善徳女王の感想と二次創作を中心に活動中。
RhododendRon別荘
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リレー連載『偽りが変化(か)わるとき ~砂漠編』 by 緋翠
リレー小説第41話でーす!担当は緋翠です。お楽しみ頂けますようにv
* *
ソファは、ピダムが、次いでやって来たザズが走り去ってからも、苦しい息の合間を縫って、トンマンにピダムを呼び戻すよう頼み続けた。
「トンマン……お願い、ピダムを連れ戻して……」
「母さん」
「一緒に……逃げなければ……」
「母さん、喋らないで。兄さんなら、大丈夫だよ! アサドおじさん達もいるし、あのおじさんは……母さんがやっつけたじゃない」
言いながら、トンマンは唾を飲み込んでいた。
これまでも、頼りになる『父』のいないトンマン達は、危ない目に遭ってきた。けれども、いつだって、ソファは相手を傷つけるような真似はしなかった。いや、出来なかったのだ。トンマン達の母は気弱な性質で、口には出さなかったものの、トンマンもピダムも、ソファは気弱さ故に子供を二人も抱えながら路頭に迷うことになったのではないかと推測していた。
(その母さんが、人を刺した……)
トンマンには、よく知らないチルスクの豹変より、母の豹変の方が、ずうっと……何倍も、恐ろしかった。だからだろうか、ピダムを連れて早く逃げなければと繰り返す母に従いながらも、何かに憑依されたような母にどこまで従って良いものか、わからない。
「ピダムを……」
一方、ソファは脳裏に蘇る記憶に魘されながらも、繰り返しピダムを連れて来るよう口にした。
(わかっていない。トンマンもピダムも、チルスクがあれくらいで大人しくなるはずがないことを、わかっていない……!)
十五年前、チルスクは脇腹をムンノの射た矢で刺されながらも、ムンノと刃を交えた。そして、額を斬られてもなお、馬を駆ってソファとムンノを追い掛けてきたのだ。チルスクとは、ミシルの部下とは、そう言う者なのだ。ソファはそのことを、身を以て経験し、深く心に刻みつけている。
それに加えて、十五年前は、ムンノがいた。チルスクよりも強い、あのムンノがいたからこそ、ソファは小さな赤子を連れて逃げられたのに、今はもう、ムンノはいない。チルスクに勝てる者がいようなどと、そんな楽観視は、とてもではないが、出来ない。
(どこへ……どこへ逃げれば……)
駱駝の背で揺られながら、ソファは徐々に薄れる意識を懸命に保った。
*
同じ頃、北天に光る北斗七星を静かに見つめる男の背後に、ターバンで顔をほとんど覆った男が、ひょい、と近付いた。
「いや~全く、どこまで行っても砂また砂ですなぁ、ムンノ公」
「……」
が、北斗七星を見つめる男――ムンノは、何も応えない。だがそれもいつものことだったので、ターバンで顔を隠す男ことヨムジョンは、構わずに話し続けた。
「これで、未だタクラマカンの入り口の敦煌にも入っていないとは。はっはっは。洛陽にいたのが、遥か昔のことのようですな」
タクラマカンは、サハラに次ぐ広大な砂漠だ。よって、西方諸国と通じる道であるシルクロードは、一つの道ではなく、そのタクラマカンを囲むように存在する北道、中道、南道の三つの道を差す。このうち、ローマに繋がる北道は突厥国が、ペルシアに繋がる中道は高昌国や亀茲国が、トハラに繋がる南道はホータンなどが支配している。これらの国々は、成り立ちは異なるものの、隋の支配を許さぬ強大な国々で、特に突厥は、隋を駆逐し得る軍事力を持っていた。隋の支配が及んでいるのは、北道、中道、南道の入り口までと言ってよく、トンマン達が暮らしているのは、全ての入り口となる敦煌だ。
ムンノとヨムジョンは、トンマン達が暮らす敦煌まであと数日と言う小さなオアシスを、その夜の宿としていた。
『敦煌に、身元のわからぬ母一人子二人の鶏林人がいる。年の頃はぴったりだ』
ヨムジョンが部下から得た情報だけを頼りに敦煌へと向かうムンノは、きっと煌めく開陽星の下にいるであろう予言の主と……不本意にもソファに連れ去られたピダムを思って、ゆっくり瞼を閉じた。――もうすぐ、二人に会える。ムンノの確信は、徐々に深まっていた。
*
旅閣に戻ったピダムは、あちこちから黒煙を上げる我が家を見て、刹那、茫然とした。カターンや近所の者達が必死になって消火を試みているが、消火に水を使えるほどオアシスは水に恵まれているわけではない。結果的に、隣家に火が移らないよう、旅閣の一部を壊して、小さな火は布で消すしかなかったらしく、ピダムの暮らした家は、あっという間に変貌してしまっていた。
「ピダム!……ってて……て」
「おっさん」
その時、鳴り響く鐘の音に負けじと名を叫ばれてピダムが振り返ると、何やら真っ黒な顔が手を振って、がらがら声で彼を呼んでいた。怪訝に思いつつ、聞き覚えのある声だったので近付けば、そこにいるのはアサドだった。顔と同じく真っ黒な箱に座って、腹を押さえている。
「ったく、やっと戻った――」
「おっさん、大丈夫かよ? 顔中煤だらけだぜ」
「ああ、気にすんな。これとか、あれとか、色々と持ち出すもんがあってな……」
これ、と指されたのは、アサドが座っている箱で、あれ、と指されたのは、なんとチルスクだった。おまけに、そのチルスクの腹からは、細長い棒が生えている。さすがのピダムも、それには目を丸くした。
「死んだのか?」
「いや、生きてるさ。さっき医者を呼んだから、それまでは抜かん方がいい」
下手に棒を抜けば、失血死する可能性もある。気絶はしていたものの、呼気も確かだったので、アサドは敢えて目を覚まさせずにいた。戦いになれた彼らしい判断である。
ピダムもそう思ったのか、話題を切り替えた。
「いったい何があったんだ? 火事のせいか、母さんの様子が変だし……」
「ありゃあ、火事のせいじゃないさ。……ピダム」
ふと、アサドの声が低くなり、緋色の翳を帯びた鋭い眼光がピダムを貫いた。……それは、本当の修羅場でしか見せたことのない、アサドが畏敬される所以でもある眼差しだった。
「なんだよ。俺も、すぐに消火に加わるって――」
「違う」
重々しく言葉を切ると、アサドはチルスクに打たれた場所から来る尋常でない痛みをなんとか堪えながら、小さく息を吸って、自分の座っている箱を軽く叩いた。
「この中にあるのは、お前達の部屋にあったもんだ。火事場泥棒に掠め取られんよう、見張ってた。……ピダム、お前は、これを持って早く母さんと妹のところへ戻れ。消火の手伝いは要らん。……これは、団長としての命令だ」
「――」
厳然たる命令に、ピダムの背にも微かに戦慄が走った。けれども、ピダムはソファやトンマンとは違って、生来、命の危機に怖じ気づくと言うことはない。アサドを、それから横たわるチルスクを順番に眺めてから、ピダムは「確認」した。
「それは、このおっさんから逃げろってことだよな」
「……ああ」
続いて、チルスクの腹に刺さった棒を指して、ピダムは冷たいくらいに冷静に問い掛けた。
「あれ、刺したのはおっさん?……それとも……母さん?」
その問い掛けにアサドが息を呑むや、ピダムは答えを悟って、アサドに手を伸ばした。アサドを立たせながら、ぽつりと溢す。
「……おっさんが母さん達を守ってくれて、助かった」
そうして、ピダムが箱を抱えて立ち去ろうとした時、アサドが力強くピダムの肩を掴んだ。
「……俺じゃない。ピダム、ソファとトンマンが、自分で身を護ったんだ」
そう言ってアサドが懐から取り出したのは、トンマン達がソファの為に買ったものの、まだ刺繍が終わっていないターバンだった。奥に隠していたので、煤もついていない。アサドはそれをピダムの頭に巻きつけてやりながら、彼の背を叩いた。
「達者でな。もし戻ってくるなら、真っ先に俺のところへ来い。匿ってやる」
「おっさん……」
「ほら、早く行け!」
ドンと背を押されたピダムは、不気味に赤く揺らめく夜空の下を、荷を抱えて走った。すると、ちょうど前方からザズが走ってくる。そして、同じく息子の姿を見つけたアサドは、壁に寄り掛かるようにして座り込み、煤にまみれた瞼を閉ざした。――アサドもまた、チルスク同様に、そのまま朝まで目覚めなかったのだった。
* *
ソファは、ピダムが、次いでやって来たザズが走り去ってからも、苦しい息の合間を縫って、トンマンにピダムを呼び戻すよう頼み続けた。
「トンマン……お願い、ピダムを連れ戻して……」
「母さん」
「一緒に……逃げなければ……」
「母さん、喋らないで。兄さんなら、大丈夫だよ! アサドおじさん達もいるし、あのおじさんは……母さんがやっつけたじゃない」
言いながら、トンマンは唾を飲み込んでいた。
これまでも、頼りになる『父』のいないトンマン達は、危ない目に遭ってきた。けれども、いつだって、ソファは相手を傷つけるような真似はしなかった。いや、出来なかったのだ。トンマン達の母は気弱な性質で、口には出さなかったものの、トンマンもピダムも、ソファは気弱さ故に子供を二人も抱えながら路頭に迷うことになったのではないかと推測していた。
(その母さんが、人を刺した……)
トンマンには、よく知らないチルスクの豹変より、母の豹変の方が、ずうっと……何倍も、恐ろしかった。だからだろうか、ピダムを連れて早く逃げなければと繰り返す母に従いながらも、何かに憑依されたような母にどこまで従って良いものか、わからない。
「ピダムを……」
一方、ソファは脳裏に蘇る記憶に魘されながらも、繰り返しピダムを連れて来るよう口にした。
(わかっていない。トンマンもピダムも、チルスクがあれくらいで大人しくなるはずがないことを、わかっていない……!)
十五年前、チルスクは脇腹をムンノの射た矢で刺されながらも、ムンノと刃を交えた。そして、額を斬られてもなお、馬を駆ってソファとムンノを追い掛けてきたのだ。チルスクとは、ミシルの部下とは、そう言う者なのだ。ソファはそのことを、身を以て経験し、深く心に刻みつけている。
それに加えて、十五年前は、ムンノがいた。チルスクよりも強い、あのムンノがいたからこそ、ソファは小さな赤子を連れて逃げられたのに、今はもう、ムンノはいない。チルスクに勝てる者がいようなどと、そんな楽観視は、とてもではないが、出来ない。
(どこへ……どこへ逃げれば……)
駱駝の背で揺られながら、ソファは徐々に薄れる意識を懸命に保った。
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同じ頃、北天に光る北斗七星を静かに見つめる男の背後に、ターバンで顔をほとんど覆った男が、ひょい、と近付いた。
「いや~全く、どこまで行っても砂また砂ですなぁ、ムンノ公」
「……」
が、北斗七星を見つめる男――ムンノは、何も応えない。だがそれもいつものことだったので、ターバンで顔を隠す男ことヨムジョンは、構わずに話し続けた。
「これで、未だタクラマカンの入り口の敦煌にも入っていないとは。はっはっは。洛陽にいたのが、遥か昔のことのようですな」
タクラマカンは、サハラに次ぐ広大な砂漠だ。よって、西方諸国と通じる道であるシルクロードは、一つの道ではなく、そのタクラマカンを囲むように存在する北道、中道、南道の三つの道を差す。このうち、ローマに繋がる北道は突厥国が、ペルシアに繋がる中道は高昌国や亀茲国が、トハラに繋がる南道はホータンなどが支配している。これらの国々は、成り立ちは異なるものの、隋の支配を許さぬ強大な国々で、特に突厥は、隋を駆逐し得る軍事力を持っていた。隋の支配が及んでいるのは、北道、中道、南道の入り口までと言ってよく、トンマン達が暮らしているのは、全ての入り口となる敦煌だ。
ムンノとヨムジョンは、トンマン達が暮らす敦煌まであと数日と言う小さなオアシスを、その夜の宿としていた。
『敦煌に、身元のわからぬ母一人子二人の鶏林人がいる。年の頃はぴったりだ』
ヨムジョンが部下から得た情報だけを頼りに敦煌へと向かうムンノは、きっと煌めく開陽星の下にいるであろう予言の主と……不本意にもソファに連れ去られたピダムを思って、ゆっくり瞼を閉じた。――もうすぐ、二人に会える。ムンノの確信は、徐々に深まっていた。
*
旅閣に戻ったピダムは、あちこちから黒煙を上げる我が家を見て、刹那、茫然とした。カターンや近所の者達が必死になって消火を試みているが、消火に水を使えるほどオアシスは水に恵まれているわけではない。結果的に、隣家に火が移らないよう、旅閣の一部を壊して、小さな火は布で消すしかなかったらしく、ピダムの暮らした家は、あっという間に変貌してしまっていた。
「ピダム!……ってて……て」
「おっさん」
その時、鳴り響く鐘の音に負けじと名を叫ばれてピダムが振り返ると、何やら真っ黒な顔が手を振って、がらがら声で彼を呼んでいた。怪訝に思いつつ、聞き覚えのある声だったので近付けば、そこにいるのはアサドだった。顔と同じく真っ黒な箱に座って、腹を押さえている。
「ったく、やっと戻った――」
「おっさん、大丈夫かよ? 顔中煤だらけだぜ」
「ああ、気にすんな。これとか、あれとか、色々と持ち出すもんがあってな……」
これ、と指されたのは、アサドが座っている箱で、あれ、と指されたのは、なんとチルスクだった。おまけに、そのチルスクの腹からは、細長い棒が生えている。さすがのピダムも、それには目を丸くした。
「死んだのか?」
「いや、生きてるさ。さっき医者を呼んだから、それまでは抜かん方がいい」
下手に棒を抜けば、失血死する可能性もある。気絶はしていたものの、呼気も確かだったので、アサドは敢えて目を覚まさせずにいた。戦いになれた彼らしい判断である。
ピダムもそう思ったのか、話題を切り替えた。
「いったい何があったんだ? 火事のせいか、母さんの様子が変だし……」
「ありゃあ、火事のせいじゃないさ。……ピダム」
ふと、アサドの声が低くなり、緋色の翳を帯びた鋭い眼光がピダムを貫いた。……それは、本当の修羅場でしか見せたことのない、アサドが畏敬される所以でもある眼差しだった。
「なんだよ。俺も、すぐに消火に加わるって――」
「違う」
重々しく言葉を切ると、アサドはチルスクに打たれた場所から来る尋常でない痛みをなんとか堪えながら、小さく息を吸って、自分の座っている箱を軽く叩いた。
「この中にあるのは、お前達の部屋にあったもんだ。火事場泥棒に掠め取られんよう、見張ってた。……ピダム、お前は、これを持って早く母さんと妹のところへ戻れ。消火の手伝いは要らん。……これは、団長としての命令だ」
「――」
厳然たる命令に、ピダムの背にも微かに戦慄が走った。けれども、ピダムはソファやトンマンとは違って、生来、命の危機に怖じ気づくと言うことはない。アサドを、それから横たわるチルスクを順番に眺めてから、ピダムは「確認」した。
「それは、このおっさんから逃げろってことだよな」
「……ああ」
続いて、チルスクの腹に刺さった棒を指して、ピダムは冷たいくらいに冷静に問い掛けた。
「あれ、刺したのはおっさん?……それとも……母さん?」
その問い掛けにアサドが息を呑むや、ピダムは答えを悟って、アサドに手を伸ばした。アサドを立たせながら、ぽつりと溢す。
「……おっさんが母さん達を守ってくれて、助かった」
そうして、ピダムが箱を抱えて立ち去ろうとした時、アサドが力強くピダムの肩を掴んだ。
「……俺じゃない。ピダム、ソファとトンマンが、自分で身を護ったんだ」
そう言ってアサドが懐から取り出したのは、トンマン達がソファの為に買ったものの、まだ刺繍が終わっていないターバンだった。奥に隠していたので、煤もついていない。アサドはそれをピダムの頭に巻きつけてやりながら、彼の背を叩いた。
「達者でな。もし戻ってくるなら、真っ先に俺のところへ来い。匿ってやる」
「おっさん……」
「ほら、早く行け!」
ドンと背を押されたピダムは、不気味に赤く揺らめく夜空の下を、荷を抱えて走った。すると、ちょうど前方からザズが走ってくる。そして、同じく息子の姿を見つけたアサドは、壁に寄り掛かるようにして座り込み、煤にまみれた瞼を閉ざした。――アサドもまた、チルスク同様に、そのまま朝まで目覚めなかったのだった。
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