎馬民族のDNAを感じます。

即天大聖皇帝、という呼び名にも「トンマンは『善徳帝』だ」と言ってた緋翠さんの考えがこもってるような。即天武后が歴史の授業での覚えある名称ですが、緋翠さんの語る「即天大聖皇帝」からはむか~し一瞬通り過ぎた則天武后とは異なるにほひがいたします。この人も即位前に弥勒信仰を利用したそうで。またwikiによれば660年に新羅に応えて百済・高句麗討伐の兵を派遣したのもこの人だったということで、ドラマ善徳最終話で爺ユシン・アルチョンが墓前で語らってた戦いに派兵したのこの人かー!と。新羅の三韓一統にも関わりある人なんですねー!

さて和蕃公主なんですが。懐柔政策のように書かれたものも読みましたが、いきなり選抜される訳でなく、その目的の為に教育もされてたと聞きますと、人質同然の悲劇の美女といったヤワなイメージを払しょくする、エリート外交官のような、いったきりスパイのような姿がたちあがってきて面白いです。

〉〉この時すでに二人の和蕃公主を手懐けたい国に送り出している太宗

弘化公主と衡陽公主のことでしょうか?「太宗は弘化公主を吐谷渾王に嫁がせ、衡陽公主を突厥の処羅可汗の子に嫁がせている。」というのをネットで読んで、吐谷渾(トヨクコン)ってどこじゃいと思ったらシルクロード交易の要所なんですね。そして昭陵でスンマンと同じ東側で謁見してる阿史那思摩、が仕えた処羅可汗の息子が阿史那社爾で、そこへ衡陽公主が嫁いでいる。

思摩も面白い人ですね。東突厥にあって一度は可汗の位につきながら王が帰国すると位を返上し、唐に最後まで抵抗した軍人だったのが、国が滅びた後は太宗に忠義を称えられ官職と李姓を賜っている。この事ひとつとっても太宗は自分の手を焼かせた国・人に関わらず逆らったから許さん!というのではなく色々手を尽くして懐柔する、てのが基本だったのかなーと思えてきます。

太宗の三つの提案の話にしろ、新羅側の、しかも後の時代に書かれた書物の論調だけにこだわったらいかんのだなーと、この記事を読ませて頂き痛感しました。歴史を俯瞰で、というかさまざまな視点で見る方には当然の話かもしれませんが、じゃあその提案をした方の外交政策はどうだったんだ、とか考えたこともなかったので(恥)、視界を広げて戴いたというか視界の縮尺がものすごい勢いで左右上下に動かされてる感じです、ふおぉぉ・・・!!

〉〉ソンツェン・ガンポ

在位が630~650年と徳曼とも近いですね。吐谷渾王が唐の公主を得た事を知りうちにも公主を嫁に、と申し入れ、太宗に断られると吐谷渾を討伐の後、唐に攻め入り「国を奪いお前を殺し皇女を奪う」と太宗に書状を送ったってマジですかvそんなに嫁が欲しかったのか、というより吐谷渾と同じ扱いをしろ、て方が強いような気もしますが。

646年、息子グンソン・グンツェン王が若くして死ぬと再び即位し、息子の嫁であった文成公主と結婚。同年太宗へガチョウ型の黄金製水差し(三尺、というとデカいですよねー)を高句麗遠征勝利の祝いの品として贈ったそうで。息子の死から嫁取りまで3年空いてるので、公主が舅に嫁ぐという礼に反する行為を唐が認めるまで待ち、また認められた故の献上品でもあるのかな?とか。

昭陵入りエピソードとして、太宗逝去で即位した高宗から、公主の夫の官位と礼物を贈られ、その返礼なのか太宗の霊前に15種の金銀珠玉を供え、喜んだ高宗はさらに位と礼物追加。ソンツェン・ガンポ王の石造を刻ませ昭陵の玄室に収める。とありました。殿堂入りって感じですか。

で、結局この人の妃になった文成公主が、和蕃公主の中でも一番遠い地へ赴いたということで色々と話が盛られ、チベットに仏教を始めとする先進文化をもたらし寺も建立し、多羅菩薩にも例えられるとされたり、昨今のチベットと中国の政治情勢もからんでかドラマ化されたりと有名らしいですが、チベットに残る書物によれば、仏教を初めて持ち込んだのは文成公主でも、本格的に根付かせたのはむしろ金城(金成)公主らしいです。

・・・・・という事を「新羅仏教研究」という本で読みましたwwwなぜというに、チベットで仏教が国教化されたいきさつについて書かれたチベットの伝承の書「バシェ」に、チベットの仏教導入に新羅の王子が関わったことが書かれているそうなんです・・・!!そんな訳で吐蕃の話を延々としてる訳でしてv 長くなりましたのでいったん失礼しまーす。

りば様へ

  1. 2012/04/27(金) 23:46:48 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
りばさん、こんばんは~!(気合い入れてお返事を書いてたら、1日では終わりませんでしたw)

和蕃公主は私も本で読むなり食いつきました(爆) 王昭君は知っていましたが、悲劇イメージとは結構違ったので…。

> 女性が元気な風が吹いてた国だったんですね~vま、とりあえず当初は。

全然違うとは思うんですが、なんとなく、地方に暮らしていた人が都会に出てきたら…と言うのが重なりました。地方だと、一人一台車を持って乗ってたのが、都会に来たら段々車に乗らなくなって、ペーパーばっかになっていく感じが(笑)

> 吐蕃における二人目の和蕃公主、金城公主を迎える為に使者が唐に赴いた時も、武即天の宮中でやはりポロの試合が行われたそうですね!

そうなんですか!?おお、新情報ありがとうございます~!(*´∇`*) 親善試合みたいなものなんでしょうか。騎馬民族だったら、挨拶代わりにポロ…DNAですね。なんだか、そんな昔から「スポーツに国境はない!」だったと思うと、胸熱です!w

即天大聖皇帝と書いたのは、子供の頃「則天武后」「武則天」と聞いて勘違いしたもので(まさか皇帝になっているとは思わなかったんです(ノ∀`))、それ以来、気をつけないとなーと思いまして。この人は呼び名が多いのでぶっちゃけ今も困惑しますが(笑)、「則天大聖皇帝(皇后)」が無難かなーと…。
善徳帝と言うのも、『花郎世紀』にそう言う表記があったので、じゃあ使うか…と言う程度の話なんですがw、『花郎世紀』には「女王」「女帝」と言う単語がないのは忘れちゃイカンと思っています。

> この人も即位前に弥勒信仰を利用したそうで。

弥勒信仰って、日本でも流行りましたし、便利ですよねー。(ちょ)
そして、私もwikiを見て、「三韓一統と白村江ってこの人とだったんか!」とビックリしましたw チュンチュとユシンは、つくづく女帝に縁がありますねー(笑) 爺アルチョンも、きっと墓前で「陛下……今の唐には、ミシルのような皇后がいて、三韓一統に手を貸しています」とか報告しているんじゃないかと(え)

> 懐柔政策のように書かれたものも読みましたが、いきなり選抜される訳でなく、その目的の為に教育もされてたと聞きますと、人質同然の悲劇の美女といったヤワなイメージを払しょくする、エリート外交官のような、いったきりスパイのような姿がたちあがってきて面白いです。

私の読んだ本にそう書いてあっただけですが、実際問題、所謂『お妃教育』をせんことには出せないと私も思うんですよねー。要するに、「お金のかかる戦争を出来るだけせずに済ませたい」時の懐柔政策だと思いますし、それなら尚更、美人なだけでは意味がないと言うか。
直近の隋でも、和蕃公主は、異国の宮廷を取り仕切るだけの能力に、いざと言う時にはスパイになる胆力と、子を産み育てる力を持ち合わせているので、これはちゃんと賢くタフな女性を教育してから送り出している気がします。行ったきりスパイが、ぴったりですねv

> 弘化公主と衡陽公主のことでしょうか?

あ、弘化公主はそうですが、もう一人は文成公主のつもりで書きました。衡陽公主は、長安に住んでる阿史那社爾に嫁いだので、所謂『和蕃公主』とは違うかなーと。

吐谷渾(トヨクコン)は、聞いただけじゃどこだかわかんないですよねー(;´Д`) 調べてみると、この辺の国々は『シルクロード交易の要所』で一纏めに考えちゃっていたんですが、それぞれに色んなことがあって面白そうなので、気になっていますw

> 思摩も面白い人ですね。

わかります~!思摩は、ドラマの主人公にしたくなりますね。突厥にいるのに胡人のような容貌だったとか、りばさんも書いていた通り、生き方がとにかく潔くて。
思摩も社爾も高句麗に行って戦っていたと言うのは、考えてみれば不思議なことですし、そんな彼らに信頼され、重用して一族にしたり妹をやったり、最後には自分のお墓に陪葬までする太宗は、英雄だなぁと思いますねー。色々手を尽くして懐柔する、てのが大変なのは、ドラマを見てると痛感しますしw

> 太宗の三つの提案の話にしろ、新羅側の、しかも後の時代に書かれた書物の論調だけにこだわったらいかんのだなーと、この記事を読ませて頂き痛感しました。

うひょー!(恥)や、私も最初は勧善懲悪が苦手だっただけなので!←え
俯瞰で、と言うほどの知識はないのでw、あれこれお国柄とか人物とかを軽く舐めるぐらいです(なんかバッチイ表現ですねw) 元々一点集中するのが苦手なせいもあると思います…(え)

> ソンツェン・ガンポ

血気盛んなオッサンですよね(←コラ!)
あ、いえ、それはともかくw、太宗もそうですが、確かにトンマンと在位がほぼ被ってますね。親近感が湧きますw
吐谷渾と吐蕃て言うアバウトな名前の付け方からして、唐から見れば十把一絡げ感がありますが、ややこしく強い国ですよねー。「国を奪いお前を殺し皇女を奪う」は物騒ですけどw、有言実行しかけましたし、ある意味「吐谷渾より格下とか有り得んぞゴルァ。大人しくして欲しかったら、人質寄越せやゴルァ」な気っ風が頼もしいっちゃ頼もしいような。文成公主を息子と結婚させて、息子が早死にしても喪が明けてから公主と結婚することで役目を果たしたりと、「乱世の英雄」と言う言葉がぴったり来る大物です。

> ガチョウ型の黄金製水差し

調べたら、「三升の酒が入る、高さ七尺のガチョウ型黄金製水差し(金鵝)」ともありました。デカイですねww
3年空いてるのは、すでにネパール出身の妃もいましたし、あとは太宗の高句麗出兵もあって、諸々の調整が遅れたせいもあるかもしれませんねー。父母ならともかく、夫の為に3年も服喪と言うのはあまり聞かないような…?
それにしても、結納金と言い太宗の霊前に供える金銀珠玉と言い、凄いお金持ちだなと関心します。殿堂入りは伊達じゃないっすね…!

> 文成公主

和蕃公主は、何かとあれこれ伝説が付随し易いみたいですよねw
文成公主の場合は、ソンツェン・ガンポの死後、息子が即位してからも30年ほどチベットで生きていますが、その間も唐と吐蕃の間では何度も戦いがあったわけですし、気苦労の絶えない人生だったんだろうな…と思う一方、そんな環境で大体60歳くらいまで生きたのも凄い話だな、と…。
仏教は、金城公主の時の方が唐国内で遙かに進歩していたでしょうし(西遊記で有名な玄奘三蔵が帰国したのは、文成公主が嫁いだ後なので)、私も金城公主の時代に根付いたんじゃないかなーと言う気がします。

> チベットで仏教が国教化されたいきさつについて書かれたチベットの伝承の書「バシェ」に、チベットの仏教導入に新羅の王子が関わったことが書かれているそうなんです・・・!!

『世界宗教史叢書 仏教史Ⅱ』に、新羅王子のことが書いてありましたよー!(←該当ページをコピーしましたw) 成都浄衆寺宗にいた無相(680~756)と呼ばれた人が新羅の第三王子で、728年に入唐して禅宗に帰依したそうです。念仏禅をアピールして、チベットの人にあれこれ教えたり、逃げてきた玄宗に近侍して活躍したとありました。(教えたのは、金城公主の死後だったようですが、金城公主がある程度根付かせたからこそ、その死後にもチベット人の中に仏教を学びたいと思う人が出たのだと考えられますねv)
ただ、その本には無相の名前は金和尚って書いてあるんですが、この名前、wikiの九華山のところでは別人の名前になっているんですよw wikiによれば、「新羅の金喬覚和尚(金和尚、金地蔵、僧名を地蔵、696年 - 794年)がこの地の化城寺で修行中、齢99で入滅した際、3年経って棺を開いて塔に奉安しようとしたところ、その顔貌が生前と全く変わることがなかったことなどから、地蔵菩薩とこの僧を同一視する信仰が生まれ、地蔵王菩薩(仏教の地蔵菩薩が、仏教道教混淆の十王思想と結びつき、閻魔王と一体として死者を裁くとされる)の聖地となった。」ってあったので、別人だとは思いますが……三年経ってもそのままって、ホラーですねw

……長い!w

戻ってきちゃいました・・・しかもまた長めに(笑)

  1. 2012/05/01(火) 00:12:00 
  2. URL 
  3. りば 
  4. [ 編集 ] 
善徳女王とも現在のこちらのブログの流れとも違うところに話をひっぱってご免あそばせ緋翠さんw

〉〉スポーツに国境はない

えと、吐蕃の人がポロをたしなんだかどうか分からないんですが、歓迎式典の一環みたいなのを想像してましたw日本でいえば外国から来た大臣とか王族を相撲観戦にご招待、みたいな。吐蕃のポロ選手団も公主お迎え使節団についてきてアウェーで親善試合だったらまさしくスポーツは国境を超える、ですね~!

〉〉黄金製水差し

すいません三升と七尺がごっちゃになってました、三尺と七尺じゃインパクトが違いますね~!!七尺いうたら成人男性でも見上げるデカさ。新羅と唐との連合軍が高句麗と戦った後、おめでと~wて吐蕃の王が金ピカのガチョウ型水差し(スンマンと同サイズ)を唐に贈ってたんだなと思うと感慨深いような・・・。吐蕃から唐へ仏法を求める使者と金和尚との出会いなども考えると、吐蕃と新羅って直接の交流はなさそうなのに、かすかながら不思議な縁があってオモシロイな~vと。

〉〉金城公主とチベットの仏教

「バシェ」によりますと、文成公主はネパールの妃と共に仏堂を建てたりしたものの、その後吐蕃で仏教がさかえた記録もなく、ソンツェン・ガンポも特に仏教を取り入れようとはしていなかったようで。金城公主は既に荒廃していた、文成公主とネパール人のお妃が建てた仏堂を修復させたり、中国から僧を呼んで勤行させたり、夫のチデ・ツクツェンに働きかけ五つの寺を建立したりしたそうです。

が、その熱心な信心が仇となり、チデ・ツクツェン王の死後直後は、後を継いだ王子チソン・デツェンが幼かったこともあり反仏教勢力による廃仏の嵐が吹き荒れておりますー。(親唐への流れへの反発かも?)

金和尚と出会った吐蕃の使者は、チデ・ツクツェン王の存命中に仏法を求めよとの命を受け国を出て、帰ってきたら国は廃仏キャンペーン真っ最中だったという・・・しかしそれもまた既に受けていた金和尚の予言の通りであり、「持ち帰った経典を隠し、王子が成人し外道の法を議論したその時にこそこの経典の事を明かしなさい」との金和尚の予言アドバイスに従って、後に成人したチソン・デツェン王が老子の教えを国家レベルで用いるべきでは、と臣下に問うた時に、いやもっと優れた仏法なるものが、と隠していた経典を献上し、王はそれを読んで仏教を信仰するようになった、んだそうです。

しかしこのチソン・デツェン王は後に唐に攻め入って一時占領、金城公主の甥を帝位に据えたりとこれまた血気盛んですねー。結局ポシャったそうですが。

ともかく、この王の時に吐蕃の仏教国教化がほぼ成立したので、それに新羅人の金和尚=金無相が大きく関わってたと思うと不思議ですv予言を授けただけでなく、吐蕃への帰路にある大岩を神通力で砕いたり、使者の二カ月の逗留の間、食べ物の世話したり最後は二日間ついてってお見送りしたりと金和尚はなかなかマメにお世話したようですし。

〉〉金和尚

アラ、続きを書こうと思ってたらアッサリ書かれてしまったww金無相と金喬覚は別人といいますか・・・九華山の化城寺で修行した、地蔵菩薩の生まれ変わりとされた金喬覚は、唐の時代にいた「新羅王族」出身で九華山の開祖であった釈地蔵という僧と、ちょうど釈地蔵と時代もかぶってる禅宗の僧、孝昭王の子、「新羅王子」と記される金無相がいっしょくたにされて、後から作られた伝説上の人物らしいです。

明以前の仏教関連書物には金喬覚については記述がなく、清代の書物でいきなり、地蔵菩薩の生まれ変わりとされた地蔵の名が金喬覚で新羅の王子である、との説が出現しているそうです。

ただ金無相が新羅王子である事にも裏付けはないそうなので、実際のところは無相さんも王族はカタいけど王子はどうかな、ぐらいかと・・・もし孝昭王の子というのが事実だったら、武烈王の玄孫だったんですけどねー。

>和蕃公子

超絶イケメン有能王族・・・うーむ。お妃候補を選抜して教育していても、女王の出現を見越して男性も選んで教育、してたでしょーかね?新羅の特殊な王の結婚制度ものみこんだ上で選んで、とか細かい事やってたもんかな~?という疑問が・・・

なので割と付け焼刃的に用意した(オイ)ってことで、「婿がむりなら養子にでも」って善徳王に贈られ・・・もとい送られてきた公子サマが、フタを開けたら12、3才の少年とかだったら面白いんですけどw逆はよくありますよね?オッサンどころか爺さんに少女が嫁がされるとか。

新羅のように王の結婚が特殊な国だと、有能な青年~熟年がやってきて反発を招くよりは、高位の客分として、しかも成人よりはあまり警戒を抱かれない(けど実は才気煥発な)少年の方が新羅独特の慣習を吸収しつつ成長、て感じで徐羅伐にもなじめるかな・・と。

そして勝曼(=僧満?)の治世の頃は青年に成長し、唐との太いパイプとなって新羅の制度の中国化を共に一気におしすすめた。スンマンのブレイン或いは愛人または夫として・・・なんて想像したら面白いなーvとか。

〉〉思摩、社爾、ソンツェン・ガンポの殿堂入り

を考えますと、そこにスンマンもひょっこり入ってるというのは、遠い親戚扱いといいますか、新羅にいった和蕃公子がスンマンの夫だったんじゃね?と妄想が湧いてでたもんでww

どうにもトンマンと唐からきた公子、だと、ドラマ版で考えようとするとどうしても義務感バリバリな悲愴なトンマン、しか思い浮かばず・・・。

それとも緋翠さんが妄想真っ盛り!てのは歴史上の人物である徳曼の元に唐の王族が、てことなんですかね?ドラマの方でも妄想できるとしたら、わー、神様視点もてる人は怖いワ~w

りば様へ

  1. 2012/05/01(火) 23:57:50 
  2. URL 
  3. 緋翠@管理人 
  4. [ 編集 ] 
りばさん、お帰りなさいませ~(´∀`)
いやその、りばさんにお返事してからさらに文成公主と金城公主について本を読んでたので、戻ってきてもらえて安心しましたw

> えと、吐蕃の人がポロをたしなんだかどうか分からないんですが、歓迎式典の一環みたいなのを想像してましたw

あ…ですよね!(ノ∀`)(恥) 勝手に親善試合を考えてましたw お迎え隊が複数の大臣を擁する一団だったと読んだので、ポロを出来る人もいて、「おたくも如何?」的な感じで一緒にプレイする、みたいな…。←脳内お花畑度が高いですね(爆)

> 金ピカのガチョウ型水差し(スンマンと同サイズ)

↑こう書くと、なんかえらいシュールな贈り物に思えてきますね!(*´∇`*)名古屋城にあるシャチホコが水差し…みたいなもんでしょうか。(注ぐのは無理そうな気が…)
新羅にも金ピカ文化がありますが、やっぱり吐蕃と新羅に直接の交流はなくても、昔のシルクロード繋がりで通じるものがあるんでしょうか。ホントに、調べると色々出てきて面白いですよねーvv

そう言えば、あれから和蕃公主の血筋を調べたくて文成公主の中国語wikiを見たら、李世民の曾祖父・李虎の曾孫・李道宗(=つまり、李世民の又従兄弟)の娘が文成公主だとありまして。この道宗は、文成公主が嫁いだ時に、晋州刺史&礼部尚書と言う高官だったので、この辺りの娘さんが和蕃公主として程好いのかもしれません。

> 「バシェ」によりますと、文成公主はネパールの妃と共に仏堂を建てたりしたものの、その後吐蕃で仏教がさかえた記録もなく、ソンツェン・ガンポも特に仏教を取り入れようとはしていなかったようで。

チベットには、ポン教と言う宗教がすでにあったみたいですもんねー。
ただ、文成公主の孫で、金城公主の舅にあたるティ・ドゥーソンは、祖父クンソン(文成公主の夫)が没した場所に仏殿を建てて、晩年には公主を迎えようとしてたらしいんです。ティ・ドゥーソンが十才の時に文成公主が亡くなっているので、確かではありませんが、ソンツェン・ガムポの時とは違って、金城公主が嫁いだ頃には、吐蕃王家の中では唐の文化や唐の仏教に対する警戒心が薄れていたのではないかなーと。
りばさんが「親唐への流れへの反発かも?」と仰った通り、これは仏教だけの問題ではなく、王と家臣の主導権争いも絡んでいるみたいですし、難しいですよねー(;´Д`)(この頃の吐蕃の王って、早死にが多いです)

> 金和尚と出会った吐蕃の使者は、チデ・ツクツェン王の存命中に仏法を求めよとの命を受け国を出て、帰ってきたら国は廃仏キャンペーン真っ最中だったという・・・

ツクツェン王は暗殺されたとも言われていますし、半ば内乱状態だったのかもしれませんねー…。唐でも、この頃から安史の乱が始まりますし、和尚の波瀾万丈っぷりが凄まじいです。予言アドバイス出来るくらい、レベルの高いスパイだったのか…!(ちょ)
「隠していた経典を献上し……」の行は、若い王が如何にして家臣の影響力を排除するかに苦心している感じがしますねー。

> 唐に攻め入って一時占領、金城公主の甥を帝位に据えたりと

これ、調べてみたら、甥じゃなくて兄弟らしいんですよー。763年に、金城公主の庶出の兄(弟?)・李承宏を擁立したとありました。……どっちにせよ、チベットに対するイメージがどんどん逞しくなっていきますw

> マメ和尚=金無相。

マメマメしい国際人ですよね~。玄宗とも、吐蕃とも深い繋がりがあるのが新羅人、と言うのは凄く不思議です。また、彼を讃える碑文が作られたことからも、和尚自身の力だけでなく、唐時代の交流具合が見えると言うか、さすが遥かトルコ辺りに新羅人村を持ってる新羅人、な気がしました(←若干意味不明w)

> 金無相と金喬覚

あーなるほど…!「同じ時代に新羅の王族の偉大な僧侶が二人いるから、混じっちゃった☆」だったんですね。
地蔵と比べると、無相は新羅王の第三王子とはっきり書いてありますが、この新羅王に該当するのは神文王だけな気がします(;´Д`) 孝昭王はむしろ同世代に見えますねー。
仮に神文王の子だとしたら、ちょうど無相が唐に渡った728年に、聖徳王(神文王の子)の弟・金嗣宗が唐に渡っていて、しかも官職を得て宿衛していて帰国の記録もないので、この嗣宗が無相なのかもしれません。ただ、新羅の場合、后の子も半ば王子扱いだったりするのでw、私も王族はカタいけど王子はどうかな、ぐらいに考えちゃいます(笑)
地蔵の方は、なんでいきなり清代になって偉い僧侶が新羅王子扱いされたのかが気になりますねー。うーむ…?

>和蕃ネタ。

ああ、すみません…!(;´Д`)言い方を間違えましたorz
まず、「お妃教育」と言うのは、そもそも唐は臣下から后妃を選抜しますから、貴族の間では娘のお妃教育(教養とか心構えとか)は必須だったと思うんです。逆に、宗室の娘なら、多少は危険の伴う敵対勢力や宗室と遜色のない大貴族に嫁いで、その娘を后がねにするのが理想だったでしょうし。(公主はとにかくセレブなので世間ずれしてそうです)
なので、「超絶イケメン有能王族」は、それ用に選抜されたと言うより、宗室の中でも傍流だけど上手くのしあがってきた人とか、公主の嫁ぎ先に使えそうな大貴族の姻戚(姻戚も和蕃公主になるので)とか、優秀かつ空気読みそうな十代の若者の中から、新羅語を喋れる者を選抜する、と言う意味合いで書きました。

とゆーわけで、少年はアリですねww 金城公主も12、3才で嫁いでますから。……つっても、金城公主の場合は相手が6才だったからと言うのがデカイ気がするので(笑)、高句麗戦もありますし、やっぱり婿候補なんじゃないでしょうか。少年を好きなように育ててお婿にしてください、と言う…(えっ)
あとは、新羅の場合だと、夫の身分には煩くても私臣とか情人と言う逃げ道があるので、養子より私臣の方が受け入れられるような気も。だとすると、

徳曼、青年を私臣として傍に置くも、靡かない。→青年、勝曼(=僧満?)と通じる。→勝曼を王にすべく、唐と謀る。→内乱の後、勝曼は逸早く唐から冊封される。

てな風にも考えられますねー。(勝曼にお婿の記録がないおかげで、ホントにあれこれ考え甲斐があります。面白いですよねー!(*´∇`*))

〉〉思摩、社爾、ソンツェン・ガンポの殿堂入り
> を考えますと、そこにスンマンもひょっこり入ってるというのは、遠い親戚扱いといいますか、新羅にいった和蕃公子がスンマンの夫だったんじゃね?と妄想が湧いてでたもんでww

これ、私も妄想しましたww 「何故に徳曼じゃないんだ?」と考えてたら、そこに行き着いたと言うか、「それしかないだろ!」と勝手に確信しました(ちょ) それなら、何故記録がないのかと言うのが謎ではありますが…。

トンマンと唐からきた公子(ドラマ版)は、義務感バリバリなトンマンと言うより、私は「夫婦(婚約者?)となったその日から、北京語と新羅語ミックスで討論しまくりな真面目な二人(色っぽいことはない)」が浮かんでいました(爆)
そもそも、脚本のファンとして、この脚本で唐、高句麗、百済が見たいと言うのがありましてw その上で、もしドラマ版で考えるなら、唐は骨品制は知っているでしょうし、「俺の血を新羅に残すぜ☆」な野望もなさそうなので、色気ナシのトンマンには、むしろ実務能力が高くて女王と友情を築けそうな若者を持ってくるんじゃないかと思ったんですよね。少年じゃなくて若者なのは、対高句麗or百済戦線を率いる可能性もあるので、ある程度の経験がないとヤバいんじゃないかなと…。あとは、それがイケメンなら視聴者的には目の保養になるわ、と考えましたw
まあ、歴史上の徳曼も、例え「夫になる為に」と言う名目で和蕃公が来ても、結局夫にはなれなかったから、徳曼は昭陵にいないんだろうなーと思いますし…。

どっちでも妄想出来るのは、便利ですヨ!w


 管理者にだけ表示を許可する
 




PAGE
TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。