善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。

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「スンマン」=勝曼=僧満?

日本では、儒教に毒されている部分もあってか、『女帝=中継ぎ』と言うイメージがあります。女帝には力がない、と言う先入観が。
善徳女王も、何かと言うと「仏教に傾倒して、政治を疎かにした」と言われがちでした。巨大な九重の塔を建てたり、寺院を幾つも建立した為です。

その九重の塔と言うのがどれくらい凄いのか、管理人にはよくわからなかったので、日本で九重の塔を建てた人はいないもんかと探したら……いました。今年の大河にも登場していた、白河天皇(※この時はまだ法皇ではありません)です。wikiによれば、九重の塔は1083年に法勝寺に建立され、高さはなんと、約80メートル。当時、京に東から出入りする人は、この塔が良く見えたそうです。
てことは、きっと皇龍寺の塔も、徐羅伐の人皆から「でけぇ…」と見えていたんでしょうねー(;゚д゚)
なにぶん行ったことがないので確かなことは言えませんが(汗)、地図で見る限りでは、善徳女王陵近辺からも見えそうな気が…?


さて!
続きは、前々から疑問だった『スンマン』についてのお話です。


* *


タイトルにある通り、『スンマン』と表記出来る人物には、真徳女王こと勝曼と、マヤ亡き後の真平王の王后・僧満夫人孫氏の二人がいます。勝曼と僧満は、ハングルで書くと全く同じなので、二人とも読み方は『スンマン』なんです。

で。
正直、管理人は、前々から不思議で仕方ないことがありました。先日、再読した『善徳女王の真実』でも触れていなかった、『花郎世紀』の龍春の項にある謎な記述が。
それは、意訳すると、以下の文章です。

「善徳公主が成長した頃には、摩耶王后はすでに崩御していた。真平王は善徳公主を嫡女とし、龍樹・龍春兄弟を公主の私臣にさせたが、子が産まれなかった。その頃、真平王の継室・僧満皇后孫氏が男子を産み、善徳公主の皇位継承は危うくなった」
※『花郎世紀』では、トンマンのことを「徳曼」と記したことは一度もなく、「善徳公主」「善徳帝」「善徳大王」と記しています。

おわかり頂けますでしょうか。わからないのは、「僧満皇后孫氏」と言う記述なんです。(『三国遺事』にも「(真平王の)後妃は僧満夫人の孫氏である」とあります)
思い出してみてください。新羅には、骨品制があります。従って、後継ぎを産む王后になれるのは、金氏か朴氏…大元神統か、真骨正統でした。父も母も、王の子孫であることが条件だったはずです。
なのに、何故に真平王の皇后に孫氏が来るのでしょうか? 何故にその孫氏の産んだ王子が、聖骨足りうるのでしょうか? おかしいじゃないですか。

『花郎世紀』には、この一件の結末が記されています。

「しかし、僧満皇后の産んだ王子は夭折し、僧満は龍樹・龍春兄弟を忌まわしく思った。(629年)龍春は高句麗戦で手柄を立て、角干になった」

「王子が夭折したから、善徳公主ことトンマンは王位を嗣げたのだ」と、『花郎世紀』は暗に示しています。僧満皇后のその後は、『花郎世紀』には書かれていません。思道・智道・萬呼の三太后については、王の死後の生き方がきっちり書いてあるのに、若い僧満皇后のその後はさっぱりです。


ここからは、完全に私の妄想であって、状況証拠しかありません。が、『花郎世紀』の記述はあまりに辻褄が合いません。なので、合わせてみたいんです。

まず、孫氏が皇后になるなんて、『花郎世紀』を見ても『史記』や『遺事』を見ても、他に例がありません。孫氏は徐羅伐六部の一つですが、皇后を出す身分ではないはずです。事実、ソルォンの孫娘・宝良(薛氏)も真平王の後宮に入りましたが、あくまで宮主、側室でした。
よって、僧満皇后は孫氏ではなく、大元神統か真骨正統出身の金氏か朴氏だと考えるのが順当です。
そして、彼女は620年代に子を儲けたのですから、真平王崩御(632年正月)後に太后となってからも、まだ若かったはず。新羅の伝統から見て、継夫もしくは情夫を持ったでしょう。加えて、真平王の治世前半で三太后が権勢をふるったように、比較的年齢の近い善徳女王の治世では、『僧満太后』は権力を握り、善徳女王の婿には自分に近い血筋の人間を送り込もうとしたと考えられます。何故なら、彼女は善徳女王の婿・龍春を「忌まわしく」思っていたからです。(穿った見方をするなら、王子の夭折は、善徳公主を通して権力を握る為に、龍春が暗殺したのではないかと考えられたでしょうし。)

そうして、647年正月8日に善徳女王は崩御し(幽閉され?)、どこからともなく現れた真徳女王が数日以内に即位し、十日間に及んだ内乱の後に龍春らは失脚します。
彼女の父親は、真平王の弟で葛文王であったと言う以外は業績すら定かではない上に、彼女自身も善徳女王の「いとこ」と言う、血縁としては近いとは言い難い女性でした。しかも、この真徳女王の諱は「勝曼(スンマン)」と言い、恐らく存命であったろう「僧満(スンマン)太后」と同じ呼び名でした。
この真徳女王は、654年3月に崩御し、金氏のホームグラウンドと言うべき沙梁部に葬られます。

ところが、史書には、「何故先王の遺児でも姉妹でも嫁でも嫡孫でもない真徳女王が、「聖骨」として内乱の最中に即位出来たのか」について、全く記述がありません。『花郎世紀』も、善徳女王までは、真興王の病気から真智王、真平王の即位の理由や当時の状況がいくらでも書いてあるのに、真徳女王に関しては、全くないんです。
これは、奇妙です。スムーズに即位出来た以上、真徳女王は絶対に善徳女王に次ぐ権威(権力)の持ち主だったはずなのに、そのことがどこにも書いていないなんて。

この奇妙さを説明するには、どうすれば良いのか?…と考えた時、「善徳女王時代に権力を持っていただろうスンマン」は、一人しか思いつきませんでした。
先王の皇后だった「スンマン」こと、僧満太后です。

彼女は、皇后となった以上、大元神統か真骨正統出身の王族の女性だったはず。そして、彼女が皇后になる頃は真平王は壮年で、善徳公主を嫡女に決めていたのだから、彼女は善徳公主の後ろ楯に成りうる、かなり王位に近い王族だった可能性が高い。
一方、もう一人の「スンマン」こと勝曼は、真平王の同父母弟・国飯(真安)葛文王と月明夫人朴氏の間に産まれ、血筋、推定年齢から言っても、真平王の継室として申し分ありません。
この二人を相関図にすると、↓のようになります。

スンマン家系図
※月明夫人は、朴氏とあることから、↑のように、萬呼太后の異母弟・菩利の姉妹である可能性が高い気がします。何故かと言うと、『花郎世紀』にあるだけでも、真平王と菩利一族はあちこちで婚姻関係を結んでおり、従って、真平王の弟達も菩利一族と婚姻関係を結んだ可能性は高いのではないか?と考えられるからです。

つまり、「スンマン」=勝曼(真徳女王)=僧満太后だった。
とすれば、647年正月、何故「スンマン」が当時の上大等ピダムを差し置いて王宮である月城を占拠出来たのか、説明がつきます。それは、彼女が王宮の第二の主人たる太后だったからだと。
ついでに、何故当時の大将軍アルチョンが、「スンマン」の即位と同時に上大等になったのかも大体想像がつきます。

『花郎世紀』には、前例が記されています。
龍春の父・真智王を廃位したのは、真智王の実母である思道太后でした。思道太后は真智王を廃位した後、兄の弩里夫を上大等に任じ、姪の美室を真平王の后の一人にし、美室の夫・世宗を情人にして実権を握りました。真平王の治世前半に政治を動かしたのは、この思道太后を含めた三太后です。また、文武王の死後、ユシンの甥が起こした内乱を鎮圧したのも、文武王の皇后だった慈義太后でした。
と言うことは、ピダムの乱(善徳女王末年の内乱)を鎮圧したのは誰か? 太后だと考えるのが自然ですし、当てはまるのは「スンマン」太后しかいません。そして、その太后には(継夫との間に儲けた子があったとしても)王との間に子がなかったとしたら、執政たる太后はどうするか?
太后自ら即位するのが自然な成り行きなのではないでしょうか。そして、継夫もしくは兄弟を上大等に就け、出来るなら自らの血を王統に残したいと考えるのではないでしょうか。



以上の妄想を纏めると(笑)

1.摩耶皇后を亡くした真平王は、嫡女トンマンの盟友になるよう、同父母弟の娘であり、トンマンと同じく真骨正統のスンマン(僧満)を皇后に迎えた。
2.トンマン(徳曼)に合わせて、僧満→勝曼と改名した?(「勝曼」は勝鬘経から)
3.スンマンは王位継承権を持つ王子を産むも、その王子は夭折。結局トンマンが即位し、太后となった。しかし、トンマンの夫・龍春とスンマン太后の間にはしこりが残った。
4.それから十五年後、病に倒れたトンマンの後継ぎを巡って宮中は割れ、スンマン太后は自らの即位を主張。トンマンの死後(あるいは幽閉後)、太后の即位に難色を示す上大等ピダムらを処分し、スンマン太后は即位。『三国史記』にある「(ピダムの)まきぞえが三十名」と言うのは、処刑した人数を記しているのではなく、龍春、廉長、礼元、春秋らを含めた、トンマンの側近ら三十名の『没落(中には処刑もあったか?)』を指すのではなかろーか。
5.即位したスンマンは、即位翌月に継夫(兄弟?)のアルチョンを上大等とし、「忌まわしい」龍春の養嗣子・春秋を日本へ人質に出す。また、そもそも太后だった頃から、「王に対抗出来る唯一の存在」として唐と交渉を持っていた為に、唐からも早々と即位の承認がなされた。
6.と言うわけで、真平王&真智王の孫・春秋が「真骨」枠なのに、真興王の曾孫・スンマンが「聖骨」枠なのは、彼女が太后だったからである。そして、春秋は王子でもなく、嫡女(太后)の婿でもなく、嫡孫でもなく、臣下から一足飛びに即位した為に、「真骨」枠だった。(てなわけで、真徳女王崩御時にアルチョンが摂政を求められたと言うか、即位出来る身分だったのは、マジなのでは…と思う。当時、上大等で「真徳女王の婿(兄弟)」だったとしたら、資格はあるような…?)
7.『花郎世紀』が「僧満」と「真徳女王」を、さも別人のように記載したのは、恐らく、春秋が即位する時、「スンマン」派から王座を奪ったからで、「スンマン」が一代限りの『中継ぎ』であったと言うような印象操作をしたかったから。(『花郎世紀』の筆者・大問は、善徳女王の側近だった礼元の嫡男。ちなみに大問の妻は、文武王の正室・慈義皇后の同父母妹。完全に、善徳女王―春秋ラインの人間である。また礼元は、大問が10代の時に、即位したばかりの真徳女王に干されているので、真徳女王に好感を抱いていたとは思えない)
8.そんなわけで、『三国史記』が書かれた頃には、春秋の正統性を強調する為にも「僧満太后」の存在は消されて、「僧満皇后孫氏」と言うおよそ有り得んだろな皇后と、ひょっこり登場の「真徳女王」が残ったのではなかろーか…?


以上、こんな感じだったら、しっくり来るなぁと言う考えを書いてみました。
ええと、『善徳女王の真実』にも他のどの本にもこんなことは書いていませんでしたが、まーこれくらいなら妄想してもありかなーと思いましてw(ノ∀`)


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