善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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本当に、ピダムの乱でユシンとチュンチュは得をしたんだろーか…? ※追記

三歩歩けば忘れる頭の持ち主なので、あやふやな記憶になりつつあるのですが…。
確か、立ち読みした『善徳女王の真実』では、ピダムの乱について、ユシンとチュンチュの共謀説を取り上げていました。善徳女王に反旗を翻したのは、ピダムではなく、ユシンとチュンチュだったと言う説です。

私もその可能性はあると思ってはいます。トンマンの死には不審な点が多く、ピダムの乱だとすれば、合点のいかないところがいくつかありますから。
ただ、じゃあユシンとチュンチュが主犯かと言われると、どーも納得がいかないんです。何故かと言うと、この二人は、ピダムの乱では何も得をしていないからなんです。


* *


まず、チュンチュは『日本書紀』巻第二十五(孝徳天皇)の647年の項に「新羅、上臣大阿[冫食]金春秋等を遣して」とあり、その後にはっきり「春秋を以て質(人質)とす」とあります。
事実、『三国史記』にはピダムの乱の間も含めて、チュンチュの647年の記録がありません。(と言うか、642年に高句麗で人質になりかけると言う大失態を犯して以来、チュンチュは『三国史記』に登場しません。) そして、次に登場するのが人質としてです。しかも、日本が新羅から王族の人質を取るのは、未斯欣以来のことです。

普通に考えて、王位継承順位が高い王族は、そう簡単には他国に出ません。しかも人質なんて、国威、ひいては王の権威が失墜するので、よほどの理由がない限りは有り得ません。
事実、命と権威を危うくしてまで新羅が他国に出した王族の人質は、過去には、高句麗に滅ぼされそうになった時に奈勿王によってタムドク(広開土王)に送られた即位前の実聖王と、その実聖が即位した時に、復讐として高句麗と倭に送られた奈勿王の次男・卜好&三男・未斯欣だけです。そして、三人は共に、人質に出された時、「血筋は王に近いが、王にとってはいなくていい人間」でした。
最悪死んでも、王の血統には影響がない――そう言う人間が人質に出されます。

つまり、本当にチュンチュがピダムの乱の黒幕なら、自分から行くならまだしも、「人質寄越せ」と日本のエリート外交官(高向玄理)が迫ってきた時に人質になるなんて、常識的に考えて有り得ないんです。
「チュンチュの外交力に真徳女王が期待を託して、特別に送り出した」と言うのも、この僅か五年前に高句麗で外交的に失敗している以上、根拠薄弱ですし、本当にチュンチュが王位継承のチャンスをピダムの乱で得たのなら、軽々しく他国に出向きはしないでしょう。
蘇我入鹿を滅ぼした後の中大兄皇子に置き換えてみてください。彼と比べれば、チュンチュの行動は、政変の中心人物としては有り得ないものだとおわかり頂けると思います。
また、百済のウィジャが差し出した人質(白村江の戦いで日本が支援した王子・扶余豊)が何十年も日本に駐留させられたのに、チュンチュが早々に日本から帰国出来たのも、チュンチュが真徳女王の敵であったなら納得出来ます。敵なら、人質として役に立ちませんし、取り引きさえ済ませたら、むしろ返した方が新羅の中で勢力が割れて、日本に有利になるからです。逆に、チュンチュがピダムの乱の黒幕なら、そんな美味しい人質をもぎ取るのは至難の業だったでしょうし、チュンチュの勢力が強い以上、人質としても役に立ちますから、そう簡単には返さないはずです。

そして、チュンチュが帰国した後に、日本は改めて真徳女王から人質を差し出されています。
『日本書紀』によると、沙[冫食]金多遂が、37人もの従者を従えて、649年に人質となるべく日本に来たとあります。真徳女王が、チュンチュの時は大量のスタッフではなく孔雀と鸚鵡付きで送り出したのに、今度は僧侶や役人を含むたくさんのスタッフ付きで人質を出したところを見るに、金多遂は切り捨てOKの人質としてではなく、外交官として立ち回ることも要求されたのだと推測出来ます。
深読みすれば、チュンチュに傾いたかもしれない日本政府を真徳女王の側に惹き付ける為の人質だったかもしれません。が、どちらにせよ沙[冫食]は第八等、王位継承に関わる立場の人間では有り得ず、むしろ立場的には高向玄理と似たようなものなんじゃないかなーと推測出来ます。



次に、ユシンです。
ユシンは『史記』のユシン伝と本紀を合わせて考えると、ピダムの乱の当時、押梁州の軍主で、上将軍で、蘇判(第三等。紫衣)でした。この時53歳ですから、超絶出世しているとは言えませんが、いとこの善徳女王の下でちゃんと重用され、キャリア組よろしく出世しています。

んが、そのユシンが次に出世したのは、ピダムの乱での功績によってではなく、真徳女王2年の648年3月に百済の城を12城も陥落させたからなんです。
その時に、蘇判の上の伊[冫食](第二等)に出世していることから見ても、ピダムの乱に関する出世はないと言って構わないでしょう。当時の風月主で、ピダム軍を撃破した天光は護城将軍に抜擢されているにも関わらず、ユシンには出世の気配がないんです。
仮に、多少出世していたとしても、主犯に見合う恩恵とは到底言い難く、何より、彼がピダムの乱で権力を握ったなら、妹婿のチュンチュをむざむざ日本に送る理由がありません。海を隔てた日本では、高句麗の時のように軍を率いて救出に行くのはほぼ不可能で、下手をすればチュンチュは死ぬかもしれないんですから、ユシンが自らチュンチュを日本に人質出す可能性は、限りなくゼロに近いはずなんです。

ちなみに、管理人がユシンはピダムの乱の主犯ではないと考えるもう一つの理由は、当時、ユシンが押梁州の軍主だったからです。

そもそも、百済との国境にあった速含城が真平王時代の624年10月に陥落して以来、大耶城は対百済戦線(南側)の最前線でした。大耶州軍主は大耶城に城主として暮らして、百済との国境線を防備することが使命だったんです。
ところが、642年8月、大耶城城主の品釈は大耶城を百済に奪われ、あろうことか夫婦共々遺骸を敵に渡してしまうと言う大失態を晒しました。品釈はチュンチュの娘婿であり、ユシンにとっても、妹ムニがチュンチュの正室である以上、この失態は他人事ではありませんでした。
百済から徐羅伐を攻めるルートには、母山城→速含城→大耶城→押梁城→徐羅伐と言うルートがあります。よって、大耶城が落城した時から、押梁州は徐羅伐から最も近い城であると共に、対百済における最前線で、死守しなければならない超重要拠点となっていました。

事実、ユシンは大耶城落城から数ヶ月以内に押梁州の軍主に任命されて、休む間もなく百済と戦い続けています。644年に1回、645年に3回、647年に1回と、連続して出陣し、毎回激戦を繰り広げているんです。
これは、ユシンが強いと言うだけでなく、大耶城落城が、ユシンにとっては妹婿で善徳女王にとっては一番近い甥であるチュンチュの名誉を著しく貶めるものであり、さらにチュンチュ自身も高句麗との交渉にも失敗した為に、ユシンは実力行使でチュンチュの名誉を回復しなければならなかったのではないでしょうか?

何としてでもユシンが戦い抜き、大耶城を奪い返して、チュンチュの名誉を回復する…それが、善徳女王とユシンの考えだった。ドラマにあった肉斬骨断の例えのように、ユシンは皇婿ヨンチュンの嗣子である妹婿チュンチュと、自分の一族の為に、肉となって斬られて、骨である大耶城を断つべく毎年のように戦った。
つまり、押梁州で百済軍にかかりきりの647年初頭のユシンには、徐羅伐での内戦を計画する余裕はなかったし、ユシンを押梁州軍主に任命して、名誉回復に協力してくれている善徳女王を廃する理由もなかった。
……と考える方が、私にはしっくり来るんですよねー。

ちなみに、ユシンは648年4月、ようやく大耶城を奪い返して、百済の獄中に埋められていた品釈とコタソ夫妻の遺骨を奪い返し、この功績によって伊[冫食]に昇進します。ユシンはチュンチュの名誉を回復しました。
妄想をさらに逞しくすれば、この年の12月にチュンチュが唐に渡っていることから考えるに、チュンチュは4月にユシンが大耶城を奪い返したからこそ、ユシンをはじめとする伽耶派とかつてのヨンチュン派が発言権を取り戻して、それらをバックに抱えるチュンチュは帰国出来たのではないか…とも考えられます。「禊(謹慎)」を終えた、と言うか。

また、個人的に、チュンチュが唐との外交交渉に息子を連れていって人質に差し出すようになったのは、日本での人質生活で、百済の王子扶余豊が日本政府に上手く溶け込んでいるのを見たからではないかと思っています。
何故かと言うと、わりと苦労知らずのチュンチュは、高句麗の時を見てもわかるように、「人質」と言うものを全く理解せずに高飛車に要求を突きつけていました。日本の時も、二十歳前後の息子が何人もいるんだから、一人ぐらい連れていって、パイプ役にするなりすれば良かったのに、美貌と口先だけで勝負しています。(私がチュンチュがピダムの乱の黒幕だと言うには無理があると思うのは、善徳女王時代のチュンチュにそんな老獪さは見られないからでもあります)
ところが、日本から帰国したチュンチュは、少なくとも、文武王ポプミンを含めた4人の息子を代わる代わる唐に送り、必ず息子の一人は唐にいる、と言う状態を維持しています。ちゃんと人質と言うものを理解して、息子達をパイプ役として大いに活躍させているんです。(ユシンの嫡男・三光も、文武王時代は唐に駐在して、パイプ役となっています)
また、648年末に初めて唐に赴く時、チュンチュはある人物を副官に選び、連れていっています。それは、善徳女王時代の始めに二十世風月主となり、以後、善徳女王に抜擢され続けて若くして紫衣の衿荷臣にまで出世するも、善徳女王の退位後は身を引いていた礼元と言う人物です。彼は、マンミョン夫人の異父妹・萬龍の嫡男で、この時礼元を連れていくよう勧めたフムスン(ユシンの弟)は、礼元の異母妹二人を妻に持ち、礼元とは花郎時代からの付き合いでした。
チュンチュ自身も、この後、礼元の同父母妹宝龍を側室にし、彼女が亡夫(643年に唐に赴き、病死した善品)との間に儲けた娘は文武王ポプミンの王后になっています。礼元は、チュンチュにとっては、初めて主体的に選んだ閨閥とも言うべき存在でした。

纏めると、唐に赴く時のチュンチュは、自分をサポートする有能で身分もある副官に、唐に置いてパイプ役(人質)にする息子、さらには危険な旅路でも彼のことを命懸けで守る護衛(温君解。新羅人っぽくないネーミング…)を連れていました。やっと、在るべき『外交使節』の形で、彼は政治生命を懸けた外交交渉に赴いているんです。
中年になってから苦労したチュンチュは、スローペースではありましたが、高句麗での挫折や、庇護者たるヨンチュンや善徳女王を失い、日本で人質になった後に、やっと外交の才能を発揮し、ここから新羅の形勢逆転が始まったのではないかなー……と、史書をつき合わせた限りでは思えます。



と言うわけで、ピダムの乱をチュンチュやユシンが主導したと言うのには、どーも頷けません。そんな場合じゃない、と言う声が聞こえてきそうで…。
じゃあ、ピダムの乱でピダムと戦った中心人物は誰だったのか?…と言うと、ちょうど、お誂え向きの候補がいます。

よく、推理小説なんかでは、犯人を見つけるのに、「一番得をしたヤツを探せ」と言いますよね。ピダムの乱だったら、その前後で最も出世して、権力を握った人間を探せばいいわけです。
だとすれば、犯人はおのずと見えてきます。

善徳女王ことトンマンから玉座を奪取した人間。
上大等のピダムから、百官の頂点に君臨する上大等の地位を奪った人間。
当てはまる人物が、二人います。真徳女王スンマンと、スンマンの時代に上大等であり続けたアルチョンです。

徐羅伐で兵を動かすのに大事なのは、上将軍ユシンより、ユシンの上役の、大将軍・伊[冫食]アルチョンでしょうし、何より、アルチョンには百済、高句麗の双方に大勝利をおさめるだけの、軍事的な才能があります。だから、アルチョンとスンマンの二人が『ピダムの乱』の首謀者だと言う説も、あってもいいんじゃないかなーと思うんですよね。



※続きます。
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  1. 2012.04.10(火) _00:00:00
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